翌朝、鮎美は悪夢に魘されて涙を流していた。
「っ…ハァ…ハァ…夢…」
目を覚ますと、すぐに悪夢の内容は薄れていくけれど、まだ覚えている部分だけでもお腹の底が凍りつくような心地だった。たしか鷹姫を裸にしたり、目隠ししたり、舐めたりしたことが、すべて世間に露見して、議員の鮎美が同性愛者であると週刊紙に報じられ、誰からも蔑まれる夢で、鐘留に嗤われ、陽湖に避けられ、とうの鷹姫からは嫌悪され、両親に見放され、なのに鮎美自身は裸で犬のように外を歩いていて、その首輪を石永と静江がもっていて、もう用済みだと言われて捨てられ、行くあてもなく彷徨っていると、衆議院議員になった鷹姫が通りかかって、冷たく見下してくる、そこで目が覚めた。
「…ハァ………ハァ……ぅぅ……」
寝汗と涙で、枕が濡れている。
「……うちは……なんで……」
同性愛者なんかに生まれたんよ、と鮎美は考えないようにしてきたことを、はっきりと意識してしまい、呪わしくて枕を叩いた。それから自殺の方法を考える。今までにも何回も考えたことがある。首吊りは怖いし苦しいかもしれないし、いかにも自殺なので両親が悲しむ。
「………」
両親の悲しみを軽くするなら、交通事故がいい、赤信号ギリギリで飛ばしてくる車や歩行者を邪魔そうに走るトラック、あれに轢かれてみたら、いいかもしれない。けれど、即死でなければ、とても痛くて苦しそうだった。
「………」
自分の苦痛から逃げるために苦痛を味わうのがバカらしいなら、苦しくない自殺方法も知ってはいる。練炭、超高層階からの転落、凍死、でも、もっと楽な死に方がいい、拳銃でもあればいいのに、と考えると三島からもらった資料にアメリカでの思春期の自殺における13%が性的な悩みによるものだったという数字を思い出した。
「………」
「そろそろ起きなさい!」
階下から母親の声がした。
「……。はーい!」
自殺を考えていたはずなのに、ごく普通の声色で母親へ返事ができた。今までと同じく本気で死のうと思ったわけではないのかもしれない。鮎美は制服に着替えて朝食を両親と食べると、外に出た。5メートルも歩くと、陽湖に出会った。
「おはようございます、シスター鮎美」
「おはようさん」
「昨日は、ありがとうございました」
日曜礼拝に参加して、大学の設置に協力すると約束したことも大きかったようで、陽湖は明るい笑顔をしている。その笑顔が急に憎らしくなって鮎美は陽湖の襟首をつかむと、壁まで追い込んだ。
「っ?! な、なにを…」
「うちを利用できて満足なん?」
「何を言って…」
「屋城はんにも誉めてもらえたやろ?」
ずいぶんと年上ではあるけれどハンサムな屋城に向ける陽湖の眼差しで確かめなくてもわかっている。当たり前のように異性愛者でいる陽湖が憎くて鮎美は腕に力を込めた。
「ぅぅっ…く、苦しいです、や、やめてくだ…」
華奢な陽湖は壁に押しあてられて泣きそうな顔をしている。このまま首を絞めて殺してやりたいというバカな衝動まで覚えてから、鮎美は手を離した。
「ごほっ…ハァ…ごほっ…」
「………」
「ハァ…ハァ…どうして? 私が何か悪いことをしましたか? 何を怒っていらっしゃるのですか?」
「……。うちを利用したやん。自分らの計画のために」
「利用だなんて……そんな……。私は友達としてお願いして…」
「友達? うちが議員になるってわかってから、わざわざクラスまで変えて、引っ越ししてまで近づいてきて、しつこうされたら、うちかて応じなしゃーないやん。そこまで、しておいて友達?」
「っ…」
「うちが議員になるってことで、いろんな人らが、うちを利用しに来る。あいつも、こいつも、みんな、うちを利用することばっかり考えおって! そん中でも、あんたが一番タチが悪いんよ!! 友達面して接近して!! 頼みたいことがあるんやったら、友達とか言わんと陳情です言えや!!」
苛立ちをぶつけるように鮎美は陽湖を蹴りつけようとした。
「っ…」
蹴られると感じて怯えた陽湖の顔を見ると、鮎美は暴力を思い止まったけれど、暴言は続ける。
「友達いうんは宗教勧誘したり! 頼み事を陳情するもんやない! うちと、あんたが友達?! あんた、うちの何を知ってるんよ?! 勝手に寄ってきて! 利用するだけ利用して! どうせ、用が済んだら屋城はんに誉めてもらって、終わりやろ?! ざけんな! ちょっとでも友達できたって期待した、うちがアホやったわ!」
「わ……私は……そんなつもりは…」
陽湖が何か言う前に、さすがに近所の老人が騒ぎに気づいて顔を出してきた。
「どうしたの? 女の子が大声出して」
「……。何でもないです。騒いで、すんません。さ、学校いこう」
鮎美は誤魔化して陽湖の手を引いた。老人から離れてから、鮎美が手を離すと陽湖が背後から、すがってきた。
「ごめんなさい! どうか許してください!」
「………」
「おっしゃる通り利用したと言われれば否定できません。狙って近づいたのも事実です。でも、シスター鮎美と友達でいたいのは私の本心なんです! だから、どうか!」
「…………」
鮎美は背後から抱きつくように陽湖からすがられて、それを快感に想ってしまう自分に心底嫌気がさした。別に本気で怒っていたわけでも、陽湖を嫌ったわけでもない、むしろ逆だった。だから、陽湖を少しでも喜ばせようと日曜礼拝にも参加してみたし、面倒かもしれないけれど大学の設置にも協力すると言ってみた。なのに、結局のところ陽湖は屋城が好きなのだと感じると、強い苛立ちを覚えたし、それが嫉妬なのだと今わかった。
「どうか、許してください! 私と友達でいてください!」
「……陽湖ちゃん……ごめん、うちも言い過ぎたわ」
「シスター鮎美……」
「この頃、色々あって……うち自身も悩みもあって……思いっきり、八つ当たりやったね。うちの方こそ、ごめん」
「いえ、私の勝手な願いを忙しい中、本当に、ごめんなさい。……何を、お悩みなのですか? 私で協力できることがあれば、いくらでもしますから」
「……それは………」
「どうか言ってください」
「………」
言えるわけがない、という思いと、言ってしまいたい、という思いが心の中で拮抗し、鮎美は質問する。
「……誰にも言わんって約束してくれる? 絶対に、誰にも」
「はい、誓って」
「…………」
鮎美は陽湖の誓いを信じたくなった。少なくとも、神に仕える、と志している陽湖なら約束を破って言いふらしたりはしない気がする。鷹姫にも屋城にも黙っていてくれるだろうと期待できる。
「………放課後、うちに付き合ってくれる?」
「はい」
もう遅刻してしまうので、そこまで決めて船着き場へ向かった。鷹姫と老船頭が待っていてくれて、小舟に三人並んで乗った。
「芹沢先生、遅かったようですが、やはりお疲れですか?」
「うん……まあ……。あ、鷹姫、今日の放課後な、支部に行くの休みたいわ。静江はんに連絡してみてくれる?」
「わかりました」
すぐに鷹姫がメールを打っていてくれる。今は選挙もなくアポイントも無かったので休みは簡単にもらえた。小舟が古堀に着くと、鐘留が冬服姿で待っていた。
「おはよう、アユミン、宮ちゃん、月ちゃん」
「カネちゃん、おはようさん」
「おはよう」
「おはようございます、シスター鐘留」
「アユミン、なんか疲れた顔してるね。大丈夫?」
「「………」」
陽湖と鷹姫が、やっぱりという顔で心配してくれる。
「おおきに。いろいろ勉強も仕事もあって、ちょっと疲れ気味やけど大丈夫よ」
「ならいいんだけど、お肌に疲労が出るレベルになると、ソバカスが増えるよ」
「っ…」
鮎美が気にしていることを鐘留が言い、それが表情に出たので女友達として陽湖が怒る。
「シスター鐘留! 今のはひどいです!」
「ごめん、ごめん。アユミン、気にしてたんだね。気にしなくていいよ、それは、それで可愛いし」
「……別に……今さら……」
とくに欠点というほどではないけれど、小学校の頃から気にしていることだったので鮎美は歩く速度を速めて校舎に向かった。
「アユミン、ごめんってば」
「もうええから!」
自分でも、どうして、こんなに気分が落ち着かず、苛立つのか、だいたいわかっている。鷹姫を好きでいても、陽湖を好きになっても、鐘留を好きになっても、どの道、その先に待っているのは袋小路でハッピーエンドは存在しない。それがわかっているのと、議員となるための勉強の多さ、陳情の煩わしさ、正義や仁義が何なのか、わからなくなる世間の複雑さ、それも嫌で、結局、すべてが嫌だったし、嫌気がさしている根源は自分の同性愛指向だった。
「…くっ……うちなんか、生まれてこんかったら、よかったんや…」
つぶやきは追ってきていた鐘留には聞こえた。
「アユミン……ごめん、そこまで気にしてると思わなくて……」
「もうええ言うてるやん! それ関係ないから!」
つい怒鳴ってしまうことにも自己嫌悪するのに止められない。ずっと苛立ったまま午前中を過ごし、お昼になって鐘留とは和解したけれど、疲労感は強かった。そして授業中も、ずっと迷っていた。相談にのるという陽湖に本当に話してしまうのか、話していいのか、話して大丈夫なのか。陽湖は信頼に足るような人物に感じるけれど、反面で同性愛を、はっきりと否定している。他の友達なら、引くことはあっても個人の自由という結論に至りやすい問題だけれど、陽湖の判断基準は神であり、その神は容赦なく否定している。
「…………」
「芹沢先生、早く帰ってお休みになってください」
いつの間にか、放課後になっていた。鷹姫が帰宅を促してくれるけれど、鮎美は横に首を振った。
「うち、ちょっと陽湖ちゃんと寄り道してから帰るわ。鷹姫は先に帰って稽古でもしていよ。いつも、うちのせいで練習不足やろ」
「はい。………ですが、……」
鷹姫が陽湖を見る。
「お二人で大丈夫ですか? この者は異教徒です」
「………鷹姫、この学園内やと、うちらは多数派ながら学校の運営方針から見れば、不信心者どもやで? 何より、そういう言い方、やめてやりぃ。うちらかて島に住んでるからって田舎もん扱いされたら嫌やん? 陽湖ちゃんは陽湖ちゃんであって、うちはうち、鷹姫は鷹姫、異教徒とか島育ちとか、大阪育ちとか、そんなん、たまたまやん。人として、どうなんか、それが肝心ちゃうの?」
「はい、おっしゃる通りです」
鷹姫が久しぶりに一人で島へ帰り、鐘留とも別れて鮎美と陽湖は路線バスで駅前に出た。
「シスター鮎美、どこかへ入りますか?」
「うん、そうやね……静かに話できるとこが、ええかな」
「喫茶店かミックにでも入りますか?」
「ミクドかぁ……ファーストフードって気分でも無いし……喫茶店も、ちょっと…」
人目があるところは嫌だった。それでなくても最年少議員候補予定者として顔が売れているので駅前に出ると、視線を感じる。鮎美はスマートフォンで検索して行き先を決めた。
「ここにしよ。カラオケルームのあるネットカフェやし、外に声が漏れへんやん」
「はい、この店なら、あっちですね」
土地勘のある陽湖が案内してくれてネットカフェのカラオケルームに二人で入った。カラオケをするための部屋なのでテーブルとマイクが中央にあり、派手な色のクッションが並び、靴を脱いであがるタイプの個室だった。防犯カメラと扉に透明なガラス窓があるので人目が無いわけではないけれど、声は漏れないはずだった。
「けっこう広い部屋ですね」
「めちゃ広い部屋やん。大阪やと、この三分の一がせいぜいやで」
「それだと二人でも狭くないですか?」
「路線価からの相場やろなぁ」
「言うことが女子高生じゃないですね」
「………」
「ごめんなさい」
「ええよ、別に。オジサンがするような勉強ばっかりさせられたせいやし」
「私、何か飲み物を取ってきますね。シスター鮎美は何がいいですか?」
「二人で行こ。自分で見て選ぶわ」
カバンを置いてドリンクコーナーで鮎美はアッサムティーを、陽湖はアイスコーヒーを選んだ。部屋に戻って一口飲むと、静かになる。
「………」
「………」
カラオケをしに来たわけではないのでマイクも端末機も使わないし、分厚い曲リストを開くこともない。
「………」
「………」
鮎美は話そうと思っても口が重くて、何から話していいか、わからないし、陽湖は静かに待っている。わざわざカラオケルームまで借りるあたり、喫茶店ではできない話なのだと察していた。
「………」
「………」
「………」
「……シスター鮎美、話しにくいことなのですか?」
「…うん…」
「私は絶対に誓いは守ります」
「………おおきに…」
礼を言った鮎美は語りだそうとしたけれど、唇を震わせただけで話せなかった。三回呼吸をしてからアッサムティーを飲む。
「……………」
どうしよ、ホンマに言うの、言うてええの、言うてどうなるの、どうなるもんでもないやん、けど誰かに聴いて欲しかったから、ここまで来たんちゃうの、と鮎美は悩み、両手で唇と頬を覆った。
「………」
「………」
明らかに何か深い悩みを持っていて、それを言えずにいる様子なので陽湖は自分から話すことにした。
「私も人に言いにくいことがあるんです。先に私の話をしてもいいですか?」
「え……うん、ええよ、どうぞ」
「ありがとう。……」
いざ言い出すとなると陽湖も少し覚悟が要ったけれど、意を決して口を開いた。
「わ…私のお尻のアトピー、ひどいと思いません?」
「………そうやね……一番、お尻がひどいかもね……気にしてるのん?」
「ひどくなったのは……、よく………叩かれたからです」
「っ…誰に?」
「両親です」
「虐待やん!」
「いえ、指導です」
「指導って……」
「私が神の教えに従えるよう、両親が指導してくれたのです。子供の頃というのはサタンの影響を受けやすいですから」
「…………」
「わかっていますよ、世間一般の人たちからは、少し奇異に見えてしまうことも」
「わかってんにゃったら……」
「それでも、私たちは、それが正しいと信じています」
「…………せやからって、アトピーで荒れやすい肌を……あんなに、なるまで……」
「そうですね。……つらかった……。木の棒……イチジクの樹から取った枝で叩くんですよ。すごく痛くて………庭にある樹………今でも見るのがつらいです。島に暮らしてるおかげで、見かけなくて済むから、うれしいくらい……」
「陽湖ちゃん……」
鮎美は言葉が無くて、せめて優しく陽湖の背中からお尻にかけてを撫でた。
「虐待ではないと今でも思っていますよ。でも、私に子供ができたら……間違ったことをしてしまっても、ちゃんと言い聞かせて反省させて、そうやって悔い改めさせてあげたい」
「……」
鮎美は今朝、苛立ちにまかせて陽湖を蹴ろうとしたときの、彼女の表情を思い出した。恐怖して怯えきった顔だった。自分や鷹姫なら竹刀で打たれても負けずに戦う気持ちがあるけれど、格闘技そのものを習わない陽湖には戦う意志も技術もない、それで一方的に叩かれると、そこには恐怖と服従しかない。それゆえ、ああいう表情になるのだと心の痛みとともに知った。
「なんぼ神の教えでも……一歩間違ったら警察沙汰やん…」
「少々極端な指導方法だとして、ブラザー愛也が赴任してきてからは無くなりました」
「屋城はんか……常識ありそうな人やったもんな……」
「先に話してしまって、ごめんなさい。誰にも言わないでください。このことを知っているのは両親の他は、ブラザー愛也とシスター鮎美だけですから」
「うん、もちろん。………」
「………」
「………」
「シスター鮎美の、お話というのは?」
「うん………うち………うちは…」
促されて鮎美はカミングアウトしようとしたけれど、喉と舌が動いてくれない。胸の奥から吐き出したいのに、喉につかえて言葉が出てこない。鮎美は左手で胸を押さえて喘いだ。
「……ハァ………ハァ……」
「シスター鮎美………」
陽湖が優しく背中を撫でてくれる。それで言えるようになってもよさそうなものなのに、どうにも言葉にできない。声にして自分の性的指向を告白することができない。防音措置が施されたカラオケルームは黙ってしまうと、痛いくらいに静かで鮎美はエアコンが効いているのに額へ汗を滲ませた。気の毒に思った陽湖がグラスのアイスコーヒーを飲み干して言う。
「お代わりをもらってきますね。何か、もらってきましょうか?」
「おおきに……うちは、まだ、ええよ」
陽湖が出て行き、鮎美は一人になると頭を抱えて呻った。
「ぅぅ…」
「……」
陽湖は廊下から振り返ってルーム内をガラス窓から見る。丸くなって震えている鮎美が見えて、相当に悩みが深いことが感じられたし、言いたいのに言えず苦しんでいるのも、わかった。
「……シスター鮎美……」
あえて陽湖は時間をかけて飲み物を選び、迷ったわりに結局はアイスコーヒーを注ぎ、鮎美と食べるためにチョコレートクッキーの小袋を買った。
「遅くなりました。これ、いっしょに食べませんか?」
「うん、おおきに」
鮎美は潤んだ目で返事した。ハンカチを握っていたので泣いていたのがわかる。陽湖は袋を開けて鮎美に向けた。
「おおきに」
鮎美は一つだけクッキーを食べて、アッサムティーを飲んだ。陽湖も食べて感想を言う。
「あんまり美味しくないですね」
「こういう店のやもん。カネちゃんがくれる、かねやのクッキーに比べ…、ごめん。うちの口も、いつのまにか贅沢になって、せっかく陽湖ちゃんが気を利かせてくれたのに、ごめんな」
「いえ、美味しくない物は美味しくないですから。けれど、贅沢な話ではありますね。世界には飢えて苦しむ人も多いのに」
「そうやね、日本では食品の半分が破棄されてるって数字もあるくらいやから」
「半分ですか…」
「けど、食糧自給率も50%弱やねん。うち、考えるんやけど、破棄分を考えたらギリギリカロリーベースで食糧自給率100%になるんちゃうかな。贅沢せんと、国内で獲れるもんを米粒一つ、小魚一匹まで食べたら」
「さすが議員予定者、言うことが違いますね」
「はは………」
鮎美は力なく笑って黙り込んだ。こんな話をするために、ここにいるのではないと、わかっている。わかっているのに、切り出せない。陽湖がクッキーを摘み、カラオケの端末を見る。
「何か歌いますか?」
「……ううん…」
「実は私、カラオケ苦手なんですよ」
「そうなん? なんで?」
「小さい頃から、ずっと賛美歌ばっかりで、普通の女子高生が知ってるような曲を知らなくて」
「そっか……ガチで信徒な一家なんやね……」
「シスター鮎美の、ご家庭は? ご両親と何度かお話させていただきましたけれど、ごく普通の人という感じでしたが」
「そうやね。普通よりは父さんの考え方が、お気楽というか、スチャラカというか、道楽もんなとこあるけど、母さんは普通やし。まずまず普通の家庭やと思うよ。……」
うちが同性愛者であったこと以外は、と鮎美は心の中だけで言った。
「…………」
「……シスター鮎美、そんなに話難いことですか?」
「…………うん………ごめん……待たせて…」
「いえ、………おトイレに行ってきます。何度も席を立って、ごめんなさい」
陽湖は女子トイレに入り、白ストッキングとショーツをおろすと便座に腰をおろす前にお尻を撫でた。
「………」
最後にお尻をイチジクの枝で叩かれたのは小学6年生の頃で、級友が貸してくれたCDプレーヤーで流行の曲を聴いていたのが両親にバレた日だった。身体を押さえつけたりはされなかった。お願いします、と自分で言い両手を椅子についてお尻を叩かれる度に、ありがとうございます、と大きな声で叫んだ。世俗の曲を聴きたいという気持ちが失せるまで、完全に悔い改めたと自分が確信するまで、お願いして叩かれるうちに、このまま死ぬのではないかと思うほど痛かったけれど、両親はやめずに叩き続けてきた。
「……私を愛していたから……叩いてくれた……はず……」
結局、痛みで失神するまで叩かれた。悔い改めました、の一言を改悛児が言えるまで叩くという慣習通りに叩き続けられ、どこかで両親が自主的にやめてくれるのではないかと期待していたのに、言わなければ血が出ても、傷になっても、失神するまで叩かれて、失神から目覚めたときも、叩かれていて、このままでは殺されると恐怖して、言った。
「…………」
あれから六年、両親との関係は悪くないつもりなのに、鮎美へ接近するために島で一人暮らしをするようになってから、気持ちが大きく解放されていた。それだけに、鮎美のためになることを、何かしてあげたかった。
「……シスター鮎美……同性愛者だと告白することは、そんなに苦しいのですか……」
もう鮎美の性癖には気づいていた。いつも鷹姫を見つめているし、その目が語っている。視線だけでなく、かなり迷惑そうにされているのに抱きついたり頬擦りしたり、お尻や胸に触れているときもある。鮎美自身は我慢し、隠しているつもりでも、隣席から観察していると、よくわかった。陽湖や鐘留にさえ、男子が女子を見るような目を向けてくるし、スキンシップも多くて困惑するほどだった。それらの行動と以前の議論で確信している。
「………でも、告白してもらって……私は何と言うべき……」
教義に従えば、そのような衝動は我慢し続け、男性との結婚を目指すべきだったけれど、それを教え諭したとき鮎美が、どう反応するかは悪い想像しかできない。
「……我慢し続けるべき………もし、私だったら……」
同性を好きになるという感覚は、まったく理解できないし共感もできないけれど、それを食欲に置き換えてみると少しはわかるかもしれない。まわりの人間は普通に食べているのに、自分だけは我慢しなくてはいけない、それも一生涯、一口も食べず、どんなに食べたくても我慢させられ、ずっと点滴か何かで生かされているとしたら、それは一種の地獄かもしれない。お前が食べるのは間違ったことだ、お前たちは食べてはいけない、と制約される者の気持ちを考えると、盗むな、殺すな、といった教義とは別のことに思えてくる。
「……シスター鮎美………あなたを苦しみから救ってあげたい……。でも、どうしたら…」
いい方法など知らなかったし、せめて話を聴こうにも、言うだけでも鮎美は苦しんでいる。
「あんなに言いづらそうに………」
陽湖はトイレを済ませると、鏡を見つめた。陽湖の顔立ちは鮎美と似ていて、女の子らしい細い顎をしている。似ていないのは胸の大きさや筋肉で、今は帰宅部でも中学では鍛えていた鮎美とは比べものにならない。鮎美がその気になれば簡単に押し倒されるし、そうされたこともある。
「けれど、あなたは我慢されました」
本気で陽湖が嫌がることまではされなかった。鷹姫に対しても一線は越えないようにしているのは感じる。
「そろそろ……」
あまり長くトイレに立っているのも変なので陽湖はカラオケルームに戻った。
「遅くなりました」
「うちもトイレに行くわ。荷物、見ておいてくれる」
「はい」
入れ替わりに鮎美が席を立ち、また陽湖は一人で考える。けれど、考えたところで答えの出るものではなかった。すぐに鮎美は戻ってきて、また同じように二人並んで座った。
「………」
「………」
再び沈黙が続き、鮎美の涙がスカートへ落ちる音がして、陽湖は心が痛んだ。
「無理に話そうとしなくてもいいんですよ。やっぱり、他人に言えないことなら黙っているのも大切なことですから」
「っ…ぅっ…ごめん……ごめん……うちは……うちは……っ…」
もう一度、言おうとしたけれど、やはり言えない。喉から声を吐き出せない。それが情けなくて鮎美は顔を両手で覆い泣き出した。
「ぅうっ…ううっ…ごめん………陽湖ちゃんが……せっかく……ううっ…陽湖ちゃんは話してくれたのに……ううっ…うちは卑怯や……ううっ……うちは……うちは……ハァっ…ハァっ…う、うちは……」
また告白しようとして苦しくなり、過呼吸でも起こしそうな様子なので陽湖は手を握って見つめた。
「シスター鮎美、言わなくていいです。言わなくていいんですよ」
泣いている背中を撫で、そっと抱きしめた。鮎美は号泣した後、枯れかけた声でつぶやいた。
「うちは…世界が…呪わしい……、この世界は、なんで、こうなんやろう……間違った存在なんは……世界なんか……人なんか……どっちも、なんかな……。こんな世界、壊れてしまえって何度も思った………世界が壊れんにゃったら……うちが壊れ………もともと壊れてるんかな……うちは壊れた……欠陥品なんかも……」
「………」
いくつもの人と世界についての聖書の一節が陽湖の脳裏に浮かんだけれど、それを言っても慰めにならないと、わかっているので黙って過ごした。
「シスター鮎美、そろそろ帰らないと連絡船が無くなります」
陽湖が時刻を見て告げると、泣き止んだ目で鮎美も腰を上げた。
「ごめんな、陽湖ちゃん、今日は付き合ってくれたのに」
鮎美は伝票を持つと会計に向かった。陽湖は半分出すと言ったけれど、あまり豊かではない生活をしていることは知っているし、自分の都合で入店したので鮎美は全額を支払った。路線バスで港まで行き、連絡船の終便に乗る。
「………」
ぼんやりと鮎美は船の窓から湖面を見ていて、つぶやいた。
「キリスト教も……この世界、壊れてしまえ、もう一回、神さんが造り直す、って考えなんやね?」
「そういう表現が正しいとは言い切れませんが、黙示録には、そうありますし、地上に楽園が訪れる前に、大破壊があることは預言されています」
「………神さんに祈るって、どんな気分なん? それで救われんの?」
「はい。………一度、いっしょに祈っていませんか?」
「…………」
鮎美は否定も肯定もしなかった。代わりに身近なことに気づいて誘う。
「こんなに遅くなって夕飯の用意も大変やろ。うちの母さんに言うて、いっしょに食べられるよう頼んでみるわ」
「いえ、それは…」
「遠慮せんでええよ。帰って一人で何か食べるもんあるの?」
「……すみません。今日は買い出ししてから帰るつもりだったので……実は冷蔵庫も空っぽで……お米だけはあるのですが…」
「誘って良かったわ」
鮎美は母親に電話をかけて夕食の人数分に都合をつけてもらった。港から家まで歩き、二人で玄関に入った瞬間、鮎美は陽湖の眼を両手で塞いだ。
「父さん! 友達を連れて来てるから!」
「おお、すまん、すまん」
風呂上がりで全裸だった父親が急いでパジャマを着ている。玄関から居間が丸見えの構造なので隠れる場所もない。目隠しされた陽湖は赤面しつつ待った。
「もういいぞ」
「ったく」
鮎美が目隠しをやめる。
「いらっしゃい。月谷さん。まあ、座って」
「はい、お邪魔します」
もう夕食の準備は、ほぼ終わっていて鬼々島で獲れた魚の天ぷらとタコ焼きだった。陽湖は大阪人の食生活に軽いカルチャーショックを受けたけれど、それは顔に出さないようにした。
「いただきます」
鮎美は食べ始めるけれど、陽湖は食前の祈りを捧げる。目を閉じて頭を下げ祈っている。それは昼休みでも見慣れた光景だったので鮎美は何とも思わなかったけれど、父親は興味深そうに陽湖の顔を見つめている。
「ほぉ、本当に祈るんだね」
「静かにしたりぃ。まじめに祈ってはんにゃから」
鮎美はタコ焼きを箸で半分に切ると、オカズとして食べ、白米も口にする。祈り終わった陽湖が目を開けた。
「いただきます」
「「「どうぞ」」」
穏やかに食事が始まり、ビールを呑みながら父親が陽湖に問う。
「月谷さんは、いつから信仰を?」
「生まれた頃からです。両親が信仰していましたから」
「それを素直に受け入れたわけか……」
「父さん、あんまり信仰のこと言うたらんとき」
「わかったよ」
父親が遠慮すると、母親が言ってくる。
「あのシャンプーは合ってるの? お肌の調子は?」
「はい、とてもいいです。少しずつ良くなってくれて。ありがとうございます」
その質問には嬉しそうに陽湖が微笑んだ。食事が終わると、陽湖は片付けるのを手伝い、帰宅しようとする。
「ごちそうさまでした」
「月谷さん、お風呂にも入っていく?」
「いえ、そこまでは…」
「ええやん。陽湖ちゃん、いっしょに入ろう」
「……。……」
陽湖が困った顔をしていると、母親が察した。
「アユちゃんは後になさい。あなたは友達とお風呂に入ると、いつもふざけすぎるから」
「う~……そうやね。つい、はしゃぎすぎるから。陽湖ちゃん、一人で入ってき」
鮎美に背中を押してもらって陽湖は風呂もいただいた。陽湖が揚がるタイミングで鮎美が脱衣所に入ってきて、新品のショーツと鮎美のパジャマを渡してくれる。
「いっそ泊まっていきよ」
「そんな、いきなり来て、それは…」
「もう、あと寝るだけやん。うちの部屋に客用の布団を敷いたし」
言いながら鮎美が裸になる。受け取ったパジャマを着るべきか迷っている陽湖は見るとはなしに、風呂場へ入っていく鮎美の背中とお尻を見た。鮎美の背中もお尻も肌荒れ一つ無く羨ましいほど可愛らしかったけれど、触りたいとは思わない。
「………」
いつまでも迷っていては裸のままなので陽湖はパジャマを借りた。
「ドライヤー、お借りします」
「どうぞ。月谷さん、この化粧水も使ってみる?」
鮎美の母親が化粧水も勧めてくれたので試してみた。
「どう?」
「はい、いい感じかもしれません」
肌に馴染む感じで良かった。髪を乾かしているうちに鮎美も揚がってきて、二人で鮎美の部屋に泊まることになった。鮎美も女の子らしく化粧水やクリームを使って肌と髪を整えている。
「これも使ってみぃ」
「ありがとう」
クリームも、ごく少量を塗ってみて試してから肌に広げた。
「シスター鮎美のご両親は、いい人ですね」
「う~ん、まあ、父さんも道楽もんなだけで悪人ではない…、あ、玄関に入ったとき、見てしもた?」
「っ…」
見てしまっていた陽湖は赤面して顔を伏せた。
「ごめんな、いらんもん見せて」
「…いえ…」
「あんなもん、ゴリラかゾウやと思って忘れておいて。うちも、そうしてるし」
「……いつも、ああなのですか?」
「まあ見慣れると注意する気にもならんし。子供の頃から、ああやったし。こっち来ても変わらんなぁ……。ま、島の爺さん婆さんでも、ふんどしで歩いてたり、おっぱい丸出しやったりするやん。とくに夏場」
「………開放的な島で、驚きます」
「陽湖ちゃんのお父さんは裸で歩いたりしはる?」
「いえ、しません」
「そうなんや。やっぱ、それが普通よな」
鮎美は布団へ入って横になり、ふと気づいた。
「けど、アダムとイブって最初は裸やってんろ。ってことは、神さんも実は裸を奨励してはるん? いずれ来る楽園でも、みんな全裸なん?」
「ぅ…………いえ……そ……そんなことは………無いはず……す、すみません。勉強不足な部分です。ブラザー愛也に訊いて…っ、い、いえ、そういう質問は、ちょっと……」
「陽湖ちゃん、あの人のこと好きなん?」
「っ……」
わかりやすく陽湖の顔が赤くなる。
「そうなんやね、やっぱり」
「………」
陽湖が背中を向けて布団に入った。
「ごめん、ごめん、わかりきってるのに確かめて」
「………」
「あの人、結婚してはるの?」
「いえ」
「よかったやん」
「………」
「信徒同士やし、可能性はあんにゃろ?」
「……はい……」
「………。男の人を好きになるって、どんな感じ?」
「どんな感じと言われても………自然と、そうなったというか……」
「自然と……か…」
「………」
「うち……男の人を……好きになったこと……無いねん」
ぽろりと言えたので鮎美は続ける。
「好きになるのは………女…………やったり……。ぃ、……今も………た………鷹姫が……好きなんよ」
「………」
背中を向けていた陽湖が寝返って鮎美を見つめた。鮎美は目をそらしているけれど、顔は真剣かつ深刻だった。そして本来、好きな人について友達に語った時は、顔を赤くしているものなのに、鮎美の顔は湯上がりなのに青ざめ、唇と手は恐怖で震えていた。
「………」
「………」
目をそらしていた鮎美が陽湖の目を見る。
「今の話……誰にも言わんといてな」
「はい」
陽湖は震えている鮎美の手を握った。
「誓って」
「おおきに。……もう寝よ。おやすみ」
鮎美が照明を消し、静かに二人で眠った。
翌朝、鮎美が目を覚ますと隣で眠っていた陽湖は窓辺で祈りを捧げていた。
「………」
「………」
キレイな子やなぁ、素直で可愛らしいし、鷹姫に会う前に陽湖ちゃんに会ってたら好きになってたかも、と鮎美は静かに想った。陽湖が祈りを終え、目を開けたので思わず言ってみた。
「もし、うちに好きよって告白されたら、どうする?」
「……。神に祈って黙想します。よりよい答えが見つかるように」
「…………おおきに、即拒否でないだけ、嬉しいわ」
身支度をして陽湖は台所を手伝い、鮎美は父親と新聞を読む。
「父さん、この事件、どう思う?」
「ん、ああ、これか」
障碍者団体向けの割引郵便制度の悪用事件で無罪判決を受けた厚労省局長の木村温子に関わる証拠品として押収したフロッピーディスクの内容を捜査に有利なように改竄したとして証拠隠滅の疑いで大阪地検特捜部の主任検事が逮捕された事件で、改竄の事実を知りながら隠したとして当時の上司だった前特捜部部長と副部長が犯人隠避の疑いで逮捕されたことについて鮎美が問うと、父親は少し考えて言った。
「いまだにフロッピーディスクとか使ってるのか、って思うぞ」
「え~……そこなん……っていうか、フロッピーって、どんなものなん?」
「ほらな、鮎美の世代だと知らなかったりするだろ。MDって知ってるか?」
「そんな音楽を録音する伝説のアイテムがあったことは聞いたことあるよ」
「あんな感じの形で一回り大きくて、記録できる容量は、せいぜい2メガだ」
「2ギガやなくて? それ、写真一枚、入らんのちゃう?」
「そんな骨董品と言ってもいいような物を、官公庁や病院なんかは、いまだに事務処理で使っていたりする」
「へぇ……非効率やなぁ」
「いい面もあってな、サーバーに入れておくより外からの攻撃に強かったりする。なにしろ、現場にいって棚からディスクを出してPCに入れない限り、読み取れないし、書き込めないから」
「ってことは、この事件も、逆に言い逃れできんのや? 特捜部の部長まで有罪になったら検察庁は大変やん」
「たぶん、主任検事を切り捨てるだけで終わるだろうな。世の中、そんなもんだ」
「トカゲの尻尾切り?」
「そういうことだ。鮎美も気をつけろよ。大きな組織は末端を切り捨てて本体を守るからな。この事件でも直接的な指示や隠匿の認識が部長にあったかの有無が焦点になるだろうけど、そんなもの否定してしまえば物証はない。けれど、フロッピー改竄の事実は動かない。となると末端を切って終わりだ。鮎美も自民党の末端といえば末端なんだから気をつけろよ。基本、違法なことは自分の手でするな。指示もメールや文書で出すなよ、できれば電話もさけて口頭で。その口頭の指示さえ、曖昧な方がいい。そうすれば、あとは秘書が勝手にやったことにして切り捨てられるからな」
「……うちは鷹姫を切り捨てるくらいやったら、自分が死ぬわ」
「そうか、宮本さんは友達だからな。だったら、切り捨てる用の秘書を用意してもらっておけばいい」
「ひどいなぁ……」
「まあ、鮎美にそんな汚れ仕事を回してはこないだろうけど、何年かすれば、そんなこともあるかもしれないぞ」
「朝から娘に変なことを吹き込まないの」
母親が怒りながら、ご飯茶碗を並べ、陽湖は焼いたハスを並べてくれる。夕食と同じように四人で卓袱台を囲んだ。
「朝食まで、ごちそうになって、すみません」
「いいのよ、三人分も四人分も手間は変わらないから」
「いっそ、月谷さんも、鮎美の隣の部屋で住むか?」
「「え…」」
鮎美と陽湖が驚いたけれど、父親はわりと本気だった。
「どうせ、部屋は余っているし、高校卒業まで、あと半年も無い」
「ええやん、それ! 陽湖ちゃん、いっしょに暮らそう!」
「そんな……ご迷惑ですし……」
一番迷惑がかかりそうなのは家事と担当する母親だったけれど、意味ありげに微笑んでくれる。
「いいわね、それ。毎日、月谷さんが帰ってきてくれるなら、あなたもパジャマを着てくれるでしょうし」
「ぅっ……ぐっ……しまった…」
「まさか、よその娘さんの前で裸にならないわよね?」
「………ま、まあ、どうせ、半年だ。いいだろう、たまにはパジャマを着てやろう。これから冬だし。この家は寒そうだからな」
「月谷さん、ずっと、ここにいていいわよ。お嫁に行くまで」
「迷うんやったら、しばらく、あっちの部屋も借りたままにしといたらええやん。いっしょに暮らしてみて、やっぱり戻るなら、戻ればええし」
「シスター鮎美…………お父さん、お母さん、お申し出は、とても嬉しいのですが……あの……私が世間一般とは、少し違う宗教を……信仰していることは、ご存じですよね?」
「戒律違反になるのかい?」
「いえ、恋人との同棲は禁止されていますが、今の場合は下宿のようなものですから、その問題はありません。むしろ、芹沢さんのご家庭にとってこそ、私の存在は問題になりませんか? 私は、ことあるごとに神の教えを口にしますし、島の全戸にリーフレットを配布したりしています。とくにシスター鮎美には神の教えに気づいてほしいと学校でも諭してしますし、もし同居すれば、いつでも娘さんに影響を与えることになってしまいます」
「「………」」
鮎美と母親が黙り、父親は笑った。
「どのみち鮎美は、そういうのは信じないだろう。もし、信じたとすれば、それは、それで新しい道が見つかって良いことかもしれないし」
「「「………」」」
「個人的には宗教は好きだよ。とくに若い頃は、いろいろと勧誘を受けて集会や礼拝にも行ったし」
「あなたは昔からバカだから」
「うむ。キリスト教系だと、統合教会も覗いたし、造価学会の説教に付き合ったこともある。空理教も建物が立派で見物だったな。人類史を振り返れば建築と宗教は不可分だし。何より月谷さん、客観的に見た宗教の素晴らしさは何かわかるかな?」
「……客観的に……ですか…」
主観的には神の教えは絶対で、それに従うことは至福であり使命であったけれど、客観的には変に思われたり差別されたことしか思い出がない。客観的な素晴らしさと言われると、陽湖は即答できなかった。
「…よく……わかりません……救われることですか?」
「では、信仰を持っていない人々にとっての幸福とは何だと思う?」
「…………信仰がなければ………お金、ですか?」
「三分の一だけ正解。答えは、お金、健康、人の愛だ」
「お金……健康……人の愛……」
「神の愛は、もちろん関係ないからね。信仰のない人間にとっての幸福には、お金が要る。だいたい属する社会の平均所得の1.5倍から2.5倍あたりで感じる幸福度はピークを迎え、それ以上の金持ちになると上がりにくく下がりやすい。次に健康。ま、説明は要らないだろう、健康だから仕事もできるし遊びにも行ける。そして人の愛、孤独はつらいからね。家族でも友人でもいい、何人かは親しい人が欲しいじゃないか。さて、この三つが満たされれば、だいたい幸せだと思わないかい?」
「……はい……そう思います」
「ところがだ、この三つを満たせる人間は、けっこう少ない。全人口の10%前後だろう。何かしら人間は問題を抱えたりするからね。そこで宗教の出番となるわけだよ。宗教の客観的素晴らしさは、人に幸福感をもたらすのに予算を必要としない。資源も要らない。医薬品も友人も伴侶も無くて大丈夫。神がいる、救いがあると信じさえすれば、幸せになれる。実に人類にとって不可欠な発明品であり、宗教の便利さは電気やガソリンを超えているんだよ」
「……………」
「陽湖ちゃん、遅刻するし、もう行こう」
「今夜も、いらっしゃい。カレーにするわ」
母親が、もっとも人数分の調節がしやすいメニューを言って、来てもいいし、来なくてもいいと暗示してくれた。もう時間が無いので短く礼を言って鮎美の家を二人で出ると、陽湖の家に寄った。カバンに入れてある教科書を手早く今日の時間割に合わせて詰め替える。
「お待たせしました」
「ほな、行こか」
二人で船着き場へ向かい、鷹姫と合流して小舟に乗った。
「ってことで、もしかしたら、陽湖ちゃんは、うちに住まはるかもしれんねん」
「そうですか」
それを聞いても鷹姫は関心を示さなかった。
「……いっそ、鷹姫も、うちに住まへん? もう一部屋、空いてるし。道場で寝るよりええやん?」
「いえ、稽古の時間が取りやすいですし、さすがにご両親に迷惑でしょう」
「朝起きて、即稽古やもんなぁ……あんたは剣に、陽湖ちゃんは神に、対象は違っても、似たような生活してるなぁ……」
「「………」」
「うちも議員として頑張らんとなぁ……」
「シスター鮎美のお父さんは、とてもユニークな方ですね。あのように神を表現されたのは初めてです。否定される方や、個人の自由で片付ける方が多いのに」
「もとが建築家やからかな。どう役立ってるかとか、どういう機能があるかとか、そういう方面から考えるんやろ。根本は道楽もんやけど」
「シスター鷹姫のご両親は、どんな方ですか?」
「父は道場主に相応しい剣士です。母は亡くなりましたが、良い母だったようです」
「……それは……ごめんなさい…」
「いえ」
平然と答える鷹姫が、それでも母を恋しく想っていることを知っている鮎美はそっと陽湖からは見えない角度で鷹姫の腰を撫でた。いつもなら放って置かれる手に鷹姫が応じるように手を重ねてくれた。小舟が古堀に着き、鐘留が大きな家から出てきた。
「さて、残り少ない高校生活、今日は、どうして過ごしましょうかねぇ」
「カネちゃんも、うちの秘書にならへん?」
「秘書かぁ……面倒そう。どうしてアタシ? 月ちゃんの方がこまめに役立ちそうだよ」
「なんか事件があったとき、切り捨てる用の秘書が欲しいねん」
「きゃははっは!」
冗談だったとわかった鐘留が笑っている。陽湖がタメ息をつき、鷹姫は真面目に言う。
「いざというときは私を切り捨ててください」
「鷹姫………あんたには、ずっと、そばにおってほしいのよ」
「ラブラブだねぇ。主従愛でホットケーキが焼けそう」
「シスター鷹姫、あなたは冗談がわかっていないときがありますよ。シスター鮎美は間違っても秘書を切り捨てるような人ではありません。さきほど、お父さんの前でも同じ話題になり、そんなことをするくらいなら自分が死ぬと、おっしゃいましたから」
「芹沢先生が……」
「きゃははは、戦国時代じゃないんだから、切り捨てるとか死ぬとか、無いって」
鐘留が笑いながら校門へ向かっていった。
11月、鮎美は授業中に医療費の増加傾向に関する資料を読んでいたけれど、他の生徒も授業とは関係ない受験勉強をしたりしている。それでも静かな古典の授業が続いていたが、鮎美の机上にあったスマートフォンが速報ニュースを表示した。
「……解散……とうとう…」
隣席にいる鷹姫に教えようかと思っていると、スマートフォンに着信があり静江からの電話だった。鮎美は立ち上がって教師へ一礼すると鷹姫の肩を叩いて廊下に出る。
「もしもし、うちです。解散しましたね」
「ニュースを見たのね」
「タイトルだけ」
「これから、めちゃくちゃ忙しくなるから」
「また応援回りですね」
「ええ、また頑張ってね。これから支部に来れる? すぐに予定が、たくさん入ると思うから、いっしょに調整したいの」
「わかりました。タクシーで行きますわ」
「助かるわ」
「ほな、あとで」
電話を終え、学園前にタクシーを呼んで鮎美と鷹姫は早退した。支部に入ると静江が忙しそうに電話を受けていた。衆議院の解散によって、すぐに総選挙が行われるし、その日程は発表前でも、これまでの経験から投票日までのスケジュールは組まれていく。鮎美へも、いくつもの応援依頼が舞い込み、その調整に夜までかかった。
「出陣式は、お兄ちゃんのところをお願いね。住所的に、これはガチだから」
「了解です」
「石永さん、同じ自民党でも応援依頼のある先生方と、無い先生方には、どういう違いがあるのでしょうか?」
「そうね……」
鷹姫に問われ、静江も気になっていたことを考えてみる。県内に15区ある衆議院選挙区のうち9区9人の自民党候補から依頼があり、残り6区6人からは連絡が無い。
「……県知事選の影響かしら……」
「たしかに阪本市、井伊市など県知事選で得票率の悪かった地区からの依頼が無い傾向にあります」
「井伊市は現役の雄琴先生がいるからフタマタがけないだけかもしれないけど、たしか、井伊市の衆議院議員で4期目になる応野先生と、雄琴先生は仲が悪かったはずだから、むしろ鮎美ちゃんにお願いしてきてもよさそうなものだけど……ちょっと電話してみるわ」
静江は直樹に電話をかけた。
「出てくれない。忙しいのかな」
「応野先生と雄琴はんは、なんで仲が悪いんですか?」
「まだ雄琴先生が一年目か、二年目だった頃にね。雄琴先生が一番、願ってる法案があるでしょ?」
「あの性犯罪者に厳罰を、ってやつですか?」
「そうそれ。それを応野先生が鼻で笑って無理だって。まあ、憲法を強引に解釈しての法案だから無理そうなのは、わかるけど。今でこそ丸くなった雄琴先生だって駆け出しの時期だし、妹さんのこともあるわけだから、ものすごく怒っちゃって。対して応野先生は市議から県議、県議から衆議院って地道に国政まで下積みしてきた古い人だから、クジ引きで当たったなんて議員が根本で気に入らないわけで。パーティー会場で乱闘寸前って感じよ」
「そんなことがあったんや」
「だから、本来は住所的に協力し合うはずの二人が犬猿の仲ってわけ。演説会とかパーティーとかでも、できるだけ会わせないように別々にしたり、同じ会場でも遠い席にしたりって工夫が要るのよ。だから、今回の選挙でも応野先生の出陣式に雄琴先生が呼ばれるとは思えないし、呼ばれても行くとは思えないの。応野先生の事務所に電話してみるわ。こっちから電話すると、応援を売り込むみたいだけど、待ってるよりスッキリするし」
静江は応野の秘書と電話で長く話し込むと、戸惑った顔で電話を終えた。
「どないしはったんですか?」
「顔色がすぐれませんよ」
鮎美と鷹姫が心配するほど、静江は狼狽していた。
「…え……ええ……ちょっとトラブルというか……予想外……謀反……」
「謀反って…」
「何者かが裏切ったのですか?」
「……落ち着いて……聴いてね……」
「「はい」」
静江が話そうとする前に、石永が東京から戻ってきて支部に入ってきた。
「静江、その顔色は雄琴のことを知っているな?」
「お兄ちゃん、本当なの?! 雄琴先生が裏切ったって!」
「まだ事実確認の段階だが、おそらく本当だろう。電話をかけても雄琴は出ない。それが何よりの証拠だ」
「雄琴はんが裏切ったって、何をどう?! どうなってるんですか?」
「確認できている情報では、雄琴は応野先生の出陣式には出ない。逆に対立候補である民主党の細野太志を応援するようだ」
「細野……」
鮎美は校長室で会った民主党の議員を思い出した。鮎美が自民党に所属してからは接点が無くなっていたけれど、それまでには竹村との会談をつないだりしてくれたし、最近では女性キャスターと不倫していたことが週刊紙で報じられていたので忘れずにいる。
「あの路上チューの?」
「そうだ」
「そんなん応援しても、応野先生の方が余裕で勝つんちゃいますの?」
「それが、そうでもないのよ。世論調査での自民党と民主党の支持率と、あと応野先生も25年前に不倫していたことがあるから」
「25年前って……めちゃ時効ですやん」
「月日は経っても覚えている人はいるし、女として腹が立つ話でもあるでしょ?」
「「………」」
鮎美と鷹姫には、あまりわからない感覚だった。静江も二人が彼氏がいたこともないような女子高生であることを思い出して補足する。
「とにかく、先月の不倫と25年前の不倫で、どっちが悪いってことも無いし、民主党としては、どっちもどっちに持っていきたいから、噂を広げまくってるわけ」
「そこにきて雄琴はんの裏切りか………。けど、そんなことして党からの処分は無いんですか? 子供のケンカちゃうでしょ」
「当然そうなる……はずよね、お兄ちゃん?」
「ああ。だが、時期が時期だ。雄琴が応野先生への個人的な気持ちだけで動いているのか、それとも本気で民主党へ行くのか、そのあたりで処分は変わるし、そもそも、今のタイミングでは処分を決めにくい。すべては選挙が終わってからになるだろう。……あのバカめ!」
これまで二世議員らしく感情を表に出さなかった石永が苦々しく吐き捨てたので、それだけ深刻な事態なのだと鮎美と鷹姫にも伝わった。