「女子高生総理・芹沢鮎美の苦悩」   作:高尾のり子

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2月16日 提訴

 

 翌2月16日の水曜朝、静江は自宅で目を覚ますと、母親が作ってくれた朝食を兄と食べる。元大臣の父親もいっしょだった。

「お前たちが世話している芹沢鮎美、活きがいいな」

「よすぎて困ってるわ」

「いい子なんだけどなぁ……こっちの思い通りに動く子じゃないよなぁ」

 石永が納豆ご飯を食べながら東京にいる鮎美のことを考える。今現在、都知事選を応援してくれているのも、石永の政治志向には合うけれど、自民党全体としては黙認という程度だった。

「せっかく手にした鮎だ。活きがよすぎて手から逃げ出したということのないようにな」

「「はい」」

「お前たちの今日の予定は?」

「オレは県議の先生方が県道整備の現状視察に呼んでくださってるので、そこへ。午後からは例のチョコレートで口を火傷した斉藤さんの見舞いに。緑野さんは退院してる。夕方は六角市議の集まりに」

「私は東京で、例の集団訴訟の提訴と告訴に出向きます。終電で帰ってこられれば帰ってくるつもりですけど、わかりません」

「その件、谷柿くんからも相談があったよ。ほどほどにな」

「はい。すでに芹沢先生の頭の中で、この訴訟は小さなことになっています。活きはいいけど、こちらの話も聴いてくれる子ですから、落としどころを間違えないようにします」

 家族での朝食会のような会話を終えると、それぞれに車で仕事に向かう。静江は六角駅で陽湖を拾うと、井伊駅まで車で走り一日500円の安い駐車場に駐めて陽湖と新幹線に乗った。

「いよいよシスター鮎美が日本中の出版社を訴えるのですね。女性を淫らに撮った写真をバラまいた罪で」

「そうね。大変な準備作業だったし、まだまだ訴訟が進めば事務作業も増えると思うわ」

「報いは受けるべき人たちです。カメラマンも、印刷所も、書店も」

「………。そう興奮しないで、到着したら休む間もないかもしれないから、いまのうちに寝ておいて」

「はい」

 二人とも鮎美ほど多忙ではないけれど、寝られるときに寝ておくのは重要なので新幹線の中では寝て過ごし、東京駅に到着すると駅構内で昼食にする。事前に静江が予約しておいた2000円以内で食べられるイタリアンの人気レストランで陽湖とパスタコースを楽しみ、きっちりと領収書をもらって国会議事堂に向かう。鮎美の方も議員食堂での昼食後に国会議事堂前に出て来てくれ、一部のマスコミに通告しておいたので囲み取材を三人で受ける。鮎美が中央に立ち、静江と陽湖は左右に立った。

「芹沢議員、国内の大手出版社すべてを訴えるようですが?」

「すべてでも無いですよ。児童書や専門書ばかりの出版社は入っていません。入っているのは同意無く女性の下着や胸元を写した写真を出版したところ、そして、カメラマンや印刷所、書店です。書店は大手のみに限りました」

 あいかわらず鮎美は多数のカメラに囲まれても堂々と話している。その背中を見て陽湖は立派だと感じていたけれど、急にトイレへ行きたくなった。

「……ぅぅ…」

 お腹が痛い。昼食に食べたパスタに載っていた生ハムが悪かったのか、それとも朝食に自分で焼いた湖魚が生焼けだったのか、おそらく後者な気がしてくる。時間が無かったので自分の分だけ早めに仕上げてしまい、美恋と玄次郎の分にはしっかりと熱を通したけれど、陽湖が食べた物は芯が生しかった。それを思い出すと、ますます腹痛は強くなるし脂汗が流れてきた。

「…ハァ……ハァ……ぅぅ…」

 気を抜くと今にも限界を迎えて失禁してしまいそうで、テレビカメラの前でそんなことになるのは避けたい。陽湖の役割は鮎美の左右に立っているだけで、喋る予定などはない。そっと陽湖は持ち場を離れ、そばで見ていた鷹姫に小声で告げる。

「ちょっとトイレに。私の代わりに立っていてください。ぅぅ…」

「わかりました」

 鷹姫は了承して陽湖が立っていた場所に立ってくれる。陽湖は痛むお腹を揺すらないようにまっすぐ国会議事堂のトイレに向かった。女子トイレに滑り込み、個室のドアを閉める前に急いでショーツをおろして便座にまたがり、ギリギリ間に合った。

「あああぁ…ハァ…ハァ…危なかった…」

 手を伸ばして個室のドアを閉める。

「やっぱり、あの魚かな……ううっ…まだ、痛い…」

 長くトイレにこもって腹痛が治まるまで排泄を続け、終わって国会議事堂前に戻ると、もう取材は終了していて、静江は裁判所へ、鮎美は国会に戻るため陽湖とすれ違った。

「陽湖ちゃん、途中でどないしたん?」

「すいません。急にお腹が痛くなって。それでトイレに」

「…ふーん…それでトイレに行けるのは、ええ身分やね」

「……え?」

 今まで秘書業務をしていて鮎美から厭味を言われたことはないけれど、今の言葉は心にひかかった。

「体調管理も仕事のうちやで。しっかりしてな」

「はい、すみません」

「あと、東京はトイレ少ないし。気をつけいな。駅のトイレも混雑してることもあるし、大恥かきとう無かったら注意しぃ」

「はい」

「お腹の具合が悪いんやったら、いっそオムツ着けるのも手よ」

「……。そういうセクハラ発言やめてください。不快です」

「………」

「もう行きます」

「うん、ほなね」

 鮎美と別れて静江に追いつき、霞ヶ関にある東京地方裁判所に向かう。裁判所前で連名の原告となってくれる芸能人やニュースキャスターと合流し、受任してくれたセクハラ問題に詳しい女性弁護士とともに裁判所内へ進む。外観は威圧感のある長方形が印象的なビルだったけれど、中に入ると天井の低い市役所のような雰囲気で陽湖は拍子抜けした。女性弁護士が地裁のカウンターで事務員に分厚い訴状を差し出す。

「こちらが訴状になります」

「確認します」

 事務員は中身を読んだりはせず、総額398億円という訴額に合う印紙がつけられているかなど、ごくごく事務的な確認をすると受理した。

「初回の期日については、大きな裁判になりそうですから、すぐに決まらないかもしれません。決まり次第、通知します」

「はい」

 やり取りは、それで終了し正面玄関横のロビーで女性弁護士を囲んで軽いミーティングになる。

「もう2月も半ばですから、年度末で裁判官の移動もある時期で、初回は4月以降になると思います」

 女性弁護士に続き、静江が告げる。

「次に警視庁へ告訴状を出しにいきます。有志の方はついてきてください」

 裁判所の次は警視庁に移動し、カメラマンなどを痴漢行為として逮捕してくれるように願う告訴状を出した。本来、単独に芸能人が行っても受理されないような告訴だったけれど、弁護士が作成し、何より全国的に話題になっているので難癖をつけて受理しないという対応は取られず、ともかくも受け取ってくれた。

「今日のメインは、これで終わりですが、新たに訴訟に加わってくださった方々と面談を行っていきますので、石永芹沢共同事務所までお越しください」

 静江の案内で東京事務所へ原告たちと移動した。東京事務所では詩織が中心になって諸外国との連絡を取り合っていて、かなり忙しそうだったけれど、スペースを空けてもらい、静江と陽湖が手分けして26人の新原告と面談する。もう面談の内容は定型化されつつあり、いつ、どんな出版物に、どんな性的な写真を載せられたのか、その掲載で心が傷ついた結果、どのようなことが起こり、今はどう思っているのか、そういったことを録音しつつメモしていく。静江は年配の女性を相手にし、陽湖は若いアイドルなどを相手にする。手分けして定型的に行っても、6時間以上かかり終わったのは午後8時過ぎだった。

「…………」

「…………」

 ぐったりと疲れた静江と陽湖は話す気も起きない。もちろん面談の内容はセクハラ写真なので聴いていて愉快ではなかったし、途中で泣き出すアイドルもいて陽湖の精神的負担も大きかった。かがんだときに胸元を撮られて乳首が写っていた子や、座っていて足を組み変えた瞬間にパンチラを撮られてナプキンの一部まで写されていた子、お尻のパンチラを撮られて泥で汚れていたのか下痢便で汚してしまっていたのか茶色いシミを撮られた子、ニュース番組中に新アトラクションの紹介で高所恐怖症なのに空中に張ったワイヤーを滑り落ちる体験をさせられ恐怖で尿失禁してしまった濡れたズボンの写真がネットに出回り続けているニュースキャスター、アイドルになる前に甲子園のチアガールをやっていて当時はレーザー脱毛していなかった腋の写真とアイドルになってから脱毛後の腋写真を対比で載せられた子、体調が悪いのにステージ出演して嘔吐したとき白目をむいて鼻水を垂らした顔を晒され続けている歌手など、美しかったり可愛かったりするはずの女性たちの一番見られたくない姿を抉り撮ったような話ばかりで、静江も陽湖も聴取していて胸がムカムカとしたし、持参してくれた雑誌や写真を見ると、これを撮影したカメラマンや編集した編集者を刑務所に放り込みたくなる。

「……うう……胸がムカムカするのに……お腹は空きました……」

「夕ご飯、どうしよう……」

 静江が楽しみに夕食を予約していたレストランは間に合いそうにないのでキャンセルしている。陽湖は熱心に外国語で通話している詩織の方を見た。

「牧田さんの体力……すごい……私たちが来る前から、やってて、今も……」

「あっちの仕事の方が、建設的で楽しそう……英語なら、私も負けないのに……」

「セクハラ話は、もう、うんざりです」

「もう新幹線で帰るのもつらい時間ね……どこかホテル探すわ」

「お願いします」

「夕ご飯、洋食と和食、どっちがいい?」

「お任せします」

 ぐったりと精神的に疲れた二人は精力的に仕事をしている詩織に会釈してから東京事務所を出て、最寄りのビジネスホテルに入った。つい、ホテル横のコンビニで弁当を買ってしまい、それを二人部屋でわびしく食べる。テレビをつけるとニュースが流れていて、やはり関東なので都知事選のニュースが地元より大きく扱われている。

「シスター鮎美、頑張ってますね」

「あの子の体力も、けっこうなものね」

 ニュースが変わり集団訴訟の話になった。国会議事堂前でのシーンで、また鮎美が映り、その左右に自分たちが映る。途中でテレビに映る陽湖の顔色が曇り、お尻に力を入れて我慢しているのが自分のことなので、よくわかる。

「………もし、このとき……漏らしてたら、私もネットに晒されて……」

 無理に我慢して立っていたら、きっと失禁していた気がする。そんな姿が配信されるのは死にたくなるほど嫌だった。静江が言う。

「私たちは公人じゃないけど、公人に近い存在だし、私たち秘書が芹沢先生の恋人候補って変な特集も組まれたしね。いまだに、お兄ちゃんをホモって書くし。本人が否定してるんだから、いい加減にしろっていうの! あ、そうだ! お兄ちゃんも原告に加えるの、どう?!」

「男性の石永先生をですか?」

「だって、しつこくホモホモってさ! 芹沢先生みたいに自分で認めたなら、そりゃわかるよ。その通りだし、本人も否定しないし。けど、お兄ちゃんが否定してるのに、いつまでもホモホモって言い立てるのは、ある意味、セクハラじゃない?!」

「たしかに………もし、自分がそうじゃないのに、同性愛だってしつこく言われたら、すごく嫌……いくら公人でも、限度があります……」

「よし、加えよう! ………あ、でも……」

 静江は集団訴訟が途中で和解にもっていかれる予定路線であることを思い出してトーンを落とした。

「でも、何ですか?」

「ううん、何でもない。やっぱり男一人は、ちょっと、お兄ちゃんが嫌がるかな、って」

「かもしれませんね」

 コンビニ弁当を食べ終えた陽湖はベッドに寝転がる。静江は立ち上がった。

「寝ちゃう前にお風呂にしよ。先、入っていい?」

「どうぞぉ」

「いっしょに入ろうなんて言わないでよね」

「それはシスター鮎美ですよ」

 疲れていた陽湖は静江が揚がってくるまでに眠ってしまった。

 

 

 

 翌2月17日木曜、静江と陽湖は昨日と同じ下着を使うことに抵抗を覚えつつも諦めて着た。鮎美は会計処理を厳しくしてほしいと言っているので、コンビニで自分たちの下着を買って計上するのは遠慮した。少し汗の匂いがする下着を我慢して、パンツスーツと制服も着る。

「泊まる予定ではなかったし、これからどうする? いっそ遊びに行くのダメかしら?」

「え~……東京事務所は大忙しだし、シスター鮎美も選挙応援を頑張ってるのに、ですか?」

「やっぱりダメよね。せめて、美味しいランチを食べて帰りましょう」

 静江はレストランの予約をしてから午前中の予定を考える。

「昨日、面談で聴取したことを、まとめるのは地元に帰ってからの方がいいし」

「東京事務所を手伝うのはどうですか?」

「それ、今夜も帰れなくなりそう」

「ですね」

 予定が決まらず、とりあえずホテルで食べ放題の朝食をとり、外に出た。

「う~……寒い…」

「東京の方が暖かいとはいえ、寒いですね」

「目的もなく歩き回るには、つらい気候ね」

 歩いていると寒いので目的もなく電車に乗った。なんとなく品川駅で降り、スマートフォンで検索した有名なクレープ店で一つ買って二人でシェアする。

「たまには、こういう、のんびりした時間もいいものね」

「東京って誰も彼も忙しそうです。道路も、だいたい渋滞してますし」

 陽湖が車で混雑した道路を眺める。

「これは、たぶん流れてるレベルで、渋滞って思ってないかな、東京のドライバーは」

「そうなんですか……私、ここで運転しろって言われたらパニックになりそう」

「首都高は、もっとすごいよぉ」

 二人がクレープを食べながら話していると、大きなトラックが動き、その向こうに隠れていた畑母神の選挙カーが見えた。一瞬、静江は背中を向けて顔を隠そうかと思ったけれど、この時間は鮎美は国会にいるはずなので観察することにした。今は畑母神と水田が乗っているようでチラリと見えた。

「よかった。こんなとこ、芹沢先生に見られたら、ドスの効いた関西弁で、ええ身分やね、静江はん、クレープ美味しそうやね、とか言われそう」

「シスター鮎美は、そんな厭味、言わないですよ」

「何にしても、昨日の嫌なセクハラ話は忘れて、息抜きして帰ろう」

「そうですね」

 静江と陽湖は白金台を少し散策して、予約したレストランで昼食をとる。ゆっくり食べていると、見知らぬ中年女性たちに声をかけられた。

「もしかして、鮎美ちゃんですか?」

「あ、いえ、違います」

 陽湖は制服を着て議院記章を着けているし、六角市内では珍しくない制服でも、都内では今現在3人しか着ていないので間違えられるのも無理なかった。否定すると、陽湖のツインテールにした髪を見て言ってくる。

「鷹姫ちゃん?」

「いえ、私は秘書補佐の月谷陽湖です。これからも、芹沢鮎美をよろしくお願いします」

 陽湖が立って頭をさげると、女性たちは握手とサイン、記念撮影を求めてきた。

「え、いえ、私は秘書補佐ですから」

 それでも欲しいと言われ、静江と相談してから応じた。中断した食事を再開したけれど、さらに3回、声をかけられて、あまり食べた気がしなかった。

「はぁぁ……びっくりした。私にまでサインや撮影を求めてくるなんて…」

「だんだん、アイドルグループみたいに考えてるのかもね。私は除外みたいだけど」

「そろそろ帰りませんか。また囲まれると疲れますし」

「そうね」

 品川駅から新幹線に乗った。井伊駅で降りて駅前スーパーで陽湖は食料品を買い、静江が車で琵琶湖岸の港まで陽湖を送った。

「お疲れ様」

「お疲れ様です」

 静江と別れて陽湖は連絡船に乗り、島に渡る。まだ早い時間だったので玄次郎は仕事から帰っておらず美恋だけが家にいた。つわりが激しいらしく布団に寝ている。

「ただいま、戻りました。シスター美恋、何か作りましょうか?」

「あ…おかえりなさい。…ううん……何も要らない……お水だけ、湯冷ましのを、ちょうだい。ヤカンにあるから」

「はい、少し温めますね」

 陽湖は微温水を妊婦へ与えると、台所を観察した。昨夜は陽湖が帰宅しないことを見越して玄次郎がホカホカ弁当を二つ買ってきたようで、その箱がゴミ袋に入っている。そして、朝食は玄次郎が目玉焼きを作ったようで、美恋の分が半分以上、皿に残っていた。

「シチューと肉じゃがなら、どちらが食べられそうですか?」

「……ごめんなさい……何も要らないわ……」

「二つとも作ってみますね。そういう材料を買ってきましたから」

「…ありがとう……シスター陽湖がいてくれて、本当に助かるわ」

「神は必要なところに必要な者を召し使わされます。きっと、シスター鮎美が東京で頑張っているのも、そうですよ」

 陽湖は換気扇を回してから夕食を作り始める。出来上がる頃に玄次郎が帰ってきた。

「ただいま」

「「おかえりなさい」」

「おお、我が愛しの娘よ」

 玄次郎がエプロン姿の陽湖を拝む。三人での団欒となった。つわりが続く美恋も薄味に作られたシチューは少し食べることができた。美恋は両手で慈しむように下腹部を撫でて声をかけている。

「ママから栄養がいきますよ。大きくなってね。美味しい? 優しいお姉ちゃんが作ってくれたの。あなたが女の子だったら、一字いただいて湖恋ってお名前にしますね」

「「………」」

「男の子で鯉次郎はイヤですよねぇ。パパには、もう少し考えてもらいましょう」

「はははは」

 笑いながら玄次郎がテレビをつけると鮎美が映った。

「もう一人の娘は遠くにいったままだな」

「今週末には投開票ですから帰ってきますよ」

「いや、日曜の夜まで選挙事務所にいて月曜には国会だろう。早くて来週の週末だな」

「あ…そうなりますね…」

「本当に娘が入れ替わったみたいだ。にしても、国会議員というのは忙しいものだな」

「そうですね、ここまで拘束時間が長いなんて」

「鮎美の顔、テレビで見ている方が多い」

「秘書補佐の私でも、地元事務所メインなので、そうかもしれません」

「鮎美、疲れて倒れないといいが……」

「昨日、お見かけしたときは元気そうでしたよ」

「そうか、よかった」

 微笑んだ玄次郎は立ち上がって風呂の用意をした。湯が溜まった頃に陽湖へ声をかける。

「女の子から、お先にどうぞ」

「すみません。ありがとうございます」

 夕食の後片付けをした陽湖は入浴する。脱衣所で全裸になり鏡で両腋を見る。毛が1センチ近く伸びてきている。

「……そろそろ剃っておこうかな……肌も荒れてないし…」

 真冬なので誰かに見られる機会は極端に少ないけれど、女子として整えておきたかった。洗い場に立ってシャワーで身体を流していると、寒さもあって小便がしたくなる。

「………」

 わざわざトイレに行くことはせず、シャワーの音と流れに隠して、そのまま済ませた。身体を洗い、一度、湯船で温まると、腋を剃るために洗い場の湯椅子に座る。肌の荒れ具合を確かめるために、右腕をあげ、左手指先で右腋を撫でた。

「うん、大丈夫そう」

 肌はなめらかで荒れていない。荒れているときに無理して剃ると、翌日とても嫌な匂いを発するので強く気にかけている。自分用のカミソリで、ゆっくりと肌を傷つけないように剃った。左右とも剃り終わってシャワーで流して身体を温め、髪を洗って脱衣所に出た。

「見せる機会はないけど、やっぱり、ちゃんとしてないと」

 鏡の前で両腕をあげてみて、剃り残しがないか確認した。去年までは夏場でも剃れないことが多くてコンプレックスだったので、今は美しく整えられたのが嬉しい。全身の肌もアトピーが治り、円形脱毛症も桧田川のおかげで治りつつある。治療費は7万円しか請求されなかった。

「………あのお金、どうしよう……寄付……でも……」

 示談金として300万円もらったので293万円が手元にあり、この大半を教会へ寄付しようと考えたものの、そうなると大金の出所を屋城に説明しないといけなくなるかもしれない。セクハラを受けて身体を触られたことは永遠に黙っておきたかった。

「そろそろ揚がらないと」

 パジャマを着て居間に出る。

「お先です。どうぞ」

 次に美恋が入浴する。パジャマ姿で玄次郎と二人きりでいるのは少し抵抗があるので二階へあがらせてもらう。階段あがって、すぐの鮎美の部屋は長く本人が不在で冷え切っている。その隣室に住まわせてもらっていて、玄次郎が自分の部屋を暖めるついでに暖房をつけておいてくれたようで入室すると暖かかった。造りが狭く天井も低いので冷暖房が効きやすい。乳液を肌につけてから布団に潜り込んで女子高生らしくスマートフォンをチェックすると、鐘留から電話がほしいとメールが入っていた。

「もしもし、私です」

「ハーイ♪」

「どうかしましたか?」

「ううん、何も」

「……」

「だって淋しいじゃん。アユミン超忙しそうだし、月ちゃんならヒマかなって」

「あなただって与えられた仕事があって大変なんじゃないですか?」

「うーん……まあね、シオちゃんから回される仕事があるけど、重要な国とのやり取りは全部、シオちゃんがやるし。アタシに回ってくるのは、どうでもいい国ばっかだよ」

「どうでもいい国なんて無いですよ」

「あるある、アフリカの聞いたこと無い国とか、人口10万人くらいでそれって国じゃなくて街じゃねって国家とか。そういう国と英語でやり取りしてるんだけどさ、向こうも母国語じゃないから文法が間違ってたり、スペルが違うこともあるんだよね。明らかにAI翻訳ソフトで変換しただけの変な英語で送られてきたりするし」

「それは大変そうですね」

「しかも、国によっては大臣がバカだったりするよ」

「そんなことはないでしょう。一国の大臣となれば、それなりの人物があてられているのでは?」

「ひどいと大統領の息子ってだけで、すごいバカが大臣だったりする。しかも、そういうバカに限ってアユミンに会いたいとか下手な英語でメールしてくるし、アユミン忙しくて無理って断るとアタシでもいいからとか。アタシらの写真を見て言ってる感じ。お前、日本に何しに来る気だよっての」

「加賀田知事が言ってらした腐敗国家ですね。そういう国は一部の王族や支配層が富を独占しているから、連合インフレ税には参加しない可能性が高いらしいですよ。むしろ、その一国そのものが、お金持ちファミリーの一家みたいなものだからって」

「アタシ、学校にいるときは自分ちが一番お金持ちって気分だったけど、上には上がいるって思い知ったよ」

「………。そういうものの見方ばかりするんですね……」

「ま、アユミンが考えた連合インフレ税は参加しなくても主要通貨の価値が下がれば逃げられないもんね」

「シスター鮎美、あの人は歴史に名が残るかもしれません……私たちは、そんな人のもとで手伝いをしていて……光栄なことです」

「なに、宮ちゃんみたいなこと言ってるの?」

「神の救いのときが来るまで、地上は原罪による苦しみに満ちています。けれど、少しでも良い方向にしようとする努力を、きっと神は見ておいでです」

「……。また、始まった。眠いし、じゃあね」

 鐘留が電話を切った。

「アーメン」

 陽湖は祈ってから眠った。

 

 

 

 翌2月18日金曜夜、鮎美はテレビ局で都知事選投票日前、最後のテレビ出演となる畑母神とともにスタジオで外国人エコノミストと討論していた。通訳を介して専門的な経済用語を使ってくるので、言われていることの半分が理解できない。押され気味になる前に鮎美は反撃する。

「わざと18歳の、うちに理解できん言葉を選んではりますよね。経済の理論的な話については加賀田知事とやってください。何より、経済学は発展したように見えて、結局のところ現在の富の集中と、非道な格差を解消することはできてません。何一つ手を打たんより、ずっと良いと考えます。経済という言葉の語源は経世済民、世をおさめ、民をすくう、これができての経済です」

 鮎美が言ったことも翻訳するとなると難しいので時間を要して反論が返ってくる。

「簡単な言葉を使えば、君たちのプランでは通貨価値が落ちすぎたとき、産油国や資源国が極端に有利となる。文明を築いてきた功績が軽視され、社会は自堕落な者たちの楽園となるだろう」

「それは欧米の白人さんから見たとき、そう見える一面があるにすぎんですよ。資源国に対しても、たいてい欧米の企業は自分らがガッチリ優位な契約を結ばさせますやん。採掘や加工技術を隠して。しかも、いよいよトラブルになったときは裁判所管轄の条項を適応して、自分らに有利な自国の裁判所で戦えるようにする。治外法権を押しつける構造は幕末から、いっしょですやん。うちらアジアの漢字文化圏では経済は経世済民、せやけど、エコノミーの語源は、ギリシャ語かラテン語の家政術ですよね。家を管理する、こっちの言葉で言えば家訓や。そこに世界はない。世間もない。うちうちのことだけ、自分の家のことだけ、そういう出発点がエコノミーやと理解すると、先進国と最貧国の差が開くのも、先進国の中でさえ、世帯所得に格差ができるのも、よう理解できます。数式や法則で誤魔化す前に、そこで起こってることを見たら、高校生にもわかるような卑怯なやり方が、法律という屁理屈をつけまくって正当に見せられてるだけですやん。資源国や産油国が極端に有利になるほど、各国の蔵相と中央銀行はアホちゃいますから通貨価値が落ちすぎることは無いでしょう。何より、うちは働く人に有利になってほしい。なんぼ資源があっても、それを掘り出す人、加工する人、そういう人の手の働きがあって、なんぼのことです。自堕落な者の楽園と言いますが、不安定な雇用で働く人に助成金を出すような制度なら、ベーシック・インカムのように、ただもらえるというわけやないので各国も採用しやすいでしょう」

 関西人らしい喋り出したら止まらないトークで鮎美は押し勝ったし、最後に気になったので問う。

「うちとの討論のために来日してくれはったらしいですけど、お国はリヒテンシュタインですよね。あちらで連合インフレ税の評判はどうですか?」

「良くはない。愚かな政策だと言われている」

「でしょうね。リヒテンシュタインはタックスヘブンですもん。ふざけるな、というのが本音やと思います。けど、うちらからしたらタックスヘブンの存在そのものがふざけるな、ですから。正直、このタイミングでの討論、タックスヘブンからの回し者かと思ってしまいますわ。どうです、ちゃいますか?」

「まったく、無礼な小娘だ。日本の女性とは、もっと美しくて可愛らしいものだと聴いていた」

「日本の女の中でも、大阪の女は別格です。商人の中で堺と琵琶の商人がちゃうようにね。それにイメージはイメージですよ。インド人全員がカレー好きなわけやない。ついでに言えば、うちもイギリス人もカレー食べますし、紅茶も好きですけど、文明を築いてきた功績とやらに食文化への功績が含まれるなら、日本もイギリスも相当、インドに支払わなあかんもんがある思いますよ」

 番組が終わり、候補者であるはずの畑母神よりも目立ってしまったことは少し後悔した。テレビ局の玄関で畑母神と別れるとき、言ってくれる。

「明日が最後の戦いだ。よろしく頼む」

「はい、きっと勝ちましょう。閣下」

「組長にはかなわんよ」

 投票日まで、あと2日となった。

 

 

 

 翌2月19日土曜の朝、島の自宅で玄次郎は目を覚ました。つわりで呻いていた妻は静かに眠っているので起こさないよう一階へおりる。すでに陽湖が朝食の準備を始めてくれていた。

「おはよう。ありがとう」

「おはようございます」

 陽湖は制服を着ているので出勤予定らしかった。

「今日の予定は?」

「セクハラ訴訟の資料をまとめるため、支部に5時まで。お父さんはお休みですか?」

「いや、オレも出勤する」

「土曜なのに。今まで土曜に仕事があったこと少ないですよね?」

「うむ、二人目が産まれるからな。稼がないと」

「フフ、いいお父さんですね。うちの父はあまり稼いでくれませんでしたから、ちょっと羨ましいです」

「お仕事は何を?」

「新聞配達と代行運転のかけもちです」

「……。お母さんも仕事を?」

「母はヤクルトの販売員をしていましたが、一昨年、居辛くなって辞めました」

「………」

「二人とも頑張ってくれてますよ。でも、布教活動もあるから都合の合う仕事が少なくて」

「家計は大丈夫なのか?」

「贅沢しませんから平気です。私の生活費をもっていただき、すみません。……あの300万円で払わせていただいても…」

「その話は、もうやめなさい。一度、男が要らぬと言えば、要らぬ。それに月谷さんが居てくれて、とても助かっている。君の働きは十分に生活費と見合っているよ」

「ありがとうございます」

 陽湖は三人分の朝食を作り、それを玄次郎と二人で食べて、美恋の分は冷蔵庫に入れた。起きてこない美恋には書き置きをして、二人で連絡船に乗る。本土の港に渡ると、玄次郎は島民として用意してもらっている駐車場に駐めてある自家用車に乗り、陽湖も乗せて支部に送る。玄次郎の建築事務所も近所にあり、ほとんど遠回りにはならない。

「さて、始めるか」

 玄次郎は依頼された邸宅の設計を始めた。本来なら土日は休みと決め込みたかったけれど、二人目が産まれるので仕事を増やしている。依頼主は女医で、桧田川の大先輩にあたる医大教授だった。依頼も桧田川と世間話をしているうちに拾っている。

「この人も未婚か……」

 邸宅の総工費は3億円、けれど一人で住む予定で、大きな中庭を造り、そこでドレスを着てダンスをするのが若い頃からの夢だったらしい。周囲から見えない中庭で踊る独身女性の姿を想像しつつ、図面を進める。お昼には陽湖が作ってくれた弁当を食べ、午後5時になって陽湖へ連絡して、いっしょに食料品を買うため支部の前で駐まった。

「ありがとうございます」

 陽湖が助手席に乗ってくる。真冬なのに陽湖の身体から強い汗の匂いがした。言っていた通り、一日中セクハラがらみの具体的な出来事を訴訟のためにまとめていたなら、かなり不快な仕事をしていたはずで、精神的緊張が続いたときの人間独特な匂いだった。とくに陽湖は制汗スプレーを使わないので、それがわかりやすい。言えば傷つくに決まっているので玄次郎は何も言わず車を走らせ、近くのスーパーに入った。二人で食品をカートに入れていると、今までより周囲から視線を感じた。

「オレら、目立ってるな。鮎美と同じ制服だしな。けど、その制服を着た女の子なら、いくらでもいるのに」

「私もチラっとですが、何度かテレビに出てますし、そういえば、東京で私にまでサインや記念撮影を求めてくる人がいました」

「都知事選なのに、こっちでも放送回数が多いし。まあ、鮎美が近畿出身だから、そうなるのかもな。演説でも興奮すると関西弁モロ出しで、都民に、どう思われているか…」

「相手も宮崎弁が出るから大丈夫ではないでしょうか」

「そうだな。畑母神さんは福島県の出だし、そもそも東京や大阪は外部からの流入が多いから」

 連絡船の時刻を気にしながら買い物を終え、車で港まで走り、船に乗る。同じように市街で仕事をしてきて帰る島民に声をかけられた。

「鮎美ちゃんが応援する人、どうだい? 都知事選、勝ちそうですかい?」

「ははは、どうでしょうね。勝って欲しいが、私たちには一票も入れてやれない」

「だなぁ。ぜんぜん、こっちで見ねぇから、また帰って来てほしいな。東京行ったきりじゃ淋しい。ご家族は余計に淋しいでしょ?」

「淋しいと言えば淋しいですが、大学に進学していたら、同じように出ていく歳ですから。覚悟していた時期でもありますよ」

「そっか、そうだな。けど、陽湖ちゃんが残ってくれてよかったな。うちらの島で婿さん探してやろうか?」

「ぃ、いえ! 遠慮します!」

「そうかい。芹沢さんも奥さんが寝込んで大変だァ。具合どうだい?」

「つわりですから、そのうち回復しますよ。鮎美のときも半年ほど続いた」

 船が到着したので玄次郎と陽湖は買い物袋を持って帰宅した。家は一階も二階も電灯がついていないけれど、それは予想されたことなので二人とも静かに入る。美恋は二階で寝込んでいるようだった。

「オレは様子を見てくる」

「はい」

 陽湖は夕飯を作り始めた。玄次郎は二階にあがって妻と会話し、麦茶を頼まれたので麦茶と梅干し、糸切りクッキーを取りに来て、また二階へあがった。つわりは続いているらしく美恋はトイレ以外はおりてこない。陽湖が作った夕食を二人で食べ始めた。

「鯉次郎という名はダメだと思うか?」

「……まあ……ちょっと、かわいそうかな…」

「陽湖は、いい名前だね。やっぱり、琵琶湖から?」

「はい」

「琵琶次郎ってのは、どう思う?」

「………。……ちょっと、かわいそうかな…」

「湖次郎は?」

「……こじろう……それなら…」

 くだらない会話をしつつ食事を終え、陽湖が先に入浴する。一階には玄次郎しか居ないので脱衣所のドアに鍵をかけた。

「……ブラザー愛也と……私なら……愛湖って名前に……」

 明るい未来を想像しながら全裸になると少し赤面していた。洗い場に立つと、しっかりと身体を洗う。今日は午後から汗の匂いが自分でも気になっていたので周囲に申し訳ない。明日は日曜礼拝で愛也と会うので絶対に匂ってほしくない。いつもより時間をかけて入浴した陽湖は玄次郎に謝る。

「遅くなって、すみません」

「いや、いいよ。おやすみ」

「はい、おやすみなさい」

 陽湖が二階にあがっても、すぐに玄次郎は風呂に入らず、ビールを呑み終わるまでテレビで鮎美の様子を見て、風呂に入って揚がってくるとウイスキーを呑む。

「……鮎美、頑張れよ」

 だいぶ酔ってきたので一人言を言い、その場に寝そうになった。明日は日曜なので予定はない。陽湖は礼拝に出かけるだろうけど、美恋はつわりで動けないし、玄次郎も家にいるつもりだった。ふらりと立ち上がると風邪を引かないために二階へあがり、つわりで起きているのか、寝ているのかわからない妻の隣で眠った。

 

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