早朝、鷹姫は道場で目を覚ますと眠っていた布団を片付け、朝稽古の準備をする。準備の途中で門下生たちも現れ、いつも通りに稽古を始めた。その稽古が終わりかけになり、鷹姫は対戦していた健一郎と、わずかの差で先に小手を打たれ、面を打ち込んでいた。
「今のは健一郎さんの勝ちです。とても、よかった」
「ハァ…ハァ…あざす!」
「そのように、ありがとうございますを省略する癖はやめなさい」
「は…はい。…ハァ…」
健一郎は一礼して稽古を終える。鷹姫も防具を外しながら、つぶやいた。
「健一郎さんが上達したのか……私が、なまったのか……あるいは、その両方……」
「両方だな」
父の宮本衛が言った。短い髪と鋭い目つきの衛は長女の目を見て続ける。
「人間、二つのことを成すには今まで以上の精進が要る。同時に休息も」
「はい、心得ておきます」
「朝食にしよう」
「はい」
着替える前に、少しは気にするようになったので濡れタオルで身体の汗を拭いてから制服を着て、自宅の食卓へ向かった。自宅は狭くて小さい。もともと小山の中腹にあった平地に道場が大きく築かれ、それに付属するように家が建てられているので、島にある他の家々が小さめである以上に狭かった。
「「お父さん、お姉ちゃん、おかえりなさい」」
5歳と3歳の腹違いの妹が元気そうに言ってくれる。
「「ただいま」」
父が居間の上座に座り、鷹姫は朝食の準備をしている継母に声をかける。
「お手伝いします」
「ありがとう。ギルが焼けてる頃だからお皿にもってちょうだい」
「はい」
焼き魚を皿にもって食卓に運んだ。家族5人で朝食を捕ると8年前から継母となっている郁子が現金で2万円を差し出してくる。
「鷹姫さん、お給料をそのまま渡してくれたでしょう。少しは手元に持っていないと街で行動するのに困りますよ」
「はい。大切に使います」
「こちらこそ、とても助かりました。この子たちも、よく食べるようになったから」
「鷹姫、すまないな。もし仕事がつらいなら、いつでも辞めていいんだぞ」
「いえ、慣れないことばかりで疲れますが、つらいということはありません。ご心配なく。ごちそうさまです」
食べ終えた鷹姫は食器を片付けて玄関で靴を履く。その靴は高校入学時に近所で同じ高校を卒業した親戚からもらった物を3年使っているので古くなってきているけれど、通学時の歩行距離が短いので靴底は残っている。制服もおさがりを3年使ってきたので、こちらは限界に近いものの、夏服は9月末までで用済みとなるので、静江から遠回しに買い換えるように言われたけれど、このまま使うつもりだった。
「いってきます」
「「お姉ちゃん、いってらっしゃい」」
「姫花、姫湖、あなたたちも準備なさい」
継母の声を背後に聞きつつ鷹姫は港に向かった。夏休みなので学校は無いけれど、今日も自民党支部で静江から教えを受けなければいけない。通学ではないので老船頭の手を煩わせることはさけ、連絡船を待っていたけれど、鮎美が定刻になっても現れない。船長が問うてくる。
「芹沢先生は、どうしたんじゃいな?」
「……。わかりません。見てきます」
「じゃったら、待ってるわ」
「いえ、定時運行してください。向こうでも迷惑になりますから」
「けんど、議員先生を置いて出発するのは……」
「芹沢先生は特別扱いされることを避けておられます。どうか、定時運行をお願いします」
「そうか……まあ、定時じゃしな……」
通学で乗せてもらう小舟と違い、他の客もいるので一人のために待たせることを鷹姫も固辞したし、船長も鮎美の自宅方向を眺めてから、誰も来ないので出発することにした。鷹姫は港から鮎美の家まで歩く。その途中で健一郎と彼の母親に出会った。
「あら、鷹姫さん。ちょうどいいわ」
「はい?」
「今週の日曜日、名古屋へ出かけようと思っているの。いっしょに、いかが?」
そう言いながら母親は健一郎を肘でついて促した。健一郎が恥ずかしそうに許嫁である鷹姫へパンフレットを見せて言ってくる。
「…6月に、はやぶさが小惑星から持ち帰った欠片が…名古屋市科学館で展示されてるから…鷹さんも、……どうっすか?」
「はやぶさ……」
そういえば、そんな話が自民党支部でも世間話になった気がするけれど、あまり興味はないし、だいたいの日曜日には党関連の予定が入る。夏休み、ほぼ毎日のように出勤しなくてはいけないけれど、それで月給30万円なら不服は無かった。
「せっかくのお誘いですが、日曜日にも予定があります。申し訳ありません」
「そ、そうっすか…」
「残念ね。忙しいみたいだけど頑張ってね」
「はい。では、急ぎますので、これで」
鷹姫は頭を下げて、すぐに鮎美の家に急いだ。
「おはようございます。芹沢先生は、ご在宅でしょうか?」
玄関前で鷹姫が挨拶すると、鮎美の母親が答えてくれる。
「いるわよ……けど、起こしても起きないの、ごめんなさい」
「ご体調を崩されたのですか?」
「そんな感じでもないけれど……宮本さんは、しっかりアユちゃんに敬語を使うのね。私も先生って呼んだ方がいいのかしら?」
「……それは、……どうでしょう……わかりません……」
「ちょっと様子を見てきてくれる? あんまり疲れてるなら、私も心配だから行かせたくないし」
「はい、あがらせていただきます」
鷹姫は靴を脱いで階段を登り、鮎美の部屋に入った。
「芹沢先生、どうかされましたか?」
「………」
鮎美の姿は見えないけれど、布団が盛り上がっているので、そこにいるのだと一目瞭然だった。
「芹沢先生、どうされました?」
「……二人っきりのときは……鮎美って……」
「鮎美、どうしたのです?」
「………何でも、あっさり……」
「もう時間ですよ。体調が悪いのですか?」
「……………気分が……」
鮎美の声には元気がないけれど、風邪を引いているような枯れた声ではなかった。
「そうですか。では、石永さんに連絡して…」
鷹姫は党から支給された古い携帯電話をカバンから出したけれど、ちょうど静江から着信が入る。
「もしもし、芹沢鮎美の秘書、宮本です」
「教えた通りに応答するのは、えらいけど、私からの着信だって画面に出るでしょ。いちいち私にまで秘書って名のらなくていいから」
「はい、以後気をつけます」
「……。ま、それは、そうと。船に乗ってなかったけど、どうしたの? 乗り遅れた?」
静江は対岸で到着を待っていて二人が現れないので電話してきたのだった。
「芹沢先生がご気分がすぐれないようです」
「風邪?」
「どうでしょう……」
「過労かもね」
「そうかもしれません」
「わかったわ。回復したら、連絡ちょうだい」
「はい」
静江との電話を終え、鮎美の様子を見る。枕元に正座して呼びかけた。
「芹沢先生」
「……二人やし…」
「鮎美、顔くらい見せてください」
「…………」
鮎美が潜っていた布団から少しだけ顔を出した。長時間泣いていたような顔だった。
「何かあったのですか?」
「…………」
昨日の夕刻に鷹姫から、人の道に外れた愚かな行為、と断言されてから鮎美の気分は下降する一途で夜中ずっと泣いていた。今は涙も枯れて、気力も尽きて、起きることさえ億劫だった。
「このまま寝ていますか?」
「………」
「そうした方が良さそうですね」
鷹姫は立ち上がろうとしたけれど、鮎美が手を伸ばしてきてスカートの裾をつかんだ。
「鮎美、どうしたのです?」
「……ここにおってよ」
「わかりました」
「…………」
鮎美は横になったまま、正座している鷹姫の膝を見つめる。鷹姫はスカート丈を変更していないけれど、正座すると両膝は見えるし、その膝と膝の間も少しだけ見える。ゆっくりと鮎美は虫が這うように、鷹姫の膝へ顔を近づけた。
「何をしているのですか? 鮎美」
「……膝枕して」
「膝枕……」
「お願い。そうしてくれたら、元気出るかも」
「そんなことで……。それなら、どうぞ」
素直に鷹姫が膝枕してくれるので鮎美は嬉しかった。後頭部に感じる鷹姫の腿が愛しくて仕方ない。そっと両手を伸ばしてスカートの上から腿を撫でた。
「………」
「………」
ずっと腿を撫でていても何も言わないので鮎美はスカートの中へ手を入れたくなる。拒絶されないように、拒絶させないように、ゆっくり指先からスカートの中へ手を入れた。しっとりと湿った肌の感触が指先から伝わってきて、鮎美は衝動に支配される。
「寝返りしてええ?」
「どうぞ」
言質を取ってから鮎美は寝返りして後頭部ではなく顔を鷹姫の腿へ埋めた。呼吸すると鷹姫の匂いが胸いっぱいに入ってくる。再びスカートの中へ手を入れて肌を撫でた。
「鮎美、くすぐったいです」
「…ちょっとだけ…我慢して…。鷹姫の元気を分けて…」
「こんなことで元気になるのですか?」
「うん…、…充電中なんよ」
「鮎美の顔、とても熱いですよ。熱があるのかも」
「平気やから…、このまま…ジッとしてて」
そう言った鮎美は少しずつ少しずつ鷹姫のスカートをめくっていき、顔で直接に腿へ触れた。
「…鷹姫の腿…、…冷たくて…気持ちええよ」
「そうですか。ぃ、息がくすぐったいです」
鷹姫は内腿の間を通る鮎美の呼吸がくすぐったくて逃げようとしたけれど、逃がすまいとして鮎美の両手がお尻を押さえてくる。鮎美の両手がスカートの中で臀部を捕まえて離さない。
「………」
これ以上は、あかん、あかんのに、もう止められへん、と鮎美は少しの葛藤をしたけれど衝動に飲み込まれて、指先を鷹姫の下着の中へ入れていくと同時に内腿を舐め始めた。
「くっ、くすぐったい! やめてください!」
「ハァ…ごめん、もう少しだけ…ハァ…」
いよいよ鮎美の両手が下着をさげる。
ズルッ…
どうしても脱がせたかったし、間違ったことだと理屈ではわかっていても、鷹姫の股間に至りたかった。けれど、あと少しというところで鷹姫が怒った。
「やめなさいと言っているでしょう! いい加減にしなさい!」
一瞬、鷹姫は股間を開いた。その次の瞬間に鮎美の後頭部を膝頭で押さえつけ、鷹姫の股間にキスしようとしていた鮎美の唇は畳へ不本意なキスをさせられる。さらにお尻を掴んでいる鮎美の右手首を握ると、大きく肩を捻ってあげる。
「痛い痛い?!」
「言ってきかないからです! ふざけるのもたいがいになさい!」
肩を捻られた鮎美は仰向けになって肩関節を脱臼させられるのから逃れたけれど、間髪無く鷹姫が両内腿で鮎美の肘を挟み込むと、後ろへ倒れ込む。鮎美の顔と胸は鷹姫の脚で押さえつけられ、鷹姫の胸の柔らかさを鮎美は腕先で一瞬だけ感じたけれど、次の瞬間には鷹姫が背筋をそらせ、鮎美の肘関節を反対に曲げてくる。
「痛いいいい! ギブ! ギブ! まいった! まいった! 参りました! ううう!」
「たっぷり反省なさい!」
「折れる折れる?! いいいたあああ!」
鮎美が降参しても、すぐに鷹姫は力を抜かず、怪我をしないギリギリのところまで痛めつけてから、解放した。
「ハァ…ハァ…折れるかと思もた…ハァ…ハァ…」
「いつまでも、ふざけるからです。人の身体を舐め回して、あなたは犬ですか」
「ハァ…ハァ…怒ってる?」
「当たり前です!」
「ごめんなぁ……」
「まったく! 十分に元気ではないですか。悪ふざけもたいがいになさい」
「へへへ……ごめん、ごめん…」
怒っていると言っても、下手をすれば強制わいせつになりかねない行為を悪ふざけという認識で済ませてくれそうなので、鮎美は肘の痛みを忘れることにした。
「静江はん、どう言うてた?」
「回復したら連絡するよう言付かっています」
怒っていても秘書としての応答はしてくれる。もう、それほど怒っている顔ではないので鮎美は微笑ませたくて言ってみる。
「ふざけたお詫びに、かねやのシュークリームおごってあげるよ」
「……」
怒っていた顔が甘味に期待する顔になったので鮎美は安心した。そして卑怯だと自覚しつつも、意図的に話題を変えながら、また鷹姫の肩に触れる。
「民主党が言い出してる高速道路の無料化って、どう思う?」
「無料化の社会実験をしているようですが、その結果次第……ただ、私は車の存在しない、この島で育ったので高速道路を体験したのは修学旅行の…、あの、鮎美、暑苦しいですからベタベタと触ってきたり抱きついたりするのはやめてください」
肩に触れるだけでは足りず、すぐに鮎美は抱きついていた。
「うちの秘書が盗まれんように確保してるんやもん」
甘えた声で言うと、タメ息をついて諦めてくれる。
「はぁ……十分に元気ですね。次の便で支部に向かいましょう」
「え~………ここで鷹姫と二人で勉強したいなぁ。島でええやん」
鮎美も人前では抱きつけないことをわかっている。この部屋にいれば、またチャンスがあるかもしれない、と企んでいると鷹姫が言う。
「シュークリーム、かねやは島にはありません」
「そうやったね。ごめん、ごめん。着替えるわ」
鮎美はパジャマを脱ぐ。下着も脱いで裸になったけれど、鷹姫は静江へメールを打っていて鮎美を見たりしない。見てくれないので鮎美は裸のまま布団に座った。
「なあ、うちのおっぱい大きいと思わん?」
「……。そうですね」
メールを送信した鷹姫が認めた。
「でも、鷹姫のおっぱいは形がいいよね」
「そうなのですか。あまり考えたことがないので、わかりません」
「ちょっと比べっこしよ。脱いで見せて」
「支部に向かう予定を忘れていませんか?」
「どうせ、連絡船は1時間後やん」
「それは、そうですが…」
「なぁ、おっぱい見せて」
「……イヤです」
「シュークリームに抹茶パフェもつけるから」
「………」
少し迷った鷹姫がブラウスのボタンを外し始めた。ブラジャーも脱いでくれる。
「ええ形してるわ。最高に」
「大きい方が男性は喜ぶと聞いたことがあります」
「男なんて、どうでもええやん」
鮎美の手が鷹姫の胸に触れる。
「この柔らかさといい、形といい、鷹姫の身体はホンマにキレイやね」
「……あまりベタベタ触らないでください」
「腋の毛も剃ってないのが自然な感じで、むしろカッコいいし」
「そろそろ服を着てもいいですか」
「あと少し。なあ、スカートも脱いで見せて」
「どんな意味が?」
「うちも裸なんよ。比べっこしよ」
「………」
「妹さんらにも、お土産のシュークリーム買ってあげるよ」
「……」
血は半分しかつながっていないけれど、あの子たちの笑顔は見たかった。鷹姫がスカートの留め金を外してチャックをおろした。
パサッ…
スカートが畳へ落ちる。鮎美は当然という手つきで鷹姫の下着をさげる。
「……」
「……」
二人とも裸になった。
「手つないでいい?」
「…」
鷹姫が手を出してくれるので優しく握った。手を握りながら身を寄せると胸と胸が接する。鮎美は今すぐ抱きついてキスをしたくなったけれど、もう失敗したくないので慎重に攻める。
「ホンマに鷹姫の身体はキレイやね」
「……そう誉められても……」
戸惑っている鷹姫の首筋へキスをした。
「ぅ、何度も言いますが暑苦しいです」
「ちょっとだけ抱っこさせて」
「……」
拒否されなかったので鮎美は両腕で鷹姫へ抱きついた。ぴったりと身体をよせ、一つになる。
「…ああ…」
声を出すつもりはなかったのに感情が高ぶって、どうにも切なく喘いでしまった。身体が熱くて、すぐにも理性を失いそうで、自分が怖い。明らかに鷹姫は何もわかっていないのに、うまく誘導して裸にまでしてしまった。けれど、これ以上は口実が思いつかない。ただ、一つだけ悪辣な方法は脳の片隅にある。有名店のシュークリームとパフェは2000円くらいするけれど、鮎美の手元には200万円がある。もしかしたら、鷹姫はそれで身体を許してくれるかもしれない、そんな邪悪な期待をしてしまう。許嫁だからと、あまり頓着せずに結婚しようとしている鷹姫なら、愚かと言った行為でも頓着せずに受け入れてくれるかもしれない。
「………」
「………」
けれど、そんな援助交際のような汚いことはしたくないし、させたくない。でも、させたくないけれど、いっそ手に入らぬなら、どんな手段を使ってでも手にしたい。鮎美は感情と衝動が高ぶって泣きそうになり、そして喉元まで悪魔の提案がせり上がってきた。
「もし、うちに…」
それを止めさせたのは、階段を登ってくる母親の足音だった。もう服を着ている時間はない。鮎美は鷹姫から離れると、堂々と立った。母親が紅茶を二人分もって部屋に入ってくる。
「お茶を……。アユちゃん、裸で何やってるの? 宮本さんまで」
「ちょっと野球拳をしててん! 大阪の女子高生にとって野球拳は必須やから鷹姫に教えたろ思て!」
「…………。大阪の女子高生全員に謝りなさい。あなた前の学校でも似たようなことをして問題を起こしたでしょ。後輩を無理矢理に脱がせて…」
「わあー! わああ! その話はカットで頼んます!」
「これからは議員になるんだから、しっかりしてちょうだい。変なことで週刊紙に載らないでよ」
母親は小言を言いながら紅茶を置いていった。鷹姫が黙って服を着るので、鮎美も着てから紅茶を飲む。そして言い訳のように加える。
「かねやで紅茶もおごるから」
「………。母親を悲しませるのは、とても悪いことです」
「っ…、そ、そうやね、気ぃつけるわ」
受け流したけれど、鷹姫の一言は昨日と同じほど胸に刺さった。外に出て真夏の港で連絡船を待ち、二度も静江に出てきてもらうのは悪いので、また便数の少ないバスを待ち、支部に出向いたのは昼前だった。遅くなった分を取り戻して勉強し、昼休憩も遅い時間になった。それぞれに持参の弁当を食べながら、静江はテレビをつけた。
「CMの後はアナログ放送終了とデジタル放送への移行について特集を…」
「このテレビも買い換えないとダメなのかしら」
静江がブラウン管のテレビを見て言っている。
「意外と古いテレビを使ってはりますね。自民党っていうたら、なんかお金いっぱいありそうやのに」
「物は使えるうちは使うのよ。お金持ちはお金を使わないから、お金持ちなの」
「あ~、なるほど……それ、ケインズ経済論的には、一番やめてくれや、ってヤツちゃいます? もっと景気よーつかえ! みたいな」
「資本そのものに蓄積する傾向と、そもそも富みの増大こそが目的ですから、呼吸するなと注文をつけるのと同じでしょう」
鮎美と鷹姫の受け答えを聴いて静江は満足そうに頷いた。
「だんだん教育効果は出てきたわね。自然にケインズがでるあたり。実際、大学の基礎過程でやることを速攻で無理矢理つめこみながら、平行して社会常識と議員常識、地域のこと、行政組織や法令のことまでつめこんでるのに、よく二人ともついてきてくれてるわ」
「思い返すと、高校までの勉強ってホンマ社会で役に立ちませんやん。なんか意図的に無知にされてる気ぃするわ」
「センター試験までの学習は、与えられたマニュアルと法則を理解し応用する能力と、丸暗記する記憶力の程度で人を篩い分けするためのものだから。実社会で役立つ知識を与えないのは、余計な知恵をつけて理屈をこねる新社会人になってほしくないからよ」
「身も蓋もない話やなぁ……」
鮎美が弁当を食べ終わると、テレビが別のニュースを流している。
「東京足立区で発見された111歳になるミイラ化した男性の遺体が見つかった事件で警視庁は、この男性の娘で年金を引き出していた女性に事情聴取するとともに、全国でも所在不明の超高齢者が多数存在していると見込み、年金の不正受給に…」
「えげつない話やな」
「この国は社会保障費の増大で沈むのではないでしょうか。切り捨てるべきは切り捨てなければ、幹そのものが倒れてしまうように感じます」
「宮本さん、さっき予算の勉強をしてくれて理解力も記憶力も確かだってわかるけれど、よそで言ってはいけないことは、より確かに覚えてね。他の先生方も内心で思ってるけど、絶対に言わないことって、いっぱいあるから」
「はい」
鷹姫も食事を終え、すぐに勉強を再開すると静江に頼んで5時には、かねやの喫茶店まで送ってもらった。来店することを鐘留にメールで知らせていたので、出迎えてくれた。
「ハーイ♪ お久しぶり。アユミン、宮ちゃん」
「おひさ」
「お久しぶりです」
「夏休みになって、ぜんぜん会えないから淋しいよ」
「せやから来たやん」
「アタシより、このサービス券が目的なくせに」
鐘留は店の会計が3割引になる券を見せて言う。
「ってか、アタシといっしょならタダなのに」
「おごってもらうのは、あかんねんて」
「なのにサービス券はいいんだ?」
「他のお客さんにも特別な便宜無しに提供されているサービスなら問題ないねん」
「せこいね、細かいね」
「やかましわ」
「きゃははは、静かな方がいいしさ。二階の奥に案内するよ」
「その前にシュークリーム、売り切れてない?」
「たぶんね。お持ち帰り? いくつ?」
「5つほど頼むわ」
「あの子たちは二人ですよ」
「土産にすんのに、家族の人数分ないのはカッコつかんやん」
「そういうものなのですか……」
話ながら二階へあがって三人で着席した。鷹姫は抹茶パフェとシュークリーム、鮎美はストロベリーパフェを頼み、鐘留はモンブランを食べる。
「カネちゃんの露出、休み中は、より激しいなぁ」
「そう?」
鐘留は丈の短いキャミソールと短パンを着ていて、すらりと美しい手足は丸出しだった。鮎美は見ないようにしようと思っていても、ついつい露出された鐘留の内腿や腋、胸元を見てしまう。ミュールから見える足の指も可愛らしくて、爪には凝った金魚のネイルアートまでされているので触りたくなってしまう。
「ジロジロ見ちゃってさ。アユミンの視線って、ホントエロいよね」
「ちゃ、ちゃうよ。金魚のデザインが可愛いなって」
「あ、これ。ウフフ、いいでしょ」
久しぶりに会えて鐘留は機嫌が良さそうだった。よく見えるように鮎美の方へ足を向けてあげてくる。
「キレイやね。ちゃんと金魚に目ぇまである」
鮎美は足の指に触れてネイルアートを見つめた。涼しげで自由そうな金魚が鐘留に、よく似合っている。手にとって足を見つめている鮎美を見下ろしていると、鐘留は悪ふざけを思いついた。
「アタシの足にキスしてくれたら、党員になってあげよっか?」
「え…?」
「この前、テレビでやってたよ。自民党の国会議員って党員確保のノルマが課せられるんだってね。なんか民主に押されてきて、次の総選挙が危ないらしいね。政権交代かもしれないって」
「よー知ってるな」
「アユミンに関係するしさ。で、ノルマ、どうなの?」
「まあ、うちらは衆議院やないからノルマってほど、強くは言われてないけど、増やしてくれるにこしたことはない程度には言われるよ」
「へぇ、もう誰か勧誘した?」
「鷹姫が入ってくれた」
「秘書じゃん。他は?」
「他は、まだや」
「アタシも入ってあげてもいいかもよ」
「……。ホンマに入る気ぃあって言うてくれてる?」
「あるよ。ほら、アタシの足にキスしてごらん。党員になってあげる」
「…………………」
やや迷った鮎美が口づけする。
「ぇ…、ちょ……マジで…」
鐘留は冗談だったのに、本当に足へキスをされて戸惑った。
「…アユミン……」
「したよ。これで約束通り、党員になってや」
「……うん……ごめん……」
鐘留は罪悪感を覚えて、涙を滲ませた。
「ごめん……アユミンがノルマとか、そこまで気にしてると……思わなかった。言ってくれれば、こんなこと……してくれなくても……入ったのに……ごめん」
鐘留が指先で涙を拭きながら言い募ると、鮎美も非常識な行動をしたことに気づいた。普通なら、いくら党員になってほしくても友人の足へキスをしたりはしない。ふざけた冗談だと一蹴して、勧誘だけは進めればよかったものを、それほど強要されたわけでもないのに、あっさりと実行してしまった。そこには根本的には鐘留の足に惹かれていたという動機があってこその行動で、鷹姫以外には口づけしたくないという想いは、党員確保のためという言い訳で自己欺瞞され、あとに残った欲望だけが鐘留の足に吸いついていた。
「……本当に……ごめん……ごめんなさい……アタシは……アユミンとは対等な友達でいたいよ。ごめん……」
けれど、キスをされた鐘留には、そんなことはわからない。なのでノルマのために、なりふりかまわずになっている友人のプライドを踏みつけにしたと感じて泣けてくる。
「ごめんなさい……変なこと、させて…」
「うん……もう、ええって。泣かんでよ。冗談で言うから、冗談で返しただけよ。大阪人はノリにもボケにも身体はるねん」
「ぐすっ……身体はりすぎだよ」
「平気、平気♪」
「……アタシはアユミンたちと会う前にシャワー浴びたから……足も、そんなに汚れてないはずだよ……そんなの言い訳にならないけど……」
「せやから、平気やって。冗談やってんろ」
「…うん……ごめん…」
謝る鐘留の頭を、鮎美は立ち上がって抱きしめた。抱きしめると、こんなときでも欲望を感じる自分が嫌になる。あまり長居すると連絡船に乗れなくなるので、かねやを出てバスに乗って港まで移動した。
「お土産のドライアイス、保ちそうなん?」
「はい、大丈夫だと思います。たくさん、ありがとうございます、芹沢先生」
今は他人も多いので、その呼び方で頷いた。
「うん、ええよ。あの子らも喜ぶとええね」
「きっと喜びます」
「けど、かなり歳の離れた妹さんやね。いくつやったっけ?」
「5歳と3歳です」
「ってことは、鷹姫が中学生くらいで……あのお母さん、若く見えるけど、鷹姫を産まはったとき、いくつなん?」
「あ……それは勘違いです。というか、私が言っていませんでした。すいません。今の母は父が再婚した人です。私の母は、私が幼い頃に事故で亡くなったそうです」
「そっ……そうなんや、ごめん」
「いえ」
「…………うちは鷹姫のこと……どれだけ知ってるんやろな……」
「………………私も、芹沢先生のこと、よく知りません。今日は、驚きました」
「……ごめん………変なことして……」
「いえ、立派だと思います」
「………。……どこが?」
「党員確保のため、仕事のために、自分を抑えて無礼な人にも接する姿が本当に立派でした」
「あ………あれは……」
どう答えようか考えているうちに連絡船が入港してきた。
「おーっ! 芹沢先生ぇ! 秘書さん! おかえりやす!」
船長が叫んでくれる。手を振って答え、停船してから乗り込んだ。いつも通り10分で島に到着し、鷹姫は土産をもって自宅にいる妹たちを喜ばせると、すぐに剣道の稽古を始めた。それが終わって夕食を食べて入浴すると、寝間着で道場へ向かう。外にある厠から出てきた郁子とすれ違った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい。鷹姫さん、いつも道場なんかで寝かせて、ごめんなさいね」
「いえ、広いですし、落ち着きますから」
自宅は本当に狭くて五人の家族が寝る場所はなかった。妹が二人になってから、ずっと鷹姫は道場で眠っていた。
「でも、ごめんなさい」
「どうかお気になさらず」
継母と別れると、鷹姫は道場に布団を敷いて一人で眠った。