翌1月17日の月曜日、午前中に美恋と陽湖が面会に来てくれ、世間話と聖書の話をした後、鮎美は昼食にトンカツを母親の手から食べさせてもらい、美味しさに震えていた。
「ん~♪ 美味しいわ、最高やぁ」
「フフ、可愛い。アユちゃんに、こうやって食べさせるなんて15年ぶり? 16年ぶりくらいかしら」
母親が微笑んでくれるのは気恥ずかしいけれど、嬉しくもある。
「つまり、うちが3歳か、2歳までは食べさせてもろてたんや」
「そうよ。だいたい1歳半くらいから自分で食べ始めてくれるけど、ボロボロ零しながらだから、結局3歳くらいまでは、ちょっと手伝うの」
「その頃のシスター鮎美の写真を見ましたけど、とっても可愛かったですよ」
「うちのアルバムを見たんや。今度、陽湖ちゃんのアルバムも見せてや」
「はい」
「赤ちゃんを育ってるって、とっても楽しいのよ。私ももう一度したいくらい」
「ふーん…」
鮎美にとって妊娠は遠い出来事に感じるけれど、否定的な声は出さずに二切れ目のトンカツを食べる。
「お肉、美味しいわぁ」
味噌汁も飲ませてもらい、幸せな気分で横になった。午後からは鷹姫が来てくれる予定なので美恋と陽湖は帰り、それまでは桧田川の許可もあったので少しテレビを見る。ずっと桧田川がいるモニター室を映していた真上にある液晶モニターをテレビチャンネルに変えてもらった。
「昨日行われた鹿児島県阿久根市の出直し市長選挙が投開票され…」
「………」
一年前は気にもしなかった遠い自治体の首長選挙も、どの政党の候補者が勝つのか、気になっている。
「ブログ市長こと前職が落選し…」
「極端なことする首長は、最初だけで、あとは落ちていくなぁ……そう思うと加賀田知事、よう頑張ってるわ」
「政府がロシアのガスプロム社と、ロシア極東・ウラジオストックでの液化天然ガスプラントの建設協力で合意し…」
「北方領土は返ってこんのかな……千島樺太交換条約って有効性、どうなんやろ……まだまだ知らんことばっかりや」
「ジャスミン革命による混乱でチュニジアに足止めされていた日本人旅行者のうち117人が無事に出国し…」
「非常時の邦人救出も課題やな。9条のせいで自衛隊機の海外派遣が……はぁぁ! 世界は課題ばっかりやん」
鮎美が大きなタメ息をつくと、桧田川が注意してくる。
「はーい、テレビおしまいね」
「え~…」
「穏やかに過ごしてほしいの。ごちゃごちゃ考えないで」
「はいはい。鷹姫、まだ来んのかなぁ」
「あ、来たみたい。息を切らして、どうしたの? 走ってきたの?」
モニター室に鷹姫が入ってきている様子が映る。肩で息をしていた。
「ハァハァ、遅くなりました。すみません」
「鷹姫、どないしたん?」
「介式師範が非番だったので、稽古をつけてもらっていて。ハァ、遅くなりました、すみません」
「うちの警護をしてくれてる人のリーダーやんな。前に副議長についてはった美人さんの。あの人、強そうやったもんなぁ………鷹姫と知り合いなん?」
「中学の頃、剣道の強化合宿で師範を務めてくださり、それで知っていました」
「そっか……中学剣道で……あのころは、うちも頑張ってたなぁ」
「お母様に芹沢先生が中学生だった頃の写真を見せていただきました」
「うっ…、うちが居ん間に、アルバム振り返り大会してるんやなぁ。退院したら、鷹姫の写真も見せてよ」
「はい。……ですが、うちは貧しかったので写真らしい写真はありません」
「…そっか。…ごめん」
「鬼々島の公民館になら大会優勝時の写真くらいはありますけれど」
「それ、だいたい毎年あるんやろ」
「はい。私だけでなく男子も良い成績を残していますよ」
「…ふーん……岡崎はんは?」
「健一郎さんはベスト8です」
「……全国の?」
「はい」
「十分、強いんやな」
「けれど、今、介式師範に実戦の稽古をつけてもらうと剣道がスポーツでしかなかったと思い知ります」
「あの人、ごく最初に自己紹介を少し聞いたきりやから………ちょっと話してみたいわ」
「本日は17時から警護にあたられるそうです」
「そっか……」
「伝えておきます」
「おおきに。あ、鷹姫は自動車教習所にそろそろ行く時間ちゃうの?」
「はい、すみません。来たばかりで」
「ええよ、少しでも会いに来てくれて、ありがとうな」
鷹姫が教習所へ行き、しばらく鮎美は一人で病室の天井を眺めていた。静かな時間が過ぎて午後5時になり、介式がモニター室へ入ってきて、カメラ越しに敬礼してくる。
「芹沢議員がお呼びとのことですが、何用ですか?」
「ちょっと介式はんと話してみたかったんよ」
「はい、それで、お話とは?」
「別に話題が決まってるわけやのうて、どういう人なんかなぁ、と」
「………。警視庁警備部警護課警護第4係の警部です」
「う~ん……それは聞いたんやけどね。剣道強いの?」
「はい」
「…」
謙遜なしやね、鷹姫と同じタイプなんや、と鮎美は人柄を察した。このタイプとは、ゆっくり親しくなるしかないとも経験している。
「失礼やけど、耳も変形してはるやん。柔道とかも強いの?」
「はい。……。そちらのモニターには詳細に映っているのですか?」
介式が横髪に触れながら、カメラレンズを見ているような視線を送ってきた。お互いを映しているモニターは、それほど高解像度ではないし、人物の耳となると視認しにくいはずなのに、という問いだったので鮎美は付け加える。
「前に参議院の懇親会パーティーで副議長さんを警護してはったやん?」
「はい」
「あのとき見かけて声もかけさせてもろたんやけど、覚えてくれてへん?」
「はい」
「……。そっか、うちは覚えてるんよ。強そうな人やなって」
「そうですか」
「うちの警護も、よろしくお願いします」
「はい。お話は以上ですか?」
「もう少し。介式はんって結婚はしてはるの?」
「そういった個人的なことには答えられません」
「ほな、鷹姫とは、よく会うの?」
「ここ数日、非番の日に会っています」
「会って、何してはるの?」
「逮捕術と制圧技術、近接格闘術を教えています。そろそろ持ち場に戻ってよろしいですか?」
「うん、おおきに。また話してやってな」
介式が敬礼して出て行くと、桧田川が言う。
「あのタイプと、よく会話が続くね」
「まあ、慣れてるし。議員になってから、色んな人とも会うし」
「えらいね。けど、あの人は関東から来てるから、あんまりコテコテの関西弁で話すと失礼かもしれないよ。ちょっと怒った感じだったし」
「あれで怒ってはいはらへんよ」
「かもしれないけど、そのハルハラも、私たちには丁寧語に聞こえるけど、あっちの人には意味不明だったり、介式ハンって呼び方も、人によっては軽く扱われてるって感じるよ?」
「そうなんや……注意しよ」
「あと、私たちくらいの年齢の働いてる女性に結婚してるか、してないかを訊くのも。セクハラ」
「う~……気をつけます。前から気になってたんやけど、桧田川先生って、おいくつ?」
「それもセクハラ」
「厳しいなぁ。あ、夕ご飯なに?」
「カレイの煮付け、ホウレンソウのおひたし、けんちん汁、白米、オレンジです」
「ちゃんとしたご飯が食べられるって幸せやわぁ」
鮎美は夕食を楽しみに待った。
翌1月18日の火曜日、美恋から昼食の鳥唐揚げやキャベツのサラダを食べさせてもらっていた鮎美は、午後から面会に来てくれた鐘留との会話中に困った生理現象を覚えていた。
「ごめん、カネちゃん、まだ5分も話してないけど、ちょっと桧田川先生と二人にしてくれへん?」
「アユミン、どこか具合悪いの?」
「何でもないけど、ちょっと先生に診てほしいねん」
「ふーん……じゃ、アタシは廊下に出るよ」
鐘留がモニター室を出て行くと、桧田川が問う。
「ウンチ出そう?」
「………………」
鮎美は久しぶりに一回だけスイッチを押した。
「そろそろだと思った。食べると出る、自然なことだから、そんなに恥ずかしがらなくていいよ。そっちに行くね」
桧田川が廊下に出て、特別病室に入ってくると、ゴム手袋をはめるので鮎美は不安になった。
「うち……トイレでしたいです」
「ダメ」
「……そんな……」
「息むのが一番ダメ。あと我慢し続けるのも傷口によくないから、出そうなら、もう出しちゃっていいよ。そのシーツの下は防水シートだから」
「………」
「傷口の皮膚に張力、引っ張る力がかかるのが一番ダメなの。だから、トイレで息むのは、まだまだダメ。無理に我慢して緊張するのもよくないから、スルっと自然に出るのが一番いいの。けど、うまく出ないなら掻き出してあげる」
「うぅぅ……」
「ほら、息みそうになってる。力を抜いて。私がやる呼吸法を真似してね。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、この呼吸で力を抜いて」
「そ……それ、妊婦が産むときやるやつちゃいますの?」
「そうだよ。息まないための呼吸だから」
「……ヒッヒッフー……ヒッヒッフー……」
鮎美は諦めて桧田川の処置を受けた。処置が終わると鐘留がモニター室に入ってきて面会を再開する。
「アユミン、どうだったの?」
「うん、もう大丈夫やよ」
「何だったの?」
「何でもないよ」
「その顔は、何か恥ずかしいこと?」
「………何でもないから」
「ま、だいたいわかるよ。きゃははは!」
「…………」
カネちゃん、このネタで、うちのことからかうの好きやなぁ……自分がオネショ治らんから、かなりコンプレックスあるんかも……もとはといえば、ご両親が先天障碍のあった弟さん二人を除いてしまわはったことが、ずっと心に引っかかって……それはそうやろな、自分の親が自分の兄弟姉妹を……なんてこと……受け入れにくいに決まってるのに……なんとか受け入れようって……そやから、ご両親の行動を肯定するような発言をところかまわずするし……その件さえなかったら、カネちゃんは可愛いし頭もいいし、ごく普通に異性愛者で、家も立派で何不自由ない人生やったのに……そっか、ご両親も同じや……障碍のある子供なんか産まれてこんかったら順風満帆、そう思ったから、手をくだした……その選択……それを悪やと言い切るのは酷やろ……かといって三島はんが言うように命は命や……産まれた直後でも中絶でも、いっしょや……キリスト教なんかはド真剣に中絶反対するし……けど、うちら日本の神話ではイザナギとイザナミは最初の子が今で言う障碍児やったから川へ流してはる……あれは、あれで示唆に富んだ逸話なんかも……、と鮎美が長く真顔で黙って考え込んでいると、鐘留が謝りはじめた。
「ごめん、アユミン、ちょっとしたジョークだよ、そんな怒らないでよ。ごめんってば」
「うん、もう、ええよ。気にしてないから」
根はええ子なんよなぁ……自分の可愛さを謙遜せんのと、偏った人権思想を隠さんから、女子の中で孤立してしもて、転校生やったうちと孤高やった鷹姫にくっついてきてくれたし、陽湖ちゃんが生徒会長やから、四人合わせて学園の最強女子軍団とか、四天王とか、いろいろ言われてるらしいけど、実際は新年会でオジサンに酌して回ったり、今なんかベッドに縛られてトイレも行けん有様や、と鮎美はタメ息をついた。
「はぁぁ…」
「ごめん……」
「ホンマに、もうええよ」
「お詫びにさ、次からケーキでも持ってきてあげようか?」
「かねやさんのケーキか……」
鮎美が唾液を飲み込んで、傍聴している桧田川を見る。少し離れた机で論文を読んでいた桧田川が答えてくれる。
「よほど偏った食事じゃない限り、食欲のままに食べてくれていいよ」
「やった」
「良かったね、アユミン」
その後は鐘留と学校や世間のことを話して過ごした。
翌日1月19日の水曜日、鮎美は食べることは嬉しいけれど、一日のうちで一番嫌な時間を前にして、憂鬱だった。
「なぁ、桧田川先生、そろそろ、この両手を縛ってるのと、トイレ、お願いやし、自由にしてよ」
「せっかく、ここまで我慢したのに?」
そっと桧田川はゴム手袋をした指先で鮎美の下腹部にある傷跡に触れた。もうカサブタは一部が剥がれて、薄い表皮が見えている。室内の無菌状態維持も必要度が低下して透明なビニールのカーテンは片付けられていた。
「あと、お風呂も入りたいわ」
「お風呂ねぇ、入りたいねぇ」
桧田川が油っぽくなった自分の髪を撫でた。
「なんとなく思うんやけど、もしかして桧田川先生も、お風呂に入ってない?」
「一応、芹沢さんに我慢させてるからね。手術の日から入ってないよ」
「………そんなことに付き合ってくれるんや……。それに、うちばっかり診てくれてるけど、他の患者さんとか、ええの?」
「あ、それにも気づいた?」
「だって、ずっとモニター室におるやん、ほぼ24時間、ずっと」
「この治療中はね、他の患者さんを診るのはキャンセルしてるの。医道倫理的にも安全面でも、本来、精神障害もない芹沢さんを拘束するのは、あまり好ましくないことだから、せめて、その場を離れずにいるわけ」
「……好ましくないって……ほな、外してよ」
「全体的には好ましくないけれど、傷跡にとっては極めて重要なことだから拘束してるのよ。もう、この段階になってくるとバイ菌よりも、芹沢さんの爪の方が脅威なくらい」
「うち、掻かんように気をつけるし」
「そう言って何人の患者さんが後悔したことか」
「うぅぅ……」
「はいはい、掻き出してあげるね。本当なら看護師とか、看護助手にやらせるようなことでも、芹沢さんは女性に見られるのも恥ずかしそうだから、私が全部やってあげてるんだから我慢して」
桧田川が処置を始めた。鮎美は目をそらして耐える。桧田川は患者の気持ちの落ち込みを避けるために別のことを話すことにした。白衣の胸にある虹色のバッチを両手が塞がっているので顎先で示す。
「私がさ、どうして、このバッチをするようになったか、聞きたくない?」
「……聞きたいですけど……個人的なことかもしれんし…」
「隠してるわけじゃないからいいよ。私の彼氏……彼氏だった、のかな。うん、まあ、私には好きな男性がいたんだよ。中学から好きだった」
「……」
鮎美は話に耳を傾けて、受けている処置の感覚は忘れようと努める。
「芹沢さんの学校と同じで中高一貫教育だったから、同じ高校にも進んだ。そして、同じ医学部にまで」
「二人とも頭良かったんですね」
「まあ、謙遜しても厭味だから肯定しておくよ。けど、彼とは中学から友達って関係で、なかなか、それ以上は進めなかった。私は受験が終わるまでは男女交際は控えようって気持ちでいたし、彼もそうだと思った。けど、晴れて医学部に合格しても、あんまり関係は進まなかった。私は焦ったよ。医学部ってさ、男子への女子からのアプローチ、ものすごいから」
「そうなんや?」
「うん、すごいよ。とくに看護学部の方からは、ものすごいアプローチが来るし、他大学の女子まで合コンを仕掛けてくるし、猛者になるとスポーツ部のマネージャーになってくるの。他大学なのに」
「え……自分の大学やない医大の部活のマネージャーになるんですか?」
「すごいよね、露骨さが」
「はい……すごすぎるというか……全力というか……」
「ひどいと、男子部員の人数よりマネージャーの人数の方が多くなるよ」
「うわぁぁあぁ……修羅場というか、壮絶な光景ですやん。もう恋愛ちゅーより生存戦略みたいな」
「それだけ、みんな必死だからさ、私も焦ったよ。中学からの仲だからって油断してたら盗られるって。けど、関係が長い分、幼馴染み的な感じになるというか、なかなか男女って雰囲気になれなかった。でも、他の女子からのアプローチも無視してくれて、彼女をつくらないでいてくれた。医学部男子の一部は本気で勉強だけが好きって人もいるし、国試に合格するまでは男女交際を控えようって人もいるから、そういう気持ちでいてくれるのかな、って勝手に思ってた。おかげで二人とも勉強に集中して、晴れて国試にも合格、とうとう医者になれたの」
「よかったですやん……けど、バッドエンドは話なんや?」
鮎美が話の先を予想すると桧田川は淋しそうに頷いた。
「医師として働き始めて、彼は美容外科に興味をもっていたから、私も合わせて、そばにいるようにした。いい感じにまわりの看護師たちにも、私が彼女候補ってオーラを出して追い払ってたし、彼も他の女子に目をくれなかったから、友達以上恋人未満な関係で、いつか男女の仲になれるって、淡く想ってた……けど、ある日、私は待ってるのに耐えられなくなって、酔った勢いで彼のアパートに押しかけたの」
「……それで?」
「入れてよ、って言ったら、慌てて室内を片付けてくれて、そういう見栄は持ってくれるんだ、って喜んでたのに、15分後にドアを開けてくれたら、女物の靴が玄関の隅にあった。片付け忘れたんだね……」
「……別に彼女がいたん?」
「って、思うよね。私も顔に出るくらい驚いてたと思うけど、彼は親戚の子が忘れていった靴だって。靴は忘れないと思うけど、そのときは信じた。でも、部屋に入ったら化粧品の香りもして、チークブラシが一つ、部屋の隅に転がってた。そして、ベランダにはさ……外から見えない低い位置に女物の下着が干してあった………私は、いつのまにか泣いてた。彼女ができたなら、言ってくれればいいのに、って。私は勝手に友達以上恋人未満の関係って想ってただけのくせに、泣いて喚いて、彼女面して裏切りを責めた」
「………」
「ずっと彼は黙って私の批難を聴いていたけど、私が泣き止んだ後に玄関から、女物の靴をもってきて、私の目の前で履いて見せて言った。これ全部、私の物だから、って。男と女で靴のサイズって決定的に違うよね。27センチの女物の靴なんて店頭に在庫もない、ネット通販でないと手に入らない。言われてみれば下着もサイズが大きくて、彼の顔にも証拠が残ってた。私が急に来て慌てて洗顔したんだろうね、アイメイクが落ちきってなくて、泣くと黒い筋が頬にできていくの……」
「女装趣味か……トランスジェンダー?」
「トランスジェンダーだって告白してくれた。ずっと、ノリちゃんに隠しててごめん、って。言われてみると、彼と出かけても女友達とやるようなことやってた。ショッピングにも付き合ってくれたし、化粧品店にも。美容外科の勉強になるからっていう言い訳を私は信じていた。彼の一人称がボクやオレじゃなくて、私だったのも中学でも秀才だったから気取ってるだけかと………けど、振り返れば、全部わかる。修学旅行のお風呂も必ず風邪を引いていて入らなかったし、言葉遣いも仕草も、それまでは上品なだけだと想ってたけど、言われたら、わかった」
「……それで別れはったんですか?」
「………。中学から15年以上も好きだった人を、そう簡単に諦められなかった。そういう私の態度が彼を追いつめるのに……、彼、…彼女は私にバレたことがキッカケで周りに隠さなくなった。それまではレーザー脱毛なんかも、医師として体験するためだ、なんて言い訳でやってたのを女性化したいからって。ホルモンも摂取して、どんどん女性化していく彼女を見ていて、私は怖くなった。そして、言っちゃいけないことを私は言った。手術するとしても、男性器だけは残してって。彼女の両親も、それを望んだし、私の両親も中学からの関係だから、いつか二人は結婚するものだって期待していてくれたから、彼女には5人からの圧力がかかった。ひどいこと、するよね、私たち」
「………」
「男性が女性になるための性転換手術って、どうすると思う?」
「……胸を造ったり?」
「豊胸は、けっこう簡単なの。けど、難しいのは性器。少しグロテスクに聴こえると思うけど、棒と袋状の男性器を女性器のようにするためには、表皮を剥いで、それを裏返して穴状にする。そして、それを肛門と尿道の間を切り開いて造った骨盤内に埋め込んで穴状の女性器にする。どう? 芹沢さんはお腹の皮膚を斬られただけで、これだけの思いをしたのに、こんな大手術が身体に、どれだけの負担になるかゾッとしない?」
「……はい…」
「さらに術後も何ヶ月もケアが必要、造った膣が萎縮しないように拡張する作業を毎日しないといけないし、できるだけ神経は残すようにするけれど、感覚が残るとは限らない。排尿障害が残ることもある。トイレで済ませられない苦痛、芹沢さんは、近いうちに解放されるけど、もし今の状態が一生続くって言われたら、どれだけ絶望する?」
「………」
「そして、人間関係も激変する。どれだけ女っぽくなっても男性器が残っていれば、私は彼と結婚したかもしれない。けれど、完全な彼女となった人と私は、きっと結婚しないし、できない。みんなが悩んだ、本人も、私も、親も。けれど、その答えが出ないまま、彼女は死んでしまった」
「……自殺?」
「ううん。肋骨の一部を切り取って女性らしいウエストを造るためにタイで手術を受けてる最中に、ごく問題ない薬剤を使われたはずなのに、ごくごく稀な副作用でショック状態になって死んでしまった。芹沢さんにも説明した10万人に一人もないような副作用、それが起こった」
「……………」
「これが私がバッチを着けてる理由、つまり、ただの未練」
桧田川は処置が終わったのでゴム手袋を外した。
「芹沢さんは、あと少しで何不自由ない生活に戻れるよ。もう少し我慢してね」
「……はい…」
鮎美は深く頷いて目を閉じた。
翌1月20日の木曜日、お昼に鷹姫の手で親子丼を食べさせてもらうという幸せな時間を過ごし、桧田川の手で大便を掻き出してもらうという時間を我慢し、鮎美は美恋と陽湖、それに屋城の訪問を受けていた。少し話した後、陽湖も鷹姫と同じ自動車教習所に通っているので退席した。
「カネちゃんも免許とるし、議員のうちだけが免許無しかぁ」
鮎美がスケジュールのすべてがキャンセルになっているので秘書業務をする鷹姫たちにとっては教習所へ通う格好のチャンスとなっていた。美恋は娘の機嫌を取りながら言う。
「そろそろブラザー愛也にお話してもらってもいい?」
「あ、うん、ええよ。お願いします」
「では、今日はマタイの15章から。シスター美恋、読み上げていただけますか」
「はい。その時、エルサレムからパリサイ人と書士たちがイエスのところに来て、こう言った。あなたの弟子が昔の人々からの伝統を踏み越えているのはどうしてですか。たとえば、食事をしようとするときに、彼らは手を洗いません。イエスは答えて言われた、あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。たとえば、神は、あなたの父と母を敬いなさい、そして、父や母をののしる者は死に至らせなさい、と言われました。ところがあなた方は、自分の父や母に向かって、わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが、それはみな神に献納された供え物なのです、と言うのが誰であっても、その者は自分の父を少しも敬ってはならない、と言います。こうしてあなた方は、自分たちの伝統のゆえに神の言葉を無にしています。偽善者よ、イザヤはあなた方について適切に預言して言いました、この民は唇でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである。人間の命令を教理として教えるからである。そうして、群衆を近くに呼んでこう言われた。聴いて、その意味を悟りなさい。口の中に入るものが人を汚すのではありません。口から出るものが人を汚すのです」
「ありがとうございます。ここまでを聴いて、どう感じますか?」
「う~ん……わかるような、わからんような……父母を敬えっていう道徳は、洋の東西を問わんのかなとか……」
「この部分を理解するには、当時の文化を知る必要がありますし、当時の人であるペテロもイエスに求めています。シスター美恋、その部分を読んでください」
「はい。ペテロはそれにこたえて言った、その例えをわたしたちに分かりやすくしてください。するとイエスは言われた、あなた方もまだ理解していないのですか。口の中に入るものはみな腸に進んで行き、下水に排出されることに気づいていないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来るのであり、それが人を汚します。たとえば、心から、邪悪な推論、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒とくが出て来ます。これらは人を汚すものです。しかし、洗ってない手で食事を取ることは人を汚しません」
「ありがとうございます。どうですか?」
「………たしかに、そう思います。人の心の悪いもんは、口から出て来る……うちは、母さんにも、ひどいこと言うて……ごめんな、母さん」
「もういいのよ。早く良くなってね」
「少し補足します。エルサレムから来た人たちがイエスに言ったこと、食事の前に手を洗うということは伝統と表現されていますが、法律のようなものです。もともとは旧約聖書に基づいて、この時代は様々な法律が作られているのですが、神の示した決まりごとについて、人間はより細々とした決まりを付け足していきました。たとえば、安息日に仕事をしてはならない、と示されているのですが、何をもって仕事、労働と見なすのかには解釈の余地が生じてしまいます。歩くこと、これも労働なのか、と。そこで安息日には1キロ程度しか歩いてはいけない、という決まりが付け足されるのです」
「1キロて……」
「食事の前に手を洗うというのも、この一つでした。当初は高い身分にある人だけでしたが範囲が拡大されたようです。そして、イエスの弟子のうちには、この決まりに従っていない者もいたようです。それを批難に来た人たちに対して、イエスは問いに問いを返しています。これは、はぐらかしたわけではなく後半で答えていますが、まずは前半を補足説明します。父母を敬いなさい、という普遍性の高い決まりがあるのに、続いて。ところがあなた方は、自分の父や母に向かって、わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが、それはみな神に献納された供え物なのです、と言うのが誰であっても、その者は自分の父を少しも敬ってはならない、と言います。とありますが、これは説明がないと、まったく理解できません。当時、年老いた父母は子が養うものと決まっていました。ところが、子が財産は、みな神に献納された供え物なのです、と主張することによって、この義務を逃れることができたのです。しかも、子の財産は必ず献納される必要はなく、ただ宣言するだけで扶養義務を逃れられたので、この当時でも評判の悪い決まりでした」
「社会保障費逃れ、実質はただの脱税やん。タックスヘブンに財産を移すのと、いっしょの」
「そうですね。ゆえにイエスは、あなた方は、自分たちの伝統のゆえに神の言葉を無にしています。とお叱りになるのです」
「……人間のやることって2000年前と、ぜんぜん変わってないなぁ……法律も口から出る理屈も……連帯保証人制度も……法人の解散も……財産を隠して第三者名義にするのも……手前勝手に解釈した法テクニックの理屈で、正義なんて欠片もあらへん」
「「………」」
「汚い世の中や……それを考える、うちかって18歳にして何百万も貯めて……なんもかんも経費で落として……人の汚さっていうのは、底なしやわ………下水に流れるもんの方が、なんぼかマシやわ……。神な………たしかに、神は、人にとって必要かもしれん……良心のないところには、どんだけ法整備したって縛りきれん……9条解釈もひどいけど……努力義務イコールやらんでええ、と解釈されるし……行政処分には法的根拠が要るけど、行政指導には要らんちゅーのも、ご都合主義や……かといって、行政に従わんもんのうちには、悪質なもんもおるし……あまりに、ごちゃごちゃした人間社会のこと、なんもかも、神に頼りたい気持ちはわからんでもない。でもな、屋城はん」
「はい」
「あんた方、マジにキリスト教を信じてはる人らは、世界は6000年前に創造された。マリアは処女でイエスを産んだ。イエスは槍に刺されても復活した。いずれ神を信じていた者は楽園に復活する、そう信じてはるんよね?」
「はい、そうです」
「人生の規範として、聖書に学ぶことは多いと思うわ。けど、非科学的な部分について、うちは、どうにも信じられんのよ。百歩譲ってマリアが処女で子を産んだ可能性は科学的にもあるかもしれん。生物には例外的な現象があるもんやもん。通例が異性愛者なら同性愛者も存在し、病気なのか突然変異なのか性同一性障碍というものもあるように、例外的にマリアという女性が一人で子を産む可能性もある。これを単為生殖というらしいわ。アメーバが分裂して増えるのと同じやね。どういう働きか、マリアの卵巣内で減数分裂が起こらず、そのままマリアのコピーを産む。こういうことは科学的な可能性として完全否定はできんのよ」
「そうですか」
「よく、そんなこと知ってるわね」
つい桧田川が口を挟んだ。
「まあ、うちも、こういう方面は自分の指向上、調べるから」
「「「………」」」
「宗教者にも医師同様に強い守秘義務がありましたよね。そこ、よろしゅう頼みます」
「はい」
すでに美恋からの相談で鮎美の性的指向について知っていた屋城は明確に頷いた。
「ほんで、もしもマリアが単為生殖するとしても、産めるのは女子のみ。男子を産むことはありえへん、科学的に。槍で刺されても復活したちゅーんは仮死状態やったとか、ロンギヌスがすでにイエスの味方やって刺し方に加減があったとか、何かトリックや偶然があれば、可能かもしれん。うちでさえ、刺されて入院したままなんは自民党が死を隠している陰謀で、すでに芹沢鮎美は死んでいるという死亡説までネット上には、あるくらいやもん。現代でさえ虚偽情報が拡がるんやから、当時も処刑されても生きてた可能性はあるわな。現に復活した後、そう長生きしたわけではなく天に帰ってはるし。けど、これらは言い伝えや口伝のうちに、ある程度の改変があったとしても不思議ではない事象として説明できんこともない。けどな、6000年前に世界が造られたちゅーんは、なんぼなんでも無茶や。進化論も否定してヒトは神に造られた、女は肋から、と言われても。そもそも、うちら日本人にも縄文時代ってもんがある。皇紀2600年は誇張やとしても、三内丸山遺跡や各地の貝塚は6000年以上前に日本人が存在したことを示してるし、アフリカでの人類誕生は5万年前かもしれん。ヒトだけでなく類人猿、原人、これらの存在も化石人骨から明らかや。さらには世界は6000年前どころか、2億年前には恐竜もいたし、生命誕生は30億年前、そして地球や宇宙の誕生は、もっと前やん。こういう自分が習ってきたことを考えると、どうにもキリスト教のいうことは信じられんのよ」
「「………」」
「受験生だねぇ。そろそろセンター試験も終わって入試本番かぁ……懐かしいなぁ」
桧田川が本当に懐かしそうに遠い目をして言う。
「私の死んじゃった恋人もさ。楽園とやらで復活するのかな。医大入試に合格した日には抱き合って喜んだんだよねぇ。国試に合格したときは、もう落ち着いてて二人でガッツポーズしただけだったけど、本当は私、抱きつきたかったよ」
「……。ホンマに楽園というのが、一番、信じられんのですわ。うちは人は死ねば終わり。猿の命とも、虫一匹の命とも変わらず、生命活動が終われば、そこで永遠の停止やと思います」
桧田川と鮎美の否定的な言葉に屋城は動じずに答える。
「イエスの復活と、信徒の楽園への復活、それが信仰の根幹です」
「「………」」
「知ることと、信じることは違います。観察することと、信仰することも」
「「……………」」
「宇宙がビックバンで誕生し、ガスや塵の集まりから恒星と惑星が形成されたという見解からみても、私たちの命は奇跡的なまでに巧緻です。熱力学の法則は、世界は秩序から無秩序へ進むと想定しています。では、これほどに地球上で生命が溢れ、鳥が飛ぶことを覚え、人が言葉をあやつる、ここまでの秩序の形成と、その世界設計に何らの導きがなかったと考えることの方が非論理的ではありませんか。生命の誕生と進化を偶然の積み重ねにすぎないとするには、あまりに奇跡的な確率です」
「………うちも思わず信じたくなるような論法やけど、飛ぶことを忘れた鳥もおれば、発達障害で書字困難な児童もいはる。あまりに奇跡的な確率やとしても、この銀河には1000億個の恒星があり、天の川銀河が所属する超おとめ座銀河団には100の銀河と銀河団があり、この宇宙に存在する惑星の数を考えれば、二つ三つ、知的生命体の存在する惑星ができても、それは起こりうる奇跡です。何より人の世に苦しみはたえん。こんな世界に誰かがしたのなら、うちは、その存在を讃える気持ちもあれば、恨む気持ちもあります」
「人の苦悩はすべて原罪に起因し、世の乱はすべてサタンによるものです。神の御心は常に人を愛しています」
「……………おおきに。今日はもう一人で考え事をしたいので。また。……母をよろしくお願いします」
「今日はお時間をくださり、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、マタイ15章、勉強になりました」
鮎美は礼儀正しく屋城と別れ、本当に一人で考え事をした。