1話 ファースト・コンタクト
そろそろ9月の終わりへと差し掛かった時節、しかし相も変わらず地を焦がすような太陽は未だ夏の衰えを感じさせない。
そんな昼下がりの頃合、場所は日の光がほとんど届かないような鬱蒼とした森の中でのこと。
不自然な男が一人、呆然と立ち尽くしていた。
年の頃は二十代前半といったところ。短く刈り上げられた黒髪に、日本人にしては少し彫の深い顔立ち。服装は着古したTシャツに半ズボンという、よく言えば動きやすい。そうでなければ全くテキトーな装いをしている。
なぜ、そんな深い森の中という空間に致命的に合致しない出で立ちをしているかと疑念を覚えるが、しかしそもそもこの男、
彼の記憶が正しければ、自分は今日、徹夜明けが祟って大学の朝の講義を諦めた挙句、のんびり近所の公園で昼寝をしていたはずである。
「おいおい、どうなってんだよ……」
ポツリと呟いてみるも、それに返すのは時折り聞こえる不気味な鳥の鳴き声のみ。
シャツが汗で張り付くようなじっとりとした暑さと、この訳の分からない状況を鑑みるに、一番ありうるところは白昼夢の類であろうか。辰巳は両の頬を強く叩いた。
「いってぇ」
バシッ、という音とともに漏れる泣き言と、紅く染まった両の頬。酷く哀れを誘うひとコマであった。しかもよく見ればちょっと涙目である。
「しかしこれ、マジで夢じゃないのか?」
あたりを見まわした辰巳の目に映るのは、見たこともない動植物の数々。奇妙な形をした茸に腐ったような匂いを漂わせる茸。彼の体躯を上回る大きさの茸や上下逆さに生える茸は、おおよそ現代日本では目にすることはないだろう。というか茸多過ぎである。
まるでファンタジー世界のような。というかそのものの景色を前にして、辰巳はいまだに現実を受け入れることができないでいた。曰く、何かの間違えで映画のセットにでも入ってきちゃったんじゃね? といった具合に。
「ここで待ってれば、誰かが通りかかったり……、するわけないよなぁ。多分」
辰巳が言う通り、彼の立っている場所は明らかに人の手が加わっていない大自然。ここで突っ立って待っていても、救助が来ることは絶望的だろう。
とはいえ、どんな状況でも、何もしないでいて状況が好転する事例はあまりない。辰巳としても、このまま無意味に時間が過ぎ去っていくのはもったいない気がしてならない。
そう考えた辰巳は、キリっと前を見据えて決意を新たにする。
「とりあえずちょっと歩いてみるか」
特にあてもなくフラフラと歩きだすさまは風にたなびく草花のごとく。何というか、見ている人を不安にさせる動きである。尤も、ここには彼以外の人間は誰一人として存在していないのだが。
そんな感じで歩き始めたのがおおよそ二時間前。辰巳はいまだ森を抜けられずにいた。
気温は高く、ジメジメした森という悪環境は、彼の体力を容赦なく奪い取っていく。水分をまともにとることができない現状もまた、メンタル含め多大な追い打ちをかけていた。
(というか、この調子じゃ本気でまずいんじゃないか……?)
今更になって、辰巳の脳裏に不安がよぎる。脱水、身体的な疲労はともかく、それに加えて彼の体には今までに味わったことの無い、具体的には胸が締め付けられていくような痛みが走っていた。
最初は気のせいかと感じる程度のものだったが、徐々に増していくこの謎の痛みは、今や無視できぬものとなっている。
しかも——、
「また、ここかよ」
どんなに真っ直ぐ進めども、何度もここ、辰巳が最初にいた場所へと戻ってきてしまう。
何度も見て、そして目印まで付けたから間違いない。嫌というほど見た同じ景色に、普段から脳天気な辰巳も流石に心が折れそうになる。
流石に足腰がキツくなってきた。ちょっと休憩、とばかりに丁度いい感じの倒木に腰掛ける。それと同時に辰巳の腹が鳴った。
「そういや、昨日の夜から何も食べてないな」
ここに来ての空腹。しかもちょっと意識してしまったためか、かなり辛くなってきた。先程からグーグーと腹の自己主張が止まらない。
「あー、腹減ったなぁ。どっかからさばの味噌煮でも降ってこないかなー」
そんな非生産的なことを呟きながら、辰巳は倒木の上で足をぶらぶら。深く暗い森の中、しかし彼としては、山の幸よりも海の幸がご所望らしい。
「そこらに生えてる茸を食べる訳にはいかないし……ん?」
辺りに腐るほど生えている個性的な茸の数々を見つめていると、ある一点、何やら気になるものでもあったのか、辰巳はそちらへ歩き出す。
相も変わらず、電灯に誘われる羽虫のような歩みで進んでいくと、そこには一本の茸。
それも、黄金に光り輝く茸があった。
「はい?」
それも、黄金に光り輝く茸があった。
「いやいやいや。金ピカに光る茸って、え? 何? 中にLEDでも入ってんの?」
今まで見た中でも、特段に訳の分からない色合いをしている。
しかしてその茸、やけにいい香りを漂わせている。松茸を彷彿とさせる、いや、それ以上ともいえる強い香気。
加えて形も素晴らしい。椎茸のような大きな傘に、柄の部分は丸々と肥えている。さあ、俺を食べてみろとばかりの堂々とした形状。まさに茸の中の茸。ゴッド・キノコとでも名付けられそうなやつである。
——ゴクリ。と辰巳の喉が鳴る。
「待て。待つんだ米岡辰巳。こんなよくわからない茸、それも見ず知らずの森に生えてるのを食べるなんてそんなむしゃむしゃうっま!?」
食べていた。しかも物凄く美味そうに。
付着した土や埃もなんのその。結構なサイズがあった茸が一瞬で辰巳の胃袋へと消えていく。生食とは、彼もなかなかに剛の者である。
「思わず食べちまったけど、だ、大丈夫だよな?むしろさっきまでより調子よくなってきてる気がするし……」
思いがけず、食料補給に成功した辰巳は、先程とは打って変わって生気に満ち溢れた表情をしていた。
それもそのはず、さっき彼が食べた茸、ここ魔法の森ではそれなりに有名な代物である。
食べたものに強壮作用を与え、一時的に気分を高揚させる。漢方薬として使用できそうな効能。しかし、その茸が有名である所以は、その副作用にあった。
「うっし、いっちょ歩きますか。なんか今ならこの森も抜けれる気がしてきたぞ」
腹も膨れて気力十分、さぁ出発だという様子の辰巳。しかし、哀れその副作用が彼の体に襲いかかる。
「おぉ!あんなところに美味しそうな大判焼きが!?」
唐突に辰巳が叫ぶ。そしてある方向へと一直線に走り出した。そこにあるのはやはり茸、それも見るからにヤバそうな色合いをしたものである。
しかし辰巳はおもむろにそいつを引っこ抜き、あろうことか一口で食してしまった。
どう見ても異常な行動。にも関わらず、彼本人はその行動に全く疑いを持っていないようだ。
そう、例の黄金の茸。その副作用は、食べたものの周りにある茸、その全てがその人物の好物にみえてしまうという、同族殺しともいえるはた迷惑なものであった。
「なんとこっちには、いかにも甘そうなショートケーキ!?」
そうこうしているうちにも、辰巳はバクバクと近くにある茸を食べていく。実に幸せそうな顔をしていた。副作用は味覚に及ぶようである。
数刻後、そこには案の定死にかけの
副作用は切れたのだろう、茸を食べ漁ることは既に辞めていた。しかしその体は既にボロボロ。数多の茸に含まれていた毒が、彼の隅々までを侵しきっていた。
だがそれでも、辰巳はその足を止めていなかった。
大した理由ではない。ただ、彼自身ここで止まってしまえばそこで終わりだと、何となく理解していた。
辰巳としては、こんな見ず知らずの場所で、しかも死因が茸の暴食などというのは、いくらなんでもあんまりであった。
荒い息を吐いて前へ前へと進んでいく。しかし、気持ちはいくら進まねばと思っていようとも、体力の限界というものは無慈悲にも辰巳へと降りかかる。
「ヤバい。し、死ぬ……」
思わず地面に膝をつきそうになる。
そもそも、辰巳は中学以降、ずっと文科系の部活やサークルで活動してきた生粋のもやしっ子である。休憩を挟みながらとはいえ、ここまで歩けたこと自体が奇跡といえる。
「誰かぁー、助けてくれぇ……」
矜持やらなんやらを全て投げうったような、酷く情けない声で助けを呼ぶ。
彼自身、この声に答えが返ってくるとは本気では思っていない。この絶望的な状況に思わず、といったものであった。
しかしその声に答えるように、目の前から草をかき分ける音が聞こえてきた。
音の大きさから察するに、明らかに今までに聞いた鳥や小動物の鳴らす大きさではない。
(もしかして、誰か助けに来てくれたのか!?)
九死に一生。捨てる神ありゃ何とやら。あっているのかどうかも微妙な言葉を頭に浮かべ、辰巳は全速力で音の方向へダッシュした。この男、さっきまでの死にかけの姿が嘘のようである。
「おーい!俺はここにいるぞー!」
やけくそに叫びながら草をかき分け進んでいく。残り少ない体力を、今ここで使い果たしてしまってもいいという気概を感じさせる。もう既に助かっている気になっているようだ。
そもそもこんな深い森の奥にいる人間が、そうそうまともであるはずはないのだが、辰巳にはそこまで考えている余裕はない。
そうして必死こいて進んでいると、ようやく視界が開けてきた。満面の笑みを浮かべた辰巳の目の前に現れたのは——。
「グルオォォォゥ」
「え……」
まず、見た目がものすごく大きい。180cmほどある辰巳の二回りは大きいという時点でその異常さはわかるだろう。その腕や足は一般的な人間の胴ほどもあり、筋肉はこれでもかとばかりに隆起している。こちらを見ている両の瞳は真っ赤に充血し、口元は歯茎まで剥き出しになっており、小さく唸り声を上げ続けている。
そこにいたのは、まるで人間とは似つかない化け物であった。二足歩行であることが唯一人間に近いともいえるが、その事実は辰巳にとって何の助けにもならない。
そしてその化け物は、ゆっくりと辰巳のほうへと歩き始める。
「ひっ」
彼としては叫び声をあげたつもりだったが、しかしその体は硬直しきっていた。
声にならない小さな悲鳴は、誰に聞かれるでもなく消えていく。
辰巳はすぐに踵を返して逃げようとするも、その場で尻もちをついてしまう。かの化け物と目を合わせた時点で腰が抜けてしまっていたようだ。
(なんなんだよコイツ!あり得ないだろっ! ……てかやっぱこれ夢だろ。夢に違いないわ。)
この期に及んでも、まだ辰巳は現実を受け入れられず、目の前の出来事が他人事であるかのように感じていた。しかしそれも仕方がないのだろう。今までに味わったことの無い恐怖は、彼の思考の大半を麻痺させていた。
そしていくら現実逃避しようと、無情にもその時は来てしまう。化け物は既に、辰巳のすぐ目の前に立っていた。
やがてその巨大な右手をゆっくりと振り上げる。
真っ赤な瞳に映った辰巳は、冗談だろ?とでも問いかけるような顔で、自分自身を見つめている。
そして、その手が、振り下ろされた——。
◇◇◇
アリス・マーガトロイドはできる女である。
掃除、洗濯、料理といった家事全般はもちろんのこと、女性としての仕草や気遣いといったものも高いレベルで完成されている。
これは魔法使いという、一般的には己の研究以外には興味を示さないような種族にしては、少々異様であるといえる。
そのうえ当然、魔法の研究も疎かにしない。その証拠に、今日も今日とて触媒の採集に出掛けている。
そしてそんなできる女アリスにとって、目の前で妖怪に襲われている青年を助けようとすることは、至極当然の行為であった。
「上海、お願い!」
妖怪は今まさに、その手を振り下ろさんとしている。
間に合うかどうかは五分五分といったところか。
アリスは普段から使い慣れた人形を操り、妖怪と青年の間に滑り込ませる。
ガツンッ——という音が、森の中に響き渡る。
間一髪、人形の持つ剣は妖怪の爪を逸らすことに成功した。
アリスはそれにほっと息をつく。
ここで間に合わないようでは、全く格好がつかなかったところだ。
その時になってようやくアリスの存在に気付いた妖怪は、鈍い動きでそちらに目を向ける。
久方ぶりの食事を邪魔されたためであろうか、苛つきに呼応するように牙をガチガチと鳴らしている。
(餓鬼の類かしら?それにしては随分と大きいわね)
考え事もよそに、アリスはその白い指を素早く動かす。
最初に青年に向かわせた人形、上海の他に、数体の人形が彼女の周りに浮かび上がる。
そして指の動きに合わせるよう、人形たちは縦横無尽に飛び回る。
「悪いけど、雑魚にかまってる暇はないの。速攻で決めさせてもらうわ」
「ゴアァァァァッ!」
アリスの放った挑発を理解したのだろうか。妖怪、餓鬼は目の前に飛び出して来た槍を持った人形に襲い掛かる。
しかしそれはただの囮。人形が果敢に槍で餓鬼をいなしている隙に、他の人形達が後ろから各々の武器で滅多刺しにしていく。
餓鬼はそれに体制を崩しつつも、やたらめったらに腕を振り回す。だが、人形は攻撃を軽やかに躱していき、一つとして受けることは無い。
いくら頑丈であるとも、度重なる攻撃はその硬い皮膚に傷をつけ始める。
餓鬼もその猛攻には危機感を感じ始めたのか、人形達から距離をとる。
僅かばかりの静寂。しかし両者の戦意は一切衰えることはない。
逡巡の後、餓鬼は視線を人形から、彼らを操るアリスへと向けた。
言葉を解すことは無いとはいえ、そこは妖怪。術者が誰であるかを理解する程度の知能は持ち合わせているようである。
——術者を殺せば人形も動きを止める。
そんな考えのもと、餓鬼はアリスの方へと駆け出す。
それなりにあった距離が一瞬で縮まる。
ほぼゼロ距離となった位置。餓鬼はその鋭い爪で、彼女の細い首を刈り取らんとばかりに腕を振りかぶる。
しかしそれに対するアリスは静観。余裕を携えた笑みを浮かべ、餓鬼のほうを見つめている。
血が染みて真っ黒になった爪が、すぐ目の前のアリスへと迫る——。
——勝った。餓鬼はそう確信する。
そしてその思考とともに、
餓鬼の意識は永遠に閉ざされることとなった。
「ふぅ。所詮は獣ね」
ゴトッ——という音を立て、餓鬼の頭部が体を離れ地面に落ちる。コロコロと転がるそれは、信じられないとばかりに驚愕を浮かべ事切れていた。
餓鬼の考えは、その全てが誤りというわけではなかった。
確かに魔法使いという種族柄、接近戦、こと己の肉体を用いた戦闘というのはアリスの苦手とするものである。しかし、それが直接彼女の弱さにつながるかと言えば、否である。
よく見れば、木々の隙間からさす太陽の光が、アリスの近くでなにかに反射するようにきらきらと輝いている。
鋼線。妖怪の一撃を耐えうるだけの強度を持ち、そのうえで魔法によって鋭さを増した糸が、アリスの周りには無数に張り巡らされていた。
餓鬼に誤算があったとすれば、それはおそらく彼女の持つ攻撃の多様性。彼女にはもとより、死角などは存在していなかったのである。
頭部を失った巨大な身体が、少し遅れてドサリと倒れる。そして直後、頭部ともども黒い霧のようになって消えていった。妖怪が死ぬとこのようにして跡形もなく消え去っていく。見た目に反して、環境に優しい生命体であるといえる。
パンパンっと、埃一つついていない服を払いつつ、アリスは人形たちを戻らせる。戦いは始まりから終わりまで優雅に、それが彼女の信条である。
「さて、もう危険は無くなったわよ。大丈夫かしら?」
アリスは先ほどの青年がいるほうへと声をかけた。しかし待っていても返事はない。
(どこか怪我でもしたのかしら。見つけた時そんなことは無かった気がするけど……)
怪訝な表情をしつつも、アリスは青年のほうへと歩いていく。そしてすぐに、その原因に気づいた。
座り込んだ青年、辰巳は、白目を剥いたまま気絶していた。
「……」
情けない。まったくもって情けない。しかし待ってほしい。ただの人間、それも身なりからおそらく外来人であると推測できる彼が、あのような見た目だけは恐ろしい妖怪に襲われたのだ。この醜態は仕方がないといえるのではなかろうか。
そこでふと、アリスは彼の下半身に視線を向け……、そしてすぐにその視線を戻した。
(うん。気のせいね。私は何も見ていないわ)
アリスは気の使える大人な女性である。辰巳の下半身に異常などない。ましてやびしょ濡れなんてこと、無いったら無いのである。
「はあ。なんだか力が抜けちゃったわ。さっさとコレも運んで帰りましょう」
アリスはそう一人呟くと、辰巳を自分の操る人形に運ばせる。ちなみにその人形、貧乏くじを引かされたとばかりに不満げな表情。すぐにでも、このばっちぃのを投げ捨ててしまいたいという感情が見て取れた。
辰巳が何時間もかけて迷った森の中、しかしそこは、アリスにとっては己の庭そのもの。
アリスは迷いのない足取りで帰路に着く。傍らに、人形に吊るされた一人の男を携えながら。