「女子高生総理・芹沢鮎美の苦悩」   作:高尾のり子

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1月21日 セクハラ

 翌1月21日の金曜日、三人の友人は教習所の学科と実技に忙しいようで、母親の美恋と半日を過ごしていた鮎美は3時のオヤツにバームクーヘンと苺を食べさせてもらった後、心配そうな顔をしていた。

「……母さん、ホンマに大丈夫なん?」

「ええ、平気よ。何でもないわ。……ぅっ…」

 ときどき、母親が嘔吐しそうな表情を見せるのが心配で5回目にして、桧田川に言った。

「桧田川先生、ちょっと診てやってくれはりませんか?」

「はいはーい。天使のように無料で診てあげよう」

 気さくに言った桧田川が近づくと、美恋は再び嘔吐しそうになる。

「ぅっ…」

「熱はありそうですか?」

「いえ」

 いくつかの問診の後、桧田川が美恋の下腹部を見ながら言う。

「最近、ご主人または、ご主人以外の男性と性交渉したことは?」

「………一度……久しぶりに主人と……」

「私や娘さんの体臭を苦痛に感じますか?」

「……少し…」

「妊娠の可能性がありますね。ちょっと内線電話で連絡しておきますから、婦人科へ行ってください」

 桧田川が院内の婦人科に連絡を取り、美恋は素直に受診しに行った。

「母さんが妊娠……うちに妹か、弟が……」

「つわりは普通だいたい妊娠6週くらいから顕著になるけど、私たち何日もお風呂に入ってないし、敏感になった嗅覚にはきついかもね。芹沢さん、兄弟姉妹は?」

「うちは一人娘です」

「そっかぁ、ずいぶん歳の離れた兄弟になるかもね」

「……うちと陽湖ちゃんが山に登った……あの日の……一回で……一回で妊娠するもんですか?」

「百回やってもしないときはしないし、一回でもするときはするよ。まあ、色々考え込まないで、基本的には、めでたいことだからさ。テレビでも見て、気を紛らわせておいて」

 桧田川はテレビをつけた。

「地球一周のアースマラソンを間寛平さんが成功されました」

「……地球一周か、うちは一歩も歩けへん……」

 もうベッドの上で過ごすこと11日目、特別に柔らかいマットレスに寝ているので背中や腰は痛くなりにくいけれど、寝返りもできないので身体が疼く。足を地につけたことは久しくない。

「東京地検が尖閣諸島中国漁船衝突事件で海上保安庁が保有する映像情報を流出させたとして取り調べを受けていた百色正春(ひゃくしきまさはる)元海上保安官を起訴猶予としました」

「起訴猶予か……百色さん、仕事も無くなって……やのに、漁船の中国人船長は解放って、おかしいやろ……この事件で民主党は、めちゃ支持率、落としたなぁ」

「もし、芹沢さんが総理大臣だったら、どうしてた?」

「……う~ん……中国側は無関係の日本人会社員を拘束したり、レアアースの輸出を止めたりと、武力行使以外の打てる手は打ちまくってきたからなぁ……。鳩山総理は折れられるだけ、折れたというか、親中国というか……対して中国は容赦なく、国交断絶くらいの勢いで来たから無難に済ませようとしたら折れるしか……」

 鮎美はしばらく考え、答えを決めた。

「むしろ、早期に映像を世界中に配信して、海上保安庁の逮捕に不当性がないことを知らしめ、刑事処分については国内法に基づいて淡々と、総理大臣は関与することなく、あくまで一外国人の不法行為として地検の処分に任せれば良かったんちゃうかな。うちやったら、そうするわ」

「……それだと中国との関係が悪化しない? 経済への影響もあるかも」

「セクハラといっしょで、こっちが黙って受け入れてたら、ドンドンつけ込んでくると思うんよ。こっちも強い態度に出んと、曲がったことは曲がってると言い返さな、次はもっと不当な要求される。レアアースが無うても、食料が無くなるわけやない、石油もある。何より司法に行政が介入したら三権分立の大原則がグダグダや。ロシア皇太子を斬りつけた暴漢を大逆罪で死刑にせいと圧力がかかっても法秩序を守った大審院の児玉惟謙を思い出したらええねん。経済への影響も、セクハラで女が訴えるときと同じで、痛みは覚悟せなしゃーない。後の歴史に、どう影響するか。もし、児玉大審院長が折れおったら、のちのち日露戦争で兵士の士気に、どう影響したか、下手したら負けてたかもしれん。そもそも開戦の覚悟ができんで、ずっと不利な状況に置かれてたかもしれん。それを思い返したら、うちが総理大臣やったら、処分は検察に任せる。外交的には映像の公開で正当性の主張、これでいったと思うわ」

「……鉄の女って感じね……」

「もっとも、これは後知恵に過ぎんよ………そのとき現場で総理大臣やった鳩山さんは、刻一刻と入ってくる情報の中で、ベストそうな選択をしたんやろ……後になって外野やったもんが言うても、傍目八目やわ」

「たしかに、後から言ってもしょーがないってことはあるよね。中国の指導者の方が一枚上手だったわけかな」

「…………けど、傍目八目ついでに、うちが中国の指導者やったら、むしろ民主党政権とは仲良くするわ。それで油断させて9条の夢を見せて、米軍を日本国民が追い出すように仕向けてから、ゆっくり料理したるわ」

「怖っ…」

「そうせんのは、そうするだけの余裕が無いからかな……戦略的には短慮やな。戦略といえば、北朝鮮よ。いつも食料が無い、食料が無い、言うてるけど、緯度的には北海道より南なんやから、農業に気合い入れたら、すぐ芋でも獲れるやろに。なんで、いつまで経っても食料不足なんやろ? 食べることは基本やん。むしろ、食料不足こそが人民を支配する秘訣なんかな? どう思う、桧田川先生」

「えっと……………私、医者なので、そういうこと、わかりません」

 桧田川はチャンネルを変えてみたけれど、ニュースの時間帯のようで、他のチャンネルもニュースを流していた。

「イギリスのBBCが二重被爆者の山口彊さんをバラエティー番組で不適切に紹介した問題で謝罪しました」

「英国紳士もゲスいなぁ…」

「あ、これはさ、私のイギリスの友達と、さっきもチャットしてたんだけど、別に山口さんをバカにしたわけじゃないらしいよ」

「ほな、どういう話やったん?」

「この山口さんは広島で被爆した翌日に救援列車で長崎へ移動したんだって。で、それを聴いた出演者が、おいおい原爆の翌日に列車が動いてたのか、イギリスじゃ落ち葉が線路に積もったって言って運休になるのによ、って日本の鉄道を誉めたというか、自国の鉄道がよくストップすることへの自虐ネタだったの。ただ、山口さんが世界で一番不幸な男って風な紹介になったのは確かだけど、それも生き残ったわけだから、完全な不幸でもないよね。ただ、放射線は浴びたよね、って言い方になってたらしいよ」

「う~ん……うちも大阪人やったから、ネタに生きるのはわかるけど、自虐ネタに他虐が混ざるとなぁ……難しいんよなぁ、言われた方がキレたら、それはネタとして失敗やし。放射線かぁ……。うちでも刺されたこと、自分で自虐ネタにするならともかく他人に何か言われたら、ええ気分はせんやろね。まして、ずっと残る放射線の影響は体験したもんしか、わからんやろし。結局、被害者、その当事者になってみんと、わからんのよな、本当の痛みってもんは」

「そんな顔しないで、もっと明るく気分を前向きに。あ、そうだ。夕飯の前に少しだけ、歩いてみようか。あと、シャワーにも入ってもらうね」

「……シャワー……やっと……」

 鮎美が待ち焦がれたという顔で髪を撫でた。なるべく衛生的に身体は拭いてもらっているけれど、やっぱり入浴とは違う。とくに洗髪は待ち遠しかった。

「じゃあ、これから手足を自由にして、おしっこを採ってる管も抜くけど、その前に注意事項を言います。よく聴いて必ず守ってください」

「はい……そんな怖い顔をつくらんでも」

 鮎美は桧田川が今までにない厳しい顔になったので言ったけれど、ますます険しく言われる。

「芹沢さんは、もし11日間24時間ずっと頑張って造り上げ、見守ってきたもの、それも今までにない最高傑作を、つい、うっかり誰かに壊されたら、どのくらい怒りますか?」

「………それは……まあ……かなり……怒るかな……何すんねん、みたいな……」

「ですよね。今のところ傷の治り方は最高の状態です。手術も会心の出来だったし、経過も良好。それを、うっかり痒かったから掻いたとか、そんな理由で台無しにされたら、どのくらい私が怒ると思う?」

「……そんな怖い顔せんでも……」

「言っておくね。もし、うっかり掻いたら、ケツの穴に手を突っ込んで奥歯ガタガタいわせるから」

「ひっ…」

 医療的な処置として指は突っ込まれている鮎美が息を呑む。桧田川は怖い微笑で問う。

「わかった?」

「は、はい」

「よしよし。まずは傷の具合を診るね」

 桧田川は傷口の様子を見ると、ガーゼを貼り付けてから、鮎美の膀胱から直接に尿を導き出しているカテーテルを、ゆっくり優しく抜く。

「息を吐きながら、力を抜いて」

「ハァァ…ぅぅん…ハァァ…」

 液体ではない物が尿道を動く感触に鮎美は唇と小鼻を震わせつつ耐えた。

「はい、抜けた」

「はぁぁ…」

「次、手足を自由にします。注意事項、絶対に忘れないでください」

「はい…」

 鮎美は万一にも自分の傷口を触らないよう自戒して手を握った。桧田川が手足と胸、首の拘束を外してくれた。

「まだ起きないでよ。11日も寝たきりだった身体が、思うように動くなんて思わないで」

「はい…」

「歩いてもらう前に服を着てもらいます。病院で販売してる一着1980円の病人向け浴衣がありますけど、別料金ですが購入してくれますか?」

「はい、お願いします」

 鮎美は藍色の唐草模様が描かれた浴衣と大人用の紙オムツを着せてもらった。

「……ぅ~……なんでオムツなんですか?」

「ずっと管を入れてた尿道が、ちょっと漏らしちゃったら恥ずかしいでしょ?」

「……はい…」

「まずは座る姿勢に慣れてもらいます」

 桧田川は電動でベッドを起こすと、鮎美をベッドの端に座らせた。久しぶりに座ると、身体を重く感じるし、軽い立ちくらみのような感覚もある。

「ちょっと歩行補助器を取ってくるけど、傷口を掻いたら、どうなるか、わかってるよね?」

「はい……わかってます…」

「よろしい。勝手に立たないでよ。最悪、転けるから」

 桧田川が出て行き、5分ほどすると、鷹姫と戻ってきた。なぜか暗い表情をしていた鷹姫は浴衣姿の鮎美を見て笑顔になってくれる。

「起きて大丈夫になったのですね」

「うん、これから歩く練習やって」

「はい、これに掴まって」

 桧田川が肩の高さほどある歩行補助器を鮎美の前に転がしてくる。金属パイプ製で大きな馬蹄形をしていて、その馬蹄形の中央に身体を入れると、どの方向にもバランスを取ってくれ、下部にはキャスターがついていて、ゆっくり転がすことができる。鮎美の左右に桧田川と鷹姫が立った。

「ここを両手で掴んで、ゆっくり立ってみて」

「はい……うっ…痛っ…」

 鮎美はスリッパを履いて床に立つと、足の裏に痛みを感じた。予想していた桧田川が問う。

「体重をかけると足の裏が痛い?」

「はい」

「臥床が長いとそうなるの」

「がしょう?」

「ああ、ごめん。寝てること、寝たきりだと、足の裏がね、体重を受けることを忘れて、久しぶりに立つと痛いの。すぐ慣れるよ、一度、座って、また立とう」

「はい」

 鮎美は三回ほど座ったり立ったりする練習をして、足の裏の痛みから解放された。

「いよいよ歩こうか」

「はい」

「頑張ってください」

 鷹姫も励ましてくれるので頑張る。歩行補助器に頼りつつ、鮎美は一歩、進んだ。

「……あ……歩けそうです」

「足に障害はないからね。病棟を一周して終わりにしよ」

 三人で特別病室を出ると、扉の左右に介式と男性SPが立っていた。ずっと話には聴いていたけれど、本当に自分を警護してくれていたのだと鮎美は実感する。介式が問うてくる。

「どうされたのですか?」

「芹沢さんが歩く練習をしています。病棟をぐるりと一周」

「わかりました。警護します」

 そう言った介式と男性SPは鮎美の前後に立った。

「こんなに、お伴がおったら、恥ずかしいわ」

 鮎美は前後左右を4人に囲まれ、やや困惑する。介式が生真面目な顔で振り返った。

「芹沢議員、これも業務です。我慢してください」

「……おおきに…」

 礼を言った鮎美は歩き始める。はじめは歩行補助器に頼っていたけれど、10メートルも歩くと、すぐに歩行に慣れた。

「ぜんぜん普通に歩けるわ」

「傷はお腹だけだから」

「この補助器具、もう無くても平気ですよ」

「それはね、むしろ芹沢さんの手を落ち着けておくため」

「……なるほど…」

 動いているからか、少し傷口がむず痒い、何も意識していなければ、うっかり掻いてしまうかもしれないという桧田川の懸念はわからなくもない。ゆっくりと歩く鮎美が病棟を周り、道路側の窓辺に近づいたとき、鮎美は五階くらいの高さにいることに気づき、同時にチカチカと眼下にフラッシュの光りを見た。それに気づいた鷹姫と介式が窓と鮎美の間に立った。鷹姫はマスコミを、介式は万一の狙撃を心配している。

「芹沢先生、外には報道陣がいます。ご注意ください」

「そうなんや……もしかして、ずっと?」

「はい」

「寒いのに、ご苦労さんやな。手でも振ってあげよ」

 鮎美がマスコミに応える気になると、鷹姫に異議は無かったけれど、介式は言ってくる。

「安全が確認されていません。窓に近づくのは遠慮してください」

「……何の安全?」

「外は暗く、こちらは明るいため、狙撃されやすくなります」

「…………犯人は逮捕されんかった? 鷹姫のおかげで」

「過度に不安に思う必要はありませんが、万一にも模倣犯ということもありえます。そも私たちが派遣されているのは、そのような理由です」

「そうなんや……」

「桧田川先生、そろそろ芹沢議員を病室に戻せませんか? もしくは窓のない部屋でのリハビリをお願いします」

「そうですね。一回目だし、このへんで終わって、シャワーを浴びてもらいましょう」

 病室に戻ると、つけっぱなしだったテレビが鮎美のことを報道している。

「一瞬ですが、芹沢議員の姿をとらえました! ご自身の足で歩いている様子です!」

 テレビ画面は真下に向けているので立っていると見えないけれど、道路から病棟を撮影した望遠映像だろうと想像がつく。鮎美がタメ息をついた。

「はぁぁ……心配してくれはるのは嬉しいけど、うちの生存情報より、重要なニュースは、いっぱいあるやろ」

「言っちゃなんだけど、話題性は一番だから。じゃあ、裸になってもらうし、お友達は外で待っていてくれる?」

「はい」

 鷹姫が出て行き、鮎美は自分で浴衣を脱いだ。特別病室の出入口横にバスルームがあるのは出るときに見ていたので、早くシャワーを浴びたくてウズウズしている。

「コラコラ、今ちょっと傷に近いところを触ったでしょ」

「触ってませんよ。帯を解いただけですやん」

「う~ん、心配だなぁ……あ、これで」

 桧田川は弾性包帯を手にすると、鮎美の首に一巻きして結び、結んだ端を両方とも30センチほど残して切る。さらに包帯の端で鮎美の両手首を臍より下に触れない高さで結んだ。

「よし、これで傷口には触れない」

「………」

 鮎美は首輪と手枷のような状態にされて桧田川を不審の目で見る。

「桧田川先生、実はビアンで、しかもサディストってこと、ないですよね? うちを、こんなカッコにさせて内心で楽しんでたりしません?」

「本当にサディストだったら、このまま廊下を歩かせてあげようか? きっと全国放送で流れるよ」

「うっ……すんません。それは勘弁してください」

「足元に気をつけて歩いてね。転けたとき、手を出せないから超危険だし」

 桧田川はバスルームの戸を開け、鮎美が万一にも転倒しないように腰を支えつつ湯船へ導き、紙オムツを脱がせた。桧田川の予想通り、自覚しないうちに尿を漏らしていたようで五百円玉ほどの大きさに黄色く濡れているけれど、それを患者本人が知ると過度に心配するので黙っておく。桧田川は防水性の強固な医療テープを裸にした鮎美の下腹部へガーゼの上から貼り付ける。

「シャワーを出すから、手すりに掴まっていて」

「はーい」

 病院のバスルームらしく、あらゆる箇所に手すりがあり、両手が狭い範囲しか動かせない鮎美もバランスを取ることができた。桧田川が適温でシャワーを出してくれる。

「私は準備するから、しばらく身体を温めていてね」

「おおきに、ありがとうございます。あああぁ……気持ちええ……最高やわ…」

 鮎美は身体を流してくれるシャワーの感触にうっとりとした。桧田川はそばでビニール製の防水作業着を白衣の上から身につけた。

「身体を洗ってあげるから、絶対に手すりから手を離さないでよ。泡で滑って転んだら大変だから」

「はい」

 素直に鮎美は身体を洗ってもらい、気持ちよさに目を細めた。

「次、頭は自分で洗って。腰を支えていてあげるから」

「はい」

 臍より下には触れないけれど、頭は洗えた。頭皮の油を流すと、また生き返る心地だった。ようやく全身がさっぱりしてから、桧田川が汗だくになって頑張ってくれていることに気づいた。

「桧田川先生も、いっしょに入らんの?」

「それは私の裸が見たいとか?」

「ちゃいますよ。汗だくですやん、先生も何日も入ってへんのちゃいますの?」

「私はあとで入るよ。さ、名残惜しいでしょうけど、もう揚がって。傷口が汗でふやけるから」

「はーい」

 鮎美は身体を拭いてもらい、ベッドに横になった。首と両手を縛っている濡れた包帯を鋏で切ってくれるし、傷口を覆っていたガーゼと防水テープも剥がしてくれる。ビニールの作業着を脱いだ桧田川はハンカチで顔の汗を拭いてから、ゴム手袋を着けて、新しいカテーテルキットを開封して鮎美に向けた。それが、どこに挿入されるものか、知っている鮎美は脚を閉じる。

「それ入れんと、あきません? もう歩けるし、トイレに行けるし」

「トイレに行ける行けないじゃなくて膀胱が膨らんで皮膚が張るのが困るの」

「こまめにトイレ行きますし」

「寝てる間は?」

「………」

「ほら、脚を開いて」

「…はい…」

 諦めて受け入れた。

「また手足も拘束なん?」

「それは、あとで」

 桧田川は新しい包帯を1.5メートルほど鋏で切ると鮎美に差し出した。

「私は、これから近所の銭湯に行くから、芹沢さんは自主的に両手をベッドに縛っておいて。万が一のときは、この鋏で脱出して」

 そばに鋏も置かれた。

「え? どういうことなんですか?」

「医師の監視下にないのに、手足を拘束するのは、まずいの。けど、本人が自主的に縛る分には問題ないから」

「法律の抜け穴みたいな……。それに別に銭湯へ行かんでも、そこのバスルームを使わはったらええですやん」

「このバスルームは芹沢さんのためのもので、私が使うのは規則違反」

「……いろいろな縛りがありますね……世の中……」

 鮎美は自分を縛りながらつぶやいた。たしかに入浴すると傷口がふやけたようで痒い。油断すると掻いてしまうという桧田川の心配は理解できるので鮎美は手首を包帯で縛り、ベッドの頭の方にあるパイプに通して、反対の手首を縛る前に長さを調節して臍までしか触れないようにした。ハンパなところまでしか手をさげられないので、いっそ両手を後頭部で組んで枕にすると、桧田川が鮎美の腋を見ながら言った。

「かなり伸びてるから剃ってあげようかと思ったけど、私も暑くて限界だったから。どうせ、入院中はヒマだし、レーザー脱毛してあげようか? 半額で」

「半額……う~ん……」

 鮎美が自分の腋を見て悩む。冬服になったのと鷹姫が剃らないので、なんとなく伸ばしているうちに、もう鷹姫と同じくらいに伸びきっていて、肌が白いところに黒い毛が生えているので、手を枕にしていると、かなり目立つ。

「半額って、正規料金は、いくらなん?」

「両ワキ永久保証なら39万円、一回なら2万円の半額」

「………どうしよかな…」

「女性が一生涯にかけるカミソリとソープ、お湯の値段は約36万円だけど、三日に1回、10分かけるとして7万2000分、1200時間、かりに一日16時間の活動だとして実に75日間もワキのお手入れにかかってる計算だよ」

「……75日も……腋剃りだけで……」

「男性は顎まわりだから通勤中に信号待ちで髭剃ってる人とか時間を節約してるなぁ、って思うけど、私たちは風呂場でないとできないから面倒だよね。その面倒さから一生解放されるよ?」

「女って面倒なもんやね……」

 鮎美は片手で自分の腋に触れながら考える。

「永久脱毛って毛根を殺してしまうんやんなぁ……そう思うと、なんか可哀想な気も……睫毛は大切にされて見せかけだけ増やしたり、眉毛は流行で剃ったり描いたり、そうかと思えば気に入らん毛は執拗に刈り取られて………癌でもないのにレーザーで焼かれる……うちはお腹の皮膚を傷跡が残らんように必死になってるのに、腋の毛根は焼き殺す……人間って勝手やわ……」

「あのォ、ワキくらいで感傷にひたるほど、入院生活でブルーにならないで。迷うなら、いつでもいいよ」

「おおきに。しばらく、このままで、女やからって腋は剃るべきって考え方も、どうなんかなって思うし」

「……。もしかして、芹沢さん、男に生まれたかったとか?」

「ちゃいますよ。うちの性自認は女です。好きになるのも女やけど」

「そう。私もサッパリしたいから、もう行くね。くれぐれも、傷口は掻かないでよ。掻いたら、おしっこの穴に指を突っ込んで奥歯が抜けるほど悲鳴あげさせるからね」

「怖すぎますって」

「じゃ」

 桧田川が病室を出て行くと、鷹姫がモニター室に入ったようで、こちらに映像と音声を送信してくる。もう鷹姫は操作を覚えているようだった。

「桧田川先生が話し相手になっているようにと言われましたので」

「おおきに」

 鮎美は裸だったけれど、鷹姫へ送信されている映像は肩から上の顔まわりだけだとわかっているので安心して手を枕にしたまま応える。

「やっとシャワーも浴びたよ。ああぁ、サッパリした」

「お元気になられて、何よりです。……」

「鷹姫は今日一日、どうやった?」

「…。はい、普通です」

「普通って何をしてたん?」

「……。自動車の運転を習いました」

 鷹姫の表情と応答が冴えないので、すぐに鮎美は気づいた。

「鷹姫、何かあったよね? 何を隠してるの? 言うてよ」

「…………。……」

 しばらく考えた鷹姫が口を開いた。

「………警察署の方から、私を犯人逮捕に貢献したとして表彰したいと……言われましたが、断りました」

「なんでよ?」

「鮎美に怪我を負わせておいて、私が表彰されるなど、恥ずかしくてできません」

「……あんたの羞恥心は感度が高すぎるわ。そんなん、気にせんでええのに」

「…………」

 目を伏せた鷹姫の様子から鮎美は表彰を辞退した件だけではないと感じて重ねて問う。

「それだけやないね? 他に何があるの?」

「……はい……療養中のところ、また御心労をかけることになり……申し訳ありません。……今暫くお待ちください。石永さんなども来られてから説明されます」

「そう……ほな、待つわ」

「…………」

「…………」

 モニター越しに沈黙してしまうと、直接に対話しているときより沈黙を重く感じる。もう室内の無菌状態維持は必要ないので鷹姫を、こちらに呼びたかったけれど、ただの裸なら見られても、そう恥ずかしがる仲ではないものの、カテーテルを挿入している姿を見られるのは、さすがに恥ずかしかった。

「…………」

「…………」

「……痒……やっぱ、ふやけると痒いわ…」

 黙っていると痒さを感じて鮎美は身じろぎした。鷹姫の方は誰かがモニター室をノックしたようで扉の方へ行き、食事トレーを受け取っていた。

「ご夕食だそうです」

「そっか……そんな時間なんや」

 意識すると空腹も感じる。

「夕飯なに?」

「鶏肉の照り焼き、サラダ、ご飯、お味噌汁、ブドウです」

「そっか…………」

「冷めると味が落ちます。そちらへ行きましょうか?」

「………うん。……来て。………ちょっと恥ずかしいカッコやけど、笑わんといてな」

「そんな非礼なことはしません」

 鷹姫がモニター室を出て、こちらへ来る。せめて鮎美は両手で胸を隠して待った。入室してきた鷹姫は裸の鮎美を見ても何とも想わず、ただ心配そうに傷口だけを見てきたけれど、それも順調に治りつつあるので安心した顔で食事トレーをテーブルに置く。鮎美は部屋の隅に置かれてる金属格子とシーツを指して頼む。

「その金属のカゴみたいなヤツと、シーツで身体を隠して」

「はい」

 鷹姫が適切に金属格子とシーツで身体を隠してくれた。足から胸まで隠れたので気持ちが落ち着く。鷹姫は電動ベッドのスイッチに触れた。

「ベッドを起こしますよ」

「うん」

 ベッドを起こされると、包帯の長さのために、腕をあげざるをえず食事をするのに行儀が悪いのは承知で鮎美は再び両手を枕にした。鮎美の腋毛を見ても鷹姫は何の反応もしないけれど、手首の包帯は不思議に思う。

「いつもと拘束が違うようですが?」

「桧田川先生がお風呂に行ってる間は自力脱出できる包帯にかえてくれはってん。うちは精神病やなくて、単に傷口をうっかり掻くことを心配されてるだけやから。実際、ちょっと手足が自由になると、ホンマに掻いてまいそうになるから縛られてるのが正解やと実感するわ」

「そうですか」

「……」

 鮎美は少し恥ずかしいけれど、両手を枕にしたまま訊いてみる。

「うちの腋、かなり毛が伸びたやん?」

「そうですね」

「どう思う?」

「どうと言われても………前に女子は剃る方が良いと主張されていませんでしたか?」

「うん。でも、なんとなく鷹姫の真似して伸ばしてみたんよ」

「真似ですか……何の意味が?」

「う~ん……そう言われると…」

「どれから食べますか?」

 どうでもいい話題としか鷹姫は見なさなかったようで冷める前に料理を食べさせてくれる。鮎美も空腹が優先だった。

「お肉!」

「どうぞ」

 鷹姫が箸で口元へ運び、食べさせてくれる。

「ん~♪ 美味しいわ」

 最高に幸せな心地だったけれど、鷹姫のお腹が鳴った。

「鷹姫、夕飯は?」

「…もう食べました…」

 また鷹姫のお腹が鳴る。鷹姫の顔が恥じらいで真っ赤になった。鮎美はクスクスと笑って言う。

「嘘は信じられるようにつこな」

「はい……まだです。いろいろあって…」

「そういえば、この時間に阪本市にいたら、もう島には帰れんのちゃう?」

「はい………いろいろありまして……それは、あとで説明があります…。まずは、お食事を、どうぞ」

「うん……。でも、鷹姫と半分ずつにしよ」

「それはダメです。きちんと栄養を摂ってください」

「うちだけ食べるのイヤよ」

 鮎美は二口目を拒否した。

「………困らせないでください」

「ほな、鷹姫も食べいぃよ。いっしょに」

「半分では栄養が足りませんよ」

「これ食べ終わったら何か買ってきてよ。一階にコンビニあるらしいやん」

「………」

「ほら、半分ずつ。早く食べよ。冷めるやん」

「……わかりました。いただきます」

「あ、うちも、いただきますを忘れた。いただきまーす」

 一組の箸で二人で半分ずつ病院食を食べて、さらに鷹姫が院内コンビニで買い足してくれ、満ち足りた気分で、お茶を飲ませてもらう。

「あーっ美味しかった。コンビニの味付けも久しぶりやと、懐かしいわ」

「………」

 鷹姫は黙って後片付けをする。桧田川が銭湯から気持ちよさそうに戻ってきた。

「はぁぁぁ…生き返ったわ!」

「桧田川先生って、ええ先生やね。うちに付き合って、お風呂を我慢してくれるなんて」

「フフフ、なんとしても、私も傷跡を残さず治したいからね。医師と患者の信頼関係は大切なの」

 桧田川が微笑んでいると、病室の扉がノックされ、鷹姫が対応して静江と陽湖、鐘留を入室させた。鐘留以外は顔色が暗い。桧田川は何かあったと察して、病室の奥に移動した。静江が沈んだ声で鮎美へ問う。

「お兄ちゃんも来てますけど、モニター室から対話してもらっていいですか?」

「そんな大事があんの?」

「なるべく大事にならないうちに、解決したいんです」

「そっか、ほな、どうぞ」

 鮎美は胸がシーツで隠れているか手で確認してから、また両手を枕にした。

「アユミン、腋毛がめちゃ伸びてる」

「あかんの?」

「え? ……まあ、本人がいいなら、いいんじゃない。アタシなら死んでもヤダけど」

「そんな簡単に死ぬ言わんとき」

 くだらない会話をしているうちに、石永がモニターに映った。石永は胸をシーツで隠しただけの鮎美の姿から目をそらして応答する。

「さっそく本題に入っていいかな?」

「はい、どうぞ」

「実は三人に通ってもらっていた自動車学校の件なんだが、ちょっとトラブルが起きた」

「鷹姫らの?」

「「「……」」」

 鷹姫は申し訳なさそうに、陽湖は泣きそうな顔で、鐘留は肩をすくめて、そろそろ暑くなってきたので、いつもの完全防寒を脱ぎ、制服姿になった。

「ここ暑いね」

「うちに合わせてるから。ほんで、トラブルって?」

「その自動車学校の経営者は我々の支持者なので、無理を言って、この時期に三人が早く免許を取れるよう計らってもらっていたんだ」

「……? 運転免許って、そんな裏工作がいるん? 誰でも取れるもんちゃいますの?」

「芹沢先生が知らないのは無理もないけれど、一月から三月にかけての時期は、どこの自動車学校も学科はともかく実技はキャンセル待ちが出るほど混雑するんだ。だいたいの高校が三年生の三学期まで免許の取得を禁止しているから」

「そうなんや……」

「だが、芹沢先生が入院している間に、一気に三人が取得できれば、色々と助かるだろうと特別に頼んで実技のスケジュールを組んでもらった」

「……それってバレたら、やばい?」

「いや。自動車学校は私立だから、たいして問題はない。問題は教官と三人の間で起こった。静江、続きを説明してくれ」

「はい。三人を主に担当した教官は経営者の息子でした。息子といっても30代で、実は以前に自動車学校のお金を使い込み、それがバレて父親からクビにされていたのですが、教官の資格はあり、今回、私たちが無理を言ったことで急遽、教官として復活していたのです」

「……嫌な予感がするわ」

「ご察しの通り、彼が問題でトラブルが生じました。端的にいえばセクハラです」

「セクハラかァ………どこにでも、あるなァ、ホンマに」

 鮎美が枕にしていた片手を両目にあてた。そして、泣きそうな顔をしている陽湖を見る。

「陽湖ちゃん、何されたん?」

「……はい……初めは手を触ってきたり……それも、ハンドルの握り方を教えるとか、そういう理由をつけて。肩に力が入っていると言って……肩を触られたり……シートベルトのつけ方を教えるといって、胸や腰に……」

 話している陽湖は嫌悪感が再燃したようで、零れてきた涙を拭い、静江が気遣って背中を撫でる。

「そのうちに……だんだんエスカレートしてきて……運転中は制服の上着を脱ぎなさいと言われたり……エンジンの回転を感じるためにアクセルを踏む足は素足でと言われたりして…」

「ただの足フェチじゃん」

「カネちゃんもセクハラされたん?」

「うん、アタシの神聖な手に触れてきた」

「ほんで、どうしたん?」

 鮎美の問いに鐘留は運転席から助手席にいる教官を睨んだときと同じ、真冬の曇り空のような冷たい瞳で言う。

「触んな、カス」

「………さすが」

 鮎美が元モデルとしての社会経験がある鐘留の対応に感心し、静江も頷く。

「今回ばかりは緑野さんの言い方が正解だったかもしれません。以後、緑野さんへのセクハラは無くなりました。ですが、嫌がらせは受けたようです」

「嫌がらせって何されたん?」

「アタシさ、5回も実技テストで落とされたよ。マジムカつく」

「テストって、どんなんなん?」

「普通に運転するだけだよ。けど、ちゃんとサイドミラーを見たかァとか、左右確認とか、こまごまと、うっさいの。っていうか、教官の主観で、何とでもなるよ、あれ。しかも、落とされると追加での実技教習が1回5000円税別でさ。アタシはともかく月ちゃんは、きついよね? 時給5時間分だし」

「私は1回だけ、落とされました。それは車庫入れで壁に見せかけたパイプに触れたからで、あれは不当な判定ではありませんでしたけれど、シスター鐘留は何度も不当に落とされていました。私より上手いのに、何度も……。教官は私へも教習中に車内で、緑野さんは生意気だから、ああいうタイプが免許を取るとスピードを出して一番危ない、というようなことを言われて……それを否定できない面もあり……」

「うわ、月ちゃん、どっちの味方?」

「私は判定で落とされると困ることより……支持者の息子さんだって聞いていたから……ことを荒立てない方がいいのかもって思ったり……身体に触ってくるのは、やっぱり指導の一部なのかなって……けど、私が運転席に座るときにシートの上に手を置いたりして、お尻まで触られたし……やめてください、って何度か言いましたけど、笑って誤魔化されて……だんだん自動車学校に行くのが嫌になって……でも、入院しているシスター鮎美にも心配をかけたくないし……ブラザー愛也に相談しようかと思っても、身体を触られたなんてこと彼に言いたくなかった………でも、どうしても行けなくなって今日は朝から六角市内のショッピングセンターに、ずっといて……私、どうしていいか、わからなくなって……ぐすっ…ううっ…」

 泣き出しながら話している陽湖は無意識に肘の内側を掻き始めた。首の皮膚もアトピーが再発しつつあるようで荒れている。静江が掻くのをやめさせて問う。

「月谷さん、芹沢先生にも見てもらっていい?」

「…はい…ぐすっ…」

 陽湖が背中を向けると、静江は陽湖の後頭部の髪をより分けて鮎美へ頭皮を見せる。そこには五円玉ほどの禿ができていた。

「かわいそうに、月谷さん、今朝起きたら髪が抜けていて、こうなっていたらしいのです」

「陽湖ちゃん………せっかくアトピー治ってたのに……円形脱毛症まで……それ絶対にストレスのせいやん! 許せんわ!! 警察に行こ!!」

 鮎美が怒鳴ると静江が説明を続ける。

「芹沢先生が、そうおっしゃることは理解できますし、すでに警察沙汰になっています。今日の午前中に宮本さんが通報しました。その経緯を宮本さん、自分で説明できる?」

「はい。今日は2限続けて実技教習を受ける予定でした。それで六角市内の田園地帯を走行中、教官が農道へ入るよう指示され、そこで停車しエンジンを切るように言われたので、その通りにしております」

「……めちゃ怪しいやん……なんで疑問に思わんの?」

 鮎美が心配そうに鷹姫を見るけれど、淡々と説明を続ける。

「はい、私も疑問に思い、なぜ、ここで停車するのですか、と問うたところ、今日は自動車が事故でダムや湖に水没したときの脱出訓練をする、と説明されました。水没時は水圧でドアが開かないのでガラス窓を割るしかないが、素手では難しいし、専用のハンマーを積んでいるケースは少ないが、努力のしようによってはシートベルトの金具で割ることができると言われ、私の手を握ってシートベルトを外させ、いっしょに窓ガラスを割る演習をしました」

「あいつ手フェチ、足フェチだよね」

「次に窓ガラスを割る前には脱出時に衣服が引っかかって溺れないよう裸になっておく方が良いと説明され、私に服を脱ぐよう指示されました」

「……まさか…脱いだん?」

「はい」

「「「「「……………」」」」」

「私が制服を脱ぐと、教官は下着も脱ぐように指示されました。そこで私は疑問に思い、いくら人通りのない農道といっても、このようなところで裸になっては公然わいせつ罪に問われますよ、と忠告しました。ですが教官は、そのためにエンジンと暖房を止めているから大丈夫、ほら窓が曇っているだろう、これで外からは見えないから安心して、と言いました。私が迷っていると教官は、生きるか死ぬかのときに恥ずかしがっていてはいけない、ボクも脱ぐから君も脱ぎなさい、と言い、私のブラジャーを外してきました。そこで私は生死のかかった場面では、もっともなことだと思い、自分で脱げます、と言い裸になりました。二人とも裸になったところで教官はスマートフォンのカメラで私の姿を撮影しました。そして突然に怒ったような興奮した声で、この写真をバラ撒かれたくなければ、言う通りにしろ! と怒鳴られたので、私は自分に何か落ち度があったのかと、ここまでを振り返ったのですが、思い当たらず」

「きゃはは、落ち度だらけだよ」

「どうすればよいですか、と私が問うと教官は急に私へ覆い被さってきました。そして私に身体を近づけて来るので、このとき私は性交を求められているのだと気づき、やめてください、と言いました。それでも教官はやめず、強引に身体を合わせようとするので、私には許嫁がいますので教官と性交はできません、と断言しましたが、なおも続けるので、これでは強姦ですよ、と警告しました。その警告さえ無視されたので、実力行使の要件を満たすと判断し、教官の頭髪を左手で握って掴み、私の右腋の下へ頭部を入れ込み、右腕で首を絞めました。プロレスでいえばフロントチョーク、柔道でいう首挫という技です」

「「ナイスファイト…」」

 プロレスが好きな静江と石永がつぶやいた。

「殺してしまわないように気をつけながら教官を絞めました。うまく技は決まり5秒ほどで、ぐったりと動かなくなり彼の呼吸を確認してから、どうしたものかと3分ほど悩みましたが、やはり通報した方が良いという結論に至り、警察を呼びました。以上です」

「鷹姫……」

 鮎美は頭痛でもするかのように額を両手で押さえた。

「きゃははは、さんざん期待させといて秒殺でイかせるとか、宮ちゃん悪女だね。きっとアイツなんで自分が気絶したか、わかんないまま起きたら手錠されてたと思うよ」

 鐘留が笑い、静江は補足する。

「当然、駆けつけた警察は彼を逮捕したのですが、実は彼の一家は私たち石永家のご近所で、斜め向かいにお住まいなのです。お兄ちゃんとは小学校中学校へ同じ時期に行っています」

「同級生なん?」

「いえ、二つ年上です。私も子供会などで、いっしょに遊んだこともあります」

「そんな変態と……」

「それほど悪い人ではなく、就職には失敗されましたが、父親のところで、それなりに働き、横領したのも他の従業員の半分しか給料をもらっていなかったからで近所では同情的でしたし事件にはなっていません。未婚で、性犯罪の前科はなく、父親からは何とか今回の件は穏便に終わらせてほしいと本当に土下座して、お兄ちゃんのところへ頼み込みに来られ、普通、こういった件で警察は示談に干渉しないのですが、担当課の課長も同じ町内会の人で、公選法に触れないよう奥さん名義で、お兄ちゃんの後援会に入ってくれたりしている支持者で、いまだマスコミには知られていないのだから、なんとか、穏便にと」

「まさか、それで、うやむやにしたんちゃうやろな?」

 鮎美が剣呑な声を出すと、静江は背筋を伸ばして説明を続ける。

「いえ、こういった件で芹沢先生が友人を大切に想われ相談なく示談させては判明したおり、お怒りを買うと考え、現在、すべての当事者に待っていただくよう伝え、今、報告いたしております次第です」

「………」

 鮎美は本当に頭痛がしてきた。静江が恐る恐る続ける。

「被害を受けた三人の気持ちを私がまとめ、相手方へはお兄ちゃんが対応して、今のところは落としどころとして、一人当たり300万円の慰謝料、その代わり刑事告訴はしないという案が出ております」

「………もし、鷹姫が刑事告訴したら?」

「強姦は未遂に終わっていますから、それほど重い罪にはならず……こう言っては芹沢先生のお怒りを買うかもしれませんが、宮本さんは自ら衣服を脱ぐ等……落ち度というわけではありませんが……その…状況的に加害者に有利な部分もあり……こちらで弁護士に相談したところ、おそらく前科が無いので執行猶予はつくだろうとのことです。ただ、私たちとしても大切な支持者ということもありますし、父親だけでなく母親まで謝りに来られ、まことに気の毒というか……そのような次第です」

「…………鷹姫の気持ちはどうなん?」

「突然に襲いかかって来られた時は驚きましたが事なきを得ましたし、刑事告訴してしまうと、芹沢先生の秘書が襲われたということで、またニュースになります。それが波及して石永先生にもおよびますし、自動車学校で特別な手配を受けたことも、好ましい形では報道されないと思われます。ここは発覚せぬよう、穏便に終わらせる方が良いかと考えております」

「……うちのこととか、石永先生のことは抜きにして、女として宮本鷹姫の気持ちは、どうなん? その教官のこと怒ってる? 憎んでる?」

「………私としては、あの件さえなければ、教官のことは尊敬していました。他の教官は予定外に入所した私たちへ、面倒そうに口先だけで指導され、手取り足取り教えてくださったことは、とても感謝しています」

「きゃはは! 脱がされたのにね!」

「落水時の対応としては正しいと思いますし、素足でアクセルを踏むよう指導されたことは本当に役立ち、他の教官たちは私の加速が急だと文句を言うだけでしたが、彼は手ずから私の足へ手を添えてアクセルの加減を教えてくださいましたし、そうすると本当にエンジンの鼓動が感じられて上達しました。しかも、教習後は教官自ら私に靴下と靴を履かせてくださり、師でありながら偉ぶらず私の足を拭いてくださるなど、蒲生氏郷を思い出すような人でしたから」

「ただの足フェチだって。気づこうよ。イエスも似たようなことしなかった? しかも裏切り者がいるとかいないとかのとき」

「ヨハネ13章のいきさつですが……今その話を出さないでください……私も足を拭かれましたけど……嫌な感じしかしなかった……スカートの裾に顔を近づけてきて……ぅぅ…」

「うちも蒲生氏郷が気の毒になるわ。けど、鷹姫は最期の最期まで、ええ師匠やと思てたんや?」

「はい」

「……あんたにとっては道場と同じ素足の方が自然かもしれんし……手取り足取り教えてもらうのも、親切に感じるんかもなぁ……男の内心が、どうであれ触られた側が嫌がってなかったら、それはセクハラやないかもしれんし……この子ならヤらせてくれるかもって期待したんやろなァ……」

 だんだん鮎美も強姦未遂犯に同情してくる。むしろ、自分も似たようなことを何度も鷹姫にしている。隙が無いようでいて男女や性欲のことには大きな隙がある鷹姫へ、ついついセクハラしてしまい、そのうちに興奮が止まらなくなった男の気持ちが、よく理解できてしまった。

「うん、わかった。鷹姫には、あとでお説教な。陽湖ちゃんは、どう? 300万で許せる?」

「私はお金なんて問題じゃありません。けれど……私は少し身体を触られたくらいですから……脱がされたのは靴と靴下だけです………。でも、あの人には二度と会いたくない」

 陽湖が身震いすると、静江が言い加える。

「条件として、もちろん、彼は教官を外され、しばらくは自宅謹慎にするということです。自動車学校も今回の件での評判の悪化をおそれ、三人への今後の教習は必ず女性教官のみをあてると約束してくれています」

「陽湖ちゃんはアトピーと円形脱毛症まで……」

「私が治してあげようか? 自由診療で300万円以内で、余ったら返してあげる」

 桧田川が手を挙げた。

「美容外科のプロやもんなぁ……。となると、あとはカネちゃんやけど、カネちゃんも300万ももらうん?」

「アタシは5億円って要求したよ」

「それは却下しました。緑野さんは手を触られただけですよね。しかも1回」

「テストで5回も落とされた。1回1億円」

「……静江はん、一人300万は妥当なん? 総合的に」

「妥当というよりは被害から考えると多い方です。緑野さんはもちろんとして、月谷さんへは精神的ダメージは大きかったようですが、実際の行為は痴漢まがい程度で、宮本さんへは脱がせましたが、何もしないうちに絞め落とされていますから」

「アタシ、ちゃんと警察署ではあることないこと泣いて演技して盛っておいたよ」

「それ、ぼったくりやん」

 女性たちの話が出尽くした様子なので石永がまとめる。

「芹沢先生、不本意だとは思うし、宮本さんに落ち度があったとか、誘ったとは言わないけれど、慰謝料も少なくないわけだから、なんとか、穏便に終わる方向で承知してもらえないだろうか?」

「…………。……うちは……それは…被害者がOK言うたら、終わりやとは……思うけど」

「では、その方向で相手と協議させてもらうよ」

「5億円!」

「カネちゃんは300万で我慢しとき! 桧田川先生、陽湖ちゃんの診療をお願いします。あと、鷹姫にはお説教な!」

「はい。……」

「鷹姫、ちょっと、この包帯、鋏で切って」

 鮎美は、ずっと手首を拘束している包帯を鷹姫に切ってもらった。両手が自由になり少し肩を回してから、静江たちに言う。

「ご苦労様です。大変なトラブルやったのに、よくまとめていただき、ありがとうございます。今回の件は石永先生と静江はんたちの判断で終えてください。うちは鷹姫をここに泊めて一晩、説教しますんで。もう帰って休んでください」

「はい、ありがとうございます」

「すまないな、芹沢先生の友達を。こちらの立場を理解してくれて助かるよ」

 静江たちが去ると、鮎美はシーツと金属格子をのけて立ち上がるために身体へ挿入されているカテーテルを引き抜く。

「これも抜いて…うっ、ひゃぐぅう…」

「なんてことするの?!」

 桧田川が驚いているし、鮎美も引き抜くときの激痛に震えた。

「ううぅ…痛ぁ…なんで、こんな痛いの…ううっ…先生が抜いたときはスルッと…ぅうぅ…」

「バカね! それは脱落しないように内部で先端がバルーン状に膨らんでるの、そんな無理矢理引き抜いたら括約筋が切れて大変なことになるから! まったく、ちょっと自分が動けると思うと、すぐこれだから!」

「す、すんません。けど、ちょっと鷹姫と話があるんで…」

 鷹姫へ説教する前に、桧田川から説教された。それでも鷹姫へ何らかの指導が必要であることは認めてくれて、いっしょにバスルームへ入りたいという希望を条件付きで許可してくれる。

「私も、いっしょに入ります。それが条件」

「さっき規則違反とか言わんかった?」

「お二人が使うのを安全監視する名目だからいいの」

 桧田川が再び鮎美の傷口へガーゼと防水テープを貼ってくれた。三人で裸になってバスルームへ入るけれど、鮎美は包帯と鋏をもってきている。

「鷹姫、今日、自分が一歩間違ったら危なかったって認識ないやろ?」

「…………はい…」

「あんた素直に言うこと聞きすぎやで。裸になり言われて、はいそうですか、と脱いだら、あかんよ」

「……すみません……指導だと思ったものですから…」

「んな指導を自動車学校でするわけないやん」

「…………」

「まあまあ、そう頭ごなしに怒らないであげなよ。私たち医師もそうだけど、指導的立場にある人間からのセクハラって巧妙で受ける側は拒否しにくくて罠にハマるから。芹沢さんだって、私が悪い医者だったらセクハラを回避できたと思う?」

「……それは……」

「無理でしょ。とくに医師から脱ぎなさいと言われたら脱ぐしかないし、身体を任せるしかない。まあ、その分、私たち医師は立場を利用した患者への性犯罪は一発で免許取り消し処分だけどね。患者さんが受けるダメージは、とても大きい」

「……。とにかく、鷹姫、あんたについて前から気になってたんやけど、男の前で裸になるのを恥ずかしいって感じる?」

「………いえ、あまり…」

「やっぱりか……。桧田川先生、これって病気やろか?」

「う~ん……羞恥心のメカニズムは、それほど研究されてないの。文化とも深い関わりがあるし、個人差も大きい。状況や環境にもよるよね。単純に私たち今、裸だけど異性もいないし、閉鎖されたバスルームだから少しも恥ずかしくない。けど、これが駅前だったら大変。でも、混浴だったら女性によるし、男性だって恥ずかしがる人と平気な人がいる。……」

 桧田川は語りながら気になったので鮎美の耳に口をよせ、鷹姫には聞こえない小声で問う。

「宮本さんって、芹沢さんの性的指向を知ってる?」

「……気づかれてないつもりです…」

 刺されて死ぬのだと思い込んだとき、愛していると言ってしまったけれど、その話題に鷹姫は触れてこないし、鮎美も小声で答えた。桧田川は話し方に注意しながら説明する。

「感覚や感性って、本当に人それぞれなの。色盲って聴いたことあるでしょ。色の見え方だって個人で違う。私が見ている緑と、芹沢さんが見ている緑、宮本さんが見ている緑、それが脳へ同じように伝わっているとは限らないし、同じように脳が感じているとは限らない。あまりに色の識別ができないと信号機なんかが見にくくて、免許が取れなかったり職業に制限があるけど、そうじゃない健常人のレベルでも、きっと差はある。痛みでさえそう。同じ強さで打たれても平気な人、苦しむ人がいるし、同じ人間でも状況で変わる。芹沢さんみたいに刺された場合や交通事故なんかで他人に傷つけられた場合は、より強く痛みを感じるし、逆に自分の失敗で怪我をしたときや自分一人で田んぼに突っ込んで交通事故になったときなんかは、けっこうな怪我でも我慢できたりする。これは子供を見てると顕著よね? 兄弟や他の子に叩かれると、たいしたことないのに大泣きして親に訴えるし、自分で転んだときは、かなり強く頭を打ったのにグッと我慢して遊び続けたりする。実は大人でも同じで、他人に傷つけられると本当に痛みを強く長く感じるし、自分の失敗だと、さっさと忘れる。さらに、痛覚の個人差も大きい。極端な例では無痛症という病気があります。これは、まったく痛みを感じないという障碍です」

「それも障碍なんや? 何しても痛くないのに?」

「何をしても痛くない、何をされても平気というのは、とても危険だよ。たいてい無痛症の人は長生きしない。子供の頃に死んでしまうくらい。よく考えてみて、指を物で挟んでも痛くない。高いところから飛び降りて足が折れても痛くない。つまり危険を認識しないし学習しない。こんな人間は危険を説明されても、なかなか認識できず死んでしまう。男の人の前で裸になっても平気っていうのも、ちょっと危ないよね」

「「………」」

「宮本さん、どういうときに恥ずかしいって感じる?」

「………失敗したときや人に迷惑をかけたときです」

「うんうん、そういうときも恥ずかしいって感じるよね。とくに男性なんかは集団の中で自分の能力が劣ってると感じたり、弱いと思われることを極端に恐れる。だから上半身裸でも筋肉隆々なら、むしろ堂々とするし、経済力を示すクルマの優劣なんかで恥ずかしく思ったり誇らしく思ったりもする。同窓会に軽自動車で行くのは恥ずかしいとかね。さて、女性も身体に自信があるか、無いかで羞恥心も変わります。緑野さんなんかが、いい例よね。キレイな身体してるから隠すより見せたい、そんな気持ち。宮本さんは自分の身体をどう思ってる?」

「……別に、どうも……しいていえば、もっと鍛えようと思っています」

「あ~……なるほど……性同一性障碍、トランスジェンダーって知ってる?」

「はい、知っています」

「自分をそれだと思う?」

「いえ」

「………即答なんだ……う~ん……おっぱいがあってイヤ?」

「いえ、とくにイヤではありません」

「じゃあ逆に、男の人の性器、おチンチンが自分にあったら嬉しい?」

「いえ、とくに嬉しくはないです。胸と同じく邪魔そうですから」

「「邪魔って……」」

「よく男勝りと言われて育ちましたけれど、私は男になりたいと思ったことはありません。どうか、ご心配なく」

「う~ん……宮本さんも腋の処理してないの? ちょっと両腕をあげてみて」

「はい、こうですか」

 鷹姫が腕をあげると、一度も剃っていない腋毛が長く伸びていた。

「それは恥ずかしくない? とくに男性に見られたとき」

「いえ、別に」

「そっか。緑野さんなんかは死ぬほどイヤだって言ってたけど、腋の毛は文化的影響も大きいし……あ、さっき芹沢さん、かなり堂々と見せてたよね。あれ、モニター室にも映ってたから、相手の石永さん、どんな顔してたの?」

「なんか目のやり場に困るって感じに目をそらしたりしてはりました。ちょっと面白かったです。毛くらいで、あんな顔して目が泳いでましたもん」

「あなたねぇ……それ逆セクハラだよ?」

「……そ…そうなんですか?」

「女子高生って自分の身体が、どれだけ凶悪な誘惑をするか、わかってないから危ないのよ。とくに、どんどんスカートを短くするの。襲われる側の落ち度って話は私も女性として反感あるけど、逆に空き巣対策してない家、鍵もかけず戸も開けっ放しで居間に置いてある財布が道路から見えてる、そんな家が空き巣に遭ったら、そりゃ遭うわ、って思うし」

「鷹姫も、そんな感じよなぁ…」

「お言葉ですが、私は自己防衛しました」

「宮本さんの場合、その居間の天井裏に隠れていて、空き巣が来たら飛び降りて木刀で撃退したみたいに感じるよ」

「秒殺やもんなぁ…」

「やはり、私に落ち度はあるのでしょうか?」

「かわいそうだけど、あるよ。三人三様に同じ男からセクハラされて、それぞれに対応したけど、一番賢いのは緑野さんだったみたいね。それでも、不当に成績評価を落とされたりするから、指導的立場にある人間のセクハラって最悪なんだけど」

「鷹姫、あんたは自分が強いから平気って思うかもしれんけど、ホンマに今日は危ないところやったんよ?」

「……。相手は私より小柄でしたし、何の反撃もなく絞め落としていますが…」

「うん、鷹姫、ちょっと車内でのこと振り返ってみよか。もう一回、やり直してみるな。うちが教官役、あんたは、あんたで」

「はい」

「シーンは、あんたが裸になった時点から。教官は写真を取る前に、こう言うねん。水没したときは車内は暗くなる。それでも脱出する訓練のために、君に目隠しをしよう。こう言われたら、あんたは、どう反応する?」

「目隠しですか……たしかに車内は暗くなる可能性があり……訓練としての意味はあるかと思いますから……」

「うん、あんたは素直に目隠しされるやろね。ほな、するね。この包帯で」

 鮎美は持ってきた包帯と鋏で鷹姫に目隠しをした。それを見ていた桧田川は先の展開が予想できてくる。鮎美は包帯を引っ張って強度を確かめつつ言う。

「次、教官は、さらに言うねん。事故で車両が水没したときシートベルトなどが絡まっていて手が動かせないこともありえる。それを体験するため、ボクのネクタイで君の手首を縛るよ、と。はい、手を出して」

「…こうですか?」

 見えないので鷹姫はゆっくりと両手を前に出した。その手首に包帯を強めに巻き、縛るとバスルーム内にある手すりに結びつけた。両手首とも暴れても解けないほど三重に結びつける。

「次、さらに教官は言うねん。運悪くハンドルなどが変形して両脚が動かせないことも考えられる。そんな状況でも脱出できる方法を教えるから、両足も縛るよ、と。足を縛るし、できるだけ両脚を開いて立って」

「…はい…」

 鷹姫が脚を開いたので鮎美は包帯で膝と足首を低い位置にある手すりに縛りつけた。

「完成やね。あとは、いただきます、だけの状態や」

「宮本さん……今日、こうされなくて本当に良かったね……犯人が写真での脅しを選んでくれて………。あ、宮本さんが強いってこと、その犯人は知らなかったの? たしか、芹沢さんを刺した犯人を取り押さえたのも宮本さんよね? しかも、両手を折ったとか」

「鷹姫が取り押さえたことは、犯人同様、氏名は伏せられてるねん。骨折させたこともあるし、鷹姫が表彰を辞退したから余計に学校関係者しか知らん感じで終わってるやろね」

「そっか。素直な子だし、写真で脅せば言いなりになるって思ったんだろうね……縛りを選ばれてたら今頃……」

「あの……それで、この状態から脱出する方法というのは?」

 鷹姫が問うと、鮎美は頭をポンポンと撫でた。

「あるある、教官が満足したら、そのうち解いてくれるよ」

「満足?」

「うちの手を男の手、教官の手やと思ってみ」

 そう言って鮎美は鷹姫の乳房を揉んだ。

「どう? 何か言うてみ?」

「あの……なぜ、私の胸を揉むのですか?」

「気持ち悪いとか思わん?」

「あまり嬉しくはないですが……何のために私の胸を揉むのか不思議に思います」

「ほな、はっきり教官が言うねん。君が好きだ、うちと性交しよ」

 やや頬を赤らめながら鮎美が言ったので見ている桧田川は説教と言いつつ、そこそこにセクハラだと感じたけれど、黙って見守る。

「こう言われて鷹姫は、どう答える?」

「………ご好意は受けられません。性交もできません。私には許嫁がいます」

「そんな許嫁、うちが忘れさせてあげるよ」

 そう言いながら鮎美は胸を揉んでいた両手を鷹姫の股間へ肌を撫でながらおろしていく。桧田川は、どこかで止めるべきだろうと迷いつつも、まだ鷹姫が危機感をもっていないのでドクターストップはかけない。いよいよ鮎美に股間を触られても鷹姫は落ち着いて言う。

「そこには触らないでください。教官、これでは強制わいせつです」

「……鷹姫……危機感を、どうやったら……うちの手を男のアレやと思ってみ」

「アレとは?」

「………男性の性器。あと、さすがに鷹姫の処女は奪えんから、ここから先は口で言うけど、はい、教官は鷹姫が断っても性交してきました。どう抵抗しますか?」

「どうと言われても……これでは、どうにも…」

 鷹姫は目隠しをされて手足を動かせないので困った。それでも思いつく。

「こうなれば、あとは噛みつくくらいです」

「うん…、ナイスガッツやね…。泣き喚くよりは正しい対応かもしれん……」

 鮎美は噛みつくという言葉で、鷹姫が大津田から噛みつかれたという話を思い出した。そして鷹姫の肩を見ると、歯形の傷が残っている。

「鷹姫、ごめん……うちのせいで……噛まれて…傷が…」

「かすり傷です」

「………桧田川先生、この傷は跡になる?」

 言われて桧田川も鷹姫の肩を診る。

「あ~……なんの治療もせず放置したね。残るかもしれないよ」

「鷹姫……ごめん」

「どうか、お気になさらず。……あの、そろそろ解いてもらえませんか? 手が痺れてきました」

「…………鷹姫……あんたに危機感を与えるのが、せめてもの恩返しやと思うから言うけど、この状態で噛みついても結局は強姦されると思わん?」

「……はい……されると思います」

「それは鷹姫にとって、苦痛やろ?」

「………はい、…そう思います」

「そんな冷静な話ちゃうんよ。うちも知らんけど、きっとこうグイグイと嫌な感じに」

 鮎美は手で鷹姫の下腹部をグイグイと押してみる。それで鷹姫が身震いした。

「っ…ぅぅ……やめてください」

「ちょっとは実感した?」

「いえ、ずっと裸だったものですから、トイレに行きたくなっています。解いてください」

「…………。そんなこと言うても解いてくれるわけないやん。それが強姦よ」

「あの、本当にトイレへ行きたいのです。お説教は後で受けますから、どうか解いてください」

「……………大? 小?」

「小さい方です」

「ほな、このまましぃ、どうせ風呂場やし」

「っ…そんな行儀の悪いことは嫌です!」

 鷹姫が頬を赤くして言うので、鮎美と桧田川は気づいた。

「こういうのは恥ずかしいんや」

「羞恥心って、ホント色々ね」

「早く解いてください。お願いですから」

 鷹姫は脚を閉じようとしても閉じられないので困っている。

「そういえば、鷹姫って食欲も隠して恥じらうよね。出す方も、前に温泉旅館で似たようなことしたとき、かなり恥ずかしがってたし」

 そう言いながら鮎美が下腹部を撫でてくるので鷹姫は切迫する。

「さ…触らないでください!」

「もう一回グイグイしよか?」

「っ…」

「芹沢さん、意地悪ね。けど、いい機会だから、ちょっと覚えておいて。膀胱というのは胃と同じで満タン時と空虚時でかなり大きさが変化するの。とくに膀胱の上皮組織は移行上皮といって尿の充満程度により形態と配列まで変えて風船のように膨らみます。尿がないときは一つ一つの細胞は大型で立方体だけど、尿が充満すると引っ張られて扁平化し、細胞層の数まで減ります。ようするに風船と同じで薄く伸びるわけ」

「ふーん……」

「…ぅぅ……解いて…ください……ぅぅ…」

「なぜ、こんな説明をしたかといえば、芹沢さんの傷跡を残さず治すため、皮膚に引っ張る力がかかるのが一番ダメだって言いましたよね?」

「あ、はい」

「ちょっと宮本さんの下腹部を、いっしょに触ってみて。ここが膀胱」

 桧田川が鮎美と手を添えて鷹姫の下腹部を触る。

「ほら、このあたりポッコリと硬い感触があるでしょう?」

「あ、はい、かなり質感がちゃいますね」

 二人の指先に硬い感触があった。

「こんな風に尿が充満すると何倍にも膨らんでパンパンになるの。これが下腹部の皮膚まで押してくると、傷に良くないのわかる?」

「なるほど……それで、うちは管につながれっぱなしなんや……」

「今は大目に見てるけど、これが終わったら、もう退院まで手足の拘束したまま過ごしてもらうから覚悟してよ」

「…う~……」

「ぅぅ…ぅぅ…鮎美……お願いです…」

 それが最期の一言で鷹姫は我慢できなくなった。耳まで真っ赤にして恥じらうので鮎美は愛おしくてキスしたくなったけれど自重して鷹姫の足元をシャワーで流した。

「おしっこで、そんなに恥ずかしいんやったら、うちの指で大を掻き出してあげよか。それなら強姦なみに嫌なんちゃう?」

 鮎美が手を鷹姫のお尻へ滑り込ませると、鷹姫が怒鳴った。

「そんなことをされるくらいなら舌を噛んで死にます!」

「ごめん、ごめん、そんなに怒らんといて」

「……。もう解いてください」

「そやね」

 鮎美が鋏で包帯を切ると、鷹姫は痺れていた手足でバスルームの床に四つん這いになった。かわいそうなので温かいシャワーをかける。

「身体を洗ってあげるし、この椅子に座って。洗いながら、最期のお説教よ」

「…はい…」

 素直に鷹姫はバスチェアに腰かけた。鮎美は身体を洗ってやりながら、股間を洗うときに言っておく。

「人それぞれかもしれんけど、どうしてか鷹姫は女の子としての感性が少し足りんみたいやね」

「……そうかもしれません…」

「けど、これだけは覚えておいて。男の人いうんは、女の身体を狙ってくるんよ。たとえ鷹姫が強くても、うまく罠にハメたら、どうにも抵抗できんのは、わかったよね?」

「…はい…」

「頭も洗うね」

「いえ……頭は自分で…」

「今夜は洗わせて。これもお説教よ」

「……」

「抵抗できんで強姦されるんは、それこそ舌を噛んで死ぬくらい嫌なことなんよ」

 鮎美は優しくシャンプーで鷹姫の頭を洗う。それで鷹姫が亡き母を想い出すことは、よく覚えている。

「鷹姫がちょっと自分の身体に無頓着なんは個性かもしれんけど、少し想像してみ。今日、クルマの中で手足も縛られて強姦された自分の姿、終わってから警察を呼んでも、どうにも消えんよ。それこそ何百万もらっても割に合わん。それにな、性交は一回でも妊娠するかもしれん」

「………」

「もし強姦で妊娠したら、目もあてられん。そんで学校にも近所にも、下手したら家族友人にも隠して中絶に行くんよ。そんな鷹姫の姿を、鷹姫のお母さんが、あの世から見下ろしてはったら、どんな、つらい想いしはる?」

 鮎美も言っていて、涙が零れてきた。あえて鷹姫が悲しむように言い募ると、背中が震えているので泣き出してくれたことがわかった。

「…ぅっ…うくっ……私が……うかつで……すみません……私が…」

「鷹姫、これからは気をつけよな。男の人と二人っきりの状況とか、言いなりになるとか、注意しぃ。お母さんに安心してもらえるよう、自分の身体を大事にしよな?」

「はいっ…はいっ…」

「よしよし、それがわかったら、もうええよ」

 鮎美は背後から鷹姫を抱きしめて、今夜は病室に泊めた。

 

 

 

 翌1月22日の土曜夜、詩織は朝槍とともに東京都内の高級料亭で畑母神を待っていた。礼儀として先に到着して待っていたけれど、畑母神も待ち合わせの3分前に来てくれた。詩織は正座して畳へ手をつき、頭を下げる。

「畑母神先生、本日は、お越しくださりありがとうございます。また、本来ならば芹沢が自ら応接すべきところ、秘書の私などで接遇いたしますこと、お詫び申し上げます」

「朝槍でございます。本日は同席させていただきます」

 朝槍も同様に年上男性に頭を垂れる。

「お二人とも、そう畏まらないで頭を上げてください」

 畑母神も膝を着いて鷹揚に微笑む。お互いに礼儀正しく会席は始まり、畑母神は上座を勧められて腰を下ろし、黒檀の座卓を挟んで詩織と朝槍が対面して座る。

「今回は大変だったけれど、芹沢さんの具合は、どうかな?」

「日に日に回復しております。明後日の国会開会式はもちろんのこと、明日の自民党大会にも顔を出される予定です」

「おお、それは良かった。一部で不心得な者が死亡説など流しておるから心配したよ」

「そのようなデマをお信じになる畑母神先生ではないでしょうに。福島県の焼酎です、どうぞ」

 詩織は対面して座っていた状態から腰をあげて畑母神のそばにより女らしい仕草で酌をする。

「ありがとう」

 機嫌良く畑母神が酔ってくれるよう詩織は露骨すぎず控え目すぎない女性の魅力を駆使して応対する。朝槍は同性愛者として、男性に近づくのは好きではないけれど、無礼でない程度に笑顔で接し、鮎美の状態や国政、都政についての話をした。畑母神も都知事選に立候補するので朝槍が無所属の都議で同性愛者であることをカミングアウトしていることも予習しており、気を遣って会話しているけれど、世代と認識の差は大きかった。

「朝槍先生も今は同性に興味をもっておられても、いずれ異性を好きになることもあるのではないかな?」

「さあ、どうでしょう」

 朝槍は不快感を一切、顔に出さず、畑母神へ逆に問う。

「自衛隊というのは男の世界ですよね。やはりゲイも存在されるでしょうけれど、総司令官のような立場からは、どう扱われるのですか?」

「そういった問題には立ち入らないよ。規則さえ守っていれば」

 少し畑母神が不快そうに答えたので、詩織は軽く朝槍を睨みつつ、酌をする。再び機嫌良く呑んでもらい、会席の後半からは鮎美の計画に賛同してもらえるよう本題に入り、長い説明をした。すべてを聴き終えた畑母神は難しい顔で考え込む。

「すまないが、水を一杯、もらえるか」

「はい」

 水を飲んで酔いを醒まして思考した畑母神は賛同できかねる顔をしているので詩織は機先を制する。

「やはり、芹沢の考えは浅いでしょうか?」

「………いや、パンチラ…失礼、ああいった写真に対する反撃としては私も大いに賛同できる。ただ、他に付帯するフェミニズム的な課題には必ずしも賛同できない部分もある。同性婚も、はたして……朝槍先生を前に言いにくい部分もあるが、はたして結婚という形をとる必要があるのか。何より、妊娠中と育児中の女性に女子平均労働賃金を支給するというのは……極端なバラ撒きという気がするな」

「ごもっともです」

 詩織は頷き、付け加える。

「ただ勢いに乗って言い立てても、おそらくは多くが実現しないでしょう。それは民主党でも同じで、すでに高速道路の無料化も目処が立たず、子供手当も半額以下になりそうな気配ですから、公約達成というのは、与党をもってしても困難。それは自明の理、挙げたテーマすべてが実現しないのは、国民もまた織り込み済みではないでしょうか」

「そのような態度は感心せんな」

「大切なのは前進することです。ことに、畑母神先生の都知事選、これが最期と決戦されるのであれば、打てる手は打ち尽くして置く方がよいでしょう」

 詩織は自衛隊を定年退職し、衆議院議員を一期務めて二期目に落選した畑母神の政治生命が年齢的にも限界であることを、相手を怒らせないギリギリの表現で口にした。畑母神も自覚しているので黙って水を飲む。

「………」

「昨日付で宮崎県知事は辞表を提出し、都知事選への立候補を公式に表明されましたが、今日になって宮崎市の養鶏農場で高病原性鳥インフルエンザが確認され、実に悪いタイミングで知事を辞めたと都民への評価もさがるでしょうが、畑母神先生もまた不倫報道をされています」

「……。認める事実は認めた」

「はい。奥さんとの別居は10年を超え、離婚調停中であることも存じておりますが、世間は愛人と騒ぎ立てるでしょう。けれど、私たち女性の権利を考える運動に連名していただければ、都内の女性票に好印象かと愚考します」

「…………」

「開会式後の記者会見に芹沢の隣りで立ち会っていただければ、都知事選への助力にもなるやもしれませんし、何より芹沢を助けてやってほしいのです。保守論客として名高い畑母神先生がついてくだされば説得力も増します。すべてが実現しないまでも、少しは動かせるかもしれない」

「ああ、政治とは、そういうものだよ。大きくは動かない。根気よく働きかけ、わずかに動かせる、それだけだ」

「ごもっともです。どうか、お願いします。もちろん、ご協力のあかつきには芹沢には都知事選の応援、最大限にスケジュールを空け、全力で応援させます」

「………少しタバコを吸ってくる」

「どうぞ、こちらで」

「いや、将来ある若い女性の前で喫煙は控えるよ。朝槍先生だって趣味が変わって子育てをしたいと思うかもしれない。女性の産む力は国の光りだ」

「「……」」

「すぐ戻るよ」

 畑母神は和室を出ると、料亭の庭園に面した回廊に設置された灰皿の前でタバコに火をつけ、考え事をする。

「ふーっ……」

 煙を吐いた。

「……あの秘書……牧田………こちらを脅してきおった………度胸もあり、頭は切れるが癖が強い………あれは芹沢くんには害になるやもしれんな……」

 タバコを吸い終わると、畑母神は考えをまとめ、詩織たちの待つ部屋に戻った。

「協力してもよいが、一つだけ条件がある」

「はい」

「妊娠中と育児中の女性に支給金を出す話だが、実現が難しいとしても、民主党の子供手当でも問題になっているように、にわかに日本へ入国して受給する者がいるかもしれん。とくに、キリスト教の牧師なぞが外国人孤児と養子縁組を多数行い、受給していることは報道にもあった。こういった不正とは言わぬが、税負担をしてきた国民ではない者が受給するのは、やはり国民感情には合わぬだろう。その部分について、たとえば産まれてから、ずっと日本にいて納税しておるような者は満額、そうでなく居住年数が浅い者については半額や3分の1支給など合理的な区別をつける案に修正するなら、賛同させていただきたい」

「……。わかりました」

「血統で差別するわけではないよ」

「はい。その案とするよう芹沢に伝えます。同意させます」

「……」

「では、明後日、記者会見場で」

 会席を終え、詩織はタクシーで帰る畑母神へ御車代を渡して、車両が見えなくなるまで頭を下げた。朝槍が大きなタメ息を吐いた。

「はぁぁあ! わかっちゃいるけど、わかってくれないなぁ」

「性的指向と趣味嗜好の違いを理解しろと言っても、私たちが戦車や軍艦の種類を理解しないのと同じくらい、彼らの脳には入りませんよ」

「勉強すれば覚えられるよ、その気があれば! シオリンは、よく理解してくれてるし」

「私はバイですから」

「え?! ホント?! ホントに?!」

「こんな嘘をついて、どうなるものでもないでしょう」

「ね、呑み直そうよ。最近ね、私のパートナー、ずっと相手してくれないの」

「露骨なナンパですね」

「奢るからビアンバー行こっ」

「そうですね、一応は畑母神先生を巻き込むことにも成功しました。祝杯としましょう」

 詩織は艶やかに微笑んだ。

 

 

 

 

 

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