「女子高生総理・芹沢鮎美の苦悩」   作:高尾のり子

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2011年3月11日 久野 美恋 詩織

 

 2011年3月11日14時10分、久野は栃木県にある那須御用邸の一室で学習院院長の島津久厚(しまづひさあつ)と対話していた。島津は九州の戦国大名島津氏の子孫で今年で92歳になるも壮健で薩摩隼人らしい眼光を保っている。

「そろそろワシも学習院の院長を引退し、久野さんに後を任せたい」

「は……、そのような大役、勤まるかどうか…」

 予想していた話だったけれど、久野は辞退したそうに座り直した。やっと国会議員を引退し、少しは人並みの老後を送ろうかと思っていたのに政権交代があって若い自民党議員たちを助けないわけにもいかず、いろいろと支えているところなので、これ以上は仕事を増やしたくない。まして島津のように90歳を過ぎて働くのは遠慮したかった。

「まあ、ゆっくり考えてくだされ」

「はい……ところで、由伊様の具合は?」

「妹宮様のインフルエンザは治っておるよ。今度は兄様が寝込んでおられたが昨日には熱も引いておられる。二人ともお元気でおられるものの、学校へ出て級友へ感染させては気の毒だと自重されておられる次第」

「それはそれは」

「まあ、若いうちに免疫を鍛えるは必要なこと。ご高齢の陛下に感染させては一大事と那須にて休養いただいたが、明日にもお帰りいただけるじゃろう」

 島津と久野は予定通りに2階で静養している15歳の義仁親王と7歳の由伊妹宮を見舞う。兄妹は静かに生物学の本で甲虫のことを調べていた。

「由伊、甲虫ほど自然界に愛されている種はいないよ」

「そうなのですか?」

「彼らほど、多様に…あ、島津先生」

「お元気そうでなりよりです」

「久野さんも、お久しぶりです」

 兄に続いて妹も挨拶する。

「お久しぶりです」

「こちらこそ。お二人とも回復されたようで安心しました」

 久野にしても議員生活の中で一年に何度かは儀式や祝典で親王らを見かけてきたので、年々順調に成長してくれていることは、とても嬉しい。島津が言う。

「これからは久野先生を学習院の先生の長にと考えているのです」

「……」

「島津先生、久野さんが困っているよ」

「ははは、しかし、そろそろ、この90過ぎの年寄りにも楽をさせていただけませんかね」

「年齢のことをいうなら、あの芹沢さんが外務大臣になるというのは本当ですか?」

 義仁の問いが、政界の話題なので島津よりも久野が答える。

「はい、事実です。今日明日にも陛下から新任いただくことになるかと」

「見てみたいな」

 由伊が興味深そうに言った。義仁は気の毒そうに言う。

「まだ18歳で、そんな大役、かわいそうに」

「兄様、ここの御用邸でも親任式が行われたことがあるそうですね?」

「ああ、一度だけ例外的に昭和天皇の御世に。たしか、最高裁判所長官の親任式だったかな。その一度以外は、すべて皇居で行われているよ」

 義仁が聡明に答えたとき、久野がもっているスマートフォンがJアラートを鳴らした。

「し、失礼しました。ですが、地震です。身構えてください」

「「はい」」

 兄が妹をかばい、身構えたとき震度6の激震が襲ってきたけれど、古風に見えても強固な御用邸の建築構造は揺れに耐えた。

 

 

 

 2011年3月11日7時過ぎ、自宅を出て仕事へ向かう玄次郎を、運動不足解消の散歩をかねて美恋は見送りに港まで出ていた。

「じゃあ、行ってくるよ」

「はい、いってらっしゃい」

「「おはようございます、おばさん」」

 鷹姫の腹違いの妹二人が挨拶してくるので、美恋と玄次郎も微笑む。

「「おはよう」」

「赤ちゃん、元気ですか?」

 上の5歳の子が問うてくる。

「ええ、元気よ」

 まだ胎動は感じられないけれど、つわりの程度からして妊娠は無事に続いている気がするし、定期検診の超音波検査では人の形になっている。玄次郎は連絡船が出るので三人へ手を振って乗船した。船長が言ってくる。

「おらが島から大臣を出してくれましたな」

「ありがとうございます。なにか失敗しないとよいのですが…」

「今夜は島をあげて祝うそうですよ」

「それは、それは、ご丁寧に…」

「大臣がお帰りになるのは、いつ?」

 船長以外の乗客である島の住民たちも口々に鮎美のことを言ってくれるので玄次郎は失礼のないように答えながら過ごしたため、わずかな乗船時間でも疲れた。

「ふーっ……大臣の父親ってのも、しんどいな。オレには給料でないし」

 愚痴りつつ自家用車に乗る。ときどきいっしょに乗せている陽湖がいないのを少し淋しく感じた。市街地の建築事務所で依頼を受けている女医の邸宅を設計していると、電話が鳴った。

「もしもし、芹沢建築事務所です」

「応野です」

「ああ、どうも」

 今は落選中でも自民党の衆議院議員を4期もこなし、それ以前も県議や市議として25歳から活躍してきた井伊市の古参政治家からの電話に玄次郎は疲れた声を出さないように注意する。

「また、お願いしたいことがありまして」

「お力になれることであれば、頑張ります」

「古い豊郷小学校を観光地として盛り立てていくことになり、もともとの設計を大切にしつつ、リフォームしたいのです」

「なるほど」

「つきましては、芹沢さんにもご意見願いたいと」

「わかりました」

「来週の月曜など、現場に来ていただけますか? 市議も集まりますし」

「はい、調整します」

 電話が終わり、玄次郎は日本茶を淹れた。

「仕事が増えてきたなぁ……そろそろ女性事務員でも雇うか」

 鮎美が有名になってくれたおかげで県内からの仕事も増え、以前の人間関係がある大阪からの仕事も入ってくる。今の依頼も明らかに鮎美が大臣になるということで、その父親の意見があったリフォームであれば予算を取りやすい、という根回しだとわかる。

「そういえば、月谷さんのお母さんが仕事を探していた……あの人なら、変なことにはならないだろう」

 娘の成人式で顔を合わせたことがある陽湖に似ている陽梅を思い出した。以前に大阪で雇っていた女性事務員は美人だったこともあり、ついつい食事に連れて行ったりしているうちに不倫一歩手間まで進みそうになった。最終的に面倒なことは嫌だったので、わざと美恋に彼女とのやり取りがあるスマートフォンを見られるように置いておき、嫁が怒っているし大阪の事務所は引き払うので辞めてください、と関係を終了させた。陽梅であれば強い信仰をもっているらしいので不倫のようなことにはならないと期待できる。思いついたついでに電話してみた。陽湖を住ませている都合上、携帯番号は知っている。

「もしもし、月谷です」

「どうも、芹沢です」

「この度の大臣就任、おめでとうございます」

「あ、ああ、どうも」

「いつも娘がお世話になっており、重ねてお礼申し上げます」

「いえいえ、こちらこそ。少し別の用件なのですが、よいですか?」

「はい、どうぞ」

「うちの事務所で電話番や雑用をしてくれる人を探しておりまして。もし、よろしければ月谷さんにお願いできないかと。時給は850円ですが」

 陽湖は鮎美の下で時給1000円で働いているらしいけれど、電話番程度の仕事で850円は県内の相場としては少し高めだった。

「本当ですか?! ありがとうございます! 実は夫も失業してしまい困っていたのです! ありがとうございます! ああ、神よ、ありがとうございます!」

「……」

「あ……その…ご存じかと思いますが、私も夫も日曜日には仕事ができません」

「ええ、うちも日曜は休みです。土曜は不定ですが、土曜は電話などは少ないので平日をお願いしますよ」

「たまに平日も参加しなければならない活動があって……」

「そういった活動が、どの程度の頻度なのかといったことや、詳しいことを面接したいのですが、お昼はお時間ありますか?」

「はい」

「では、駅近くのココスでお会いしましょう」

 電話を終え、昼まで仕事をした玄次郎はファミリーレストランに出向く。電話番なので学歴などは、どうでもよかったけれど、陽梅は丁寧に履歴書を用意してくれていて好感がもてた。ただ、やはり失業中の人間独特の雰囲気はある。それは言葉にならないものの、どことなくわかる気配だった。面接ではあるけれど、不採用という選択肢はもともと無いので、とりあえず10時から16時の契約で来てもらうことになり、昼食は玄次郎がおごる。

「何でも、お好きな物をどうぞ」

 そう言ったのに陽梅が遠慮して一番安価なパスタを選ぼうとするので、玄次郎は自分が頼む予定のステーキセットを指した。

「よければ、いっしょに、これにしませんか?」

「…あ…はい…ありがとうございます。では、それのライス無しで」

 娘に似て華奢な陽梅は食べる量も少ないようだった。注文をして履歴書を片付けた玄次郎は言ってみる。

「注文の品が届くまでに、先に祈っておかれたらどうですか? その方が熱いうちに食べられますし」

「先に……」

「ときどき、娘さんや嫁と外食するとき、そう言っているのです。教義上は問題ないそうですよ」

「そう言われればそうですが……あの子が考えたのですか?」

「いえ、自分が」

 陽梅は少し迷ったけれど、届くまでに祈ることにした。

「主よ、今日の糧を与えたもうこと感謝いたします」

「……」

 与えてるのはオレとココスだけどな、まあ、いいや、と玄次郎は黙って待ち、その間に豊郷小学校のリフォームについて考えてみた。やはり、ほぼ完成された建物なので修繕と追加設備は取り外し可能なものがいいなどと決めた頃、二人へステーキセットが届いた。

「「いただきます」」

 すぐに食べ始める。

「ああ、美味しいです」

「それはよかった」

 ただのファミレスで、そんなに感動されてもな、と玄次郎は思ったけれど、陽梅は夫が失業してから節約生活に入っていて、ここ最近はタマゴやモヤシなど、なるべく安価なものばかり食べていて、肉は食べることがあっても、ササミか鳥ムネ肉の割引品だったので牛肉の塊を食べるのは本当に久しぶりだった。少し恥ずかしいほどガツいて食べたので紙ナプキンで口を拭く姿が可愛らしかった。

「では、仕事中は宗教の話はしないということで」

「はい、わかりました」

「よければ、今から来ていただけますか?」

「はい」

 二人で事務所に戻り、電話応対の基本などを教える。もともと陽梅も宗教勧誘をしているのでコミュニケーション能力は高く、年齢相応の社会経験もあって、すぐに仕事を覚えてくれたし、気を利かせてお茶を淹れてくれたり、言わなくても電話が無いときなどは掃除してくれたりして採用してよかったと思いつつ、玄次郎は設計に集中できるようになったけれど、陽梅が困った顔で電話の受話器をもってきた。

「お電話を受けたのですが、相手が名乗ってくださいません。とにかく芹沢社長を出せ、と」

「そういうのは無視でいいよ」

「一度、そうして切ったのですが、再びかかってきて。大変なことになるぞ、娘が、と言われるので……」

「わかった。出るよ」

 玄次郎は受話器を受け取った。

「もしもし、芹沢ですが?」

「おう! ワシや!」

「どちら様ですか?」

「北砂夕子(きたすなゆうこ)の父親や、忘れたとは言わさんど!」

「………」

 覚えている名前だった。鮎美が以前在籍していた高校の後輩で、鮎美と夕子が交際のようなことをしていてトラブルになっている。鮎美が夕子を自分の部屋に連れ込み、裸にして性的関係を迫ったところ拒否されたというトラブルで、親同士で話し合っていた。美恋も話し合いに加わっているし、夕子の母親も来ていた。玄次郎も途中から参加していて同性愛ではなく悪ふざけの類だと思っていたものの、今になって思い出すと、同性愛だったのだと、よくわかった。

「他人様の娘を傷もんにしておいて、大臣とはえらくなったもんやのぉ!」

「……その件は決着がついたはずですが。もともと、夕子さんから鮎美へ交際を申し込んでいたとか」

「ケツまくる気かっ?! そんな態度やったら、こっちは週刊紙にタレ込むど!」

「…………」

 話の先が読めたので、玄次郎は机の上にあったスマートフォンを操作して録音を始める。

「ワシの娘が、どれだけ傷ついたか!」

「…はい…」

 返事をしつつ録音がスタートしているか、目で確認する。なるべく相手の声が雑音無く入るように受話器をスマートフォンの隣に置いて玄次郎自身は椅子に座って前屈みになって話す。

「相応の償いがあるやろ!!」

「…たしか、あのとき話し合いに要した費用ということで2万円をお渡ししたと思いますが?」

「あんなもん挨拶料やんけ! ワシが言うてるのは、お前らの誠意じゃ!」

「…はい…」

「誠意を見せい!!」

「…はい…」

「せやなかったら週刊紙にタレ込むど!!」

「…それは、お待ちください」

「おう! ほな、誠意みせろや!!」

「一度、落ち着いて、当人も交えて話し合いませんか?」

「あかん! ワシとお前だけで決着つけたろ言うてるうちに誠意みせい!!」

「……夕子さんは、どうされていますか?」

「ゆ、夕子は、…学校や! 学校いっとるわい! この時間、当然やんけ!」

「……」

 お前は、この時間に仕事もせんと、何しとるねん、と玄次郎は久しぶりに関西弁で思考し、おそらく相手が失業中か、ろくな仕事をしていないと判断した。そして父親単独で金銭の無心をしていて、夕子や母親は知らないか、別居しているか、離婚したのではないかとも考える。島の自宅には固定電話が無いけれど、建築事務所には置いてある上、芹沢という名も屋号に入っていて、調べればわかることだった。

「とにかく誠意をみせろ!」

「わかりました」

「ぉ、おう! そうや! そういう態度が必要なんや!」

「それで、どうすれば、よろしいですか?」

「はァ?! 大人やったらわかるやろ! 誠意ゆうたら金や!!」

「……お金ですか……おいくら、ほど?」

「一千万! いや、三千万や!!」

「……三千万円ですか…」

「おう! 三千万きっちり用意せい!」

「……それだけの金額、さすがに、すぐには…」

「なんとかせい!」

「……私単独では難しくて…」

「大臣になるやろ! なんとかせい!」

「……一度、娘に相談してみないと」

「ほな、そうせいや!」

「では、そうさせていただきます」

「……。い、いや! 待て! まず前金でいくら払える?!」

「前金? 何の前金ですか?」

「慰謝料に決まっておるやろが! トボケよると、しばくど!」

「慰謝料の前金ですか……」

「いくら払える?!」

「私の単独だと、せいぜい30万です」

「なんや、情けない男やのぉ!」

「はい、赤字なもので」

「アホが! ちゃんと働けや!」

「どうも、すみません」

 お前が働けや、と言わないように自制して、とりあえず謝った。

「まあええ! ほな30万、すぐ払え! 振り込め!」

「振込先の銀行口座を教えていただけますか?」

 玄次郎は教えてもらった口座情報をメモしてから言う。

「振り込みますが、早くても月曜になるかと思います」

「なんでや?!」

「すでに14時40分で大阪と違い、こちらは田舎なのでATMまで遠くて。それに30万となると定期預金を解約しないといけないので支店に行く必要もありますし」

「ちっ……必ず月曜には振り込めよ!」

「わかりました」

 電話が切れると、玄次郎は録音を停止し、大きなタメ息をつきながら椅子にもたれる。

「はぁぁぁぁ……」

「……大丈夫ですか、芹沢社長」

 陽梅が心配そうに見てくれる。会話は、ほぼ聴こえていた。

「月谷さん、今の話は内密に」

「はい、誓って」

「さて、どうしたものか」

 玄次郎は腕組みして考える。本人に言うべきか、まずは石永あたりに相談するか、それとも夕子が関わっていないなら父親単独の証言では週刊紙も相手にしないかもしれないので放置するか、とりあえずは月曜までは時間があるし、30万なら余裕である。本当はATMも近いし、手元資金も200万は普通預金口座にあった。

「いっそ、あのクソ野郎、交通事故にでも遭って死ねばいいのに」

「………。神はすべてを見ておいでです」

「はぁぁ…」

 仕事中に宗教の話はしない約束だろ、と玄次郎はタメ息をついた。

「あの……芹沢社長、ここは赤字なのですか? もしかして、赤字なのに無理して私を雇ってくださったのですか? 娘に何か頼まれて……」

「あ、いえ、あれは嘘です。普通に儲かってます。ご安心ください」

「…そうですか……嘘…」

 ここで、嘘は罪です、というほど社会経験が無いわけではないので陽梅は自重した。

「月谷さん、考え事をするので少し黙っていてください」

「はい」

「…………」

 鮎美が夕子さんに何をしたかによるが、もともと同意はあったんだろう、今日まで言ってこなかったのは、話し合いと2万で納得していたからだし、2万も払うべきではなかったのかもな、非を認めたことになる、オレが参加してからクソ野郎が明らかに金目当てな雰囲気だから2万で黙らせたが、失敗だった、ここから、どうするか、週刊紙が相手にしない可能性もあるし、30万をやれば調子に乗るし、また非を認めたことになる、だが逆に脅迫ということで録音を証拠に警察へ告訴ということもできる、とはいえ対決姿勢で臨むなら鮎美にも話しておかないと、あいつも結婚までした大人だし、今回は本人に告げるべきかもな、悲しむかもしれないし忙しいだろうが重要な案件だといって本人と石永先生に連絡を取ろう、と玄次郎が方針を決めたときJアラートが鳴った。

「地震か」

「みたいです。どうしますか?」

「ここは大丈夫だよ。座っていて」

 慌てずに玄次郎は言った。大阪で阪神淡路大震災を体験したのは16年前、その経験から、この事務所を借りるときも3階建てビルの3階にしたし、築年数のわりに丈夫そうなビルを選んでいる。そして戸棚は当然、パソコン本体やディスプレーなども耐震粘着マットで机に固定してあるし、その机も壁に鎖でつないである。壁掛け時計でさえ、ひっかけるネジとは別のネジを打って、針金で時計と結んであるので落ちても落ちないようにしていて、考えうる限りの対策をしていたので机の下に隠れることもしなかった。

「おお、揺れるなぁ、これは大震災クラスかも」

 激しく揺れ、狙い通り時計は落ちたけど、針金のおかげで30センチ落ちただけで床まで落ちたりしない。ちょっと嬉しかった。陽梅は祈っている。そのうちに揺れはおさまりビルの窓ガラス一枚が割れたけれど、そのガラスにも飛散防止シートを貼ってあったので被害は軽微だった。

「よし、だいたいOKだ」

「……とても落ち着いていらっしゃるんですね……すごい人…」

「大臣を育てましたからね。ははは!」

 調子に乗った玄次郎はナチ式の敬礼をやった。おかげで陽梅は、あってはならないことなのに玄次郎へ惚れかけていた気持ちが静まった。

「一応、妻にも電話しておこう。妊婦だし」

 自宅も同じように家具の転倒防止もしてあるし、古い日本建築ではあるけれど頑丈さは確かめてある。とくに鬼々島の家屋の間取りは狭いので揺れに強いはずだった。ただ、心配なのは美恋が妊娠中なことで本人が転んでいる可能性はある。

「……つながらないな……」

 電話回線は混雑していて、かからない。何度もかけてみて30分しても連絡が取れないので玄次郎は立ち上がった。

「月谷さん、いっしょに来てください。自分が運転をするので、妻へ電話をかけ続けてみてほしい」

「わかりました」

 玄次郎が運転し、陽梅は助手席から電話をかける。回線混雑が続きつつも、たまに通じているのに、電源が入っていないか、圏外だと言われる。

「芹沢社長、鬼々島は圏外が多いのですか?」

「いや、遮蔽物は山くらいしかないし、どこにいてもかかるはずなんだが……」

 だんだんと玄次郎から余裕が消え、焦りが増してくる。走り抜ける街は、さほど被害を受けていないけれど、救急車のサイレンは聴こえるし、窓ガラスが割れていたり、古い看板が落ちていたりはする。市街地から港に向かう途中で、娘たちが通う学園の近くまで来た。

「っ?! なんだ?!」

「っ…いったい何が……」

 街の一角が消えていた。そして濡れている。

「どうして……こんな風に……」

「……なぜ……水浸しに……このあたりに、あった家は……」

 娘たちが通う学園のそばなので街並みは覚えている。その街並みが消えていた。鐘留の家も無いし、隣接していたはずの店もない。一つの町内、丸ごと消えている。車を停めて降りると、琵琶湖のヘドロの匂いがした。

「まさか……津波? ……琵琶湖から…」

 鐘留の家は堀に隣接していた。堀の水面の高さは琵琶湖と変わりない。津波だと考えると高さ5メートル程度の津波が襲った痕に見えてくる。消防団の隊員が駆け回っているので問う。

「何があったんですか?!」

「津波みたいに琵琶湖の水が来たんじゃ!」

「っ…、鬼々島は?! 鬼々島は無事ですか?!」

「わからん!!」

「くっ……とにかく港へ…」

 再び車で移動する。海の津波ほど広範囲ではなく、すでに引いているけれど、湖岸の低い場所は被害に遭っていて、家が消えていたりする。もともと高波さえ想定していないので家と琵琶湖が隣接していることは少なくなかった。やっと港に着く。

「港も被害を……」

「壊れている船が……」

 港にも被害があり、破損したり横転している漁船がある。襲ってきた波は津波と高波の性質を半分ずつにもったような波だったのか、内陸までは標高が低くても達していないけれど、湖岸部は破壊力が強い。一家に一艘ほどあった船は半数が使用不能になっていた。そして湖面には色々な物が浮いている。発泡スチロールの箱や自動車、家の一部がそのまま浮いているし、見たくなかったけれど、死体もあった。

「「……………」」

「おーい! 助けてくれ!」

 少し沖から声がする。浮いている家の一部にしがみついている男性だった。

「……使える船があれば……だが、キーが……免許も……」

 所有船も船舶免許もない玄次郎が迷っていると、他にも市街地で仕事をしていて戻ってきた島民が使える状態の船を動かし始めた。それで救助や捜索活動が始まる。玄次郎と陽梅も漁船に乗って手伝った。はじめの一時間は生存者が多かったけれど、だんだんと水死体や圧死体を回収する方が増えていき、鐘留の両親も死体で見つかった。

「……美恋は……」

「神よ。シスター美恋を、どうぞ、お救いください」

 陽梅は祈りつつ作業を進めたけれど、暗くなる頃に美恋と鷹姫の腹違いの妹を死体で見つけた。下の3歳の妹で灯油のポリタンクに美恋が使っていたスニーカーの靴紐で胴体を縛りつけられていて、なんとか溺れずに浮いているように縛られたのだとわかるけれど、低体温症で亡くなっていた。状況的に、外を散歩していて、いっしょに波に襲われたようだった。美恋の身体にも目立った傷はないので溺死か、低体温症だと思われた。

「…美恋……………」

「……シスター美恋……」

「こっちは息があるぞ!」

 上の5歳の妹が同じように灯油タンクに縛られて、それに抱きつくことで生きていた。

 

 

 

 2011年3月11日昼前、詩織は世田谷にある自宅マンションのベッドで目を覚ました。時差の大きいヨーロッパやアメリカと連絡をとっている都合上、朝に眠って昼に起きるという生活パターンが定着しつつある。

「……あ~………シャワー浴びたいです……あのヘンタイめ……」

 身体がベタとしているし、やや匂う。裸で寝るのが習慣なのでシーツや枕カバーも汚れが早いけれど、鮎美が求めるので入浴していない。好きな人を喜ばせるのも、好きな人を苦悶のあげくに殺すのに比べれば、はるかに劣るものの、嬉しいとは感じるのでシャワーを浴びる快感は我慢して、洗顔だけしてメイクする。事務所へ出勤するため、スカートスーツを着て準備を終えた頃、玄関チャイムを誰かが鳴らした。

 ピンポーン♪

 訪問される予定はない。

「鮎美のバイブは、もう届いていますし……他に宅配はないはず……」

 警戒して玄関チャイムの防犯カメラ映像を内線電話のモニターで覗きつつ問う。

「どなたですか?」

「警視庁の者です。牧田さんにお訊きしたいことがありまして」

 モニターには2名の刑事が映っている。

「わかりました。ですが、私は芹沢詩織です」

「失礼しました。ここを開けていただけますか?」

 刑事に訪問される心当たりは二つある。一つは静岡県での事件で被害者として、もう一つは過去の自分の犯罪だった。

「今、シャワーを浴びていましたので、少々お待ちください」

 平然と嘘をついてから、別のモニターをチェックする。そのモニターは玄関前の天井照明に隠して付けた360度カメラに接続されていて、ドア前しか映さない防犯カメラよりも周囲の状況がわかる。

「………」

 モニターには合計6名の刑事が映っていて、ドアの前にいる2名の他は防犯カメラの死角になるような位置に立ち、手にはバールや大型金属切断具を持っていて、玄関ドアを破壊してでも侵入できる準備をしていた。

「……そうですか……とうとう……日本警察が優秀なのか……それともドイツ警察か…」

 この日が来るのは想定してもいた。そして準備もしている。詩織はリビングと玄関前天井に仕掛けてある爆薬へつながる電線のスイッチを入れて、いつでも無線で爆破できるようにすると、無線リモコンを持って再び内線電話のモニターに問う。

「逮捕状を見せてください」

「っ…、ここを開けろ!」

「どうせ逃げられませんよ。まず逮捕状を見せてください」

 詩織が住んでいるのは高層階で出入口は玄関だけ、どのみちベランダ側を見張る刑事も数人いると想定している。

「いいだろう!」

 刑事が逮捕状を防犯カメラに向けてくれた。

「殺人容疑……ドイツから…ICPO経由ですか……わかりました。すぐ開けます」

 また平然と嘘をついてから、もっとも爆風の影響が少ない自室に入ると、両耳を手で塞ぎ、口に咥えた無線リモコンのスイッチを歯で押した。

 ズンッ!!!

 リビングの床に四角に四カ所、玄関前天井に二カ所、仕掛けてあった爆薬が爆発し、玄関前にいた刑事たちは吹き飛んだはずで、さらにリビングの床は階下まで落ちたはずだった。

「…………次、鮎美に会えるのは、いつになるか……」

 国外に逃亡するつもりなので偽造パスポートや現金、偽名でのカードが入ったハンドバックをクローゼットの奥から出し、明るい金髪のウィッグをかぶって伊達眼鏡もつけ、走りやすいスニーカーを履く。

「忘れ物なしです」

 タバコを吸わないのにベッドサイドの引き出しに入れてあるライターで自室に放火すると、そろそろ爆破後の粉塵がおさまったはずのリビングに行く。リビングの床は無くなっていて一つ下の階のリビングが見下ろせた。着地地点を見定め、飛び降りる。

 ザッ…

 2メートルあまりの飛び降りに難なく成功して周囲を見る。

「ママっ、ママっ」

 幼児が泣いている。詩織の部屋のリビングが落ちてきたことで、階下でテレビを見ていた主婦が押しつぶされ、手と血だけが見える。その手を引いて6歳くらいの幼児が泣いていた。

「っ、お姉ちゃん、誰? どうして上から…」

「子供に興味は無いのです。よかったですね、殺してあげる時間もなくて」

 幼児の横を通り過ぎ、玄関から外に出た。一つ下の階の共用通路には予想通り刑事はいない。けれど、一階エントランスや裏口、非常階段にはいると想定する。エレベーターまで歩くと、下へ行くボタンを押した。詩織の階に止まっていたエレベーターが降りてくる。それに乗ると一人の若い刑事が蒼白な顔をして無線で話しているけれど、エレベーターは金属に包まれるせいで通信状態が悪く苦労していた。すでに一階のボタンは押されているので詩織は刑事に背を向けて立つ。

「状況不明です! 大きな爆発音がして…もしもし?! 大きな爆発音がして、駆けつけたところ6人とも…もしもし?!」

 エレベーターが一階に着くと刑事は駆け足で降りていく。詩織は歩いて一階エントランスに出た。若い刑事が他の刑事に何か説明している。その隣を歩いて抜ける。

「……」

「……」

 説明を受けていた刑事が詩織の背中を見る。容疑者と背格好が同じで、二つ気になる点があった。一つは出勤するような整ったスカートスーツを着ているのに不似合いなスニーカーを履いていること、それは足の健康のためにパンプスやヒールは会社に着いてから履くのかもしれないし、そういう女性もいるので見逃せるとしても、もう一つは若い女性のわりに汗の匂いがして気になった。二つ気になるときは迷わず疑ってきた刑事は声をかける。

「ちょっと、いいですか?」

「はい」

 振り返ると同時に詩織はスタンガンで刑事を失神させる。もう一人の刑事が身構える前にスカートの裾をあげると同時に蹴りを入れた。

「ぐっ…」

 さらにスタンガンで失神させると、何事も無かったようにエントランスから道路に出る。外にも刑事がいたけれど、上を見上げて火事の様子を消防署へ通報していて、何も問われず詩織は歩道を進み、次の通りでタクシーを拾った。

「羽田空港へお願いします。急いでいるの。父が危篤で!」

 とっくに殺した父親のことを危篤にするとタクシーの運転手は頑張ってくれる。

「わかりました! 羽田ですね!」

 世田谷から羽田へと多摩川沿いにタクシーは走り、詩織はメールを鮎美へ打つ。

 

 愛する鮎美へ

 私は無実です。冤罪です。これは罠です。

 きっとタックスヘブンの仕掛けた罠です。

 私は誰一人殺してなんていません。

 鮎美を愛しています。

 私だけの鮎美、鮎美だけの私です。

 いつか必ず会いに行きます。

 その日まで、どうか待っていてください。

 永遠に愛しますから。

 

 しっかりと鮎美を縛りつける言葉を送ると、トイレに行きたいと言ってコンビニへ駐まってもらい、女子トイレの洗面器にスマートフォンを押しあて二つに割ってから水で濡らし、コンビニ前のゴミ箱にスタンガンとともに捨てて再びタクシーに乗った。詩織の嘘を信じてくれた運転手は羽田空港へ、かなり早く到着してくれた。

「ありがとうございます」

 なるべく運転手に印象を残さないよう、ごく普通の態度で支払いを済ませると、国際線ではなく国内線で関空へ飛ぶことにした。その便が待ち時間が少なかったし、マンション一階で失神させた刑事を見て、もう手配が回っているかもしれない、という勘だった。搭乗前の身体検査を受け、搭乗待ちロビーで遅くなった朝食を摂る。

「こんなに美味しいご飯は、しばらく食べられないかもしれませんね」

 日本の食事が美味しいことは、よく知っている。そして、これから関空を経てICPO未加盟国に逃げるので、そこでの食事が期待できないこと、偽名カードに移してある財産も多くはないこと、他にも考えるべきことを再検証しながら食べ終えて口紅を塗り直したとき、刑事が2名、自分に近づいてくることを視界の端でとらえた。

「日本の警察も優秀なのですね。もう逃げ道が…」

 かなり追いつめられたけれど、詩織は諦めなかった。席を立つと走る。身体検査のゲートを逆走し、空港ロビーを駆け抜け羽田空港駅から電車に乗った。

「ハァ! ハァ!」

 きわどい駆け込み乗車をした詩織を他の乗客は迷惑そうに見ているけれど、もう一人、駆け込み乗車をした刑事が隣の車両から追ってくる。

「ハァハァ、牧田だなっ?! 動くな!!」

 そう警告されても詩織は動いて、そばにいた赤ん坊を抱いた母親を母子ともに人質にする。午後の13時という半端な時間なので電車内は人が少なく、母子は海外赴任する夫を見送った後のような雰囲気だった。詩織は人質にした母親と刑事に警告する。

「動かなければ殺しません」

 母親の首筋に口紅のスティックをあてた。まったく殺傷力はないけれど、それで母親は何かの凶器だと思い込み動かずにいてくれる。

「た…助けて…」

 赤ん坊を抱いた母親は、まったく状況がわからないけれど、とにかく警察のように見える刑事へ言った。刑事は拳銃を抜いているけれど、銃口は天井へ向けている。

「無駄な抵抗はやめろ!!」

「銃を捨てなさい!」

 いかにも刃物であるかのように母親の首筋へ口紅を押しあて続ける。それでも刑事は銃を捨てない。詩織は母親のわき腹に膝蹴りを入れて薙ぎ倒すと、赤ん坊を奪った。そして盾のように刑事に向ける。

「弾倉を抜き、弾を床に捨てなさい! でなければ、この子の腕を折ります! 3! 2! 1!」

 ごく短いカウントダウンで詩織は赤子の手を捻るようにして腕の骨を折る。

「ビギャーーーーっ!!」

 すでに泣いていた赤ん坊の泣き声が変わる。火がついたような泣き方になった。

「次! 反対の腕! その次は首です! 3! 2!」

「ま、待て! 弾倉を抜く!」

 オートマティック式の拳銃をもっていた刑事は弾倉を抜いて反対の手に持った。

「弾を出して捨てなさい! 3! 2!」

「くっ…わかった! わかったからやめろ!」

 刑事は弾倉から弾を外して床に落としていく。そうしながら車窓を見た。電車は大鳥居駅を過ぎ、京急蒲田駅へ向かっているが、近くの道路からはパトカーの音が聞こえる。すでに、この容疑者を逃がすことはないが、きわめて凶悪で人質を殺すことに躊躇いがない、と判断して、赤ん坊のことを優先した。今も母親が詩織にすがってくるのを蹴って倒し、その頭を踏みつけて気絶させている。

「…ハァ…」

「ハァ…」

「ビギャーーー!!」

「その子を離せ!」

「はい」

 素直な返事をした詩織は刑事へ赤ん坊を投げつけた。

「なっ?!」

 慌てて受け止める刑事の股間を蹴り、蹲ったところを赤ん坊ごと膝蹴りして倒し、体重をかけて頭部を踏みつけて無力化した詩織は拳銃を拾い、乗客たちに向ける。

「動けば殺します!」

 弾倉が抜かれるところを一部始終見ていたのに、銃口を向けられた乗客は誰一人として動かない。詩織は車窓を見た。糀谷駅を過ぎているし、その糀谷駅にはパトカーが駆けつけつつあった。ということは、次の京急蒲田駅へは、すでに先回りされている可能性が高い。

「…ハァ…ハァ…」

 詩織は額の汗をスーツの袖で拭き、電車の非常停止レバーを操作した。それで電車が減速して停車すると、車窓から線路へ逃げる。線路は高架だったので一般道へは出られず、あえて電車が走ってきたのと逆を行き、糀谷駅まで戻った。幸いにして糀谷駅のホームに警察官はいない。ホームにあがると、一般の乗客だったような顔をして歩き、女子トイレで金髪のウィッグを外して、その場に捨てた。トイレを出ると改札で駅員に告げる。

「すいません、切符を無くしてしまいました。羽田から乗っています」

「そうですか。じゃあ、いいですよ。どうぞ」

 駅員は親切にも素通りさせてくれて、駅前に出たけれど、そこにはパトカーが2台も待機していて、髪の色が違っても背格好と服装が一致する詩織を追ってきた。パトカーで追いにくいよう道路の細い駅北側に逃げたけれど、制服警官たちが走って追ってくる。詩織は交差点では、なるべく曲がるようにしてジグザグに走った。

「ハァ! ハァ! くっ…」

 それでも500メートルと走らないうちに先回りされ、前後から挟まれる形になり逃げ場を失った。しかし諦めず、たまたま保育園前だったので150センチほどしかない塀に手をつき飛び越えると園舎内に侵入した。保育士が見知らぬ詩織の顔を見て問うてくる。

「どの子のお迎えですか? 違う方がお迎えにくる場合は事前に連絡し…うっ?!」

 保育士は腹部を殴られて悶絶する。詩織は2階へ駆け上がり5歳児のクラスに入る。別の保育士が2名いて、その二人も身構える間も与えずに倒した。子供たちがパニックになって騒ぐけれど、気にせず一人の体重の軽そうな子を選ぶと、窓から外の道路に投げ落とした。

「近づけば子供を殺します!!」

 道路にいる警察官たちが園を包囲し、応援を呼んでいる。また軽そうな子供を選んで文房具からガムテープを出すと、身体をグルグル巻きにしてから窓から出し、身を半分ほど外に出してガムテープで窓枠に貼りつけた。

「子供たちに爆弾を仕掛けました! 近づけば爆発します!」

 そう警告した詩織は急いで園舎の四方を確認する。どこかに逃げ場は無いか探した。

「……くっ…」

 逃げ場は無かった。園舎の裏もマンションと接していて、飛び移ることはできないし、その先に逃げ場はない。表や園庭側は警察官たちから丸見えだったし、もう一方には窓さえ少なく、道路から見える。

「……ここで終わり……静かにしてください!!」

 騒いでいる子供の一人を蹴りつけた。大人の力で本気で蹴られると子供はサッカーボールのように飛び、動かなくなる。子供たちは教室の外に逃げるという知恵もなく隅で震えている。都合良く教室の戸には鍵がかかるし、その鍵は大人の身長でしか届かない位置にあった。他のクラスの園児は騒ぎに気づいた担当保育士たちが不審者対策マニュアルに基づいて避難させつつあり、園庭や道路に出て行くけれど、あわれな5歳児クラスの子供たちには導いてくれる保育士がいない。担当保育士が欠けた場合、マニュアルに穴があるようだった。

「静かにしなければ殺します!!」

 さらに5人を蹴ると、騒いでいた子供たちは啜り泣くだけになった。何人かは失禁して小便で制服を濡らしている。もう一度、詩織は窓から道路を見る。すでにパトカーも駆けつけてきて、包囲している警察官は15人ほどに増えている。そろそろ突入してきそうなので詩織は髪の長い女児を選ぶと、言う。

「言うことを聞き、おとなしくしていれば、おうちに帰してあげますよ。だから、おとなしくしてください」

 殺すとは言わなかったけれど、もう女児は詩織を鬼より怖い存在としか思っていないので震えながら動かずにいる。話しかけられているだけで怖いので女児が小水を漏らして脚を濡らした。その女児を抱き上げるとベランダ側に出て、女児をベランダ柵の外に出しておろす。地面までの高さは3メートルほどで女児は恐怖して柵にしがみついた。

「やめろ!!」

「やめるんだ!!」

 道路から警察官が叫んでいる。

「近づけば、この子を落とします!」

 そう言ってから女児の長い髪を柵にガムテープで貼りつけた。

「落ちないように、しっかり柵をもっていなさい」

「うわああ! 怖いぃい! 怖い怖い! やめてやめて!」

 さらに教室の文房具からビニール紐を出し、女児の首に括りつけ、反対の端を柵に括った。これで女児は落下すると首吊りになり、下に回って救助することはできない。

「私の要求を飲めば、子供たちは殺しません!!!」

「わかった!! 要求は何だ?!」

「銃と車両を用意しなさい!! 1時間以内に!!」

 そんな要求をしても無駄だということは、もう承知していた。ただ1時間は突入が先延ばしになるはずで、その1時間が最期だと悟っている。

「最期が子供なんて……私はロリコンではないので、あまり楽しくなさそうですね。犬猫なみの反応でしょうし……でも、初めて殺したのは公園の子猫……そして、最期も子猫たち……因果ですね」

 ベランダから教室に戻ると、文房具の中から大型カッターナイフを選んだ。そして子供たちに斬りかかる。首に致命傷を負わせることもすれば、腕や脚を斬るだけの子も残す、ただただ楽しく斬りつける。頭を防御した子は防御しなかった腹を斬り、背中を向けた子は背中や膝の裏を斬ってみた。

「おチンチンを斬られて、女の子になりたい人はいますかーぁ?」

 誰も返事をしなかったけれど、三人の男児を斬ってみた。一人が白目をむいて失神し、もう二人は血まみれになった股間を押さえて泣いている。目についた女児の口に押し込んで飲み込ませた。

「はい、次は耳なし法師の話を知っている人いますかーぁ?」

 まだ斬られていない園児のうち5人が両耳を手で守った。守らなかった二人を斬った。

「けっこう子供を殺すのも楽しいですね」

 思ったより充実した時間が過ごせたし、より恐怖を与えるため三人だけ無傷で残した。まだ突入されたくないのでベランダ外に出した女児も落ちないうちに回収し、警察官たちに叫んでおく。

「銃とクルマはまだですかっ?!」

「すぐに用意する!! もう少し待ってくれ!!」

「あと2時間あげます!! 現金で一億円、用意しなさい!!」

「……。2時間では無理だ!!」

「では一千万です!!! 3時間待ちます!! でないと子供を傷つけますよ?!」

「わかった!! わかったから待て!!」

 これで警察官たちの突入は、また遅くなる。時間をつくった詩織はベランダの内側へおろした女児に訊いてみる。

「あなたの、お名前は?」

「ひっ…ひぐっ…」

「言わないと、今すぐ殺します」

「ま…松尾! 松尾恵理香(まつおえりか)!」

「恵理香ちゃんですね。では、目を閉じてください」

「………」

 ベランダから落ちるかもしれない恐怖で泣き続けた後なので、もう涙の枯れた目を閉じてくれた。詩織は恵理香を抱き上げ、教室に戻る。

「まだ目を開けてはいけませんよ」

「……」

 恵理香は他の子供たちの呻き声を聴いたけれど、恐ろしいので目を閉じたままでいる。詩織は恵理香を教室の中央におろした。

「はい、目を開けて周りをごらんなさい」

「…っ?! ひーーーーっ?!」

 恵理香は血の池地獄を見て悲鳴をあげた。同じクラスの友達が斬りつけられて血まみれになっている。もう死んでいる子もいる。恵理香は腰が抜けて座り込み、両手を床についた。その手が真っ赤になって、また悲鳴をあげる。その悲鳴を心地よく聴きながらも、詩織は一人の男児に注目した。太腿を斬りつけた男児だった。

「へぇ……5歳くらいでも、そんなことができるのですか…」

 男児は斬られた太腿をセロテープでグルグル巻きにして止血している。それだけでなく、さらに友達の腕へも応急処置をしていて詩織は深く感心した。

「ねぇ、君、お名前は?」

「……む……村井勇気(むらいゆうき)」

「いいお名前ですね」

「………」

「お友達を助けたいなら、こっちへ来てください。チャンスをあげます」

「…………」

 勇気は痛む脚を引き摺りながらも詩織の方へ来た。

「勇気くん、この教室の中で、あなたが一人だけ助けてあげたい友達を選ぶとしたら、誰ですか? 指を指してください」

「……笑美(えみ)ちゃん」

 勇気はセロテープを腕に巻きつけて止血していた女児を指した。

「わかりました。笑美ちゃんを助けてあげます」

「………」

「手紙を書きます。少し待ってください」

 詩織は画用紙に警察へ手紙を書く。別に内容は何でもいいので、日本では手に入りにくいドイツ産のソーセージとフランス産のチーズ、世田谷有名店のサンドイッチを午後6時までにもってくるよう要求する手紙を書いた。

「この手紙をもって外に行ってください。まず笑美ちゃんから助かります。けど、私がみんなを斬ったことを警察に言ってはいけません。絶対に言ってはいけません。みんな元気にしていると答えてください。でないと、全員を呪い殺します。いいですね?」

「………」

「お返事は?」

「……は……はい…」

「きっと、みんな元気になって一人ずつ助かりますから、安心してください」

 詩織は教室の扉を開けた。

「………」

 笑美が勇気を振り返る。

「早く行け!」

「…ぅ、うん」

 笑美が手紙をもって逃げていく。詩織は扉を閉めると窓から叫ぶ。

「一人解放します!! 早く要求に応じてください!! 私は無実です!! これは陰謀です!!」

 眼下で笑美が園を出ていき、警察に保護されている。すぐに現場指揮官になっている警部が手紙を読んでいるのを見ると、そろそろライフルで狙撃する準備もしているかもしれないので窓を閉めた。

「よかったですね、勇気くん」

「………」

 勇気は詩織から嫌な感じしかしないので返答しなかった。

「勇気くんのお願いをきいてあげましたから、私のお願いもきいてください」

「…………」

「服を脱いで裸になってください」

「……な……なんでだよ?!」

「ほら、早く。私も脱いであげますから」

 あと十歳成長してくれれば、でも試してみましょう、と想いつつ詩織は裸になる。勇気は脱がないけれど、詩織は出血多量で死にかけている園児の頭を踏んで言う。

「脱がないと、お友達を殺しますよ」

「…………くっ…」

 悔しそうな顔をして勇気が裸になった。その勇気に近づいて詩織が抱きしめる。さらにキスをしてみた。

「ううっ…」

 勇気は気持ち悪そうに呻く。魔女にキスされたような気分だった。詩織は床へ勇気を押し倒して、馬乗りになった。

「おチンチンを大きくしてください」

「……そ……そんなことできない!」

「では吸ってあげます」

「ううっ?!」

 詩織は勇気を刺激してみたけれど、やはり5歳児なので鮎美の小指にも満たない。それでも、こんな状況なのに勃ってきたことは嬉しかった。もしかしたら自分と同じで頭のネジが一つ二つ、生まれつきズレでいるのかもしれないと感じた。

「立派ですね、勇気くん」

 そう言いながら身体を重ねてみた。鮎美の小指程度なので物足りないし、今現在の行為が何を意味するのか、勇気も少しは感じていて嫌悪感で胸がいっぱいになった。

「や、やめろよ! は、はなせよ!」

「かわいいですね、勇気くん」

「はなせよ! お前、臭いんだよ!」

「………あ~あ……死亡確定です」

 詩織は勇気の身体を噛み千切った。

「ぎゃああああ?!」

 どんなに暴れて叫んでも助けは来ず、詩織は歯だけで勇気を殺した。詩織は頬の血を手の甲で拭きつつ問う。

「さて、次は誰の番ですか?」

「「「「ヒッ………」」」」

 恵理香と他三人の無傷な園児が震えた。

「また一人助けてあげます。ジャンケンで勝った人を逃がしてあげます」

「「「「………」」」」

 子供にとって身近なゲームなので状況の非日常さから奇妙に解放された。

「きっとね、チョキを出した人が勝ちますよ。さあ、はじめてください。もちろん、何も手を出さなかった人は、すぐ殺します。はい、ジャンケン♪」

 詩織が音頭を取る。

「ポン!」

「「「「……っ」」」」

 三人がグーを出し、恵理香だけがチョキだった。けれど、恵理香は嬉しそうではないし、グーを出した三人は殺される気がして蹲って震える。

「恵理香ちゃんには、どんな手紙を…」

 まだまだ遊ぶ気だった詩織はJアラートの不協和音を聞いた。侵入したときに倒した保育士がもっていた携帯電話が警告している。

「……地震…」

 ほとんど身構える時間もないうちに激震が来た。

「なっ……こんな揺れが…」

 高校からドイツにいた詩織は地震の経験が少なく、かなり驚くし、園児たちにとっても初体験な上に今日という日は最悪だった。

「キャーッ?!」

「うわあ?!」

「助けてママぁ!!」

「ママァ!」

「嫌ぁああ!」

 悪魔の日か、鬼の日だと感じる。園舎全体が激しく揺れ、人も机も舞う。戸棚も固定されてあったのに倒れてから舞い、もともと出血して弱っていた子は次々と死んでいく。やっと揺れがおさまったとき、詩織は身を守るために使っていた子供を捨て、嗤った。

「フフ、最高のチャンスです。鮎美にまた会える」

 絶望が希望に変わった。裸だった詩織は保育士の衣服を奪い、身につけると生きている子供を二人選んだ。その二人に言い含める。

「今の地震で、私は悪い魔女から、いいお姉さんに変わりました。助けてあげます。いっしょに逃げましょう」

「「……」」

 キョトンとしている子供を左右に抱えると、園の外に出る。

「この子たちを助けてください!」

 まるで犯人から隠れていて隙を見て逃げ出してきたような演技をして警察官に子供を引き渡す。警察官たちも激震のために大混乱していて、パトカーの下敷きになっている警察官もいるくらいで、詩織の人相を確かめる余裕がない。それでも一人の警察官が気づいて拳銃を向けた。

「動くな!!」

「っ…」

 発覚しても詩織は反撃した。地震で怪我をしていた警察官を盾にし、その銃で撃ち返した。銃声で別の警察官たちも気づく。撃ち合いになり詩織は五人の警察官を殺したけれど、自身も2発の弾を腿と腕に受けた。

「ハァ…ハァ…」

「銃を捨てろ!!」

「どうせ、もう空です」

 あくまで詩織を射殺せず、生かして逮捕しようとしている警察官たちに銃口で包囲された。もう走れないし、体力もない。

「…ハァ……ハァ……まったく……多勢に無勢です……いつもマイノリティーは疎外されますね……鮎美…」

「銃を捨てろ!!」

「………あっ」

 詩織は黒い壁を見て指さした。壁というには高すぎる壁で東京タワー並みに感じる。その壁には飾り付けのように船や飛行機が貼りついている。

「あれ……なんですか?」

「「「「「………」」」」」

 嘘ばかりつく詩織が背後を指さしても警察官たちは振り返ったりしない。やっと逮捕できる。仲間の仇だ、と包囲を狭める。詩織は知識として知っていた津波という日本語を思い出した。

「………シャワーを浴びたかったのですが………これは、また盛大すぎますね……。どうせ、いつかは死ぬのですから……もっと苦しんでから死にたかった……」

 さんざんに他人の死で楽しんできたけれど、いつか来る自分の死も楽しみだった。ゆっくりと老いて死ぬのもいいし、癌の苦痛に喘ぐのも、殺した被害者の家族に拉致されてなぶり殺しにされるのも、警察に逮捕されて最高裁まで冤罪だと言って争ったあげくに再審請求を繰り返しながら拘置所で毎晩殺した被害者のことを想い出しながら自慰して過ごし最期の最期まで冤罪だったと首に縄をかける刑務官に泣きながら言ってみたかった、そんな期待していた。なのに、たった2発の銃弾と、あとは一瞬の津波で終わるようで、とても残念だった。

「……鮎美……」

 銃を捨て、結婚指輪にキスしてみた。せめて、もう少し新婚生活を送りたかったし、送らせてあげたかった。

 

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