午前10時過ぎ、鐘留は夏休み中の高校生らしく遅い時間に自室のベッドで目を覚ました。
「……」
大きなベッドで小柄な身体を起こすと、悪夢の余韻に眉をしかめ、それから夜尿で濡らしてしまった下着の中のナプキンの感触を自嘲する。
「高校生にもなって……バカみたい」
つぶやいただけでは感情を処理しきれず、ベッドサイドにあった飲み残しのジャスミンティーをグラスごと投げた。
ガチャン! ビチャ…
ガラスの割れる音が響いて、すぐに静かになる。いつまでも濡れたナプキンを肌につけていたくないので取り去って丸めると、ゴミ箱へは入れずにカバンに隠した。室内のゴミ箱もトイレの汚物入れも家政婦が掃除するので捨てると必ずバレる。中学3年の頃には、月経以外のタイミングで汚物を増やすと家政婦が不審に思って調べて母親にまで報告するとは考え至らず、治ったと思わせていた夜尿が続いていることを知られて殺意が湧くほど恥ずかしい想いをしたので、ずっと外出したとき捨てることにしている。鐘留はシャワーを浴びると、いつもは露出過多な私服を着ているのに、今日は落ち着いた柄のブラウスと長めスカートを選び、カバンを持って玄関を出る。庭で母親に出会った。
「おはよう、カネちゃん」
「…おはよう」
「どこか出かけるの?」
「………」
無視すると、それ以上は追求されない。庭にいた母親が2本の楠に祈っていたのが、気に入らない。障碍をもって生まれた二人の弟が事件にならない死に方をした後、植えられた木だった。
「カネちゃん、その服、よく似合ってるわ」
「…そ」
「いつも、そういう服を着てくれると、母さんも安心よ」
「ちっ」
鐘留は舌打ちして庭を出ようとしたけれど、手土産を確保する必要があるので母親を振り返った。
「どこに持っていっても恥ずかしくない常識的なお茶菓子を、そこそこ多めにちょうだい」
「多めって、どのくらい?」
家が菓子店と精肉店とロープウェイを運営しているので、茶菓子は売るほどあった。
「…う~………」
問われて鐘留が悩む。そして黙って行くより、やはり説明して行くことにした。
「アタシ、友達の関係で自民党員になるから。その支部に持っていくの。ああいうところに持っていく常識的な御菓子で、あんまり高すぎて接待とか賄賂とか言われて断られない程度の御菓子をちょうだい」
「もしかして芹沢さん? ニュースにもなってた」
「まあ、そうだよ」
「いいお友達ができたのね」
「ちっ」
「すぐに用意させるわ」
隣接している店舗から母親は大きめの折り詰めを2箱、袋に入れて持ってきた。
「この季節、水菓子もいいけれど、カネちゃんが持っていくのに重いから一番人気の糸切りクッキーにしておいたわ」
「…。ありがと。じゃ」
受け取った鐘留は道路に出てタクシーを呼び、自民党支部を訪れる前にネットカフェへ入った。カウンターで自分名義ではない偽名の会員カードを出して入店し、パソコンの前に座るとIPアドレスを誤魔化す操作をしてからクラウド化してあるプログラムデータを使う。
「燃え上がれ♪ ライフイージス。その薄っぺらい盾、紙みたいにメラメラと」
気に入らない団体がネット上で他者から批難されるように仕向け、その様子をしばらく眺めて、トイレに行きたくなったのでカバンを持って個室に入る。用を済ませてから、カバンから丸めたナプキンを出すと、汚物入れに捨てた。これで、おしっこしか染み込んでいない生理用ナプキンが誰の物かはライフイージスへの悪戯同様、わからなくなる。
「できそこないの命なんて、もともと受精しなきゃいいのにね。自分で殺しておいて樹なんか植えるなよ、バカ」
溜まった感情も水洗トイレに流していく。
「けど、さすがアタシの親、ちゃんと始末してくれて良かったよ。変な弟なんか生きてたらアタシの人生が楽しくないし。その判断は正しかったよ、パパとママは間違ってない。間違ってないよ」
自己暗示のようにつぶやいてトイレを出る。時刻を見ると、ランチタイムだったので退店した。
「お昼時に行くのは迷惑かな」
鐘留は近くのパスタ店へ入り、一人で昼食を済ませてから、再びタクシーで今度こそ自民党支部を訪れた。それほど大きくないビルの一階テナントにあり、美容室ほどの広さの支部でガラス壁にはテレビで見かける総理大臣のポスターや石永と直樹のポスターも貼ってある。鐘留はドアを開けて入ってみる。
「ハーイ♪ 入会希望者でーす」
軽い調子で訪問したけれど、落ち着いた服装と手土産のおかげで、受付にいた職員は年齢が近い鮎美の関係者ではないかと感じてくれ、すぐに鮎美と鷹姫に会うことができた。間仕切り一つ奥に二人と静江もいて、何かの資料を読んだりして勉強していた。
「入会しに来たよ」
「おおきに」
「で、これワイロ。今後とも、よしなに。お代官様」
鐘留が手土産の菓子の折り詰めを、いかにも怪しげに差し出しながら、いやらしい微笑をする。
「当家に伝わる黄金色の菓子にございます」
足にキスをしなさい、という冗談を言った鐘留が今回はどういう冗談を言っているのかわかるので鮎美も大阪育ちらしくノる。
「鐘屋、そちも悪よのォ。クックク」
「お代官様ほどではありませんよ。ヒヒヒ」
「言いおるわ。はーははっはは!」
「ヒッヒヒヒ♪」
「……………」
鷹姫が会話のノリが理解できずに不思議そうに見ていると、静江がタメ息をついた。昔の悪代官と悪徳商人のチープな演技を自民党支部内でやらないでほしいという残念な思いと、ときどき本当に残念なことに議員と業者の癒着はあったりもするので、冗談が冗談で終わらないこともあり、18歳の二人の悪のりは目障りだった。
「はぁぁ…芹沢先生の友達って、宮本さんみたいな、まともな人ばかりでもないのね」
「アタシは個性的なの。障害は個性って言うけど、逆に個性が障害ってことで、よろしく」
「カネちゃんはおもろいな。ま、このへんにして。静江はん、とりあえず入党の書類、あります?」
「はいはい。ともかく歓迎するわ。かねやのお嬢さん」
家柄は調査するまでもなく、そして鮎美の友人でもあるので、すぐに手続きは進み、鐘留は党員になった。静江がお茶を淹れて、もらった茶菓子を並べながら言う。
「できれば形だけでなく、いろいろと活動にも参加してくださいね。すぐに知事選もあるから、いい勉強になるわよ」
「ヒマで気が向けばね」
「たっぷり期待してお待ちしてますよ」
軽口を叩きながら、しばらく鐘留は滞在したけれど、明らかに鮎美と鷹姫は勉強することが山積みという様子だったので、そろそろ帰ろうかと腰を上げかけたとき、また来客があった。
「ライフイージスの三島だ! 芹沢殿にお会いしたい!」
入口から奥まで響いてくる三島の声がした。三島の雰囲気から受付の職員がアポイントのない訪問を拒否している様子だったけれど、鮎美は呼んだ。
「お会いします! どうぞ!」
「ありがたい。お邪魔する」
三島が奥に入ってくる。今日は一人でハチマキはしていないけれど、黒のスーツは着ている。それがよく似合ってもいるものの、男物のスーツを女性の身体で着ているので、かえって胸が目立つしブラジャーも着けていないのが、わかる。
「送った資料は読んでいただけただろうか?」
「はい。どうぞ、座ってください」
鮎美が議員の卵として振る舞っているので静江は静観することにしたし、鐘留も興味のない顔をして、お茶を啜った。鷹姫は秘書らしく鮎美の近くに立って、もしも三島が危害を加えるようなことをしてくるなら、すぐに対処できるよう油断しない。三島は着席を促されても立ったまま、問うてくる。
「単刀直入に訊く。芹沢殿は我々に賛同していただけるだろうか?」
「ずいぶん性急ですね」
「命の危機だ、こうもなろう」
「せっかちな男は色よい返事をもらえまへんよ」
「……」
男と言われて、三島の険しい気配は少しやわらいだ。
「どうぞ、座ってください。三島はんとは、ゆっくりお話したいですから」
「わかった」
三島が着席した。
「資料は読ませていただきました。うちの知らんかったことばっかりで、まだ理解が深まったとは言えませんが、あなた方が主張したいことは、わかったつもりです」
「では、賛同いただけるか?」
「逆に問います。とくに三島はん、あなた個人に」
「何だ?」
「あなたは性同一性障碍と同性愛を併発していると言われましたが、同性愛というのは病気でしょうか?」
「資料を読んだならば、知っているだろう」
「ええ、同性愛は指向だそうですね」
「わかっていて、なぜ問う?」
「本当に同性愛は病気ではないのでしょうか?」
「今さら何を。病気では無い。指向だ」
「けれど、性同一性障碍は病気なのですよね?」
「そうだ。脳と身体の性別が一致しない病気だ」
「そして、三島はんは自分を男やと感じているけれど、身体は女、せやけど同性と認識する男を好きになる、そういう状態ですよね」
「そうだ。だから何だ?」
「小児性愛者のことは、どう思いはりますか? あれは病気ですか、指向だと思いはりますか?」
「むっ………」
三島の勢いが止まり、考え込む。
「………我の知識では、あれは病気だ」
「ええ、うちが勉強した結果でも、小児性愛はペドフィリア、精神医学上は病気と分類されます。けれど、あれが指向でない論拠はない」
「だから何だ?」
「あなた方は指向であっても、病気であっても、ひっくるめて社会の多様性を認めていくべきだ、という主張ですよね?」
「そうだ」
「ほな、小児性愛者も存在を是とするんですか?」
「…………。是とする。その者が違法なことをせぬ限り」
「では、日本では13歳以下との性交は同意の有無に関係なく…」
鮎美の発言の途中で静江が声をあげる。
「芹沢先生、ご予定、忘れてませんよね?」
そのセリフはあらかじめ決めていた暗号で、冷静になれ、という意味だったし、さらに静江は視線で、議員は陳情者と議論してはいけない、と伝えてくる。その意図を察して鮎美は語る。
「三島はんは先送りや検討する、って答えでは結局、納得されませんよね。他の議員予定者へも談判に行ってはる噂は聴いてます。だいたいの予定者は勉強中で即答できんちゅーことでお茶を濁してるらしいですけど、うちはこの人とは、とことん理解を深めておきたいんです。結果、どう転ぶとしても」
「芹沢先生……」
「良い覚悟だ。若いのに肝の据わった女だな」
「話を戻します。日本では13歳以下との性交は同意の有無に関係なく罰せられます。売春も同じく。けれど、小児性愛者が海外の、それらの法が整備されていない国で、おのれの欲望を満たすことも、あなた方は是としますか?」
「………いや、道徳に反する。是としない」
「つまりは結局、小児性愛者の存在を認めないのと、同じですよね、それでは」
「……………。他者に危害をおよぼすことなく、代償行為によって欲求を満たせばよい」
「同じことを同性愛者に言えますか?」
「当然だ。同意あっての関係だ」
「道徳とおっしゃいましたし、また他者に危害を、とも。では、同性愛は道徳に反しないのですか? 人の道に外れた愚かな行為ではありませんか? そして、他者という存在をパートナーだけでなく、より広く自分たちの両親、家族というところまで含めたとき、同性愛は他者を傷つけることになりませんか?」
「…………芹沢殿は、もしや…」
そこまで言いかけて三島は黙った。そして自重していた鐘留が自重に飽きた。
「ユキちゃんたちの団体が言いたいのはさ、メイン出生前診断の方だよ。外れクジを引かないように、あらかじめ間引いておくのはダメって話。だよね?」
「……。言い様は低劣だが、そうである。だが、その前に言っておく。我のもつ道徳において同性愛は不徳ではない。また、多様性を認める道徳においては両親をふくめ、周りが傷つくことはない」
「それは自分の道徳を他者に押しつけることに他なりませんよ。信仰の自由というものがありますが、宗教の中には同性愛を厳に禁じる宗教もある。そして、道徳と宗教は峻別しにくい。自らの信条を他者に強制することは不徳かつ不当ではないですか?」
「強制ではなく啓蒙であれば是だ」
「……………。それで、あなたの両親は納得されましたか?」
「幸いにして、我は同性愛であっても身体は女であったからな。男と結婚しているゆえ」
「っ……そんなんズルいわ」
「………………。出生前診断の話をさせていただく」
「……どうぞ」
「あらゆる命の可能性を認めるべきだと、我々は考えている」
「………………その子の一生が苦痛に満ちたものだとしても?」
「それを感じる機会も与えぬのは、人の挑戦と可能性を否定するのと同義だ」
「生まれてこなければ、よかった……そう考える機会を与えよ、と?」
「そうだ」
「そして両親も苦しむのに?」
「必ずしも苦しみではない」
「………障碍児をもった両親、同性愛者の親、その何割が苦しみを味わっていると考えますか?」
「思想と精神の虚弱さが苦しみだと知覚させるのだ」
「…………思想と精神の虚弱さもまた生まれもった障碍かもしれませんよ、誰しもが強い心をもっているわけではない」
「あのさ、アユミン、関西弁が引っ込むくらいガチで討論してるとこ割り込んで悪いけど、同性愛者と障害児の話って、別々じゃない? エッチする相手が、ちょっと変わった趣味なだけで他は健康な人と、何の役にも立たない迷惑でしかない、できそこないは別でしょ?」
「カネちゃん………近い未来に同性愛者は出生前診断で割り出されると、うちは予想するよ。せやから、この二つはリンクするねん」
「え? 同性愛って検査でわかるの?」
「今は無理でも、二卵性双生児の片方が同性愛者であった場合と、一卵性双生児の片方が同性愛者であった場合では、もう一方が同性愛者である確率は倍ほどちゃうねん」
「う~ん……遺伝子が関与してるってこと?」
「そうや。指向って言葉で修飾してるけど、結局は遺伝性の疾患と科学的には同じかもしれんねん。それどころか、小児性愛も殺人嗜好も親による躾けは関係ないってデータもある。ダウン症と同じく、もって生まれた障碍かもしれん。厳密には染色体トリソミーと一部の塩基配列が生み出す不都合な個体の性質は別もんかもしれんけど、本人に責任なく、そうなるって意味合いにおいては同じやねん。そして、もしそうなら、いずれは遺伝子検査によって判明するんよ。その胎児が将来、どういう子になるか、だいたいわかってしまうかもしれんのよ」
「ふ~ん………じゃあ、近い将来に生まれなくなるから、いいんじゃない。全部、検査して中絶すればいいよ」
「……そうやね……。そう考える人もおるやろね……たくさん……」
「ほら、たしか最小不幸社会とか、誰か言ってたじゃん。自民党のえらい人が」
「それ民主党の鳩山直人やし、あと意味も大きくちゃうし」
鮎美が疲れたように机に肘をついて手を額にあてた。目を閉じて肩を落としている。その様子を見て三島が頭を下げて起立した。
「本日は時間をいただき、芹沢殿には深く感謝する」
「…いえ…」
「我が18歳であった頃、この胸を刀で切り落とし、腹を裁いて死する願望を何度も抱いた。だが、今は生きていて良かったと考えている。新しい社会を築くために、この命、賭する覚悟であるゆえ」
「………」
「貴君の壮健なるを祈る」
そう言い放ち、三島は去った。鐘留が拍子抜けする。
「なに、あれ? まだ話の途中じゃん。お腹でも痛くなったのかな」
「……………」
鮎美は黙り、鷹姫が言う。
「おそらく芹沢先生がお疲れなのを察したのでしょう。思想はともかく士道ある男…男なのでしょう」
「鷹姫………………鷹姫って武士道が好き?」
「はい。正確には鬼々島の武士道、鬼々士道を範として生きています」
「どんな武士道なんそれ?」
「一人は島のために、島は国のために、表に立たずとも確かに支えよ、です」
「………剣道を男より強くなってるのも、そのへんの心がけで?」
「はい」
「……………もしかして鷹姫って男に生まれたかったって思ってる?」
「父は、そう望んだようです。ですから私の名は発音だけでは男に聞こえませんか?」
「たしかに……」
「高きを目指せ、鷹のように。けれど、母がかわいそうだからと、姫の字をつけるよう願ってくれたそうです」
「ええお母さんやね」
「はい」
「それで鷹姫自身は男に生まれたかった? 女でいるのは苦痛?」
「いえ、別に苦痛ではありませんし、男に生まれたかったとも思いません」
「女の子でいたいんやね?」
「別に、そちらにも、とくに拘りはありません。正直、どちらでも良いです。なぜ、みなさんは男か、女かに、そんなに拘っているのですか? 人は人ではないですか」
「…………」
「こういう人もいるんだね。きゃははは」
笑った鐘留が話を続ける。
「男と男でエッチとか、すごいよね。穴あるから成立するんだろうけど、キモいし汚い」
「………。カネちゃん、男性同性愛者の中にもアナルセックスをよしとしない人らもいるよ」
「ふーん……じゃあ、どうするの?」
「それは………うちらにも手も口もあるやん」
「ああ、なるほど。ってことは棒が無い女と女のエッチもそんな感じ?」
「やと思うよ……たぶん」
「おっぱいくっつけ合って喜ぶのかな。きゃははは、バカみたい」
「………」
「あ、そういえばアユミン、女子からラブレターもらってたよね。どうしたの?」
「断ったよ、ほら」
即答した鮎美はスマートフォンを出して、ラブレターを送ってきた女子とのメッセージ履歴まで見せて鐘留に確認させた。
「無難に断ったんだね」
「かわいそうやったけど、本人のためでもあるから」
「また、次のお姉様を捜すのかな?」
「どうやろね。この子の感じやと、告白のお試しってだけでガチやないと思うよ。次あたり男子に興味をもちやると一番ええんやけどね」
「男子といえば、男子からもらったラブレターは、どうしたの?」
「……ああああ?!」
鮎美が大声をあげて立ち上がった。
「しもたぁぁあ!!!」
「「どうしたの?!」」
「どうしたのですか、芹沢先生?!」
鐘留と静江、鷹姫まで大声をあげる鮎美に驚いている。
「すっかり忘れてた!! 市議選の日! 朝9時にデートやったのに!」
「行く気だったんだ」
「ちゃうよ! 断るつもりやった! けど、自分で行くか秘書に頼むか迷ってるうちに、忘れてしもて! あの日も忙しかったから!!」
「あ~あ~、何時間、待ったんだろうね。ってか、せめて連絡くらいしてあげなよ」
「連絡先なかってん! 女子の方は、ちゃんとあったのに。あったらメッセージで断れたのに」
「じゃ、仕方ないね。どうせ1時間も待たずに帰ったんじゃない?」
「う~………悪いことしたわ………今から謝っても、今さらかな?」
「そろそろ失恋の傷が癒え始める頃だから、そっとしておいてあげなよ」
「……そうやね……そうするわ…」
鮎美が椅子に座った。
「アユミンに振られたショックで男同士に目覚めてたりして」
「…………」
「ま、何にしてもキモい連中には、二丁目とか養護学校に入っててほしいよね。宮ちゃんは、どう? 宮ちゃんも女子にモテそうなタイプだよね。女の子に告白とかされたら、どうする?」
「お断りします」
「っ…」
鮎美が息を飲んで硬直したのには、誰も気づかず鐘留が続ける。
「すっごく可愛い子でも?」
「同じことです。そも、緑野であれば、どうするのです? とても可愛らしければ交際するのですか?」
「う~ん……う~ん……いや~ぁ、無理かなぁ……チューまでならいいけど、その先はキモい。ってか、やっぱりチューもキモい♪ 舌とか入れられたら、ぞっとするよ。シズちゃんは、どう?」
「年上に向かって、そういう呼び方、あまり好ましくないわよ」
年上らしく小言を言ってから静江は答える。
「この歳になると、いろいろ経験も増えるのよ」
「ってことは、したの?」
「大学院にいた頃、そういう趣味の子がいて告白されたわ」
「うわぁ……で?」
「思い返すだけでも気持ち悪い。告白されてから、やっと気づいたの。それまで私の洗濯物を引き受けてくれたり、お弁当を多めに作って分けてくれたり、いろいろ親切にしてくれるから、私の父が議員だから就職先でもお願いしてくる気かな、って普通によくある下心かと思ってたのに。まさか、そういう気持ちで私に接してたなんて」
静江が嫌悪感を振り払うように前髪を払った。
「わかってしまうと、思い当たることがいっぱい出てきて、サークルの旅行で温泉にいっしょに入ったときも変だったし、着替えのときの視線とか、やたら触ってきたこととか、私が着なくなった服をあげたら喜んでたこととか、そういうの全部が気持ち悪くなってきたの。だって、それって大きな裏切りでしょ? 今の今まで同性だと思ってたから平気で着替えたり、洗濯物を預けたりしてたのに、そんな下心があったなんてことは男よりタチが悪い。泊めてあげたことも、男だったら用心したのに。あのとき思ったわ、ああいう人たちは結婚指輪をつけるみたいに何かマークをつけてるべきよ」
「ぅ…、うち…、ちょっとトイレ!」
お腹ではなく顔を押さえた鮎美はトイレに駆け込む。駆け込むまで間に合わなくて、涙が溢れてきて顔と手が濡れた。
「っ、うーっ…うーっ…」
声をあげて泣くとトイレの扉が薄いので静江たちがいる部屋まで響いてしまう。鮎美は声をあげないように必死で口を両手で押さえて泣いた。
「きゃははは、シズちゃんの体験って、なんかリアルだね」
「鮎美ちゃんにラブレター送った人は正直でいいわよ。最初から、そうですって言ってから近づいてるんだから」
まだ続いている会話が扉の薄さのせいで聞こえてくる。溢れて止まらない涙が手から流れ落ちて手首をつたい、肘まで滴ってトイレの床へ降っている。
「…うーっ……ひーぅ…」
「そうだねぇ、見てわかる障害と違って、ああいうのは黙ってると、わかんないね」
「いっそ小指に指輪をするとか、なにか、人類共通のマークでもあるといいのに。ううん、指輪だと外せるから、見えるところにタトゥーでもさせるかね」
「だいぶ恨んでるね?」
「当たり前でしょ、男の前だったら平気で着替えないのに、油断させて。盗撮とかも、その気になったら、いくらでもできるし」
「あ~、それは怖いかも」
「ああいう人たちは女子トイレと女子更衣室も入ってほしくない。障碍者トイレを使ってよ、って思うわ。わりと真剣に。こっちの人権侵害だと思わない?」
「人権なんて幻想だよ。赤信号と同じくらい」
「…ぅーっ…ぅぅ…」
聴きたくないけれど、口を押さえていないといけないので鮎美は耳を押さえられず、便座に座ったまま丸くなる。泣きやむことができなくて、ずっと泣いていると、鷹姫が扉の前に近づいてくる気配がした。
「芹沢先生、具合が悪いのですか?」
「…ぅ……うん……ちょっと…」
涙声にならないように努力したけれど無駄だった。
「お声が……それほどに、痛みますか?」
痛いのは、お腹でなくて胸だった。胸が張り裂けそうに痛くて、痛みが涙に変わって溢れてくる。
「医者へ行きますか?」
「ううん……心配せんとって……そのうち、戻るから……そこに、おらんといてよ。恥ずかしいわ」
「はい、失礼しました」
鷹姫が離れていき、やっと鮎美は口を押さえていなくても嗚咽しなくて済みそうになった。それでも涙が止まるまでには、まだ時間がかかり、静江が近づいてくる。
「鮎美ちゃん、大丈夫?」
「へ…平気です……ちょっと、冷たいもん飲みすぎたかも」
「そう。体調管理も仕事のうちよ」
「はい…すんません…」
「あんまり痛かったら遠慮しないで言いなさい。病院へ連れて行ってあげるから」
そう言って静江が離れていく。鮎美は苦労して気持ちを落ち着け、顔を洗ってから戻った。
「アユミン、大丈夫?」
「うん、もう大丈夫やと思うよ」
取り繕うのにも慣れてきている鮎美は平静を装った。
「そ。じゃ、そろそろ長居したし帰るよ」
鐘留は立ち上がって、ふざけて敬礼する。
「同志諸君、また会おう!」
「はいはい」
鮎美が脱力気味に流し、静江が付け加える。
「お父さん、お母さんにも、よろしくお伝えくださいね」
「忘れなければね」
そう言って鐘留は支部を出ると、またネットカフェに入りパソコンで遊んで時間を潰すと、日が暮れて気温が下がる頃に退店して駅前を目的なく歩き回った。
「ちっ……さっさと帰れば良かった」
歩き回ったおかげで、数ヶ月前まで交際していた男子が一つ下の恋人とデートしているのを見かけてしまい、舌打ちしてからタクシーを拾った。乗り込むと、エアコンの涼しさと運転手の声が迎えてくれる。
「ご利用ありがとうございます。どちらまで、いかれますか?」
「かねや本店」
「…。かねや本店ですね。承りました」
横柄な客に慣れている運転手は、ぶっきらぼうな若い女性を目的地まで運んだ。鐘留は親からもらったカードで支払い、家に帰る。部屋に戻ると、投げて割ったグラスは家政婦が片付けており何事も無かったように整っている。
「………ヒマだなぁ………アユミンたち忙しそうだし……」
受験勉強する気はない。どうせ、婿養子を迎えて、その男が事業を引き継ぐのだと思うと、努力する気になれない。時間もお金もあるけれど、やりたいことが無かった。生まれもった美貌と親のコネでモデルになってみたけれど、制約も多くて面倒になり辞めてしまうと、少々パソコンを勉強したくらいで、すべてに飽きている。面白そうなのはクジが当たって議員になるという鮎美の今後くらいだった。
「……………やばい……寝そう……」
眠たくなってきた鐘留は、とても面倒で自分でも認めたくないけれど、シーツを濡らしてしまうと家政婦に知られるので、寝てしまう前にナプキンをあてがってから、横になった。
「……悪い夢……見ませんように……」
願ってから、目を閉じた。