翌2月22日火曜朝9時30分、委員会での審議が控えている鮎美は国会議事堂に登院して、いつも通り玄関にある各国会議員の出欠を把握するためのスイッチを押した。ちょうど直樹も登院してきたので声をかけられる。
「おはよう、芹沢先生」
「あ、おはようさん、雄琴先生」
「夕べは谷柿総裁に呼ばれてたらしいね。どんな話だった?」
「自民内情の偵察ですか?」
「そんなところさ」
「ほな、情報交換で民主のこと何か教えてくださいよ」
「可愛い顔して抜け目がないな。ま、いいさ。コウモリのボクに回ってくる情報なんて、たかが知れてるけど、やっぱり支持率の低空飛行が続いてるからね。鳩山総理も苦しそうだ。かといって、内閣改造はやったばかりだし、もう打つ手といえば総理交代で野田さんか、前原さんあたりにするか。あとは無理だとは思うけど、小沢さんは、もともとは民主党だ、彼に戻ってきてもらう手もあるかもしれないが、そうなると民主党内の反小沢派が黙っていないし、そもそも鳩山さんと小沢さんの仲が微妙だし、次の手が打てないまま、じわじわとジリ貧といったところさ」
「そうですか。うちの方は谷柿先生から都知事選おめでとうって話と、ここだけの話」
そう言って鮎美は唇を直樹の耳元に近づける。男性を意識しないので鮎美は平気だったけれど、直樹はいい香りのする鮎美の髪が頬にあたって赤面しないように努力しつつ聴く。
「集団訴訟の件、出版社側のトップと経団連の理事さんと話し合いました。そこそこで手打ちにしよ、という方向性で」
「なるほどね」
秘密の話が終わったので鮎美は離れて喋る。
「雄琴先生が目指してはる法案は進みそうですか?」
「法案そのものは錬っているけれど、民主党内にはそもそも死刑反対というバカ! な連中がいる」
あえて直樹は大きな声で言いつつロビーを鮎美と歩く。
「どんな凶悪な犯人も死刑にすべきでないと、凶悪なまでのバカさ加減で主張してやがるからな」
「雄琴先生に汚い言葉使いは似合いませんよ」
「そりゃどうも。君こそ黙っていれば花だったろうにね」
「よく言われますわ。ほな、また」
廊下で別れ、鮎美は委員会が行われる部屋に入り、自席に座ると資料をパラパラとめくり、それからスマートフォンをチェックする。詩織から連合インフレ税の世界各国への浸透は順調というメールが来ていた以外は連絡はない。時刻は9時49分で、あと10分もすれば審議が始まる。その前にトイレに行っておこうか、迷っていると、翔子に声をかけられる。当選から国会開始まで勉強する期間が無かった翔子は、だいたいの委員会を鮎美と同じに配置されているので、いつも見る顔という状態だった。
「おはようございます、芹沢先生」
「おはようさん、翔子はん。髪型、変えた?」
「わかります? ちょっと切りました」
女子らしい会話をしているとき、二人のスマートフォンが同時に鳴った。
「「っ…」」
しかも他の議員たちの携帯電話やスマートフォンも鳴っている。すでに審議が始まる直前なのでマナーモードにしている議員が多いのに、けたたましい警告音だった。
「……地震や………南太平洋……」
「マグニチュードは6以上みたいです」
鮎美と翔子だけでなく他の国会議員たちや官僚も審議の準備を放り出して情報端末を見ている。大雑把だった情報が6分後には確度が高くなる。
「震源地はニュージーランドなんや」
「クライストチャーチって、ご存じです?」
「知らんよ。マグニチュードたいしたことないな、6.3やて」
「それなら死者は出ないかもしれませんね」
「建物の耐震基準によるやろけどね。にしても、久野先生が整備してくれはった、このアプリ、便利やな。小笠原の地震のときも思たけど、はるか遠いニュージーランドの地震まで、発生直後に知らせてくれるんやもん」
「もし津波が発生していても日本に到達するのは何時間も後になりそうですね」
「そやね」
「皆様、ご静粛に! これより予定通り審議を開始します!」
委員長がざわついている場内に号令している。地震の規模が大きくないので対応は内閣のみに任せて、委員会は予定通りに開始された。審議中、鮎美はスマートフォンで為替相場をチェックしてみた。
「…………」
ニュージーランドドル、どんどん下がってるわ、死者が出てるかもしれんのに、こんなときまで金勘定なんや、と鮎美は人間の救いがたい業を見ている気分だった。
「……………」
「何か、お考えですか?」
翔子が小声で雑談してくる。
「うん、まあ、いろいろ」
「どんなことを?」
「ニュージーランドもオーストラリアも、それぞれのドルやん?」
「はい、そうですね」
「けど、たしか、あの二カ国は英国女王のもとにあるはずやん」
「日本の天皇並みに形だけという気はしますが、そうですね。それが何か?」
「なんで、イギリスみたいにニュージーランドポンドとか、オーストラリアポンドにせんかったんやろ」
「さぁ……」
くだらない雑談をしていると、委員長が授業中の生徒を睨むように見てきたので二人とも黙った。そして、お昼休みになるとマグニチュードに比して在留日本人被害が甚大であることが明らかになってきた。議員食堂に流れるテレビ放送を誰もが静聴している。
「ニュージーランドで発生した地震により市内のビルが倒壊したとのことです。このビルには日本からの語学留学生が多数在籍しており、その安否が気づかわれています」
「「「「「…………」」」」」
安否もなにもビルは完全に倒壊していて、跡形もない。そこに何百人の人間が入っていたとしても、生き残っているのは奇跡的に一人二人という程度にしか見えない。
「日本政府は国際緊急援助隊の派遣を決定しました」
「………」
鮎美は静かに食べかけだった焼肉定食を口にし、翔子もカレーをスプーンで食べた。他の議員たちも昼食を再開し、ごく一部、富山県が地元の議員だけが忙しく電話で何かを話し始めている。なんとなく周囲の議員には、語学留学生の出身地が富山県に偏っているのかもしれないと伝わった。夕方になると、さらに入ってくる情報は増えた。鮎美は都知事選中は欠席していた自民党本部で行われる会議に出席していたけれど、ほとんどの議員が聞き流しつつ、スマートフォンなどを見ている。鮎美も同じだった。会議が終わるとニュース出演があったのでテレビ局に出向き、ニュースキャスターと対談する。やはり都知事選の話はそこそこのうちに終わり、ニュージーランドでの地震に話題がシフトした。
「芹沢議員は、この地震について、どう思われますか?」
「みなさんと同じく一人でも多く無事でいてほしいと願っています」
「発生直後から、ニュージーランドドルが下がっていますよね。それについては、どう思われますか?」
「こんなときまで金勘定かと思うと悲しくなります。たしかに開かれた自由な為替市場というのは重要かもしれません。けれど、下落を見越した売り浴びせで必要以上に大きく下げ、地震の規模から考えてニュージーランド経済は、すぐに持ち直すでしょうに、通貨価値が下がってしまったら、何を輸入するにも高くついてしまう。こんなときですから、いろいろと入り用なもんはあるやろに割高に買わんならん。その原因が投資家による売り浴びせで、その投資家は儲けが出てもタックスヘブンに隠すと考えたら人間の業の深さ、神様が糾さんなら、人間が新しいシステムで対処するしかないと思います」
「具体的には?」
「たとえば、大規模な天災については為替相場を一時固定し、混乱が収束するまでは前日の通貨価値で取引するように仕組みをつくり、またFXみたいな個人でデータだけやりとりするような取引は完全に停止、実体経済として決済が必要なものだけ動かすような形が良いと思います」
番組が終わり議員宿舎に戻ると、鷹姫とテレビを見た。時差で三時間早いニュージーランドは深夜から早朝にかわる時間帯で捜索活動などは二次災害の危険性の問題で止まっている。昼間の映像が流れていた。
「……マグニチュード6やのに……被害家屋5万か……ひどいなぁ…」
「死者も100人を超えています……おそらく日本人で連絡が取れない生徒たちも……20人を超える犠牲者が……海外の地震で日本人が亡くなる記録としては、かなり多くなるのでは……」
「このビルだけやん、周りで全壊してるの……絶対、耐震基準を満たしてないとか、そんなんやで……ニュージーランドにも姉歯みたいな建築士いるんかも……にしても、犠牲者が若い子ばっかりって……」
「専門学校生ですから、私たちより一つ、二つ上というくらいです……」
「……陽湖ちゃんやないけど、もはや祈るしかないねんな……死んでしまった人は……どうにも、ならん……」
鮎美が涙を零したので鷹姫はハンカチを出した。
「おおきに」
「……。あまり心を痛めないでください。心労が重なります」
「ありがとうな。そろそろ鷹姫も、帰って休みぃ」
「はい」
鷹姫と別れ、今夜も鮎美は一人で眠った。
翌2月23日水曜朝、ビジネスホテルで百色と相席して朝食を摂っていた鷹姫は静江から電話を受けていた。
「わかりました。確かめてみます」
電話を終えると百色が問うてくる。
「どうした? 怖い顔して、悪いニュースなのか?」
「はい」
「そうか。………聞いていいか?」
「いえ」
「はっきりしてるな、お嬢さんは」
「………」
鷹姫はデザートを食べていたペースを速める。百色も食べながら言う。
「オレの方は、いいニュースがあるぜ」
「どのような?」
「閣下が知事になったからよ、オレを尖閣諸島方面の調査官として雇ってくれた。実質、東京都の尖閣諸島方面軍、現地指揮官ってとこだ。このホテルでお嬢さんに会える機会も減りそうだな」
「そうですか、それは、おめでとうございます。適材適所だと思います。ご健勝ご活躍のほど祈念いたします」
「ありがとよ」
百色と別れた鷹姫は東京駅の売店に向かった。売店で搬入されてくる今日発売の雑誌を待ち、棚に並べられる前に買った。
「っ…」
雑誌には鮎美のことが特集されていて表紙にもなっている。しばらく読んでいた鷹姫は怒りで顔を真っ赤にして震えた。あまりの怒気で他の通行人たちが避けていく。
「……よくも、こんな記事を………芹沢先生が、どれだけ傷つくか……いったい、誰が裏切って………あの女に決まっている………」
普段は無口なのに怒りのあまり思考を漏らしながら鷹姫は議員宿舎に出向いた。部屋の前には介式と男性SP3名が立っている。
「介式師範、いっしょに中へ、お願いします」
「了解した」
鷹姫と介式が入室すると、鮎美は制服姿でニュージーランド地震の続報と為替相場を同時に見ていた。
「おはようございます、芹沢先生」
「うん、おはようさん」
鮎美と呼んでもらえず、芹沢先生と呼ばれたので鮎美が残念そうに鷹姫を見て、そばに介式がいたので納得し、そして鷹姫の顔が硬いので問う。
「何があったん?」
「かなり、ひどいことが起こっています」
「ニュージーランドの話?」
「いえ……芹沢先生が傷つくようなことです」
「そうなんや………で、何?」
「その前に抱きしめさせてください」
「……うん、……お願い」
かなり嬉しかったので素直に頷いた。どちらかといえば、感情表現が薄い方の鷹姫が優しく抱きしめてくれる。
「………。そんなに悪いニュースなん?」
「はい」
「……母さんの妊娠が……流れたとか……なら、うちに直接連絡が……」
抱きしめてくれるのは嬉しいけれど、悪いニュースが何なのかは、とても気になる。鷹姫は心配した目で鮎美を見つめて言う。
「どうか、お心をしっかりもってください。くれぐれも早まったことはなさらないように」
「………」
「介式師範、もし芹沢先生がパニックを起こりしたり、早まったことをされそうなら、いっしょに止めてください」
「わかった」
介式も頷いて近づいてくる。
「芹沢先生、落ち着いて聴いてください」
「……うん……父さん、母さんは無事やんな?」
恐る恐る鮎美は突然の交通事故でも起こったのかと問うた。この歳で天涯孤独になるのは淋しい。その不安は鷹姫が否定してくれる。
「はい、そういうニュースではありません」
「ほな……何?」
「………」
「早う言うてよ、余計に不安になるやん」
「……口の端にのぼらせるのも憚り多きことながら……。これを、ご覧ください」
鷹姫は片手で鮎美を抱いたまま、もう片方の手で買ってきた雑誌を鮎美に渡した。鮎美が表紙を見る。
オムツもとれない赤ちゃん議員が世界にもの申ちゅ!
芹沢鮎美ちゃん、おもらし治りません。
お友達秘書の前でジャー! 濡れ衣は友達に押し着せ。
刺された後遺症か、オムツ持参で選挙応援!
このままで大丈夫か、日本の政治とオムツ議員アユミ!
表紙をめくると、鮎美を盗撮した写真と記事がある。写真はトイレの個室隣から撮った動画を静止で印刷したものや、スカートからチラ見えする黒いスパッツの不自然な膨らみを撮ったもの、鮎美が素知らぬ顔でオムツの中に済ませているときの少し視線が浮いたもの、ゴミ箱に捨てたはずのオムツをわざわざ撮ったものだった。付属している記事は部分的にはトイレへ行く間もない忙しい政治家の選挙応援現場をレポートする体裁をとっていたりもするけれど、結局は鮎美がオムツを着けて公衆の面前に出ていたことを嘲る内容だった。
「……また、こんなもん書きおって……」
「お見せしたくなかったのですが、外に出れば知らずにいることはできないと思い、お届けいたしました。どうか心折れることなく立ち直ってください」
そう言った鷹姫が強く抱きしめてくれる。
「……鷹姫…」
雑誌の内容は不愉快で、これが全国に発売されているかと思うと、心も疼いたけれど、むしろ心配した鷹姫が積極的に抱きしめ慰めてくれるのが、嬉しくてお得感さえ覚えた。鮎美も抱き返して上を向き、鷹姫と頬を寄せ合う。このままキスもしたかったけれど、それはグッと我慢した。
「おおきにな。鷹姫がいてくれるから、うちは耐えられるよ」
パンチラ写真を発売されたときも傷ついたし、今回の内容はより下劣だったけれど、一度目ほど傷ついていない。しばらく鷹姫と抱き合って幸せを味わった。
「そろそろ時間やね。朝食会、行くわ」
「大丈夫ですか?」
「うん、鷹姫のおかげよ」
遅刻ギリギリに朝食会に駆け込むと、一部の議員たちは雑誌のことを知っている顔をしていたけれど、下手に話題にしてセクハラと言われると怖いので誰も何も言わない。あえてニュージーランド地震のことばかりが話題になる。外の廊下で待っている鷹姫は介式に頼む。
「掲載されている写真は盗撮されたものです。警察として動いてください」
「わかった。担当課に連絡する」
すぐに介式は警視庁へ通報してくれ、さらに他のSPとも相談してから鷹姫に教える。
「我々も芹沢議員を警護していて不審な動きをしていた者に心当たりがある。畑母神陣営内のことにて不干渉であったが、被害が明らかになったからには黙っているのはやめる。ただし、我々に捜査権はない。捜査は担当課が行う、それでいいな?」
「はい。私は水田元議員が怪しいと感じています」
「証拠は?」
「………ありません」
「憶測でものを言うな」
「すいません」
「だが、私も同意見だ。はっきりするまでは君たちは黙っておけ」
「はい」
朝食会が終わり鮎美は平然と出て来た。
「芹沢先生、盗撮者については警察の捜査に任せます」
「うん、そうして。………うち、なんとなく心当たりあんにゃけど……あれ、選挙中、かなり、うちらのそばにいる人でないと撮れん写真ばっかりやん」
「いずれ明らかになるまで私たちは黙っていましょう」
「そうやね」
朝食会から国会へ行く途中で、ぶら下がり取材が寄ってきた。
「今朝、発売された雑誌に芹沢議員のことが掲載されているのは、ご存じですか?」
「はい」
あえて鮎美は足を止めて答えた。
「雑誌の記事は事実ですか?」
「はい、おおむね」
「ああいった記事が書かれることと、表現の自由、人権をどうお考えですか?」
「人権や自由といったこと以前に執筆者の品格を気の毒に思います」
「今回の件も訴訟で争われますか?」
「腹立たしいことは事実ですが、ニュージーランドのことの方が重大事に思います。訴訟については、今までのことを反省してくださった会社と、そうでない会社に対して、大きく態度を変えていくつもりです」
「具体的には?」
「それは係争中のことですから、コメントを差し控えます」
「一人の女性として、今回の記事に傷ついておられますか?」
「はい」
「……それだけですか? お気持ちなどは? 悲しいですか?」
「いちいち泣いていられませんし、お気持ちと言われても、宇宙飛行士も必要があればオムツをつけますよね。それだけのことです。ただ…」
「ただ?」
「すでに、うちは多くの政治的課題を進めているので、これ以上は抱えられませんが、東京都内はトイレが少なすぎます。人の多さとトイレの数が見合ってない、これは解決した方がよい課題やと思いますが、うちが手を出すより鳩山総理か、いえ、どっちかというと畑母神都知事にお願いします」
鮎美が動じずに答えていくのでレポーターたちは面白い映像が撮れず諦めつつあり、取材が終わりかけた。
「もう審議に行きます」
「一つだけ言わせてください!」
レポーターではなく鷹姫が声をあげた。誰もが驚いて鷹姫を見る。
「芹沢先生が濡れ衣を私に押し着せたなどということはありません! 私がもたもたしていたせいで失敗なされたから私が責任を取ったまでのことです! 芹沢先生は秘書に濡れ衣を着せるような卑劣な人ではありません!」
言いながら鷹姫が涙を零したので鮎美はハンカチを渡して、背中を押した。
「ほら、もう行くよ」
「はい……取り乱して、すみません」
「ええよ、おおきに」
鮎美と鷹姫は背中にフラッシュを浴びながら国会に行った。お昼休みになるとニュージーランド地震の全貌が明らかになってきて被害の集計も日本に伝わってくる。もう雑誌のことは話題にならなかった。
翌2月24日木曜、お昼休みに議員食堂はざわついていた。
「なんかあったんですか? 木村先生、知ってはります?」
ラーメンを食べながら鮎美が訊くと教えてくれる。
「小沢先生を民主党に戻して内閣に入れるという話があったらしいけれど、民主党内の反小沢派の動きでポシャってしまい、それを受けて親小沢だった民主党の松木謙公衆議院議員が農林水産大臣政務官を辞任したらしい」
「政務官が辞任……いよいよ、鳩山内閣、危ないんちゃいます?」
「という話で、ざわついているわけだよ」
「なるほど…」
鮎美がラーメンを食べるのを再開すると、スマートフォンが鳴った。
「誰やろ、この番号……」
登録にも記憶にもない番号からの着信だった。しばらく迷って鮎美は受話した。
「もしもし? ……」
やや警戒した鮎美の声に男性の声が返ってくる。
「細野くんから、あなたの番号を聞きました。鳩山直人です」
「………。……総理大臣の?」
「はい、鳩山です。芹沢さんですか?」
「は、はい。芹沢です。………ご用は何でしょうか?」
「芹沢さん、あなたを特命大臣として内閣に迎えたいのです。名付けて最少不幸大臣」
「最少……不幸……大臣……」
「あなたは以前、私の政策に賛同してくれましたね」
「…あ……はい……考え方は好きかな、と…」
「ぜひ、私の内閣で活躍していただきたい。大臣として」
「………内閣府特命担当大臣としてですか?」
「はい、そうです」
「…………み、民主党政権ですよね。ということは、うちに民主党に移れと?」
「お願いします」
「………」
鮎美は緊張のあまり気づいていないけれど、木村をはじめ周囲の議員たちは水を打ったように静かになっている。
「……い、いつまでに、お返事すればよいでしょうか?」
「今すぐ、お願いします」
「………。………」
スマートフォンを耳にあてたまま、鮎美は左手を唇にあて、考え込む。
「芹沢さん、いっしょに日本のため、頑張ってください」
「…………日本を連合インフレ税に参加させてくれはりますか?」
「……。それは、まだ検討中です」
「…………では、うちにも検討の時間をください」
「即答が欲しいのです。イエスなら、すぐに首相官邸へ来てください」
「……………………………………まだ、未熟者ゆえ、辞退します」
「……残念だ……。また、いずれ」
鳩山が電話を切った。鮎美は額に浮いていた汗を指先で拭く。
「…………………」
まだ考え込む鮎美に木村が声をかける。
「なぜ、断ったのです?」
「………もし、受諾して、そのとき、うちに何ができるか、少し考えてみたんです」
「それで?」
「何もできんと思いました。うち一人では何もできん。日本一心党の選挙応援をして身にしみました。組織で動いて支えてもらわんと、うち一人ではトイレ一つ満足にできんで、おもらしする有様です。まして、党を移るとなると、雄琴先生でもコウモリ言われて苦労してはるし。いくら大臣でも特命大臣は名ばかり大臣に終わった例も多いし。何より誘い方が急すぎて、明らかに思いつきという感じで。うち、あの人のフットワークの軽いところは好きなんですよ。カイワレ大根がっつり食べはった厚生大臣やったとき、うちは幼児やったけどテレビで見て覚えてます。この大臣、爽快やなって。思えば、はじめて政治家を認識したのが、鳩山直人さんやったかもしれん。けど、今回は思いつきにすぎるというか、うちを入れたら支持率アップかな、という狙いだけで、連合インフレ税についても受け入れってわけやないのに、うちを大臣にしても何をするねん、って感じで。そもそも最小不幸大臣って、もろに厚生労働大臣と所管がかぶりそうですやん。それに、うちを民主党に誘うんやったら、雄琴先生を使うか、加賀田知事も民主党なんやから、そっちからコンタクトあってもええかもしれんのに、いきなり一本釣りみたいにされたら、釣られた後、なんのフォローも無い気がしたんです。それこそ、おもらし大臣とか小便不幸大臣とか世間にバカにされて、裏切った自民党は当然、入った民主党でも本気では歓迎せんでしょ、もっと経験ある衆議院議員さん、いっぱいいるのに、差し置いて入閣して誰が、ええ気がします? せいぜい最年少大臣記録を更新しておしまいですわ。しかも歴史の汚点として」
「それだけのことを、あの数秒で考えていたのかね」
木村が感心して言う。
「この件、谷柿総裁にあげてもいいかな? まあ、どうせ周りにいた者は聞いていたが」
「はい、どうぞ。どうせ、終わった件ですけど。………うちはビビったんでしょうか? いきなり大臣と言われて………木村先生が、うちやったら受けた方がよかったと思います? 民主、自民は抜きにして」
「あなたの判断は正しいと思いますよ。浮かれて受けるのも一興ですが、おっしゃるとおり最年少記録を更新して、おしまいでしょう。その後はない」
「…………ラーメン、すっかり伸びたわ……もう時間もないし」
そう言った鮎美は、かつて子供の頃に見たカイワレ大臣のようにラーメンを頬張って時間内に食べきった。
翌2月25日金曜夕方、久しぶりに地元へ帰る予定で国会を出た鮎美に詩織から電話が入った。
「もしもし、うちよ」
「詩織です。東京事務所に変な物が届きました」
「また刃物? それとも銃弾?」
「ラーメン店の無料サービス券とオムツ1袋です」
「………誰からか、わかる気がするわ」
鮎美は精液入りチョコを送ってきたラーメン店の店主を思い出した。
「送り主は村川いう人?」
「はい」
「やっぱり、あのオッサンか。詩織はん、それ東京駅前店でも使える無料券なん?」
「えっと………はい、チェーン店なら全店OKです」
「ほな、いっしょに夕飯、食べよか。せっかくの無料券やし」
「え~………ここで? 変な物が入ってるかもしれませんよ」
「東京駅前店なら大丈夫やろ」
鮎美と鷹姫、SPたちが東京駅に着くと、詩織も朝槍と事務所から駅に出て来た。少し歩いてラーメン店に入る。店に村川はおらず流行っている普通のラーメン店だった。
「うちは味噌ラーメン、味噌濃い目」
「「「………」」」
鷹姫と詩織、朝槍は注文を迷っている。不安そうに厨房を見ると、ごく清潔な気配で精液を混入しているような雰囲気はない。他の客も美味しそうに食べている。鷹姫が決めた。
「私は味噌ラーメン大盛りチャーハンセットにします」
「「………」」
詩織と朝槍も決める。
「味噌チャーシュー麺にします」
「私も」
しばらくして、ごく普通に美味しい味噌ラーメンが提供された。鮎美は食べる前にスマートフォンで撮影し、少し味見して感想を静江に送る。静江が文章を練り、鐘留が管理する鮎美名義のフェイスブックに日常生活として投稿される段取りだった。議員としての庶民的な日常生活を発信するのも重要ということで静江が企画し、初めての投稿になる予定だった。そうして、やっと一週間の仕事が終わった気分でラーメンを食べているとテレビがニュースを流した。
「京都大学の入試でインターネットサイト、ヤフー知恵袋より不正に回答を得た仙台市の受験生が逮捕されました」
「無理に京大へ行かんでも仙台にも大学あるやろに」
「愚かなことです」
鷹姫が美味しそうにチャーハンを頬張った。
「次のニュースです。日本一心党の水田脈実元衆議院議員が芹沢鮎美参議院議員に対する盗撮容疑で逮捕されました」
「仕事早っ、日本の警察、優秀やわ。やっぱり、あの人やってんな」
「愚かなことです」
「鮎美先生、今回は和解しませんよね? 許すわけありませんよね」
詩織が静かに怒っている目で言ってくる。連日の海外との調整で、かなりハードワークなはずなのに瞳は光っていた。
「うん、さすがに許せんよ」
「私にいい策があります。懲らしめるための」
「どんな?」
「弁護士を入れて、水田に示談をチラつかせます」
「そんで?」
「示談金をつり上げるだけ、つり上げ、全財産に匹敵するほど上げ、いよいよ示談かと思わせた上で、示談せず厳しい罰を求めると告訴します」
「……えぐいこと考えるわ……」
「鮎美先生を侮辱した罰、万死に匹敵します」
「牧田さんの言われる通りです。私もその策に賛成です」
「鷹姫……詩織はん………まあ、そやね。トイレの盗撮とか、同じ女として許せんし。この件、詩織はんに任せてええ?」
「はい」
食べ終わると、鮎美と鷹姫は新幹線に乗り、詩織と朝槍は世田谷にある詩織のマンションに入る。詩織は朝槍との軽い性行為を楽しんだ後、強い睡眠薬入りのカクテルを朝槍に飲ませた。
「朝まで、おやすみなさい、ナユ」
熟睡したのを確認して、詩織は地味なコートと帽子で変装すると大きなカバンを持ってマンションを出る。二つ離れた駅に行き、監視カメラの無い公園のトイレでカバンから男物の衣服を出して男装し、タクシーで大田区に移動すると、別のタクシーに乗り換え、川崎市まで行った。火力発電所が見える海辺、多摩川の河口付近で待ち合わせていた雑誌編集者と出会う。
「こんばんわ」
「なんだ、女みてぇな声だな。ま、いい。で、芹沢鮎美が朝ナマの最中、バイブでイってた証拠ってのは?」
「はい、こちらです」
パソコンにUSB端子でも差し込むかのような自然な手つきで詩織は雑誌編集者の男根に千枚通しを突き立てた。
「っ……うわあああ?! なにしやがる?! ぐうう!!」
男は蹲って苦しむ。それを楽しそうに詩織が見つめる。
「男性の悲鳴ってゾクっとします」
「うううぐううう! 痛てぇえぇえ! このクソアマ!」
詩織の顔を殴りつけようとしたけれど、やすやすとかわされた。詩織は千枚通しを男の右わき腹に突き刺し、肺まで通した。
「ふぐうっ?! ぐはっ!」
呼吸が苦しくなり藻掻き始め、血の混じった咳をしている。さらに左わき腹も刺して肺に穴を開けると、苦しみながら窒息死した。
「ああ、楽しかった。久しぶりに、すっきりしました。ありがとう。でも、あなたが悪いんですよ、私の鮎美をおとしめるから」
死体から衣服を脱がせると、腹部にも穴を開けて腐敗ガスで浮上しないようにして重りをつけて多摩川の河口に沈める。地面に残った血痕は凶器が千枚通しだったので、ほとんど目立たない。脱がせた衣服や靴はビニール袋に入れ、男が持っていたスマートフォンは破壊してからビニール袋に入れる。すべてをカバンに隠すと、最寄り駅まで歩いてタクシーを拾い、神奈川県の海にビニール袋を沈めると、またタクシーで三カ所を移動してから男装を解いて、男装に使った衣服も捨て、マンションに戻った。まだ、朝槍は眠っている。詩織はパソコンを開いて世界31カ国が連合インフレ税に賛同していること満足そうに見つめ、白ワインを呑み、シャワーを浴びてから、朝焼けの空を眩しそうに見て、カーテンを閉め、朝槍の隣で眠った。
翌2月26日土曜朝、桧田川は医師としての夜勤明け、眠たそうに自宅アパートに帰ると、習慣でテレビをつけ、シャワーを浴びるために裸になる。
「今朝発売のニンテンドー3DSを買うために…」
興味のないニュースが流れている。桧田川はココナツ味の缶酎ハイを半分まで呑み、バスルームに向かった。
「ああ、疲れた………あのお爺さん助けられなかったなぁ……まあ、88歳だし、しょーがないか……交通事故って、ある日、突然で…」
一人暮らしの淋しさで一人言を漏らしながらバスルームの戸を開けて、驚愕する。
「っ、だ、誰っ?!」
目出し帽をかぶった大柄な男がバスルームに隠れていて、桧田川に拳銃を向けてくる。
「シズカニシロ」
日本語だったけれど、外国人の発音だった。目出し帽から見える瞳も青い。桧田川は腰が抜けて、その場に座り込んだ。
「お、お金なら、財布が、あ、あっちに! マネーある! My purse…」
英語で財布の位置を教えようとしたけれど、大男は桧田川の頭に銃口を突きつけてくる。恐怖で桧田川は失禁し、裸だったので尿が飛び散って床に水たまりをつくった。暖房の効いていなかった寒い室内に湯気がのぼり、すぐに冷え、桧田川はガタガタと震えた。お金でなければ、女性として狙われているのかもしれないけれど、大男からは性的な興奮も感じない。まるで仕事をしているような冷静さを感じる。
「コレヲミロ」
「っ…お父さん?! お母さん?!」
大男が見せつけてきたスマートフォンには両親の映像が映っていた。ライブ通信しているようで、向こうの二人も怯えているし、そばに目出し帽をかぶった男がいてナイフを持っている。
「はじめまして。ドクター桧田川」
向こうの男は日本語の発音が巧かった。両親は縛られていて、どこかの廃工場にでも監禁されている様子だった。
「我々の要求は簡単だ。パパとママを殺されるを望まないときは、お前はセリザワに薬を飲ませろ」
「コレダ!」
大男がスマートフォンを床に立てて置き、ポケットから包装された粉薬を桧田川に見せる。
「その薬をセリザワに飲ませれば、パパとママは元気で死なない。家族は幸せになる。失敗すれば、パパとママは死んでしまう。悲しい家族になる」
下手な日本語だったけれど、意味はわかる。下手なだけに、凄味があって怖かった。
「今日中に飲ませろ。でなければ、パパとママは我々が殺される」
助詞は間違っていても、悪意は伝わってくる。映像の中の男がナイフで父親の腕を浅く斬った。もう70代の両親は怯えて震えているだけだった。
「ワカッタ?」
「…っ…こ、…この薬、なに?」
「お前には関係ない。飲ませろ。騙して飲ませろ、お前の薬、飲むはず。お前、セリザワのドクター」
「…っ…」
相手は桧田川のことをよく調べているようだった。大男は桧田川の手に粉薬を握らせると、ゆっくりとアパートを出て行く。
「ケイサツ、イウ、コロス」
「っ…っ…」
「ノマセロ」
「…っ…」
「ヘンジ!」
「っ、はい!」
返事をした桧田川は大男が去っても一時間以上もショック状態で一人で震えていた。やっと暖房が効いたのと、身体が震えることに疲れ果てたので、のろのろと這うと涙を流しながらベッドに潜り込んだ。
「……お父さん………お母さん……」
今も両親を人質に取られていると思うと、気が気でない。どうするべきか、混乱する頭で3時間ほど考え、鮎美へ電話をかけていた。
「もしもし…私です」
「桧田川先生、お久しぶりです! おかげさまで、すっかり元気にやってますよ」
「そう…よかった…」
「どうされたんですか? 声が震えてますやん?」
「…ちょっと……疲れてるから…」
「そんなお疲れで、うちに何の用ですか?」
「ごめんなさい……あなたに最後に飲ませるべき薬を忘れていたの」
悩みながら考えた嘘だった。
「薬? どんな薬です? もうバリバリ元気ですよ」
「それでも必要な薬なの」
「あ、雑誌に変なこと書かれて、気にしてくれてはります? あれは半日トイレに行けんかって漏らしただけですし。後遺症でも何でもないですよ」
「そういう薬じゃなくて……あなたのお腹を縫った糸を溶かす薬なの」
「え? 自然と溶けるんちゃいますの? そんな説明しはったと思うけど」
「ごめんなさい、私の勘違いで、溶けない糸だったの。でも、この薬を飲めば溶けるから」
「そうですか。わかりました。どうしましょ? 送ってくれはります?」
「ううん、今すぐ、持っていくから。どこにいるか教えて」
「今すぐって……」
「どこにいるの?」
「六角市の文化芸術会館で婦人会の新年芸能披露会を観覧してますけど……そんな急ぎなんですか?」
「ごめんなさい、私の手違いだから、一刻も早く飲んでおいてほしいの」
「わかりました。あと2時間は、ここにいますから来てください」
「六角市の美術館ね?」
「文化芸術会館です。大丈夫ですか? お声が変ですよ?」
「つ…疲れてるだけだから…」
「そうですか……お疲れ様です。お待ちしておりますわ」
電話を終えると、桧田川は、また震えてきた手で包装された粉薬を取った。
「……これ、いったい……何なの……」
粉薬は白っぽい不成形の顆粒状で、見たことがない。きちんとした工場で造った物ではなく手製という感じがして、包装もビニール袋を熱接合して閉じてある。何より、これを鮎美に飲ませると、彼女の身体に何が起こるか、ろくでもない想像しかできない。十中八九で毒だと思えるし、死なないにしても今後政治活動ができなくなるような重度の障害を残す劇物に違いないと感じる。
「……………どうしよう……ううっ…」
また泣けてきたけれど、時間がないので桧田川はタクシーを呼び、勤務先の病院に戻った。病院の院内薬局に入ると、看護師が不思議そうに声をかけてくる。
「あれ? 桧田川先生、夜勤明けで休みなんじゃ? また、呼び出されたんですか?」
「…うん……ちょっとね…」
ふらふらと桧田川は薬局内にある薬剤パッケージを造る機械に辿り着くと、渡された粉薬をパッケージし直した。渡されたままでは怪しくて誰も飲まないような物だったのを薬らしく包装していく。
「……ぐすっ……」
「「………」」
看護師と薬剤師が背後で不審の目で見ている。桧田川は疲れ果てた顔色で髪もボサボサのまま、うつろな目をして夜勤明けの汗臭さに加えて、小便の匂いまでする。
「あの…桧田川先生、それ、何の薬ですか?」
「…何でもないから………ごめん、この機械、洗浄しておいて。念入りに…」
「………はい…」
桧田川は包装し直した粉薬を白衣のポケットに入れると、待たせておいたタクシーに乗り、六角市の文化芸術会館まで走ってもらう。阪本市にある病院からでは高速道路を使えば40分だった。運転手がバックミラー越しに桧田川を見て言う。
「お客さん、顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」
「………………私には関係ない………私は知らなかった……」
声をかけられても、桧田川はブツブツと一人言を漏らしているだけで、ろくな返答をしない。運転手は会話を諦め、桧田川の身体から嫌な匂いがするので気づかれないように少しだけ窓を開けた。タクシーは目的の文化芸術会館に着いた。
「着きましたよ」
「…カードで…」
桧田川はカードでタクシー代を払うと、会館の玄関から鮎美に電話をかける。鮎美は演劇の鑑賞中だったので受話せず、鷹姫と介式、男性SP3名を連れてロビーに出て来た。玄関にいる桧田川を見つけて手を振ってくれる。
「わざわざ、おおきにです」
「…うん…これ、飲んで」
桧田川は手を震わせないようにしたけれど、うまくポケットから出して渡すことができずに途中で落とした。落とした粉薬を鷹姫が拾って鮎美へ渡す。
「桧田川先生、めちゃ顔色、悪いですやん。大丈夫ですか?」
「……夜勤明けだから……早く、飲んで」
「はい。………鷹姫、水か、お茶か買うてきて」
「はい」
鷹姫が自動販売機へ走っていく。鮎美は粉薬の包装を破り、不味い薬だと嫌なので鷹姫がペットボトルを持って戻ってくるのを待った。
「…………」
「桧田川先生、帰って休んだ方がええんとちゃいます?」
「……飲むのを……見たら……帰るから…」
「芹沢先生、どうぞ」
鷹姫がペットボトルを開封して鮎美に渡した。鮎美が上を向いて粉薬を口へ入れる。
「…………っ!」
ずっと迷っていた桧田川は鮎美に飛びかかって止めようとした。両親の命と、鮎美の命、ずっと天秤にかけていた。まだ18歳の鮎美と、もう70代の両親、けれど、育ててくれた恩は強い。それでも両親からの忘れていない言葉があった。ずっと想っていた性同一性障碍だった恋人が死んだとき、言われた一言、これで紀子も解放された、その言葉を聴いてから両親と会う回数は極端に減った、正月でも当直を希望して同僚医師にありがたがられているくらい、親と会っていなかった。もう二度と会えないとしても、鮎美を助けようと想ったのは、それが一つ、そして、あとは保身だった。もし鮎美が死んだら、医師として、その先にあるのは破滅でしかない、いくら脅迫されたからといっても患者からの信頼を逆手にとって暗殺に加担すれば、罪に問われなくても医師免許は剥奪されるかもしれない、そうなった後、自分に何が残るのか、無事に解放されたとしても両親に何が残るのか、そう考えて飛びかかった。
「やめて! 飲まないで!」
飛びかかろうとした桧田川は視界が回った。鮎美が見えなくなり、文化芸術会館の天井画が見え、そして床に全身を叩きつけられた。介式に投げ技をかけられたのだと気づくこともできないほどの早技だった。介式が桧田川の身体を押さえつけながら叫ぶ。
「吐き出させろ!!」
「「「はいっ」」」
男性SP3名が鮎美を囲む。
「芹沢議員! 吐いてください! 早く!」
「……」
鮎美は口に含んだ粉薬を口を開いて、その場に出した。大理石製の床に鮎美の唾液と白っぽい粉が溶けた物が拡がる。介式が桧田川を絞めつつ詰問する。
「何を飲ませた?!」
「っ、わ、わからない! わからないんです! 私は脅されて!! 助けて!! 父と母が人質に取られてるの!! お願い!!」
泣き出しながら桧田川が事情を話し始めるけれど、介式は鮎美への応急処置を優先する。
「芹沢議員! 少しでも飲んだのか?!」
「……全部、出したような……ちょっと、飲んだかも……しれんような…」
当事者なのに鮎美は、痛くも痒くもないので緊迫感のない声で答えた。
「口を漱げ!!」
「……」
鮎美はペットボトルの水を口に含み、この場に出すべきか、少し迷う。
「早く出せ! 宮本くん! あと3本、水を買ってくるんだ!」
「はい!」
鷹姫は全力疾走で自動販売機から水を買って戻ってきた。その間に鮎美は何度も口を漱いで床に吐き出していた。
「宮本くん、芹沢議員の喉へ指を突っ込んで胃の中身を吐かせろ!」
「はい!」
「…え……そこまで、せんでも、うち、どこも痛くないし…」
「早くしろ!」
「口を開けてください!」
鷹姫にも緊迫した声で言われて鮎美は口を開けた。鷹姫の指先が喉の奥に突っ込まれる。嘔吐反射が起こり、鮎美の胃から昼食だった幕の内弁当が登ってくる。
「…うっ! ううぇえ!! うええええ! ハァ…ハァ…」
また鮎美は床に吐いた。
「芹沢議員、水を飲むんだ! こいつを拘束しておけ! あと、救急車だ!」
介式は部下に桧田川の拘束と救急車の手配を指示して、鮎美には水を飲ませる。
「早く飲みきれ」
「…ハァ…ハァ…そんな水ばっかり飲めませんよ。胃がタプタプで…」
「口を開けろ!」
「ぅう……また、吐かせるんですか?」
「開けろ! 死にたいのかっ?!」
「……」
諦めて鮎美が口を開くと、介式の指が喉の奥に入ってくる。鷹姫の突っ込み方は優しかったのだと思うほど、力強くて指も2本だった。
「うげええ! うげえええ! ヒュッ…うげえええ!」
大量に飲まされた水が喉を逆流してくる。息苦しくて、あまりに苦しくて鮎美は涙を零しながら介式の腰を格闘技で降参を意味する2度連続して叩く動作で叩いて、やめてほしいと伝えたけれど、容赦なく続けられて何度も嘔吐させられるうちに下着を少量の失禁で濡らしてしまうほど苦しんだ。ぐったりと嘔吐で疲れきった鮎美は救急車に乗せられ、桧田川はパトカーに手錠をされて乗せられる。それぞれに六角市内の病院と警察署に運ばれた。