その通知書が芹沢鮎美(せりざわあゆみ)の手元に届いたのは、18歳の誕生日から一ヶ月が経ったゴールデンウィーク明けだった。鮎美が高校から帰宅してキッチンに入ると、夕食の支度をしていた母親に声をかけられる。
「鮎美、市役所から何か届いてたわよ」
「は~い…」
麦茶を飲みながらテーブルにあった封書を手にする。
「何やろ」
「選挙関係のことでしょ。選挙管理委員会からってあるから」
「へぇぇ…まあ、うちも18歳やし…」
あまり気乗りしない顔で鮎美は、さらりとした長い黒髪の一部を耳にかけた。黙っていれば美人とクラスメートに言われる鮎美は整った顔立ちをしているけれど、薄いソバカスがある。それを気にしているのは本人だけで、強めの関西弁であることの方が転校して二ヶ月目、周囲に彼女を印象づけている。黙っていれば、鮎よりもリスやウサギを思わせるような可愛らしい顔立ちをしているので男子から人気を得たかもしれないのに、口を開くと遠慮無く何でも言い出す大阪育ちの気質が、田舎では目立っている。
「鮎美、もう学校には慣れた?」
「まあ、五月病にはならん程度に。学校よりも家のまわりの方が問題な気はするよ。コンビニ一つないし」
そう答えながら鮎美は市役所からの封書を開けて読む。
告
平成22年4月30日
参議院議長 竹村正義
衆議院議長 久野統一朗
芹沢鮎美殿、貴殿を参議院議員候補予定者として決定いたしました。
つきましては六角市選挙管理委員会まで、この通知を知った日から14日以内に受任されるか、辞退されるかの意志を出頭して表明してください。
鮎美は口に残っていた麦茶を少し垂らしてしまいながら、そんなことには気がつかず何枚もあった書類を読み進めていく。
「マジもんなん? ……エープリルフールは一ヶ月前やろ。……だいたいクジ引きで国会議員を決めるとか、……ありえんわ……いくら参議院が衆議院のオマケでも……」
耳かけていた黒髪がハラリと落ちている。
「……どないしよ……今年、受験やのに……と、とにかく落ち着かんと……」
困惑しつつも全ての書類を読み通した。その内容には辞退も可能、ただし、疾病や進学、事業の存続にかかわる重要な仕事上の支障、宗教上もしくは思想信条上の重大かつ強固な理由、65歳以上であること等の辞退理由が必要だった。任期は6年、年収は660万円、その他に経費の支給もあったし、不逮捕特権の説明も書かれていた。
「鮎美、ご飯よ」
着実に夕食を作っていた母が呼んでくれる。通知には驚かされたけれど、食欲は旺盛にあるので返事する。
「はーい。父さんは?」
「お父さんは今夜も市内に泊まるから、島には戻ってこないそうよ。まったく、あの人が島で暮らそうって言い出したくせに……」
引っ越してきて、まだ生活環境に慣れていない母は不満そうに、鮎美へ味噌汁を渡してくれる。鮎美は引き替えに書類を差し出した。
「母さん、さっきの手紙、こんなんやった。どないしよ?」
鮎美が書類を見せると、母は食事も忘れて何度も読み返し、すぐに父親へ電話をかけている。その間に鮎美は食事を終え、後片付けをして、まだ電話で話し込んでいる母が持っている書類のことについては、二階の自室で考えることにした。
「……今夜……寝られるかな……」
とても寝付けそうにない気分でベッドに寝転がった。まだ、制服を脱いでいなかったので、横になったまま制服を脱いで下着姿になった。
「うちが……国会議員って……まだ高校生やのに……ありえんわぁ……けど、報酬660万円って……バイトでは絶対無理やん……、しかも6年………3600万以上……約4000万ってか………宝くじみたいや……」
色々と考えているうちに、入浴も忘れて眠ってしまった。
朝、急いでシャワーを浴びて制服に着替えた鮎美は家を出ると、100メートル先にある港まで走った。船着き場では通学のために小型連絡船が待ってくれているけれど、毎日いっしょに乗っている同級生の宮本鷹姫(みやもとたかき)は冷たい表情で手首の腕時計を見つめている。ちょうど出発の予定時刻で、鮎美が走って来るのが見えているのに鷹姫は船頭へ「定刻です。出発してください」と告げているのが遠目にわかる。
「あいつは…ハァ…ハァ! 待ってや! ちょっと待ったって!」
鮎美が叫ぶと、80歳を超えている船頭が小さく頷いてくれた。中学の頃には剣道で鍛えていた鮎美は桟橋から小舟へ飛び込んだ。連絡船とは名ばかりの小舟は長さ5メートル、幅も1.5メートルほどしかないので走ってきた鮎美が飛び乗ると、かなり揺れ、鷹姫が顔をしかめ、叱ってくる。
「静かに乗りなさい! この馬鹿者!」
「ごめんごめん。そんな怒った顔したら、せっかくの美人が台無しやで」
「あなたは、いつもそうやって話を誤魔化そうとする」
「あ! もっと大事な話があんねん! これ見て!」
鮎美は携帯電話のカメラ機能で取ってきた昨夜の書類を鷹姫へ見せた。舟が出発したので、細かい字を揺れる中で読むのに苦労した鷹姫は、鮎美が期待したほどには驚いてくれなかった。むしろ、冷静に言ってくる。
「前科者や公務員を除いた有権者の中から、無作為に選出するのですから、芹沢が選ばれることもあるでしょう」
鷹姫は生まれつき少しだけ赤みがかった髪をしている。その髪をポニーテールへ結い上げているので、しゃんと伸ばした背筋や凛とした雰囲気、そして剣道の全国大会で個人戦連続優勝という実績が、女子であっても彼女を武士のように、ポニーテールは髷のように印象づけている。
「なんや、もっと驚いてくれてもええやん。すごいやろ? うち」
「すごいのは芹沢の実力ではなく、クジ運にすぎません」
「運も実力のうちよ」
「………」
「うらやましい?」
「いえ」
「即答かい!」
「………。芹沢、浮かれているのなら忠告しておきます。この当選は、あなたにとって幸福なこととは限りませんよ。落ち着いて考えないと後悔することになりかねません」
「ぐっ……」
鮎美は一欠片の羨望もなく、代わりに真面目に心配してくれた鷹姫に返す言葉が無い。
「あんたは、しれっと核心を突く……剣先で喉元を突くみたいに……」
「慎重にお考えなさい」
「………キレイな顔して、言うことが年寄りみたいやで。それが無ければ、男にモテたやろに」
鷹姫は色白で微笑めば、その名の通り姫にも見える整った顔立ちなのに、舌鋒も視線も、そして竹刀を握ったときの剣先も鷹のように鋭いので、入学時から高校で浮いている。けれど、同じく浮いている鮎美は、もう慣れているので鷹姫の気遣いを嬉しく感じていた。
「ま、あんたの言うことは、もっともやけど……どないしよ……もし、あんた、やったら受ける? 辞退する?」
「引き受けます」
「………慎重に考えた?」
「どんな苦難があるにせよ、与えられた役割、全力で取り組みたいからです」
「……………当選、あんたやったら良かったね」
二人が話しているうちに、舟は島を離れて本土に向かっていた。舟はエンジンと舵が一体になっている船外機で動くほど小型ではあったけれど、航行しているのは海のように大きく見えても淡水の湖なので波は小さい。風のない日には鏡のように凪ぐこともある琵琶湖を進み、六角市の古い街並みに伸びる水路を通って、鮎美と鷹姫が通っている私立高校の前で停泊した。二人が老船頭に礼を言う。
「ありがとうございます」
「いつも、おおきに」
「おう。帰りは何時や?」
「いつもと同じだと思います。あ、いえ、芹沢の件で少し遅くなるかもしれません。そのときは連絡いたします」
「アユミちゃん、どうかしたんか?」
女子高生の会話に興味をもっていなかった老人が問うと、鷹姫は数瞬考えて誤魔化すことを選んだ。
「ええ、ちょっと」
「ほうか。ほなら、もんてくるときは連絡くれたって」
「はい」
鷹姫と鮎美は静かに登校して、何も打ち合わせしたわけではなかったけれど、当選のことはクラスメートたちに言わなかった。おかげで昼休みまでは平穏な、いつも通りの学校生活を送ることができた。