2010年、最期の日、明日は早朝から準備しなくてはいけないので早めの夕食としての年越しソバを食べていた鮎美と鷹姫、詩織は感慨深く今年を振り返った。
「うちの人生にとって今年は激動やったなぁ」
「はい、私もです」
「私もですよ」
世田谷の高級マンションのリビングで一人の議員と二人の秘書が2010年を思い返している。鮎美にとっては大阪からの転居、そして当選、それからの激動の日々だったし、鷹姫にとっても順調な剣道の修練に加えて身近に引っ越してきた鮎美の当選と秘書への就職からの激動の日々であり、詩織にとっては所属していた会の陳情活動で出会った鮎美への恋と秘書への強引な就職だった。
「そういえば、牧田はんの春風会の活動は、どうなん?」
「春の会から分裂してから低調です。自民党が低調なのと似たようなものですよ」
「そっか………前から訊いてみたかったんやけど……」
少し迷い、鮎美が前置きする。
「答えとうなかったら、ノーコメントでもええんやけど………牧田はんって風俗業の経験あるん?」
「あるといえば、ありますし、無いといえば無いですね」
「そ…そっか。変なこと訊いて、ごめんな」
鮎美は遠回しなノーコメントだと受け取って謝ったけれど、詩織は微笑む。
「いえ、気になるとは思いますよ。どうして女の身で売春を合法化する団体なんかに所属していたんだろう、学歴も職歴もあったのに、と」
「………率直に言えば……そうやけど…」
「ごちそうさまです」
鷹姫が一番に食べ終えて手を合わせている。二人の会話には興味をもっていない様子だった。
「私は風俗業に就職した経験はありませんが、利用した経験はあります」
「そ……そうなんや……」
「ビアンバーでの出会いもいいですけれど、必ずしも自分の好みの人が都合良くフリーでいてくれるとは限らないじゃないですか。私は性欲が強い方なんです」
「……へ……へぇ…」
話を振ったのは自分なのに鮎美は鷹姫の反応が気になって落ち着かない。鷹姫は、ごちそうさまと言ったものの、ソバの一杯では足りないという淋しそうな顔をして、空になった器を見ている。
「宮本さん、まだソバは残っていますから、湯がきましょうか?」
「…あ…………お二人は?」
「うちは病み上がりやし、軽めにしておくわ」
「私も十分です」
「……では………」
「遠慮しなくていいですよ。湯がきますね」
詩織が二杯目を用意しながら話す。
「風俗業もいろいろですけれど、電話してもビアンお断りなところも多いですよ」
「え…そうなんや?」
「不思議ですよね、たいていの男性からの求めには応じるのに、女性だと電話口だけで断るなんて」
「そ…そやね」
「でも、応じてくれるところもありますよ。私ね、けっこうSなんです。ノンケの子が仕事だからと頑張ってくれるのを楽しんだり、逆に教え込んだり、そんな風に利用した経験はあります。しっかりMになってしまった子もいましたよ。ノンケなのに快感ほしさに言うことをきくようになってくれたりね」
「………」
「牧田さん、お話の腰を折って申し訳ないのですが、Mというのは、どういう意味ですか?」
「「………」」
「以前に石永さんにも訊いたのですが、教えてもらう機会が無く、卑猥な言葉なのはわかりますが、意味を知らないのも不勉強かと思います。さしつかえなければ、教えてください」
「ええ、いいですよ」
微笑んだ詩織は湯がく予定だったソバを鍋に入れず、冷蔵庫から高価なハムを出した。
「私の話は、ようするに情が移った風俗嬢の子たちの立場を少しでも良くしてあげたい。そのためには合法化が一番だと考えたからです」
詩織はハムを一口サイズに包丁で切り、皿に盛っていく。
「さて、Mの意味でしたよね。宮本さんはSMも知らない?」
「はい、知りません」
「Sはサディズムの隠語、Mはマゾヒズム。異常性欲の一種です。名称はSM傾向のある人物をかいたオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホに由来しています。そして、Mとは肉体的精神的苦痛を与えられることによって性的満足をえる人や傾向のことを指します。逆にSはMへ苦痛を与える人や傾向のことです」
「そうですか、ありがとうございます」
「そんなあっさりと理解できるものでもないですよ」
「そうなのですか?」
「ええ、本格的なSMは過激なのですが、入口程度のことなら一般的なカップルも遊びで試したりしていますから、少し私もやってみますね」
そう言った詩織はハムを盛った皿を鷹姫の前に置いた。当然の流れとして三人で食べるものと思ったのに、詩織は命令口調で告げる。
「おあずけ」
「……」
「うちらは犬か」
食べようとしていた鮎美が文句を言ったので詩織は微笑みかける。
「鮎美先生は観客なので、どうぞ食べてください。宮本さんと私で少し遊びますね。私がS、宮本さんがM役ですよ」
「……鷹姫に変なことせんといてよ」
「はい。宮本さんは性的なことに疎いようですから、食欲の方で遊びますね」
詩織は皿を鷹姫へ近づける。
「宮本さん、どうしても我慢できなくなったら犬みたいに食べてもいいですよ。けど、人としてのプライドがあるなら、食べていいと言われるまで我慢してください。いいですか?」
「はい」
「ではまず、お皿に顔を近づけてハムの匂いを嗅いでみてください」
「はい…」
素直に鷹姫は皿へ顔を近づけて匂いを嗅いでみる。冷蔵庫から出されて常温となりつつあるハムは肉とスパイスの香りがして食欲を刺激してきた。
「どうです? 美味しそうな匂いでしょ?」
「はい…」
「鮎美先生、食べないんですか?」
「おあずけされてる人の前で食べられんよ」
「じゃあ、あーん」
詩織がハムを指先で摘むと、鮎美の口元へもっていく。
「食べてみて、どんな味か、感想をください」
「……。……」
「ゲームを進めないと、いつまでも宮本さんが食べられませんよ? はい、あーん」
「……」
迷ったけれど、鮎美は口を開けた。詩織は食べさせながら、少し唇にも触れてから手を離した。
「どうですか? 美味しい?」
「……美味っ……このハム、めっちゃ美味しいやん。どこのハム?」
「ドイツから取り寄せたハムです。お肉料理については、やっぱり欧州に一日の長がありますよ」
そう言って詩織も一欠片食べる。
「うん、やっぱり美味しい」
「………」
鷹姫の口は黙っていたけれど、お腹が切なそうに鳴いた。
「っ…」
お腹を鳴らしてしまい鷹姫がパッと赤面して顔を伏せる。その姿が可愛らしくて詩織だけでなく鮎美まで失笑した。
「「クスっ」」
「………」
鷹姫の耳まで赤くなっていくので、鮎美は可哀想に感じた。
「牧田はん、もうやめてあげてよ。鷹姫は、こういうの弱そうやもん」
鷹姫は剣道で鍛えた体格と筋肉の量に相応して食欲は旺盛な方で、それは鮎美も知っているし、詩織も数日で感じ取っていた。そして、その食欲旺盛さを自制して隠してもいるし、恥じてもいるけれど、隠しきれるものでもなく鮎美も詩織もわかっている。
「弱そうだから、そこを責めるんですよ」
「……鬼や……真性のSや」
また、鷹姫のお腹が鳴った。
「フフ、口では黙っていても、身体は正直ですね。そんなに欲しいの?」
「………」
「……食欲やのに、なんかエロいセリフに聞こえるわ……」
「宮本さん、これはゲームですから、私が少々きつい言い方をしても、あなたはできるだけ従順に振る舞ってくださいね。女王様と奴隷、主人とメイド、そんなような立場関係だと思ってください。そして、どうしても我慢できないときは、ギブアップと言ってください」
「はい…」
「SMにギブアップとかあるんや?」
「ありますよ。本当に苦しいときのストップを決めておかないと危険なプレイもありますから。今の場合は遊びのはずなのに、宮本さんが本気で怒ってしまうのがゲームの破綻です。だから、もう我慢できない、まいった、というときの終わりは決めておきます」
また、鷹姫のお腹が鳴る。
「フフ、食欲って満たされてると意識しませんが、かなり強い欲望なんですよ。ときに殺意さえ覚えるほど」
「それをわかってて責めるんや……鬼やわ」
「そろそろ限界ですか?」
「……いえ…」
負けず嫌いという鷹姫の性格も感じ取っていて詩織が問い、想定通りに否定してくれた。
「限界を迎える前に、少しだけ」
詩織は指先でハムを一切れ摘みあげると鷹姫の口元に運ぶ。
「あーん、して」
「はいっ」
「もっと大きく口を開けて」
「……」
素直に鷹姫は口を大きく開くけれど、詩織はハムを入れない。
「……」
そのうちに鷹姫の口から唾液が飛んで詩織の手についた。
「手に唾が飛んできましたよ。謝ってください」
「……はい…すみません…」
恥ずかしくて鷹姫が涙ぐんで謝った。
「なんちゅー理不尽な…」
可哀想で鮎美が口を挟もうとしたけれど、その口にハムが入れられる。
「ぅっ…」
目で抗議しつつも、吐き出すのはもったいないので食べた。詩織は手をティッシュで拭いてから、戸棚からアイマスクを取り出した。
「次のゲームをします」
「「………」」
「三人での目隠しジャンケンです。宮本さんが勝てば、一切れ、食べさせてあげますね」
「誰が目隠しすんの?」
「もちろん、宮本さんです」
そう言ってアイマスクを鷹姫に渡した。
「ルールは単純、三人でジャンケンをして宮本さんが単独で勝った場合のみ、食べられる。引き分けはもちろん宮本さんが勝っても勝利者が2名であるときは除外します。そして、宮本さんは目隠ししたまま行います」
「そんなん不正されてもわからんやん?」
「ですね。こちらを信じるしかないのです」
「しかも単独での勝利のみって……確率的に…」
鮎美と鷹姫が数学的思考を行った。
「「……9分の一…」」
「そうです」
「ひどっ…」
「逆に言えば9回で一回は食べられるはずですよ」
「まあ、そやけど……」
「では、宮本さん、目隠しをしてください」
「…はい…」
美味しそうなハムを一瞬だけ見てしまってから鷹姫は目隠しをした。
「ジャンケンをする前に、必ずおねだりをしてもらいますね」
「「………」」
「私にハムを食べさせてください、って言ってみてください」
「……私にハムを食べさせてください」
「では、ジャンケン、ポン!」
「「…」」
鮎美と鷹姫も手を出したけれど、詩織がチョキで鮎美と鷹姫がグーだった。
「あら、残念。勝利が2名ですから除外しますね」
「………」
「ごめんな、鷹姫、うちもチョキを出してあげればよかった」
「…ということは、牧田さんがチョキですか?」
見えない鷹姫は手を予想してみた。
「そうやよ。ごめんな」
「いえ、いずれ勝てるでしょう。気にしないでください」
なるべく平然と鷹姫は言ったけれど、お腹が盛大に鳴ったので恥ずかしくて、また頬を赤くした。
「フフ、可愛い」
「………」
あかん、可哀想やのに可愛く見えてまう、気の毒やのに、ちょっと楽しい、うちもSっ気があるんかな、と鮎美は赤くなっている目隠しされた鷹姫を見つめて少し興奮した。
「では、また、おねだりさせますね」
「「………」」
「どうか私にハムを食べさせてください、と言いなさい」
「………どうか私にハムを食べさせてください…」
「では、ジャンケン、ポン!」
「「…」」
今度も詩織はチョキ、鮎美はパーで、鷹姫がグーだった。
「残念でしたね。三つ巴です」
「ごめん、ホンマごめん。なんで、うちはチョキにせんかったんやろ……ホンマごめん」
「偶然ですから気にしないでください」
「今度、うちは必ずチョキにするわ。ずっとチョキにする。これで確率3分の1や」
「鮎美先生、不正行為はペナルティーを考えますよ。もちろん、罰は宮本さんに」
「ぅっ…」
「さ、今の宣言は忘れて、次の手を考えておいてくださいね。私だって三回連続チョキとはならないかもしれませんよ」
「……っ…」
鷹姫が口の中に湧いていた唾液を飲み込んだ。もうとっくにソバは消化してしまって胃は空っぽという感覚だった。おまけに視覚が封じられたのでハムの匂いを強く感じてしまう。食べたくて、次から次へと唾液が口内に湧いてくるので、また飲み込んだ。
「おねだりさせますよ。どうかどうか私にハムを食べさせてください、お願いします。って言ってごらんなさい」
「……どうか私にハムを食べさせてくださいお願いします…」
「間違っていますよ。どうかどうか私にハムを食べさせてください、お願いします。です」
「………どうかどうか私にハムを食べさせてください、お願いします」
そう言う鷹姫の口から唾液が飛んだ。
「フ、いいでしょう。では、ジャンケン、ポン!」
「…」
「くっ…」
詩織はパーで鷹姫はグー、鮎美はチョキだった。
「また三つ巴ですね」
「「………」」
「四回目、おねだりなさい。どうぞ私にお肉を食べるチャンスをください、お願いいたします。ちゃんと心を込めて言いなさい。でないと、言い直しさせますよ」
「………どうぞ私にお肉を食べる……チャンスをください、お願い申し上げます」
「違いますよ。どうぞ私にお肉を食べるチャンスをください、お願いいたします。です」
「……………、………」
「ギブアップなら目隠しを取って、いやしく食いつきなさい」
「…………。セリフを、もう一回、言ってもらえますか、お願いします」
「どうぞ私にお肉を食べるチャンスをください、お願いいたします。ですよ、一回で覚えなさい。この愚か者」
「……」
「……」
牧田はん明らかに鷹姫に言われたこと根に持っての復讐やん、と鮎美は感じて詩織を見た。詩織も自覚はあるので余裕で微笑んだ。鷹姫が覚えたセリフを言う。
「どうぞ私に…お肉を食べるチャンスをください、お願い…いたします」
「まあまあ合格ということにしてあげます。次からは、もっと心を込めなさい。では、ジャンケン、ポン!」
詩織がグーで鮎美もグー、鷹姫はチョキだった。
「残念、宮本さんの一人負け」
「………」
見えない鷹姫は確かめようがないけれど、鮎美が異議を唱えないので信じるものの、ただジャンケンして負けただけ、それも何度でも勝負ができる設定なのに、泣きそうな感情が湧いてきて鼻が赤くなった。唇の先が少し震えている。
「次こそ勝てるかな? もうギブアップかな?」
「……もう一度、お願いします」
「鷹姫……えらいね。頑張りぃ。うちも鷹姫が勝てるよう祈るから」
「おねだりなさい。愚かな私にお肉をください、どうか、食べさせてください、食べたくて食べたくて、もう我慢できません、って」
「………ぉ…愚かな私にお肉をください、…どうか、食べさせてください、食べたくて…食べたくて…、もう我慢できません!」
かなり唾液を飛ばしながら最後の方は叫ぶように言った。
「フフ、いい声ね。じゃ、チャンスをあげますよ。ジャンケン、ポン!」
「「…」」
詩織がチョキで鮎美もチョキ、鷹姫はグーだった。
「……やった! 鷹姫の勝ちやよ!」
「そ…そうなのですか? ……私の勝ち……やっと…」
やはり見えないので勝利の実感は遅れて湧く。
「あなたの勝ちよ、喜びなさい。そして食べさせてあげる。そうね、私より鮎美先生が食べさせてあげて」
「よっしゃ」
鮎美がハムを摘んだ。
「鷹姫、あーんして」
「はい」
鷹姫が素直に口を開け、そこに優しくハムを入れた。
「…………………ああ……美味しい……」
蕩けるような声を漏らした鷹姫は身震いするほど味わっている。
「このハム、めちゃ美味しいやん」
「はい……とても……」
「牧田はん、これって高いん?」
「そういう無粋なことは訊かないでください。このハムを造っているところは、かつてドイツ皇帝へも納めていましたし、今も英国王室御用達だったと思いますよ。このジョニーウォーカーと同じに」
そう言った詩織は小さなグラスへ琥珀色の液体を酒瓶から注ぐと、一息に呑んだ。
「お酒、呑むんや…」
「もう勤務時間ではないですよね?」
「せやね。っていうか、秘書業も議員と同じで終わりがわかりにくくて、ごめんな」
「お詫びは口先だけじゃなくて、唇でしてほしいものです」
「………もう酔うたん?」
「いえ。さてと、宮本さん、もう一枚、食べたい?」
「はい」
「素直な返事ね。フフ、どんな快感でも焦らされた後に与えられると格別でしょ。さ、ご褒美が欲しければ、また頑張って勝ちなさい。ジャンケン」
また詩織がゲームを続ける。
「ポン」
「「…」」
詩織がパーで鮎美もパー、鷹姫はグーだった。
「一人負けね」
「「……」」
「ジャンケンの心理を教えてあげましょう。人間、防御的な気持ちの時はグーを出しやすいのです。今みたいに目隠しされているときなんて、とくに。逆にパーは開放的な気分のとき、そしてチョキは確率的には初手にもちいられることは少ない。指の動作が複雑ということもあり、ひねった策として出す傾向にありますよ」
「「………」」
「ですから、いじめる側がジャンケンを提案したとき、いじめられている側はグーを出しやすい、ということを、いじめる側が覚えていると、とても勝ちやすいのです」
「なんちゅー卑怯な……」
「さて、親切に教えてあげた私は、次は、何を出すでしょう。そして、あなたは勝ちたいならパーにする? それとも、またグー?」
「「………」」
「いきますよ。ジャンケン、ポン」
「「…」」
詩織がグーを出し、鮎美はチョキ、鷹姫はパーだった。
「あらあら、残念でしたね。あなたは素直にパーを出したのに、鮎美先生がひねってしまいました。色々言う私の裏をかこう、という思考は悪くないけれど、結果は残念でしたね」
「ごめん……鷹姫、うちのせいで……」
「いえ、お気になさらず」
「フフ、また、おねだりもさせますよ」
アルコールのせいで少し頬が赤くなった詩織がセリフを考える。
「美味しいハムを、また私に食べさせてください。お願いします、牧田様。と言いなさい」
「……。美味しいハムを…また私に食べさせてください、おねがいします、牧田さ…ま」
「もっと心を込めて、へりくだって言いなさい」
詩織が尊大さへ心を込めて言った。
「………美味しいハムを、また私に食べさせてください。お願いします! 牧田様」
「よろしい。ジャンケン、ポン!」
「「……」」
三人ともグーだった。
「フフ」
「くっ……9分の一なんて、ひどいわ…」
「負けてもペナルティー無しなんて、優しいゲームですよ。さ、おねだりの時間です」
「「………」」
「お腹を空かせた私に、その肉片をください。牧田様、お願いします。と言いなさい。もちろん、心を込めて」
「……、お腹を空かせた私に、その肉片をください! 牧田様、お願いします!」
「いやしい子ね。さ、ジャンケン」
「「…」」
「ポン!」
詩織がチョキ、鮎美はパー、鷹姫もパーだった。
「フ」
「……。うちらの負けやわ…」
「…そうですか…」
「おねだりは……そうですね。食べたい、食べたい、食べたい、どうか、食べさせてください、お願いします、お願いします。と言いなさい。大きな声で」
「……食べたい! 食べたい! ハァ…食べたい! どうか食べさせてください! お願いします! お願いします! お願いします!」
かなり空腹感のこもった心からの絶叫だった。叫んでいる鷹姫の頬は赤くなっている。それが苦痛のせいなのか、羞恥心のせいなのか、それとも特殊な興奮によるものなのかは本人にもわからなかった。
「…ハァ…ハァ…」
「うーん♪ いい声ね。泣きたいときは、泣いてもいいですよ。さ、ジャンケン、ポン!」
「「…」」
詩織はチョキ、鮎美もチョキ、鷹姫はグーだった。
「ご褒美タイムですね」
「鷹姫の勝ちやよ!」
「ああ……ハァ…」
鷹姫が身震いして、ご褒美を待っている。息を吐く、その唇から少しヨダレが見えるほどだった。
「鮎美先生、食べさせてあげて」
「鷹姫、口を開けて」
鮎美はハムを手で取って、鷹姫の口へ運ぼうとしたけれど、その途中で詩織がベキッと音がするほど、鮎美の指を握って逆関節に反らした。
「ぐうあああああああああああ~~?!」
鮎美は悲鳴をあげて冷や汗を流しているけれど、詩織は冷厳と言う。
「言ったはずです。不正行為にはペナルティーと」
「ううっ…」
鮎美は一度で2枚のハムを鷹姫に食べさせようとしていて、その2枚がテーブルに落ちている。
「イカサマは見逃しませんよ」
「…ひ…ひどいわ…。指が折れるかと…」
「いいえ、慈悲深いです。指を折らなかっただけ」
「くっ……、ゲームや言うたのに、容赦ないなぁ…」
「ゲームは本気でやるものです」
「……わかった……ええわ。この指は罰として受け入れるわ」
「何を言っているのですか。罰は宮本さんにくだします。そう言ったはずです」
「そんな……うちの不正やのに…」
「M役は宮本さんです」
「…くっ……鷹姫、ごめん…」
「気にしないでください……それで、罰は?」
「口の利き方を考えなさい。罰は何でしょうか、牧田様。と言いなさい」
「……罰は何でしょうか、牧田様」
「音を聴いて苦しみなさい」
「「…音? ……」」
「鮎美先生、テーブルに落としたハムを2枚とも食べながら、その可愛らしいホッペを宮本の耳にピッタリとつけなさい。美味しく食べている音を聴かせるのです」
「………なんちゅー発想すんねん……めちゃめちゃ鬼やん……」
「ゆっくり、しっかり罰を与えたら、逆にご褒美として5枚を一度に食べさせてあげます。口いっぱいに肉を頬張って最高の快楽を感じなさい」
「「………」」
「その分、罰はきついですよ。道具も使います」
詩織はキッチンへ行くと、クッキーを生地から切り抜くときに使う金型を持ってきた。
「金型を咥えさせますから、大きく口を開けなさい」
「……はい…」
「ゆっくり咥えて」
詩織は怪我をさせないように刃の無い方を口内にして入れ、咥えさせた。直径3センチ程度の抜き型なので、これで鷹姫は口を開いたままになる。
「では、鼻で呼吸せずに口で息をしなさい」
「……。ハァ……フー……ハァ……フー…」
鷹姫が口呼吸する。金型の直径は十分なので息苦しくはないけれど、息をする度にヨダレが垂れていた。目隠しされ、金型も咥えてヨダレを垂らしている鷹姫の姿は扇情的で鮎美はレズビアンとして興奮したし、詩織もバイのサディストとして高ぶった。
「鮎美先生、罰を与えて」
「………」
「ハァ……フー……ハァ……フー…」
「鮎美先生が、やらないなら私が罰を与えましょうか?」
「ぅ、うちがやる!」
鮎美は落としてしまったハムを口に入れると、鷹姫の耳へ頬をつけて噛み始める。
「…もぐ…もぐ…」
「…ハァぁ…フーぅ…ハァぁ…フーぅぅ…」
咀嚼音を聴いた鷹姫の口から滝のようにヨダレが溢れてテーブルに水たまりをつくっている。もうハムのことしか考えていない様子で、自分の姿が客観的に、かなり変だということには思い至っていない。
「…もぐ…もぐ…ゴク…」
「ぁぁ…フー…ハァ…」
切なくてアイマスクに涙まで染み込ませた。
「こんなにヨダレを垂らして。グショ濡れですね」
「ハァ…フー…ハァ…フー…」
「鷹姫……」
鮎美は可哀想に想っているのに、自分が興奮していることにも気づいていた。タラタラと透明な汁を垂らしている鷹姫を見ていると、それが食欲によるものだとわかっていても、別の想像をしてしまう。
「そろそろ、ご褒美をあげますね」
詩織が金型を抜いてやり、ハムを5枚、手に取った。
「三つ数えたら、口に5枚もハムを入れてあげます」
「ハァ…ハァ…」
もう金型を抜いてもらったのに、鷹姫は口呼吸してヨダレを垂らしている。早く食べさせて欲しいと、舌がねだっているようだった。
「大きく口をあけて、舌も出しなさい。その舌の上にのせてあげますよ」
「はい…ハァ…ハァ…」
鷹姫が舌を出すと、舌先からもヨダレが滴った。
「三……あと少しの我慢です」
「ハァ…ハァ…」
「鷹姫……」
人間って、こんなに大量のヨダレ出るんや、と鮎美が驚くほど、鷹姫は唾液を垂れ流している。
「二…美味しいですよ」
「ハァハァ」
「一。食べなさい」
詩織が優しく鷹姫の舌へとハムをのせた。パクリと音が聞こえるほど鷹姫が食いつき、ハムを頬張っている。噛みしめ、味わい、身震いして、涙まで流した。
「ああ……あああ………美味しいぃ…」
「フフ、可愛い。おねだりしたら、お皿にあるハム、全部を食べていいですよ」
「…全部……ハァ…ハァ…」
「ただし、手を使わずに、お皿から直接に口で食べなさい」
「ハァ…ハァ…はい…」
「お皿は移動させて、ここに置きます」
そう言いながら詩織はテーブルにあった皿を足元の床に置いた。見えなくても音で鷹姫にもわかる。
「おねだりの言葉は、もう我慢できません、全部ください、牧田様。です」
「ハァ、もう我慢できません! 全部ください! 牧田様!」
「ええ、いいですよ。食べなさい」
詩織が許可すると、鷹姫は床に這ってハムを食べ始めた。
「ハァハァもぐハァもぐ…」
「「…………」」
詩織と鮎美は足元にいる鷹姫を見下ろしている。鷹姫は視覚が封じられている上、手も使うなと言われたので、深海魚やミミズが食べ物を探すような動きで嗅覚と唇の触覚を頼りにハムに食いついている。その姿は犬の食事より下等生物に見えた。
「鷹姫……」
「美味しそうに食べてますね。1枚残さず食べなさい」
「はい…ハァ…もぐ…ハァ…もぐ…」
鷹姫が食べ終わるまでに、そう長い時間はかからなかった。もう皿に残っていないか、唇と舌で探し回り、小さな欠片も舐め取って平らげた。
「…ハァ……ハァ………」
顔をあげた鷹姫の口周りだけでなく鼻先にもハムの油がついてテカている。
「フフ、ごちそうさまです、は?」
「ハァ…ごちそうさまです」
「いい子ですね。さて、犬より下品に喰い漁った今の気分は、どうですか? 宮本鷹姫さん」
「っ………」
我を忘れて食欲を満たしていた鷹姫がフルネームで呼ばれて鞭打たれたように身体をビクリとさせた。
「やっちゃいましたね」
「……わ…私は……」
「宮本さん、あと少し私の言うとおりにしてください」
詩織が尊大な言い方から、優しい保育士のような口調に変えた。
「宮本さんは今の変な気分を忘れるために、大きく深呼吸してください」
「……はい……はぁぁ…」
「そうそう、私の指示に合わせて、息を吸って」
「……すーっ…」
「吐いて」
「はぁぁ……」
「吸って」
「すーーっ…」
「ゆっくり吐いて」
「はぁぁぁ…」
「次に吸ったら、しばらく溜めて」
「すーーっ…………」
「その息を吐いたとき、このゲームは終了です。もう変な気分も飛んでいきます。はい、吐いて」
「はぁぁぁ……」
「はい、ゲーム終了です。お疲れ様でした」
言うと同時に詩織が目隠しも取ってやった。
「ぅっ……」
まぶしさで鷹姫が呻いた。詩織は油の付いた口元を拭くためにハンドタオルを差し出す。
「これで口の周りを拭いてください」
「あ…ありがとう…ございます…」
「どうでした? こんな感じなのがMとSの遊びです。自分の別の一面を見つけたみたいですよね?」
「……………」
鷹姫が真っ赤に顔を染めた。その様子を見て詩織は可笑しそうに指摘する。
「ほら、このテーブルのヨダレ。これ、あなたが垂らしたんですよ」
「言わないでください!」
鷹姫が急いでテーブルを拭いている。
「ちなみに、今のゲームにはSM要素だけじゃなく催眠術も少し加えました。視覚を封じられると、人間は人の声に支配されやすくなりますからね。そうして生理的欲求を我慢させていくと、どんどんストレスが高まります。焦らして焦らして、たった9分の一しかない勝率と、その目で勝利を確認できない苦痛、その結果、ご褒美の甘美さは理性を忘れさせるほどになります。さんざん焦らした後、一気に与えられる解放の快感、まさか自分がイモムシみたいに床へ這ってハムを食べるなんて思いました?」
「「…………」」
「大晦日のゲームとしては、ややハードプレイになってしまいましたね」
詩織が保温状態にしていた鍋へ、ソバを入れた。残りのハムも切って新しい皿に並べる。鷹姫がうなだれているので鮎美は手を引いて洗面所へ導く。
「鷹姫、顔を洗いぃ」
「…はい……」
ハンドタオルでは拭いきれなかった油を洗顔して落としてリビングへ戻った。詩織がおかわりのソバを用意していてくれる。
「どうぞ」
「……ありがとう…ございます…」
「もうゲーム終了ですから、遠慮無く食べてください」
「………はい…」
あまり美味しく無さそうに鷹姫がソバを食べ始めた。詩織と鮎美はハムを食べる。鮎美が空気を変えるためにテレビのリモコンを持った。
「牧田はん、テレビつけてええ?」
「どうぞ」
テレビでは紅白歌合戦が始まっていたけれど、別のチャンネルでは豪雪のために避難所で年越しする人たちのことを報道していた。
「この豪雪も災害といえば、災害やね。国会議員なはずの、うちが、こんなところでのんびりしてるのは罪悪感さえあるわ」
「「…………」」
「だからといって、駆けつけても足手まといなだけで、何かしたいなら消防か自衛隊にでも入って訓練うけろちゅーねんな」
どうにもできないことを自嘲した鮎美は紅白歌合戦にチャンネルを戻した。三人とも興味がないのでテレビは流れているだけになる。鮎美は歌謡ではなく政治について考え続けた。
「ダイエットで一食抜くだけでも、つらいのに、災害で丸一日何も食べられんかったら、つらいやろなぁ」
「……私は……自分が情けない…」
「鷹姫、ごめん。さっきのこと言うてるわけやないよ」
「………」
「でも、宮本さんは私の2倍は食べますよね」
「……すみません」
「謝らなくていいですよ、元気でいいじゃないですか。それで太らないわけですし」
「…………」
「鷹姫……そんな気にせんとき。太らんにゃし、ええやん。羨ましいよ」
「……………」
鷹姫が泣きそうな顔をしてから、真顔になって鮎美と詩織を見た。
「ずっと直したいのに直せないのです。小学校の頃から、男子より食べると言われても………つい……学校給食でも…」
「そら朝稽古して夕方も稽古するやん」
それに鷹姫の家は母さんがおらんかったし貧しいから、学校給食はかなり重要な栄養源やろ、それで食べてしまうのがトラウマになったんかな、と鮎美は心配したし、詩織も謝る。
「すみません。なにか、心の傷をえぐってしまったみたいで。SMプレイは、あくまでプレイですから、ごっこ遊びだと思って日常生活には持ち込まないものなのですが……食べることについて、何かあったみたいですね。ごめんなさい」
「……いえ……もう、いいです……明日は早いですから、そろそろ休みませんか?」
「そやね」
「そうですね」
三人は席を立ち、食器を片付けてから眠った。
2011年1月1日の初日の出とともに起きた鮎美は入浴して身体と髪を洗い、真新しい下着を身につけると、ほぼ新品といっていい冬制服を着た。
「メイクは、どうしよ……」
「軽く私がしてあげます」
詩織が乳液とファンデーションを塗ってくれた。
「顔OK、制服よし、議員バッチよし」
鏡の前で身支度をチェックして頷いた。
「うちの番は午前11時やから、しっかり余裕あるね」
「「はい」」
準備が整ったので落ち着いた気持ちで朝食を摂る。鮎美は皇居で行われる新年祝賀の儀の次第書を見なおした。
「午前10時から皇太子、皇太子妃、親王、親王妃及び女王さんらが、まず両陛下に新年のご挨拶。その一時間後に、うちを含め内閣総理大臣、国務大臣、内閣官房副長官、副大臣、内閣法制局長官、内閣法制次長、両院の議長、副議長、議員、事務総長、事務次長、法制局長、法制次長、衆議院調査局長、国立国会図書館館長、副館長、最高裁判所長官、最高裁判所判事、最高裁判所事務総長、最高裁判所事務次長、高等裁判所長官、そして、それらの者の配偶者か………、秘書は配偶者にならんかな?」
「「なりません」」
鷹姫と詩織は皇居の駐車場までついていく予定ではあるけれど、いよいよ皇居に入るのは鮎美だけになる。余裕を持って一時間前には着く予定なので出発は9時過ぎのつもりだった。
「両陛下、大変やな。日の出前から儀式もあるのに、さらに11時半からは他の認証官、各省庁の事務次官、都道府県知事……ってことは夏子、…加賀田はんも来るんや。あの人も結婚してなかったかな……配偶者なしで出席かな。あとは議会議長か……単なる地方議員は呼ばれんわけか……都議も東京にいても呼ばれわけか」
鮎美は同性愛者であることをカミングアウトしている朝槍のことを思い出した。
「…………」
もし同性婚が認められることになったら、この宮中行事にも配偶者を連れてくるってことになって、それに賛否が出そうやな、神道精神で同性愛って、どうなんやろ、キリスト教はガチ否定やったけど、一部では認めてるし、古事記と日本書紀を全部読んだら、どっかに書いてあるのかな、平安文学なんかやと、とりかえばやくらいしか知らんけど、あれもガチに同性愛の話やなくて、どっちかというと、性同一性障碍の話やったし、ラストはご都合主義やったもんな、と鮎美が考えていると、詩織がコーヒーを淹れてくれながら問う。
「朝槍先生のことをお考えですか?」
「………別に。天皇さんも忙しいぃて大変やなって。午後2時半から、また各国の外交使節団の長と、その配偶者と会うわけやし……あ」
「はい?」
「世界には同性婚を認めてる国があるやん?」
「はい、主に欧州で、いくつか」
「そういう国の外交使節の長が同性愛者で配偶者が同性やったら、この宮中行事に参加させるんやろか?」
「……どうでしょう……そういう前例があるのか……」
「もし、連れてきはったら、宮内庁の職員は、どうするんやろ?」
「………論争になるか、それとも日本人らしく、とりあえず外国のすることには何も言わず、通すかもしれませんね。事なかれ主義でいくか、それとも故意的な現場の英断で通すか、ユダヤ人にだってビザを出した国ですから」
「………」
鮎美は朝食を終えて、再び服装をチェックした。髪型も普段以上に整える。
「皇族の女性らは白系のロングドレスで、うちら参列する女性もロングドレスか、白襟紋付き、やむ得ない場合はデイドレス、ワンピース、アンサンブル………皇居に相応しい服って庶民レベルを百貨店で買っても、めちゃ高いやろな。うちの制服ってある意味で最強に便利やわ。普段によし、葬儀でよし、パーティーでも宮中行事でも」
「その姿も、あと三ヶ月なんですね。可愛いのに。いっそ任期中ずっと制服で通したら、どうですか?」
「それめちゃ痛い女やん、24歳になってもナンチャッテやで」
まだ時間に余裕があったけれど、鮎美たちはマンションを出てタクシーを拾った。鮎美がタクシーに乗ると、運転手は議員バッチに気づいたけれど、田舎の運転手と違い、何も言わず目的地が皇居と聞いてもマニュアル通りの反応だった。皇居に近づくと、車窓から堀を見た鮎美が言う。
「しっかり城みたいな構えやな」
「芹沢先生、皇居は江戸城跡に建っています」
鷹姫が言ってくれた。
「あ、そっか。そうやった。それで京都御所と違って防御的要素が強いんか。徳川はんも大阪城を超えたろ思て頑張ったやろなぁ」
「皇居内は城塞の名残もあって道に迷いやすいですから、お気をつけください」
「安土城はまっすぐな道が多かったらしいのにね。安土、大阪、江戸と、あの三人の性格が出たんかな。安土は大きな堀があった話もきかんし」
「安土城建立当時は後背は琵琶湖でした。今のように埋め立てられておらず、鬼々島と陸も遠かったようです。江戸城も当初は海が近く、堀の水も海水混じりだったようで現在でも多様な生態系が残っているそうです」
「ってことは、このあたりの海抜は低いんや。大阪城も似たようなもんやろな。……琵琶湖って海面よりは当然、高いやろな。どんなもんやろ?」
「たしか海抜85メートルだと小学校の遠足か何かで学んだ気がします」
「へぇ、そういえば、あの信長と鬼々島の人らって、どんな関係やったん? 争ったん? それとも味方したん?」
「織田信長が近江にいたのはわずかな期間で記録も見つかっておらず、豊臣政権となってからは漁業権を認められる形で何らかの役目を負っていたようです。あの通り米作には向かない土地柄ですから」
「そっか」
堀を渡る途中で、また鮎美は歴史を思い出した。
「徳川が造った、この立派な堀で籠城されたら新政府軍も困ったやろな」
「そうですね、江戸城無血開城がなければ、籠城戦は長引いたでしょう。新政府軍に近代兵器ありといっても、大阪城の頃から銃撃戦砲撃戦を前提とした設計にはなっていますから」
「東北の会津戦争みたいに首都が悲惨なことになったら、フランスイギリスにつけ込まれたやろなぁ」
「アロー号事件の二の舞を避けたという意味では井伊直弼の深慮遠謀かもしれません」
「どっちにせよ、あの時期から英米仏め、調子にのりおって」
「いずれ歴史の天秤は勝者を永遠に勝者とはたらしめないでしょう、源氏平氏しかり徳川しかりです」
二人の会話を聞いていた詩織があきれたように言う。
「あの……二人は女子高生で、これから王様いるお城へ新年のお祝いに行くんですよ? 素敵な王子様に会ったら、どうしようとか、そういう会話にならないものですか?」
「うちは王子様に興味ないし」
「それはわかっていますけど、だからって城塞とか源氏平氏とかじゃなくて、やっぱりドレスで来ればよかったとか、そういうのが普通ですよ」
「ドレスか……ドレスは着てみたいかな」
駐車場を歩く鮎美が遠目に見えるドレス姿の女性を見つめた。オレンジ色の華やかなドレスを着ていて、若い女性に見える。
「あの人、若いなぁ……」
「そうですね。他の参列者の配偶者に比べると、かなり…」
鮎美と詩織が見ていると、女性もこちらに気づいて手を振ってきた。
「……あ、もしかして、知事の…」
オレンジ色のドレスを着ていたのは夏子で鮎美たちに早歩きで近づいてくる。
「あけましておめでとう、鮎美ちゃん!」
「おめでとうございます、加賀田はん…いえ、加賀田知事」
挨拶して、ほぼ政治家の習慣として握手もした。
「ずいぶん早くに来はるんですね。うちらの30分後やのに」
「絶対に遅刻はできないからね」
「ドレス、よう似合てますやん。一瞬、誰かわからんかった」
鮎美は世辞でなく心底誉めた。それだけ夏子は美しかったし、女らしくて好ましく感じる。髪も完全にアップしていて、パンツスーツ姿の選挙戦や公務時とは大きく違った。
「ありがとう。鮎美ちゃんは制服が一番だね」
「来年はドレスで来ますよ」
「元旦から来年のことを言うと鬼が笑うかもね」
「鬼々島の人らは、いつも笑てますから」
「言うねぇ」
正月気分だからなのか、何度目かの出会いだからなのか、それとも田舎を遠く離れた東京で出会ったからなのか、鮎美と夏子は自民と民主という所属を忘れたように仲良く談笑を始めた。それで時間が経過し、いよいよ国会議員たちが皇居内の松の間へ招集されているので、鮎美も静かに向かった。
「………」
松の間か……ちゃんと他にも、竹の間、梅の間と松竹梅がそろってるんやなぁ、と鮎美は真顔ではいたけれど、今上天皇に謁見する直前にしては、ほとんど緊張していなかった。むしろ、他の一期目の衆議院議員などの方が緊張しているくらいで、燕尾服を着てカチコチと歩き、ペンギンのように見えた。
「入場された順番から、奥へつめて参列ください」
宮内庁の職員が案内してくれ、松の間に入ると報道カメラもあって鮎美が入場する姿をアップで撮られている気がしたものの、カメラを向けられるのは、もう慣れたことなので道場へ入るときと同じように頭をたれて入場し、他の参列者の流れにのって奥へ進んだ。かなり広い松の間は参列者でいっぱいになり、前方には総理大臣の鳩山直人もいたけれど、鮎美の位置からは見えなかった。
「………」
天皇陛下のお顔も見えへんかも、と鮎美は落ち着いた気持ちで思った。新年の挨拶を陛下へ奏上する総理や議長などと違い、鮎美は参列するだけが役割なので立っていればいい、礼をするときに礼をすればいい、という気楽さもあった。そのうちに今上天皇をはじめとした皇后、皇太子、皇族らの入場が始まり、壇上へ陛下が立った。
「………」
あの人が天皇陛下なんや……テレビで見たのと同じや……当たり前やけど……、と鮎美は平凡なことを感じた。それでも、さきほどより緊張感を覚えている。今までにも議長や党首に会うことは多く、圧倒されることもあったけれど、それにさえ慣れてきたのに、今上天皇という存在感は、また別格だった。広い松の間で、かなりの距離があって、他の参列者の背中に隠れて、わずかしか見えないのに背筋が伸びるような緊張がある。鳩山総理も緊張している様子で、新年の挨拶を述べていて、それに対して陛下が言葉を返している。長くも感じたのに、終わると短かった儀式が終わり、松の間を出ると、次に入る夏子たち都道府県の知事とすれちがった。
「…」
「…」
夏子とは目線だけ合わせて別れる。
「……………」
これで、終わりか、あっけないもんやね、と鮎美は年末から準備してきた予定が終わったことを感じていると、トイレに行きたくなったので女子トイレに入り用を済ませて個室を出ると、洗面台の前で他の女性参議院議員に声をかけられた。
「芹沢さんって運がいいわね」
「はい? …はあ…」
返事をしたものの、意味がわからなかった。
「西村先生が亡くなって、ここに来てるけど、ホントなら他の去年の当選者と同じに、新年祝賀への参加は来年からなのよ。最年少と合わせて運がいいわね」
「ああ、その話ですか…」
いやいや運がいいってことなん? このオバハン何が言いたいねん、と鮎美が不快に思っているうちに、その女性議員はトイレを出て行った。
「……まったく、人が亡くなったちゅーのに…」
最期に咳き込んで苦しんでいた西村の姿を思い出して鮎美は気分が重くなった。気分を変えるために、いっそ顔を洗いたくなったけれど、メイクしているのでタメ息だけにして廊下に出た。
「芹沢鮎美参議院議員、こちらへ来ていただけますか」
鮎美を捜していた様子の職員が声をかけてきた。
「はい。……」
何やろ、もうお土産もらって帰るだけのはずやのに、と鮎美が予定外に呼ばれたことを不思議に思っていると、波の間という小さめの部屋へ案内された。
「ここでお待ちください」
「はい。……あの、ここで何が?」
呼ばれたのは鮎美一人で他の議員はいない。聞いていない予定でもあったなら一大事なので問うと、職員が答えてくれる。
「義仁親王、由伊内親王が芹沢議員にお会いしたいとのことです。しばらくお待ちください」
「っ、よしひと…しんのう……ゆい、ないしんのう……」
えっと確か、皇太子はんの長男と娘さんで、15歳くらいと7歳くらいやった気が、さっきも松の間に居はったやろけど、見えんかった……その親王はんと内親王はんが、うちに会いたいって、なんよそれ、どういうことなん、と鮎美が緊張した顔で混乱していると、二人の皇族が入室してきた。
「はじめまして、芹沢さん」
「はじめまして、芹沢さん」
テレビで見たことのある15歳の親王と、7歳の内親王に挨拶され、鮎美は頭を下げる。
「は、はじめまして! せ、芹沢鮎美です!」
「そう緊張しないでください。急に呼び立てたりして、ごめんなさい。妹が、どうしても会ってみたいと。それにボクも君に会ってみたかった」
そう言った男子は黒髪の日本男子で燕尾服で正装している。妹の方も幼い身体に似合うドレスを着ていた。由伊が7歳らしい幼さと、皇族らしい穏やかさで言ってくる。
「お姉さんが17歳で議員になるのですよね?」
「由伊、18歳だよ」
「あ、そうでした。18歳で議員になられるのですよね?」
「は、はい。そうです」
「大変そうですね」
「い、いえ、それほどでも」
「気苦労はありますか?」
「…」
な…7歳の子が気苦労とかいう言葉を使うんや、と鮎美が驚き、その感覚は兄の義仁には伝わった。
「クスっ…気苦労ばかりでしょうね。急にクジ引きで当てられたのだから」
「は……はい……まあ…」
「当たらなければ、なりたい仕事はありましたか?」
「い……いえ……これといって…」
「議員の仕事は、どうですか?」
「や……やりがいを……感じたいとは……思ってますけど、……まだまだ…」
「これからも頑張ってください」
「これからも頑張ってください。会えて嬉しかったです」
たった、それだけの短い会談で二人とも秒刻みで行動しているらしく残念そうに去ってしまった。
「………はぁぁ…」
二人の姿が見えなくなると、鮎美は職員たちがいるのに大きく息を吐いて、膝が崩れそうになりヨロめいた。そばにいた職員が支えようと手を出してくれたので、ある程度は予想された反応だったのかもしれない。
「す、すんません、おおきに。……」
とっさに地の関西弁を出してしまい、下品だったかと後悔するものの、よく考えれば皇族も京都から東京へ移ってきたので、おおきに、は問題ないのでは、といった場にそぐわない思考が渦巻き、しばらく落ち着くまで時間がかかった。その時間を職員たちは静かに待っていてくれて、鮎美の様子を見計らって紙袋を渡してくれる。
「本日はご苦労様でした。こちらをお持ちください」
「は…はい…どうも…」
渡されたのは聞いていたお土産だったので遠慮無く受け取った。中身は鯛や蒲鉾、数の子などの縁起物の料理のはずで、すべての参列者に渡されている。やっと足取りが確かになった鮎美は皇居を去ると、その日のうちに今度は地元で数限りなく行われる新年会へ顔を出すために新幹線で東京を去った。