地球人最強の男、オラリオにて農夫となる   作:水戸のオッサン

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其ノ十三 祖竜

 

 

 歩くとは何か。

 走るとは何か。

 地を踏むとはどういうことか。

 

 思えば()()は、過去に何度も自らに問いかけてきた。

 時には痛み、またある時は違和感として。

 

 無意識に日々繰り返す、ごく当たり前の動作。

 故にその(ほころ)び、その不備に目を向けてこなかった。

 

 第一級冒険者と呼ばれて久しい身、今になってソレに気付くのは怠慢か、それとも気付けただけで幸運か。

 

 いずれにせよ、彼女たちは今その代償(ツケ)を払わねばならなかった。

 

 

 

「ギャアアオオオオオオオオオウウウウ!!」

 

「ここは全力で走らないと喰われるぞー」

 

「うひゃああああああああああああああ!?」

 

 ティオナの絶叫が谷に響き渡る。

 

 アイズたちは恐竜に追われていた。

 クリリンの極限(エクストリーム)野菜配達、第二弾。

 本日の舞台は世界三大秘境の一つ【竜の谷】

 

 大陸の北の果てにある、大地に刻み込まれた巨大な『爪痕』

 生身の人間には耐え難い極低温の世界。

 まともな足場など到底望めない『この世の裂け目』

 底知れぬ闇、深淵から漂う瘴気。

 徘徊するのは、強大な竜種。

 

「ギィアオオオオオオオオウウウウウウウウ!!」

「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

「なんか増えてるぅ!?」

 

 絶壁を這いずるようにして走るティオナたちは、辛うじて竜の爪牙から逃れていた。

 

 地上の怪物種(モンスター)は迷宮の怪物種と事情が異なる。

 地上の個体は内包した魔石をすり減らしながら生き長らえる。また迷宮(ダンジョン)内の個体とは違い、繁殖も行う。

 したがって地上に進出した怪物種(モンスター)は、迷宮内の個体と比べれば幾らか脅威度が薄まるのが通常だ。

 

 しかし、何事にも例外はある。

 

 竜種

 

 精霊と並び神に最も近い種族と謂われ、叡智、戦闘力ともに完成された存在。

 他の怪物種(モンスター)などとは全く格が違う。

 

 脆弱な人の子にとって幸いしたのは、竜種と生息域が重ならなかったことだ。

 竜種は人智の及ばぬ険しい山地や洞穴の深奥に好んで棲む。

 

 この【竜の谷】に巣食う竜種は、地下迷宮(ダンジョン)深層へ何度も進攻(アタック)したことのあるアイズたちでさえ手を焼く相手だ。

 谷の()()()()()にいるこれらの恐竜も、レベル5相当とみられる。

 足場も悪く、ここでの戦闘は愚策。先頭を悠々と走るクリリンも戦意は無し。

 ゆえに、ただ走る。

 前に向かって────────

 

「………………ッ!」

 

 アイズは走る。

 ただ走ることに没頭する。

 それでも、先頭を行く者との差はゆるゆると開いていく。

 

 息を吸う度に、胸が凍り付きそうになる。

 霜を踏んで足をすくわれ、谷底に転げ落ちそうになるのをなんとか堪える。

 そんな状況でも絶え間なく襲い来る後方からの重圧(プレッシャー)

 

 およそ地獄。

 

 そんな地獄にあっても、クリリンの速度(スピード)は落ちない。

 クリリンの足は、体軸はぶれない。

 

 その足は()っている。

 土も、泥も。

 

(どんだけ走り込んでりゃそうなる!?)

 

 ベートもまた歯を食い縛りながら駆ける。

 自慢の快足も、今は見る影も無かった。

 

「──────!? 来るわよ!!」

 

 何かを察知したティオネが鋭く叫ぶ。

 直後、絶壁が破れた。

 

「アンギャアアアアアアオオオオオオオオオ!!」

 

「また増えたあ!?」

 

 悲鳴を上げるティオナの背を一体の竜が襲う。お尻を齧られそうになるところをティオナは必死で身を(よじ)り、なんとか(かわ)した。

 

「このぉ~!」

 

「ティオナッ! 走るのに専念しなさい!!」

 

「うぅ……」

 

 反撃に転じようとしたティオナを、瞬時にティオネが制止する。

 ここで余計な動きをすれば確実にティオナは竜に囲まれる。武器を持たず地の不利(はなは)だしいこの状況では、一対一でも勝率は4:6といったところだ。

 ティオネたちが加勢したところで戦闘が長引けば高確率で全滅する。

 

 そもそも、この修行の本質は()()()()()()()()()()はずだ。

 

「まずはクリリンに追い付くこと! それだけ考えてなさい!!」

 

「うおおおおおお! クリリン、まてーーーーーー!」

 

 氷壁を蹴り砕き、ひた走る。

 ティオナたちは【竜の谷】の『表層』をなんとか生き抜くのであった。

 

 

 

 

 

「からだ冷えてきちゃった。ティオネ~、上着もってない?」

 

「持ってるわけないでしょ。我慢しなさい」

 

 谷から這い出たティオナたちは、一面銀世界の台地でクリリンを待っていた。

 

 クリリンが向かったのは、谷のさらに奥。

 その領域はさすがに今のアイズたちには荷が勝ちすぎるとのことで、四人は先に谷から脱出させられた。

 

「でも、ここに何があるのか、見たかったな~」

 

「止めときなさい。碌なもんじゃないわよ。いくら鈍感なアンタでも分かるでしょ、このどうしようもなく気持ち悪い気配を」

 

「うん……それでかな? さっきからアイズ、ずっとこわい顔してるの。ついでにベートも」

 

 ティオナは谷の淵に目をやった。

 そこにはじっと、谷底を覗くアイズがいた。

 

「なんだか、昔のアイズに戻っちゃったみたい……」

 

「…………」

 

 悲しげに目を伏せるティオナに、ティオネは何も言えなかった。

 

 此処に何かがあるのは間違いない。

 有史以来、世界全てを巻き込んできた『因縁』が。

 気になるのは()()()()()()()()()()()()()だが。

 

「あ! クリリンが戻ってきた!」

 

 ぱっ、と笑顔を咲かせるティオナの視線を追えば、確かに飛んでくるクリリンの姿を認めた。

 

「よ、待たせたな」

 

 着地したクリリンのもとに、ティオナたちが集まってくる。

 

「ハンッ、けろりとしてやがる」

 

 ベートの目に映るクリリンは、掠り傷ひとつ負っていない。谷の奥は、今のベートたちでは全く歯が立たない竜が群を成す、本当の地獄に違いないというのに。

 横にいるアイズも「クリリン、大丈夫?」などと聞いているが、その答えは「ああ、食料は無事に届けてきた」というぶっ飛んだものだった。誰も野菜の心配なぞしていない。

 いやしかし、あの状況でクリリンはまあいいとしても、野菜まで無事とは恐れ入る。

 

 とにかくクリリンが戻って、淀みがちだった空気も吹き飛びティオネたちは内心でほっと一息ついた。

 

「で、クリリン、テメーは何でこんなとこに野菜配達なんざしてんだ」

 

「ハイハーイ! あたしも誰に野菜届けたのか気になるー!」

 

 まさか竜の親玉に野菜を届けたわけではあるまい。

 ただ居るだけで吐き気を催すような、こんな極地に一体どんな取引先がいるというのか。

 只者では無い。

 少なくとも、この【竜の谷】と拮抗できる存在であることは間違いない。

 

「……………………【賢者】?」

 

 アイズはふと脳裏に浮かんだ考えを口にする。

 それを聞いたティオネとベートは目を丸くして、しかし腑に落ちたような表情に変わる。ティオナは「あー! なるほどぉ!」と大きく頷いた。

 

 英雄譚を紐解けば、最終迷宮(ラスト・ダンジョン)の目前、最後の安全地点(セーブ・ポイント)を護る【賢者】の存在に、ティオナはいつも心強さを感じたものだ。

 同時に、戦場の最前線にいる彼らがどうやって生活物資を調達していたか、そんな疑問も浮かんだことは確かにある。

 しかしなにせ【賢者】。超常の(ごう)を以て苦難を凌いだのだろうと、幼少のティオナはそれで無理矢理自分を納得させていたことを思い出す。

 長年の疑問は解消したとばかりにご機嫌なティオナ。しかし英雄譚の書き手たちがそんなティオナを見たらこう言うだろう。

「産地直送とか、ねーから」と。

 

 英雄譚の書き手たちの想像をいとも容易く飛び越えて不可能を可能にした男、次世代農産物配達人クリリンは、アイズの予想に「鋭いな」と感心していた。

 

「確かにオレたちの顧客の中には【賢者】って呼ばれてる人もいる。だけど、ここにいるのはそうじゃなくて──────────【霊獣】と、そう名乗ってた」

 

「!?」

 

「霊、獣……………………!」

 

 アイズは絶句し、ティオネが茫然と呟く。

【霊獣】という言葉だけなら人生のどこかで聞いたことはある。しかしそんな()()が真実この世に存在するとは。

 

「【北の守護霊】ってやつらしい」

 

「ていうかよ、野菜食うのかソイツは…………」

 

「まあ百年ぐらいなら、食べなくても大丈夫とは言ってたな」

 

「………………」

 

 さすがは『人ならざるもの』か、ずいぶんと気の長いことだ。

 

「テメーん派閥(とこ)の付き合いはどうなってんだ……」

 

 ベートが呆れたように呟けば、ティオネも肩をすくめる。

 霊獣相手の取引とは常識外れにも程がある。よくぞ取引を成立させたものだと皮肉の一つも飛ばしたくなる。【デメテル・ファミリア】の事業規模がここまでとは思いも寄らなかった。

 ティオネたちの理解を超えているのは当然で、実は【デメテル・ファミリア】も決して、こういった取引を日常的に営んでいるわけでは無い。

 極地にいる『ちょっと不思議な存在』との仕事(ビジネス)はそのほとんどが、クリリンが世界を行脚する中で取ってきたものだからだ。

 ぶっちゃけクリリンの存在が前提の、非日常的(イレギュラー)な取引なのである。

 対価は貨幣通貨だけでなく、宝石や宝具、貴重な鉱物の場合(ケース)もある。

 勘定は割とガバガバ。【デメテル・ファミリア】としては『支援』と割り切ってもいい仕事だが、大抵はクリリンの超速達性を加味して尚、もらいすぎなぐらいだった。

 

「でも霊獣って、どうやってコミュニケーションをとってるのよ?」

 

「あー霊獣っていっても、オレと会うときはいつも人間と変わらない姿をしてるからなぁ。普通に言葉も通じるぞ」

 

「ふぅん、そこは神々と同じような感じか」

 

 いったん頭の中を整理するようにティオネは白い息を吐く。その横から突然ティオナが顔を出した。

 

「ねえねえ! やっぱり【霊獣】って強いの!?」

 

 凍て付く台地の上で絶えず跳ね回りながら、ティオナが目を輝かせている。

 竜の大群の対極(カウンター)たる【霊獣】

 その実力は如何ばかりか。

 見れば、アイズやベートもクリリンの答えを待っていた。

 

「ああ、強いぞ。オッタルと馬のコンビでも、ほとんどダメージ通らねぇと思う」

 

「ちっ」

「うへぇ~」

「…………」

「とんでもないわね」

 

 この【竜の谷】の脅威と拮抗する存在だ、それぐらいの実力はあって然るべきとは思っていたものの、はっきりそう言われてしまうとやはりクるものがある。

 

 レベルで言えば9───────否、その認識は甘いか。10もしくは、それ以上の領域と見るべきであろう。

 

(クリリンの言ってたことは嘘じゃなかった…………)

 

 ベートの(キズ)が疼く。

 かつて、己の故郷を蹂躙した一体の竜。

 弱肉強食

 その理を────その決して癒えぬ傷痕(キズ)を、ベートに刻み付けた怪物。

 その怪物はこの谷から下りてきた。

 

(間違いねえ、(アレ)()()()()()んだ…… このクソみてえな谷から…………)

 

 平原の獣人部族を鏖殺(おうさつ)したあの怪物も、(ここ)では【弱者】だった。ここでは生き残れなかった。

 

 北の極地(果て)【竜の谷】

 正しくは、谷では無く【爪痕】

 大地に爪を立て決して癒えぬ【傷痕】を残した存在(もの)こそ、この谷の王、この世界の【覇者】──────────

 

「クリリン」

 

「ん?」

 

 呼ばれたクリリンが目を向ける。

 雪が舞う白い台地に立つアイズはやはり美しかった。

 

 しかし

 

 その()は、頭上を厚く覆う曇の如く暗澹としていた。

 

 それを見たティオネとベートはひそかに息を吐き、いつでも()()()()()()()身構えた。

 逆にティオナは動きを止め、悲しげに表情を歪ませながら動静を見守っている。

 

「どうした、そんな不景気な顔してよ」

 

「クリリン、この谷を放置していていいの…………?」

 

 アイズがその表情に浮かべるのは焦燥、怒り、そして憎悪。

 握りしめたこぶしが震えている。

 

「前にクリリンは、大魔王相手でも一発で終わるって言ってた」

 

「あ~、そんなこと言ったっけな」

 

「それならなんで倒さないの? それとも、ここにいる存在(もの)は大魔王よりも強いの…………?」

 

 空気が冷え込んでいく。

 

「もしクリリンが戦うなら、私も──────────」

 

 

 

 

 不意に、アイズの言葉は途切れた。

 

()()はアイズの思考を奪った。

 

 ティオネもティオナもベートも、立ち尽くしたまま動けなかった。

 

 

 

 クリリンの背後、けたたましく鳴る吹雪がわずかに緩む。

 

 吹雪を割って現れたのは黒々とした【山脈】だった。

 

「現れた」というのはおかしな話かもしれない。或いは()()は、最初から其所(そこ)に在ったのかもしれないのだから。

 

 しかし、アイズはその風景に、その()()に強烈な違和感を抱く。

 

()()は地形などでは無かった。

 

 気付いた瞬間、()()は風景画から浮かび上がる。

 あたかも騙し絵(トリックアート)のように。

 

 稜線に見えたのは背だった。

 山のように見えたのは、遠近感を狂わす程の巨体だった。

 

 誰が()()を怪物と思うだろうか。

 誰が()()に挑む気になろうか。

 

()()はもはや【地形の鳴動】としか言えぬ現象(もの)なのに。

 

 山脈が迫る。

 一歩踏むごとに地響きが起こる。その度にどこかで氷雪が決壊した。

 

 アイズは理解した。

 ティオネ、ティオナ、そしてベートも同様に。

 森羅万象たるは彼らの息遣いなのだと。

 なべて世の災厄とは、彼らの足取りがもたらす現象(もの)だと。

 

 迫る岩肌に一対の亀裂が走った。

 切り開かれたそこから覗くのは、緋色の宝玉。

 

 ティオナはそれを綺麗だと思ってしまった。

 しかし直後、戦慄はいっそう強まることとなる。

 

 宝玉がギョロリと蠢いた。

 

 緋色の瞳にティオネは射竦められる。

 緊張と恐怖で動けないまま、ただ堪えるように奥歯を噛み締めていた。

 

 一対の瞳の側にもう一つ、亀裂が入る。

 ベートの目線の先で、それは口を開いた。

 開いた闇の深遠で何かが震えた気がした。

 ベートは反射的に両の手で耳を覆った。

 

「──────────────ッ」

 

 

 咆哮が轟き渡る。

 もはや音という形容を超越したそれは、衝撃となりアイズたちの心身を砕いた。

 

 自身の根幹が、どこかに消え失せてしまったかのようだった。

 剥き出しにされた魂が、今にも吹き消されそうだった。

 

 

 眼前に(そび)える黒き山嶺は、強大な竜の姿を宿していた。

 人の身からすれば神々と変わらぬ威容。

 

 谷で遭った竜の群れとはまるで別物だった。

 

 これこそが本物の『竜種(ドラゴン)

 

 英雄が旅の最期に出会う存在(もの)─────────

 

 

 

 

「あー、うっせーなぁ」

 

 声が届いた。

 農夫の声が聞こえた。

 アイズたちはハッとして目線を下げる。芯まで凍てついたはずの身は解けていた。

 

 そこにはクリリンが変わらぬ姿で立っていた。

 (およ)そ天変地異の権化たる竜。其れを前にしても尚。

 

 アイズは思う。

 きっと自分は泣きそうな顔でクリリンを見ているのだろう、と。

 何が『私も、()()』であろうか。

 力も技も戦術も、何もかもが足りない。相手を『戦う対象』として見ることすら出来ないのだ。

 

「ク、クリリン…………逃げよう…………?」

 

 アイズの隣ではティオナが声を絞り出していた。

 こんなティオナを、アイズたちは初めて見る。

 

 それ(逃走)が無理だというのは、自分(ティオナ)が一番分かっているだろう。

 

 超越者からは逃げられない。

 

 しかしこの時ばかりは、ベートもティオネもそんな言葉を吐けずにいた。

 硬直だけは解けたが、状況は絶望的なままだ。

 

 だがクリリンは普段と変わらぬ調子でこう言うのだ。

 

「先に行ってな。向こうに大きな岩があるだろ? あそこで待っててくれよ」

 

 クリリンが指差す方、二ないし三(キルロ)先に、確かに岩はあった。

 

「クリリン……そんな…………あんなの一人じゃ……」

 

「平気だって。ほら行った行った」

 

 尚も心配そうに見つめるティオナたちに、クリリンはしっしっと手を払った。

 

「…………行こうみんな。もう、クリリンを信じるしか、ない…………」

 

 歯痒さを押し殺し、アイズは竜に背を向けて駆け出す。敗走同然の心情だった。ティオネとティオナも一瞬だけ目を伏せ、アイズを追ってこの場を退く。

 

「………………任せていいんだな?」

 

 最後に残ったベートが悔しげに呟いた。

 

「おう。どの道いまのお前たちにはツラい相手だろ」

 

 ベートはちらりと竜を窺う。

 既に二人はあの竜の攻撃範囲に入っているだろう。もはや猶予は無い。

 

「そんな顔すんなって。もしかしたら戦いを見てるだけで、【経験値】ってやつがもらえるかもしんねえぞ?」

 

「ッ!! 言ってろ!」

 

 そう吐き捨ててベートも戦場から離脱する。

 いよいよこの場にいるのはクリリンと竜だけになった────────

 

()()()()は見てるだけか…………? ま、構わねえけど」

 

 クリリンの視線の先には無数の岩が在るばかりで、応えるものがあるはずもなかった。

 

 直後

 

 

 極低温の台地に巨大な熱源が生じた。

 

 

 クリリンがゆっくりと振り向くと、眼前には漆黒の世界が広がっていた。

 

 大きく開いた竜の顎門(あぎと)

 その奥から熱閃が走る。

 

 (はげ)しい炎。

 

 

 紅蓮の炎が瞬く間に分厚い氷床を融かし、辺りは海に還る。

 

 あたかも津波の如く押し寄せる炎はクリリンを、背後を駆けるアイズ達ごと()き尽くさんと迫る。

 

 

「っ!!」

 

 クリリンの遥か後方を駆けるアイズは、その白い肌が灼かれたのを感じた。

 眼の表面が熱い。涙が熱し泡立つのを感じた。

 極地らしからぬ熱さが背後に迫る。

 

 だがその熱は奇妙にも、アイズたちを避けるように二つに分かれて追い抜いた。

 クリリンが炎を()らしたのだ。

 進路をねじ曲げられた炎はアイズたちの前途だけを残し、氷の台地は海原へと変貌する。

 

「始まりやがった…………! クソがっ、 規模(スケール)が狂ってやがる……………………!!」

 

 ベートが唸る。

 あの馬や【猛者(オッタル)】、彼らをして及ばぬ領域だ。

 

「ねぇ、みんな。こんなときになんだけどさ…………」

 

「…………どうしたの、ティオナ?」

 

 汗ばんだ額を拭いながら、アイズはティオナを見る。

 

「みんなは、どうしてこの北の果てが寒いのかって、理由を知ってる?」

 

「なんなんだ、こんな時に!?」

 

 ティオナの意図が読めず、ベートが吠える。

 

「…………珍しいわね、あんたがそういうこと言うなんて。…………そうね、太陽があまり高く上がらないからとか、そんな理由じゃないの?」

 

 並走するティオネが答えると、ティオナは言った。

 

「あたしバカだからさ、ちゃんとした理由はわからない。でもね、小さいときに読んだ本にはこう書いてあったんだ」

 

 アイズたちは三人とも押し黙る。そうして、ティオナが継ぐ言葉を待った。

 

「神様たちが創造(つく)ったばかりの世界って、どこも火の海だったんだって。そのあと、雨がずっと降って海とか大地ができたって、そういうお話だったの。…………でもこの【北の果て】だけは違った」

 

 ティオナは一息つき、続ける。

 

「【北の果て】には竜がいたの。おかしいよね、竜は大昔に地下迷宮(ダンジョン)から出てきたモンスターたちの末裔って話だもん。それでもその本には書いてあったんだ。まだ何も始まってなかったころに竜だけはいたんだって」

 

 ティオナの話にアイズは引き込まれていた。本当にそんなものがいたとすれば、【原初の竜】とでも呼ぶべきか。

 

「そして、【北の果て】で火を止めたのは竜だった。竜が火も熱もまるごと飲み込んだ────────」

 

「だからここは寒いってか。ケッ、降ってきた雨も凍っちまったわけだ」

 

竜種(ドラゴン)が火を吹くのもそれで説明がつくって言いたいわけね。前提がとんでもないけど、まあ空想(フィクション)としては面白い、かしら」

 

 ベートとティオネの横で、アイズは目を見開く。

 

「その一節(プロローグ)、私も聞いたことがある…………! 【原初の竜】にたった一人の英雄が立ち向かう話。確かその名は……………………!?」

 

 

 

 

竜王戦記(ドラゴン・クエスト)

 

 

 

 

 刹那、世界が震える。

 アイズたちが振り返ってみれば、竜が地響きを立ててクリリンに迫っていた。

 

 顔を蹴られた大地が怒って火山を爆発させる。

 

 さらに膨れ上がる熱気。

 赤黒く染まる大地。

 輪郭(かたち)を失う世界。

 もはやアイズたちはまともに立っていることも敵わず。

 正しくこの世は【原初の姿】に還りつつあった。

 

「あたしはっ、知らない! 竜に挑んだ英雄がどうなったのか! その本には書いてなかったから!」

 

 足場が崩れ落ちる。

 地割れから逃れながらティオナは叫んでいた。

 

 誰も知らない結末が

 知られざる伝説が

 今ここに────────

 

「ゴアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 炎が再び現世に舞い戻る。

 竜の体内に封じられた炎が、今一度この世を灼き尽くさんと蘇る。

 手始めに眼前を這う小さき者を生贄にせんとして

 

 

 

 

 炎禍は(たちま)ちの内に掻き消された。

 

 

「……………………………………ウソ」

 

 ティオナはこう溢すのが精一杯だった。

 

 荒れ狂う炎の怪物は、クリリンの一扇(いっせん)に屈したのだ。

 

「…………まるで【芭蕉扇】ね」

 

 東方に伝わる失われた神器の一つ【芭蕉扇】

 かつてオラリオに至る旅の途中に聞いた逸話、ティオネはそれになぞらえる。

 一度扇げば大風を起こすという実在するかも分からぬ神器の幻を、ティオネは確かにそこに見た。

 

【北の果て】で勃発した神話級の戦いはさらに加熱する。

 

「ギィアオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 超一級の刀剣が三振、巨大な岩に刺さって落ちてくる。

 否、それは振り下ろされた竜の爪だった。

 鋭い爪と巨重の腕。

 例え第一級冒険者であろうと、紙のように切り裂き轢肉(ミンチ)へと変える。

 クリリンに逃げ場は無かった。

 それはあまりに巨大で速かった。

 

 轟音が鳴り響き、竜の腕が叩き付けられた。

 

「く……………………ッ」

 

 遠目に見ていたはずのベートですら、怖気(おぞけ)が走る。全身の毛が逆立った。

 海は裂け、大地は割れた。

 その裂け目から岩漿(マグマ)が煮え立つ。

 ベートの目に映る世界は地獄そのものだった。

 

 

 だが

 

「とうっ」

「ブフゥッ!?」

 

 何事も無かったかのように元気よく飛び出してくるクリリンに、一同は思わず吹き出した。

 しかし直後、緩んだ表情は驚愕に染まる。

 

「クリリンッ!」

 

 思わずアイズは叫んでいた。

 クリリンの頭上に今度は竜の尾が襲い来る。この状況で油断を見せない竜の(したた)かさも()ることながら、驚くべきはその反応速度だ。

 敏捷(アジリティ)が高いとか、そういう次元の話では無い。あたかも脳が二つか三つあるのではないかという神経伝達(インパルス)

 

二回攻撃(デュアルコマンド)

 

 アイズたちはまだ、この次元の相手との戦闘経験は無かった。

 

 身動きのとれない空中。

 戦局は『詰み』だった。

 標的を確実に粉砕する尾の一撃が今──────────クリリンの残像を掠めた。

 

「ゴアッ!?」

 

 捉えたはずのクリリンが、空中(そこ)にいない。

 何が起きたのか分からない。

 忽然と消えたクリリンはなんと、いつの間にか己の眼前で拳を振るっていた。

 知覚が追い付かない。

 意味が分からない。

 しかし竜は足掻く。

 その牙で迎え撃つ。

 今度こそ捉える────────

 

「───────────ィッ!?」

 

 かつてない衝撃が

 己の根幹を揺るがす損傷(ダメージ)

 竜の体に刻み付けられた。

 

 食らったのは左の頬。

 小さな人の手から繰り出されるはずのない超パワー。

 しかし、流石は真の竜種(ドラゴン)。頭部が地平の彼方まで吹き飛ぶところを、その強靭な(くび)が引き戻した。

 

 だが、タダでは済まなかった。

 

「ア、ガ……………………ッ」

 

 竜の頬骨は砕けていた。

 宝玉のような左眼は弾け、崩れかけた眼窩(がんか)の奥に沈んでいく。

 無理な力に抗った代償で、頸の筋は幾条も断裂した。

 内腔(ないくう)に生温かい液体が満ちていくのを感じる。

 

 竜の脳裏に『敗北』の二文字が浮かんだ。

 この世に在りて、初めて生まれた感情。

 逃げることは出来る。

 退けばあの男(クリリン)は追い討ちまではしてこない。

 そんな不思議な確信があった。

 

 しかし

 

「ガアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 竜は退かぬ。

 

 長命たる竜とて神では無い。

 いずれは体内の魔石は尽き、この身は朽ち果てる。

 ならば

 この戦いに全てを捧げよう。

 及ばねばここで滅びる。

 それでいい。

 最後の相手がこの強者(おとこ)ならば、大いに格好も付くだろう。

 

 竜の誇りが天を揺るがす。

 

「な、なにっ!?」

「! 黒い雲が上に……!」

 

 アイズに続き、ティオナたちも頭上を見上げる。

 暗雲が竜の真上に集まっていく。

 

 

「天候まで操るってのか、あのバケモン!!」

 

 ベートが叫ぶや否や、空が(またた)いた。

 それはこの世で最も速く動く現象(もの)

 

雷霆(神鳴)

 

 竜が呼び寄せた雷撃が上から下へ、下から上へ、縦横無尽に駆け抜ける。

 時空が歪み、雷光に道を譲る。

 光こそが最速。光こそが絶対。

 それが神が定めし原理。

 

 しかし、ふと竜は気付く。

 雷光に埋め尽くされた光景。

 遅れて耳を(つんざ)く轟音。

 その世界に一点だけ静寂が在ることを。

 

 竜の叡智は人の子の追随を許さない。

 その竜の脳が信じられない結論を弾き出した。

 

 この男は雷を()()()()()

 直撃して堪えているのでは無い。

 まして、運良く避雷しているのでは無い。

 

 この男は、

()()()()()()()()()()

 

 

 竜は思う。

 自分の頭はオカシくなっているのだろう、と。

 先の一撃で、自分の脳は半分消し飛んだのだろう、と。

 

 そうでなければ、あの男は(ことわり)を捻じ曲げていることになる。

 己が正しいというならば、目の前にいるのは人では無く神────────

 

 

 竜は思考を止める。

 クリリンが前進を始めたのだ。

 視界を遮るほどの雷撃も、ついにあの男を捉えることは敵わなかった。

 

 竜は爪を振るう。

 最後に爪痕を残すために。

 もう分かってはいた。

 この男の棲む次元(せかい)は、己の手が届く領域では無いということは。

 

 竜の爪は空を切る。

 クリリンの姿は無い。

 右でも、左でも無い。

 残すは──────

 

 

 

 

「上…………!?」

 

 竜の正面から消えたクリリンの行方を、アイズは探る。

 動きが見えたわけでは無い。消去法と勘でしかなかった。

 

 果たしてクリリンはそこにいた。

 クリリンが跳ぶは、竜の遥か上空。

 上空からの急降下。一瞬で竜の死角に潜り込んだ。

 竜がクリリンに気付く。全身を強張らせ、衝撃に備える。

【絶対防御】

 強烈な戦闘力を誇る竜が、持てる力の全てを防御に回した態勢。その防御力は最硬金属(オリハルコン)にも決して劣らぬ。

 しかしクリリンは構わず、そのまま竜を()し潰した。

 

「伏せろーーーーーーーーッ!!」

 

 ベートが鋭く吠えたその瞬間、【北の果て】に『巨大な隕石』が衝突した。

 

 海原は噴き上がり、分厚い地殻は粉々になり或いは融け、岩漿(マグマ)が地表に躍り出る。

 

 アイズたちの頭上を幾重もの衝撃波が駆け抜けた。

 吹き飛ばされぬよう、必死で地面にへばり付いた。

 ────────どれぐらいの時間、そうしていただろうか。

 揺れと轟音が止み、肌寒さを感じる程度には熱気が失せてから、アイズたちは体を起こした。

 

「…………………………」

 

 目の前に広がる光景を見て、アイズたちは改めて絶句した。

 さっきまで見ていたはずの景色(もの)は、見る影も無かった。

 

 黒き山嶺は沈み、既存の大陸は消え、代わりに冷えた溶岩が新たな大地を形成しつつあった。

 

「…………俺達は、生きのびたのか」

 

 憮然としたベートは、そう絞り出すのがやっとだった。

 ベートに応える者はいない。

 ティオネもティオナもただ立ち尽くすばかり。

 

 眼前に広がる【天地創造】

 この世の成り立ちを、世界の起源を、四人はこの目で見ていた。

 

 竜と超人。

 二つの天変地異は世界の地図を大幅に書き換えた。

 天上の戦いとは、斯様(かよう)に地形の変動をも伴うのだ。

 破壊と創造。

 紛うことなき神話級の戦い。

 これぞ、伝説──────────

 

「……どう、ティオナ? 本の結末は読めたのかしら?」

 

「…………なんて言っていいかわかんない。頭の中、ぐちゃぐちゃしてる」

 

「………………そう」

 

 本の中でしか知りえないはずのもの。

 それを現実で目の当たりにすれば、心身が追い付かなくて当然だろう。

 ティオネは妹の傍でそっと息を吐いた。

 

 

「クリリン…………」

 

 産声を上げる世界に金の髪がなびく。

 極地に開いた大穴。

 そこから飛び出してくる小さな人影を、金の瞳は捉えた。

 

「よ、全員無事か」

 

「無事か、ってのはこっちの台詞(セリフ)だ……」

 

「クリリン、おつかれ~」

 

「全く、どうなることかと思ったわよ……」

 

 飛んできたクリリンのもとにティオナたちが駆け寄る。

 激闘を制したクリリンよりも彼女らの方が疲労の色は濃かった。

 

「? なんだオレの顔になんか付いてるか?」

 

「べ、別に……」

 

 ついまじまじと、ティオネたちはクリリンを見つめてしまった。

 怪我はしていないか、そういう心配もあるにはあった。しかしそれよりも、天地を揺るがすほどのパワーがこんな小さな体に込められている不可思議さ、それをしみじみ感じる意味合いの方が強かった。

 

「クリリン………… あの竜は倒したの?」

 

「どうだろ。けっこう地下の深いとこまで押し込んでやったから、そうそう出てはこれないと思うけどな」

 

「………………」

 

「不満か? とどめを刺さなかったの」

 

 クリリンのちょっと困ったような表情に、却ってアイズは戸惑う。

 竜と対峙する前の、あの不穏な空気にはならなかったが、それでも傍で見ているティオナたちの心中は穏やかでは無かった。

 

「そういや、なんでオレはさっさと悪い奴らを倒しちまわねぇのか、アイズにそう聞かれたっけな」

 

「……うん」

 

 アイズはこくんと頷く。

 

「ま、一番の理由はデメテルさまに止められてるから、だな」

 

「デメテル様が…………?」

 

「そうだ」

 

 デメテルはクリリンをこう諭した。

 先の竜のような大物を不用意に倒してしまうと、力の均衡(パワーバランス)が崩れてしまい、他の巨大な勢力が一気に動き出してしまう懸念がある、と。

 そうなると、クリリンや迷宮都市(オラリオ)はまだいいが、諸国は大きな危険に曝されてしまう。

 よしんばクリリンが全て倒してしまい、大きな被害は出なかったとしても、世の大きな変化に人々は付いていけないだろう、と。

 

 確かに、と今しがた大きな戦いを目にしたアイズたちは納得する。

 地形が変わるほどの戦いだ。地形が変われば気候も変わる。そうなれば、下手すれば文化が消滅する。農業系派閥である【デメテル・ファミリア】らしい着眼点といえよう。

 

 もっともデメテルとしては、クリリンが無茶をしないための方便というのが強かったが。

 

「ってわけで、みんなの心の準備が終わるまでは、あんまり派手に動けないってわけ。納得した?」

 

「うん、わかった」

 

「おし」

 

 とりあえずこの場は収まった。アイズの表情は幾分やわらかくなり、ティオナたちは胸を撫で下ろす。

 

「じゃあ次いくぞ。全員つかまれ」

 

 木箱を持ち上げたクリリンが四人に声をかける。

 実のところアイズたちは、オラリオから数千(キルロ)あるこの谷までクリリンにしがみついて移動していた。クリリン曰く、オラリオ近隣で修行に適した場所はまだ見つけてないのだそうだ。

 

 アイズはクリリンの腰に手を回す。するとチリン、と鈴が鳴った。クリリンの帯に括り付けられた鈴だった。

 

 アイズたちの目が驚愕に見開かれる。この鈴をクリリンも付けていたことに今さら気が付いたのだ。

 

 竜との戦闘中、この鈴の音は鳴っただろうか────────

 

 答えが出る前に、アイズたちの体は急速にこの北の地から遠ざかるのだった。

 

 

 

 

 クリリンたちが去ってまもなく。

 北の台地に点在する無数の岩に次々と亀裂が入る。

 線を辿れば、それは一定の幾何学模様を描いていた。

 六角の紋様が刻まれた巌。風景と化していた()()が、うっすらと目蓋(まぶた)を開け始める。

 

【北の果て】に存在するもう一対の祖竜族(アルゴサウルス)【亀】が今、目覚めた。

 

 その亀の大群の奥に小さな影が現れて、亀たちの甲を足場に飛び跳ねてくる。

 だんだんと姿が(あらわ)になったその影は、人間の翁の容貌(かたち)をしていた。

 

 亀から飛び下りた翁は、クリリンが開けた大穴の淵に出る。

 

「いや~~~~たまげた。あの冥竜がまっさかやられちまうとはの」

 

 髭を撫でながら、翁は穴を覗きこんだ。

 

「……穴の底が見えん。なんという凄まじいエネルギーじゃ」

 

 そう唸ったかと思えば、ほーぅほぅと愉快そうに笑う。

 誰もが絶句し立ち竦むだろう大空洞を前にして、翁はしかし幾分と余裕を見せていた。

 

 翁はおもむろに手を宙に(かざ)す。すると、その手にはキャベツが収まっていた。傍目(はため)に見れば、妖術に化かされたとしか思えないだろう。

 

「んむ、美味い」

 

 キャベツを一口かじった翁は、ありえないほどの新鮮さに舌鼓を打つ。そんな翁の背に語り掛ける存在(モノ)が一つ。

 

 ──本当ニ新鮮ナ野菜ヲ持ッテ来マシタネ。

 

 金剛の如き甲を背負う亀が恭しく翁に語る。

 

「ほぅほぅ、冗談の通じない男じゃて。まあ彼奴(あやつ)にとっちゃ、これを『難業』と言うにはちと(ぬる)かったらしい。偉ぶって父母なる神々の真似なぞするもんじゃなかったわい」

 

 カカカ、と上機嫌に翁は笑う。

 あの男と初めて会ったのはつい先日のことだ。人間がこの谷の奥まで来るのはもう何年振りか。さぞ名高い冒険者で、長い旅の果てにここに辿り着いたのだと思いきや、その男は農夫だという。馬鹿を言えと詰め寄れど、農夫もそこは譲らない。ならば、取れた作物を持ってきてみよと『難業(注文)』を叩き付けた。

 期待などしていなかった。履行されたとしても、数か月はかかった挙げ句、(しな)びているか、あるいは干からびているか、そんなものが届くに違いない。

 それがどうだ。

 

「あれから三日と経ってないんじゃが」

 

 翁の呟きに、答える亀は誰もいない。

 鮮度、量、そして時間。

 文句の付けようが無い。

 

 しまいには、行き掛けの駄賃とばかりにあの冥竜を沈めるという。

 天上の父母が絶句している様が目に浮かぶ。

 

「いやだって冥竜じゃぞ? 十年か二十年前に乗り込んできた人間たちだって、まともな勝負は避けた」

 

 ──ソウ言エバイマシタネ。人間ニシテハ、カナリノ達人タチデシタガ。

 

「ベヒーモスとリヴァイアサンを倒したのもあの人間たちじゃろうな。しかし」

 

 その人間たちは、【覇者(黒竜)】の前に惨敗した。

 

「功を焦ったか、単なる慢心か。彼奴(あやつ)らは確かに【常識の範囲(レベル)】では強いと言える。じゃが、精霊(スピリット)仙人級(ハーミット)との戦闘経験が致命的に不足しておった。基本戦闘力も未熟ではあったが、あれでは攻撃を当てることすら不可能じゃて……」

 

 ──我々ノ様ナ存在ノ事デスカ、【帝翁(テイオウ)

 

 そう呼ばれた翁は笑みを深くする。

 

 

 北の守護霊

 

 霊亀【帝翁(ていおう)

 

 四方の霊、その一柱が谷の深淵(ふち)より姿を(あらわ)す。

 

 

 

 ──クリリンハ如何デショウ。超人ノ世界ニハ、既ニ足ヲ踏ミ入レテイルト思イマスガ。

 

 亀たちは見ていた。

 クリリンの腰に括られた鈴、それが静寂を保っていたことを。

 

「空のように静かで、雷霆より速かった。常識どころか、原理すらあの男を支配できん」

 

 帝翁の瞳の色が濃くなる。

 あれだけ激しく動いているように見えて、(かす)かにも鈴は()を上げなかった。

 あの冥竜ですらクリリンの動きを乱すことは出来なかったのだ。

 もはや人間の動きでは無い。

 

「クリリンは遊んでおった。彼奴(あやつ)がその気になれば、冥竜はこの【竜の谷】ごと消されていたはず。……はっきり言おう。あの男の実力(ちから)はこの儂よりも上じゃ」

 

 亀たちの間に衝撃が走る。

 古来(まれ)なる激闘はその実、クリリンのたった二発で決まってしまったのだ。

 冥竜との戦いぶりから少なからず覚悟はしていたが、それでも驚愕は隠せなかった。

 

 ──クリリンハ勝テマスカ、彼ノ竜ニ。

 

 亀の問いは、全世界の悲願でもある。

 守護霊たる翁は、これになんと答えるか。

 

「両者とも底を見せとらんのでなんとも言い(がた)い。…………………………じゃが」

 

 帝翁は唸り、言葉を絞り出す。

 

「それでも黒竜(ヤツ)の方が上だと思う」

 

 沈黙が場を埋め尽くした。

【覇者】は尚も彼らの前に立ちはだかる。

 

「しかし、それも一対一でのこと。クリリンが連れていた人間たち、今はまだ話にならんヒヨッ子じゃが、もしや…………」

 

 待ち望んでいた『約束の時代』がついに来るのか。

 それとも、永き雌伏を破り復活を遂げた【黒竜】が全てを無に帰すのか。

 それは帝翁の先見を以てしても分からなかった。

 

 ただ、目の前に広がる大空洞は人の子の確かな一歩だった。

 巨大な隕石が落ちたかのような衝撃(インパクト)

 

「【超人の足跡(ギガンティック・ミーティア)】とでも呼んでおこうか」

 

【竜の谷】の一部を巻き込む程の巨大な空洞は、帝翁をしてそう言わせた。

 

 (ひるがえ)り帝翁は淵から離れ、亀たちもまた物言わぬ巌に戻り始める。

 拭い切れぬ絶望と、僅かな希望を心の内に宿して。

 

 

 しかし、帝翁は知らなかった。

 

 遥かな時空の先に存在する【地球】

 その【地球】で、かつて恐竜が絶滅しかけたことを。

 

 きっかけは一つの巨大隕石。

 撃鉄(トリガー)は引かれたのだ。

【竜の絶滅】への一歩は、この日確かに【北の極地】に轟いた────────

 

 

 

 

 

 

 ──【帝翁】、クリリンヘノ報酬ハ如何シマショウ。我々、通貨(オカネ)トヤラヲ持ッテイマセン。

 

「…………その辺の竜種(やつら)から魔石を巻き上げようとも思ったんじゃが。ふむ、いいものを思い付いたぞ」

 

 

 

 

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