翌2月1日の火曜早朝、鷹姫は予定よりも一時間ほど早く、鮎美が眠っている議員宿舎を訪れた。
「ご苦労様です」
部屋前にいる男性SPたちに会釈して、カードキーで室内に入った。
「芹沢先生、お疲れでしょうが、起きてください」
まだ鮎美はベッドで深く眠っている。起こすのが気の毒なほどの熟睡だったけれど、重要な用件なので揺り起こす。鮎美の枕元にはスマートフォンと電マが転がっている。
「……う~っ……」
「起きてください。火急の用件です」
「あ……鷹姫……」
目を開けた鮎美は眠そうに目を擦る。
「急いで着替えてください」
「何なん?」
「民主党の野田大臣がお呼びです」
「……財務大臣が?」
「はい」
「そんな人が、うちに何の用なん?」
「わかりません。朝の閣議前に芹沢先生へ来るよう連絡がありました。早く着替えてください。……これは何ですか?」
鷹姫は枕元にあった電マを問うた。
「こっ、これはな! こ、こうやって肩コリを治すもんなんよ!」
一気に目が覚めた鮎美は電マを肩にあて、どう使う物か実演した。
「お疲れなのですね。時間のあるおり、肩を揉みます。今は急いでください」
「そ、そやね」
鮎美は簡単に洗顔して制服へ着替えた。急いで外に出ると公用車が待っていたので、それで首相官邸に移動すると、小さめの会議室に案内される。室内には野田に加えて、もう一人、閣僚がいた。
「……前原外務大臣…」
「おはよう、芹沢さん。急に呼んで、ごめん」
前原は爽やかに挨拶してくれた。鮎美は男性へ性的興味は覚えないけれど、単純に人として、いい印象を受けた。
「おはようございます。ご用件は何でしょうか?」
鮎美の問いに、野田が時刻を見ながら答える。
「ドミニク氏との対談で、どのようなことを話したのか、我々にも話してほしい」
「とくに録画放送では編集されてしまうから、放送されなかった部分などを、詳しく頼むよ」
前原が補足し、鮎美は落ち着いて答える。
「すみません。放送を見る時間はなかったので、多少重複するかもしれませんが、全体をお話しします」
鮎美はドミニクとの対談内容を、できるだけ急いで簡潔に語った。聴いていた野田がゆっくり言う。
「なるほど、ありがとう。もういいよ」
「はい、失礼します」
鮎美は退室しようとしたけれど、前原が送ってくれる。
「芹沢さん、今度ゆっくりお会いできないかな。食事でも、いっしょに」
「…ありがとうございます。ただ、民主党への勧誘はお受けできませんよ」
「ははは、鋭いね」
「すみません」
忙しい大臣たちとの会合は短時間で終わり、鮎美は朝食会を経て国会の委員会へ出席したけれど、他の議員たちが審議中もスマートフォンをいじって相場を見ているので、気になって鮎美も検索してみた。
「……1ドル77円切ってる……」
ドル円相場が動いていた。
「日経平均も下がってきてるし……金は?」
金地金の価格も調べてみた。
「………1グラム4200円超え……」
腕組みして考え込む。
「……金上昇はともかく、これ以上のドル円不均衡はまずいんちゃうの……」
「誰のせいだろうね」
斜め後ろに座っていた木村が言う。
「ここまで円高になると輸出関連の企業が受けるダメージは大きすぎる。遠からず政府も為替介入に踏み切るでしょうな」
「………」
鮎美が黙って深く考え込むので、木村は邪魔しないことにした。午後の国会と夕方の連続する会議の出席中も考え事をしていた鮎美へ、午後20時を過ぎて、予想通りに詩織がスケジュールを入れてきた。外国テレビ局からの取材が3件もあり、インタビューへの回答を一日考えていた通り、ドミニクと対談したときと同じトーンで答えた。議員宿舎へ帰ると、鷹姫が労ってくれる。
「お疲れ様です」
「…………うん…」
「お考えの邪魔にならなければ、肩を揉みます」
「……おおきに……お願いするわ」
「はい」
鷹姫は30分も丁寧に肩を揉んでくれたので、固まっていた心と身体がほぐれた。
「ありがとうな。遅くまで、おおきに、もう、おやすみ」
「はい、また、明日。おやすみなさい」
鷹姫と別れて入浴してからスマートフォンを見ると、詩織からメールが来ていた。
寝る前に15分だけ私と燃えてください。
電話はかけずメールへ返信する。
毎日しようと、せんといて。ゆっくり休んで、明日も頑張ってください。
と送って眠った。
翌2月2日水曜朝、鮎美は議員宿舎を出る前にスマートフォンと朝刊を見ていた。各紙の一面には再び鮎美の名が踊っている。
「………アユミ・ショックとか、名付けるか……うちが倒産したみたいやん」
「それだけ芹沢先生の影響が大きいということでしょう」
鷹姫は誇らしげに言ってくれるけれど、鮎美は狙い通りとはいえ調子に乗る気持ちになれない。
「うちは主要通貨の足並みをそろえたインフレが目標なんよ。今の円高、ドル安の継続は好ましくないし。新聞が印刷された時点では76円割ってないけど、スマフォ見ると、もう割りそうやん」
「ニュージーランドの市場は3時間早く開きますから」
「半世紀前、ニクソン大統領が金ドル固定の政策を転換するて発表したんは、わざわざ日本市場が開いてる時間やってん。日本市場が混乱するの見越して、やりおった。ええ根性してるわ、アメリカ人」
「彼らの本質は侵略者です」
「何が、あの人らをそうさせるんやろね……日本と中国は、めったと戦争してこなんだのに、欧米中東は何回でも飽きんとやりはる……」
「キリスト教とイスラム教のせいでしょうか……」
「アブラハムの宗教か……うちらには、わからんもんやね。あっ…76円割った」
鮎美がスマートフォンの画面を見ているときにドル円相場が75円台に突入した。
「……鳩山総理……野田蔵相、なにやってんのよ、早う市場介入しぃや」
「芹沢先生、お時間です」
「そうやね、うちが焦っても、何もできんね。けど、発言には気をつけていこ」
鮎美が議員宿舎を出て国会へ入ろうとすると、多数の記者が取材しようと集まってきたけれど、事前に介式たちに頼んでおいたので守ってくれる。守られながら、会釈だけはして通り過ぎた。お昼休みは参議院の若手が集まる昼食会で、党の別なく30代以下が庶民的な雰囲気で会話している。話題の中心は、やはり鮎美だったけれど、新しいニュースが入ってきて松尾が言う。
「政府が為替介入を発表したぞ」
「…よかった…」
鮎美は一安心したし、さらに別のニュースが入った。
「アユちゃんに銃弾を送ったヤツ、捕まったよ」
「え? ホンマ? もう?」
「ほら」
音羽がスマートフォンの画面を見せてくれる。犯人は自称民間軍事会社経営の38歳の男で、過去にミリタリーショップを経営しており、送りつけたライフル弾はかつての商品だった。
「ちょっと介式はんと喋ってこよ」
「あ、私も聴きたい」
「私も」
音羽と翔子もついてくるし、松尾も廊下に出てきた。鮎美は廊下で待機していた介式に話しかける。
「介式はん、うちを脅迫したヤツ、逮捕されたらしいですやん。何か知ってはります?」
「私たちも、さきほど連絡を受けた」
「えらい早い逮捕ですやん。なんでやの?」
「送りつけてきた銃弾はNATO弾というものだった」
「それって北大西洋条約機構とか関係あるもんですか?」
「ああ、主に西側諸国で使われているもので珍しくはない。だが、日本で所持している者は多くはない。他に、郵便の消印や投函前後の付近コンビニに残っていた監視カメラの映像、封筒と手紙に残っていた指紋、ミリタリーショップ経営という経歴、これらから届けられた翌日には目星をつけていたらしい。指紋を確かめる最終的な絞り込みに今日までかかったのだろう。一応、訊くが犯人との面識や見覚えは?」
「ぜんぜん知らへん人です。地元でもないし。犯行の動機は?」
「芹沢議員が行った1月24日の記者会見後、円相場が2円動き、それで1500万円の損をしたらしい」
「2円で1500万も……」
「FXだな」
松尾が言い、介式が頷く。
「そうらしい。為替の証拠金取引をしていて大損したことを恨んでの犯行だ」
知念がSPとしての緊張を少し解いて肩を回しながら言う。
「あきれた動機っすよね。逆恨みもいいとこだし。おかげで介式警部は友達の結婚式に出られずじまい」
「そうやったんですか、うちの警護のために、すんません」
「知念! 余計なことは言わなくていい!」
「はっ、すいません! 以後気をつけます!」
知念は敬礼して謝った。鮎美が問う。
「にしても、けっこう犯人に関する情報、わかってたんですね。うちにも教えてほしかったわ」
「捜査情報は秘匿を要する。とくに逮捕までは」
「うちは被害者ですやん」
「芹沢議員の身近な者や学校関係者が犯人という可能性も最後まで排除できない」
「……そうですね……最初の刺傷事件は、学校の後輩やった……」
鮎美は沈んだ表情をしたけれど、すぐに気を取り直して問う。
「ってことは、これで介式はん、知念はんとも、とうとうお別れですか?」
「いや、まだ数日は用心のため、警護任務は続くだろう」
松尾が考えてから言う。
「犯行の動機から考えると今週の値動きの方が、危ないぞ。オレの弟は、円高が進むと見て50万儲けたらしいから、すっかり芹沢鮎美フィギアを拝むようになったけど、逆だったら投げ捨てたかもなぁ」
「うちのフィギアなんか、あるんや……」
「制服もコスプレ目的とコレクション目的で人気が出て、中国業者がレプリカを作り始めてるし、過去の卒業生がヤフオクに出した本物は高値がついてる。アユミコスはホコテン復活した秋葉にいけば、よく見かけるらしい。どう思う? 本人としては」
「……ノーコメント…」
そう言った鮎美はトイレに入った。一人で排便を済ませられる喜びを再確認して午後の国会と夕方の連続会議も終え、また詩織が調整した外国メディアの取材に応じるけれど、国内メディアも無視すると悪いことを書かれるかもしれないので静江が選んだ2社の取材に応じ、議員宿舎に帰って、その録画を鷹姫と視聴する。
「うちらの計画、怖いくらい、うまくいってるね」
「芹沢先生のおっしゃることが正義だと誰もが感じるからです」
「中には脅迫しよるヤツもおるよ」
「愚か者にすぎません」
「……。うちにも愚かなところは多いよ。浮かれて足元すくわれんようにしよ」
鷹姫と別れて入浴後にスマートフォンを見たけれど、詩織からのメールは無かった。
「押しと引きがうまいなぁ」
少し淋しいので鐘留へメールを送ると、インフルエンザから回復し熱も引きつつあると返事をもらえたので、金曜の夜には訪ねると送った。
翌2月3日木曜の夜、国会を終え、自民党本部での連続する会議も終えて石永とロビーで話していた。
「来週からはオレの案内なしでも、大丈夫そうだな」
「はい。けど、来週からは都知事選が始まりますし、国会が終わったら夕方は応援に行く予定なんで、しばらく欠席してしまうかもしれません。すんません」
「いや、謝らなくていいよ。畑母神先生と引き合わせたのはオレだし。芹沢先生は本当に人気者になって忙しいな」
「自分で始めたことも多いですから」
「そうだな。まだ始まったばかりだけど、オンとオフの切り替え、休息も、しっかり取らないと疲れは気がつかないうちに溜まるから注意して。オレも落選して実感するよ、ちょっと背伸びしすぎてたなぁ、ってな」
「はい……そういえば、今週も忙しかったなぁ……ご飯食べるときも人と話して……気が休まるんはトイレくらい……まだ、今夜も取材あるし」
少し気の抜けた声を漏らしつつロビーから玄関に出る。石永と鷹姫、そして介式たちSPもついてくる。玄関から党の防弾車に乗ろうとしたとき、騒ぎが聞こえてきた。本部前に集まっていた報道陣の中から不審な男がハンマーを持って駆け出してくる。門前を警備していた警備員を振り切り、鮎美へ向かってきている。疲れていた鮎美は、それを危険と認識するのに時間を要したけれど、介式が前から、知念が後ろから鮎美を抱き庇い、他のSP2名が男を取り押さえている。
「芹沢議員を車へ!」
「はい!」
介式と知念が軽々と鮎美を持ち上げ、車に運び込んでくれる。
「車を出せ! ゆっくり急いで!」
「は、はい」
党職員だった運転手が介式の矛盾した指示を正確に意図を汲み取り、すぐに発車しつつも、ゆっくりと徐行で道路へ出た。まだ、介式と知念は鮎美の頭や胸を左右から抱いていてくれる。少し走って運転手が問う。
「目的地は、どこですか?」
「……あ、えっと……鷹姫を置いてきて……しもてるから……。介式はん、なんで鷹姫を置いてきたんです?」
「芹沢議員の安全が最優先される。それに、宮本くんなら大丈夫だ」
言いながら介式は鮎美を抱くのをやめ、知念もやめた。
「うち、とっさで何もわからへんかったけど、鷹姫は怪我してないですか?」
「ああ。おそらく犯人は一名、すぐに取り押さえている。刃物ではなくハンマーのようなものを手にしていた。宮本くんは私が教えておいた通り、我々の邪魔にならぬよう、その場に伏せてくれたから無事のはずだ」
「そうですか。ちょっと、電話かけてみます。次の予定も確認せんとあかんし」
鮎美が電話すると、すぐに鷹姫は出た。
「ご無事ですか?!」
「うん、うちは平気よ。介式はんと知念はんのおかげで。鷹姫は怪我してへん?」
「はい」
「そっちは、どんな様子?」
「今、SPが所轄警察に犯人を引き渡しています」
「犯人が、どんな人か、うちを狙った動機とかわかる?」
「20代か、30代くらいの男性という見たままのことしか……武器はハンマーの他に針金かワイヤーのようなものを所持していました」
「ハンマーと針金って……どうする気やってんろ……」
「わかりません」
「とりあえず、次の予定はテレビ局やんな? どこに行けばいいか、教えて、ほんで合流して」
「はい」
鷹姫が告げてくれたテレビ局でニュース番組に出演すると、話題は政策のことより襲撃のことばかりになり、鮎美自身も何もわかっていない段階だったので答えるのに言葉を選び、苦労した。出演が終わると、鷹姫とSPたちが待っていてくれる。SPの数が4名から6名に増えていた。
「うちの警護のために、ありがとうございます」
鮎美は囲んでくれるSPたちに一礼した。時間で交替したのか、それとも取り押さえ現場にいたからなのか、介式と知念がいなくなったのは少し淋しい。次のテレビ局に移動し、またニュース番組に出演した。今度は襲撃事件の話は少なめで、経済の話になった。ニュースキャスターが言ってくる。
「政府の為替介入で円高は止まり、割安感の出た株も買い戻されましたが、どう思われますか?」
「正直なところ、もう少し早く為替介入していただきたかったです。うちの言ったことの影響やとは責任を感じてますけど、ドル円の不均衡はリーマンショックから米経済が立ち直っていないことが主因やと思います。日本株が買い戻されたのは割安感が出たし、うちが投資家でも、そうすると思いますから普通の反応やと思います。問題の本質は、普通の反応の積み重ねで、大きな利益を蓄えるところが出てくるのは良いとして、そこへ適正な課税がされないことやと考えております」
しっかりと答える鮎美に意地悪したくなったのか、ニュースキャスターは別のニュースの後に、また問うてくる。
「今の大相撲、八百長問題は、どう思われますか? とうとう協会の調査に対し、数名の力士が八百長を認めていますが、芹沢さんは高校生として、また議員として、どうお感じになられます?」
「…え…」
相撲なんか、まったく見んし、けど国技やから下手なこと言うてもあかんよね、と鮎美は考えを巡らし言葉を選んだ。
「相撲は国技ですから、国技に相応しい形に整っていくのが良いと思います」
「国技であると同時に女性の立場から見たとき、土俵に女性があがってはいけない、というのは、どう感じられますか?」
「……」
あ、この人、うちが女性の権利を大きめに言うのを期待してんのや、と鮎美はニュースキャスターの質問が何を狙っているか気づいた。そして、また言葉を選ぶ。
「普遍的な人権意識と、それぞれが大切にしている文化と道徳、宗教の衝突は今世紀において人類が深く考えるべき問題やと思います。道徳と信仰の自由、これが衝突してしまうこともあり、たとえばカトリックの妊娠中絶問題もそうですし、女性の服装規定に厳しい宗教もそうです。逆に女性による逆セクハラもありますし、ファッションだ、という主張もあり、すぐに答えは出ないと考えます」
「土俵の問題に限っていくと、どうですか?」
「……。大切にしてはる文化やと感じます」
ニュース番組が終わり、強い疲労感を覚えた。
「はぁ……」
スタジオを出て、鷹姫とSPに囲まれながら車に乗った。
「……鷹姫、さっきの、うちの答え、どう思う? 相撲の話」
「ごく無難で問題のない解答だったと思います」
「…………もし、剣道が女子禁止やったら、どう思う?」
「それは…………」
考え込む鷹姫の頭を撫でた。
「ごめん、ちょっと意地悪いうてみたかってん、ごめんな」
「芹沢先生…」
「なあ、SPさんらは守秘義務あるし、車内は二人きりって考えて、その呼び方、やめてくれん?」
「……」
鷹姫が迷っていると、鷹姫の携帯電話が鳴った。
「はい、芹沢鮎美の秘書、宮本です」
「私も鮎美先生の秘書、牧田です」
「ご用件をどうぞ」
「あいかわらず録音再生みたいな話し方ですね、まあいいです。イタリアのテレビ局が鮎美先生にインタビューしたいそうです。今から浅草に来てもらえますか? たしか、今夜の予定は、もう無いはずですよね」
「はい、予定はありません。芹沢先生に、うかがってみます」
鷹姫が鮎美に問うと、鮎美は頷き、電話が終わってからタメ息をついた。時刻は午後11時を過ぎている。時差の問題でイタリアでは、ちょうどいい時間なのかもしれないし、鮎美の予定に空きがあるのは早朝か深夜になってきている。
「うちを殺す気か……」
「やはりお疲れですか、今からでも断りますか?」
「ううん、頑張って調整してくれたんやし、受けるわ。うちが影響力を発揮できるんは海外でもパンダやからやねん。パンダなりに頑張るわ」
鮎美は過密スケジュールを受け入れて気合いを入れ直した。