2011年3月12日土曜、日本時間午前1時、台湾時間午前0時、鮎美たちは着陸した台中空港のターミナルそばの一角でエアバスA321の中に閉じ込められたまま5時間を過ごしていた。多くの民間旅客機が緊急着陸したために、もともとは空軍の空港だった台中空港の民需向けスペースでは受け入れができず、かといって台湾国内に入国させるわけにもいかないので機内に閉じ込められているのは鮎美たちだけではなく、他の旅客機の乗客も同じだった。
「腹が減ったなぁ」
機内の会議室で義隆が言った。
「そやね」
「すみません」
陽湖が謝る。今は会議室で鮎美、陽湖、義隆の三人で集まり情報交換していた。現在、機内は三つの派閥に分かれていて、陽湖を中心とした信仰をもつ集団と、鮎美を中心とした信仰をもたず素行のよかった集団、義隆を中心とした微妙に素行の悪い集団がある。とはいっても対立しているわけでもなく、とくに鮎美と義隆の集団は男女別という感じもあり、また由香里などは所属が明確でないし、ただ、なんとなく集団っぽくなり、とりあえずリーダー的な存在ということで三人が話し合って協力しており、屋城と介式も加わっている。学園と修学旅行の会計を預かっている立場の屋城が言う。
「空港側に食事の提供を依頼していますが、台湾国内も混乱気味で今少し時間がかかりそうです」
「我慢せなしゃーないね。これだけの事態やもん」
着陸してから情報を得るためにインターネットを利用している。台湾の設備と適合する機種のスマートフォンをもっていた生徒たちへ、いずれ鮎美が政治資金から弁済するという約束で海外でのデータ通信を行ってもらい、三つの班に分けて、日本の被害状況、英語での世界の被害状況、中国語サイトを含めた検索、という調査をしてもらっている。全員が従事しているわけではなく、すでに深夜なので眠い者には眠ってもらい、またA321の機内に入っていること、すでに24時間を超えているので起きている者は順番で中央通路を前後に歩くことで運動してもらっている。
「とんでもない地震やね……まだ津波は来るし……」
集まった情報の結果、震源地域は太平洋プレートの周囲、アラスカ、日本、ソロモン、チリ、メキシコで、いずれの地域でも巨大な津波が発生し、沿岸国を襲っている。アメリカとカナダの西海岸、日本の太平洋岸、パプアニューギニアとオーストラリア太平洋岸、チリとペルーの太平洋岸、メキシコ西海岸に壊滅的ダメージがあり、さらに日本とソロモンの間となる台湾やフィリピン、インドネシアへも10メートル以上の津波が襲ってきており、とくに二つの震源地域からの津波が重なる位置にあるフィリピンなどは深刻で、同じように震源地域の中間となるロシア極東地域、パナマも大きな被害を受けていた。くわえて太平洋の中央にあるハワイや南太平洋の島々には時間差で360度周囲から津波が襲っている。総人口のすべてが死に絶え消滅したと思われる小国もあった。義隆が言う。
「日本人口の3000万から6000万が失われたってよ……世界全体では3億とも10億とも……ははは……桁が違いすぎて、意味わかんねぇよ」
「日本でいうたら第二次大戦の犠牲者の10倍………世界でも大戦で亡くなったんは5000万から8000万やったから10倍と言えるね……」
「あの大戦の10倍って……マジか……」
「「…………」」
陽湖と屋城は祈っているし、鮎美と義隆も言葉がない。会議室へネットでの調査の技術面を統括している鐘留が入ってくる。
「ご飯の確保なんだけどさ。ぼったくりなのか、この状態なら仕方ないのか、一食10万円くらいなら届けるって業者あったよ。けど、先払いで。かなり怪しい」
「なめとんなぁ……足元みてんのか、仕方ないのか不明やし……先払いは、たぶん詐欺やと思うよ」
「だよねぇ。あと、日本の日本海側は、けっこう大丈夫みたい。というか、ほぼ被害がない県もあって秋田県、山形県、新潟県、群馬県、長野県、山梨県、岐阜県、富山県、石川県、福井県、鳥取県、島根県、山口県、福岡県、佐賀県は、ほぼゼロ被害っぽい。アタシたちの県も震度5強くらいだから大丈夫そう」
「せめて、それが救いやね」
「あ、あとね♪」
かなり嬉しそうに鐘留が右手の指を5本、左手の指を2本立てた。
「シートで仮眠してた生徒のうち女子5人、男子2人がね。フフ」
含み笑いしつつ語る。
「なんとオネショしてました。きゃははは♪」
「「「………」」」
鮎美と陽湖、義隆が学園から関空までのバスで寝てオネショしてしまった鐘留が、この世の終わりのように泣いていたのを思い出した。他人の失敗を自分の立ち直りの材料にできるらしく鐘留は喜々としている。トラブルは起こされたくないので鮎美が言う。
「しゃーないよ。あんな風に大阪が消えるとこ見た後やもん。うちも見ててチビるかと思ったし、オシッコ貯まってたら漏らしたかもしれんわ」
「しかも、腹が減ってるのを、ヨルダン川の水を飲んで誤魔化してるからなぁ……おい、ホントに食い物ないのかよ?」
「すみません。もうありません」
また陽湖が頭をさげる。涙ぐんでいる。鮎美は一瞬気の毒になったけれど、陽湖から受けた仕打ちも覚えているのでフォローする気にはなれない。機内には泣いている生徒も多い。鮎美が求めた作業に従事してくれる生徒もいれば、鬱ぎ込んで泣いている生徒もいるし、鐘留にとっては好材料だったようだけれど街が沈む光景を見たショックで就寝中に衣服を濡らした生徒もいたようだった。わざわざ鐘留がカウントしてくれたので、その生徒のフォローを陽湖と相談し、相性の良さそうな生徒についてもらうことにした。義隆は鬱ぎ込むというよりは空腹と何もできないことに苛立っている。
「くそっ! ああ、なんかムカつくぜ!」
「ヨシタカはん、イライラするのやめいよ。うちら、みんな空腹やし、すぐケンカになるよ。実際、飛行機をおろしてもらえんのも、先におりてた人らがケンカして暴動になりかけたから、おろさん方針になったみたいやし」
「そうだな……つい、イラっとするな……」
義隆は鮎美に背中を撫でられて少し落ち着いた。同性愛者ではあるけれど、当選してからの一年で男性と関わることも増え、どういうタッチをすると男性が落ち着き、触れすぎると誤解してくるというのを学びつつあった。陽湖も言う。
「よろしければ、いっしょに祈りませんか? 気持ちが落ち着きます」
「ちっ…この女、一発殴るか、2、3発、ぶち込んでやりたいぜ」
義隆が陽湖の身体を男らしい目で見ると、屋城が視線を遮るように立った。仕方がないので鮎美がフォローする。
「はいはい、あんたにはヒトミはんがおるんちゃうの?」
「さっき、あいつとはケンカした。しつこくネチネチ言うし」
「なにを?」
「宮本を叩くとき、ケツを触ったとか、そういう話だよ」
「……鷹姫の……」
「アユミン、その話とは別で宮ちゃんが、めちゃ落ち込んでるよ」
「なんで?」
「さっき中国のユーチューブみたいなサイトにあった動画でさ。宮ちゃんがオシッコ漏らしてる姿が流れてた」
「なんで?! どんな?!」
「ほら、これ」
鐘留がスマートフォンを見せてくれる。再生された動画は、臨検だと言って平宝が機内に入ってきたときのもので、平宝の背後にいた者の誰かが小型カメラをもっていたようで、まずは陽湖の姿を撮っていたけれど、途中で鷹姫が失禁してしまう姿に変わった。
「なんかバカにした風のコメントも、どんどん投稿されてるけど、漢字の意味は半分くらいしかわかんないし」
「………鷹姫……。………あんたのせいで……」
今度は鮎美が陽湖を睨んだ。
「…ごめんなさい……おっしゃる通り、私のせいです……」
「うちも、あんたにアダムの槍でも、ぶち込んでやりたいわ」
「……どんな罰でも……受けます……同意します…」
「ええ覚悟や」
鮎美の怒りに満ちた視線を屋城が遮る。
「マザー陽湖の行き過ぎた指導は認めます。私の責任です。私を罰してください」
「………あかん、ついイライラする。……はい、この話題は、おしまい。お腹へってるとホンマあかんわ。なるべく怒る話題は無しでいこ。呉越同舟は中国のことわざやし」
鮎美は感情を自制して意図して話題を変える。
「カネちゃん、台湾の被害は、どうなん?」
「やっぱり太平洋側に集中してるよ。10メートルクラスの津波が来たみたい。それが引いたと思ったら、今度はソロモンからの津波が時間差で来て、二度目でも、かなり犠牲が出てる。けど、台湾は日本とは逆で大陸側の方が人口多いし発展してて、太平洋側は山が多いから、犠牲者数は少ないかな」
「そっか……にしても、インターネットって、すごいな。こんな台湾なんかにいて、日本の被害が、それなりにわかってしまうなんて。しかも、日本の状態ボコボコやのに」
「もともとインターネットっていうのは核攻撃にそなえて開発されたシステムだから」
「そうなん?」
「インターネット以前のコンピューターネットワークは、いわゆるマザーコンピューターがあって、その下に端末機がある感じだったから中枢が攻撃されて消えると、終わりだったの。でも、それじゃ核攻撃で一気に情報が遮断されちゃうから、そうならないように網の目みたいに張り巡らそう、一部の地域が消滅しても、ぐるっと他を回って、つなげよう、っていうのが今のインターネットだから」
「へぇ……核攻撃にそなえたシステムが、超大震災で役に立つやなんてねぇ……」
感心しつつも鮎美は疲労を感じた。気が立っているけれど、眠くもある。
「これ以上は機内でゴチャゴチャしててもしゃーないし、何かあったときのため、もう遅い時間やし、とりあえず、みんな寝よか」
「そうだな」
義隆が頷き、機内会議は終了となり、鮎美は最後尾のシートに戻った。鷹姫は俯いて座り、鮎美が近くまで来たのに気づかない。
「………」
「………」
いっそ失禁動画のことは話題として触れない方がよいと思い、黙って鮎美は鷹姫の前を通り、隣に座った。窓際の知念は眠っている。鮎美の背後についてきていた介式も黙って通路の反対側のシートに座る。鮎美は長く眠るつもりなので、制服のリボンを解き、ブラウスのボタンを一つ外して胸元を楽にする。背中に手を回してブラジャーも外した。シートで座って寝ているうちにスカート裾を乱してしまって知念を困惑させないように上着を腿にかける。
「うちは寝るわ。鷹姫も、しっかり寝ておき」
「…………私は……日本の恥です……」
「そういう風に考えんとき。悪いのは陽湖ちゃんよ。さ、眠るよ」
「……もう……消えてしまいたい……」
「鷹姫………。話を変えるけど」
わざと話題をそらすため、鮎美は窓を指した。
「ときどき飛んでいったり、おりてきたりするの、あれ戦闘機なんかな?」
「………わかりません…」
「おそらくそうだ」
介式が答えた。今も深夜なのに2機のジェット戦闘機が滑走路を飛び立っていく。
「地震のとき戦闘機なんか飛ばして、どないすんの? こんな暗いのに被害地域視察もできんやろ?」
「中国と台湾は一つであって一つでない。領空侵犯があるのだろう」
「……こんなときに……アホちゃうか……」
「「………」」
「寝よ」
鮎美は目を閉じて眠ることに集中した。おかげで外が明るくなる頃まで眠れた。座ったまま眠って腰が痛いので、中央の通路をしばらく歩く。同じように歩いている泰治が前にいた。
「タイジはん、おはようさん」
「ああ、おはよう。眠れた?」
「うん」
「いい度胸してるよ」
「あ…」
「ん?」
「なんでもないよ」
鮎美はブラジャーを外したままだったことを思い出し、トイレで直してからシートに戻った。まだ鷹姫は鬱ぎ込んでいる。機長からアナウンスがあり、食事が提供されることになった。搭乗口が開き、ダンボール箱に入った弁当のような物が運び込まれたので陽湖が数人の女子を選んで配給してくれる。鮎美たちの前に得体の知れない食べ物らしき何かがきた。雰囲気的に、どこかの屋台で急いで大量に作られ、そして配送が遅れて時間が経った物に見える。
「なんやのこれ?」
「なんなんだよ、これ? 食えるのか?」
泰治も困惑している。配られたのは広島焼きに餡かけしたような物で、しかも冷たい。冷たいので固まって一塊になっている。箸は無かった。フォークもスプーンも無い。どの生徒もためらっていたし、介式たちSPの分も配られたけれど、食べて逆に体調を崩さないかと懸念している。一番に食べたのは義隆だった。
「うわぁ……まあ、喰えるけど、……これは、熱々だったら美味かったかもなぁ……冷めてるとゴミに近いなぁ……けど、超腹減ってるから、うまいわ」
「……冷めたお好み焼きも、そのままでは、つらいもんなぁ…」
鮎美が食べてみようとすると介式が言う。
「芹沢大臣、できれば我慢して食べずにいてほしい」
「………そうですね、下痢になっても、かなんし」
食べてみたい気持ちはあったけれど、イスラエル滞在中には食事が摂れていた鮎美は食べず、介式たちSPも食べなかった。鷹姫も食欲が無い様子で食べない。一部の女子たちも食べなかったので、それらは望む男子たちに再配給された。
「なんとか燃料補給してもらって日本に帰らんとあかんなぁ」
鮎美がつぶやいたときA321へ軍用車両が3台も近づいてきた。そして搭乗口から軍人が6名ほど入ってきて芹沢鮎美がいるかと英語で問うているので、介式は知念へ合図した。
「ごめんっす」
「え?」
急に鮎美は知念によって柔道技で首を絞められ、何の抵抗もできないうちに意識を失う。鷹姫が驚く。
「何を…ぅっ?!」
その鷹姫の首にも後ろから介式の腕が回ってきて、一瞬のうちに落とされた。ぐったりと二人の身体がシートに横たわる。
「打ち合わせ通り、知念と長瀬が残れ。学校教師のような顔をしていろ」
「「はい」」
そう言った介式は他の部下を連れて陽湖のところに行く。やはり再び最前列にいた陽湖は台湾の軍人たちにも鮎美だと思われている。その誤解を助長するように介式たちは、いかにも陽湖のボディーガードだという顔で陽湖と軍人たちの間に立った。通訳が言ってくる。
「私たちは芹沢大臣を歓迎したいのです」
「……歓迎か……わかった。ただ、他の生徒たちは一刻も早く帰国させてやりたいとの大臣の意向がある。整備と燃料補給を頼めないか?」
「わかりました」
交渉が成立したので介式たちSPと屋城は陽湖を囲みながらA321をおりて空港ロビーに入った。陽湖がガラス越しにA321を振り返って言う。
「友人たちの出発を見守らせてください」
「30分はかかります」
通訳は早く連れて行きたい顔で言ってくる。陽湖は介式に求められていた芝居をする。
「どうか、出発を見守らせてください。友人たちが心配なのです。お願いします」
「……わかりました」
「………」
陽湖は祈った。整備と燃料補給が始まり、最低限の発電用しか供給してもらえなかったA321が満タンに燃料を入れてもらい、飛べる状態になった。陽湖は最後尾の窓を見た。もう失神させられていた鮎美と鷹姫は目を覚ましている。鮎美も、こちらを見ていて、目が合った。
「……」
「お元気で。神の加護と栄光が、あなたたちにあらんことを祈ります。アーメン」
「……」
機内の鮎美は黙って無表情だった。A321が滑走路に向けて動き出す。離陸位置につくと3割の生徒は無事の帰宅を祈った。鮎美は見えなくなった陽湖がいるターミナルを見続ける。
「………」
「芹沢大臣、シートに戻ってシートベルトを締めてください」
長瀬が言ったので、今まで鮎美は機体最後尾右側の中央シートに座っていたけれど、ターミナルがある左側窓際に座ってシートベルトを締めた。介式たちがいなくなったのでシートは、いくつも空いている。隣に知念と長瀬が来た。A321が加速を始め、フワリと浮き上がると、またターミナルを振り返る。もう小さくて視認できないけれど、そこに陽湖と介式たちがいて、こちらを見ているだろうと思った。
「…………殺されはせんやろ……北朝鮮とはちゃうし…」
鮎美は胸につけているブルーリボンのバッチを指先で撫でた。もう陽湖たちは雲の下で見えなくなる。
「そういえば北朝鮮では、日本の地震、どう報道してんのかなぁ……」
何気なく思ったけれど、鐘留が前席斜め前から言ってくる。
「北朝鮮の報道は見てないけど、韓国では、日本の大震災をお祝いします、って横断幕を出してる人もいたらしいよ」
「……………ああ……神よ!」
鮎美が空で天を仰いだので鐘留が驚く。
「ちょっ、とうとうアホが感染したの?!」
「神サンよ! もう少し、ちゃんと人間を造らんかい! 欠陥だらけやん!」
叫んだ鮎美は冷静になる。
「異なる民族の死滅を願うのは、今までも人類がやってきたことやし、そもそも種は、そういう風に争って競い合い進化してきたんや。横断幕くらい可愛いもんやよ。アホらし」
「アユミンって基本的に進化論で世界をとらえるよね」
「そうよ。せやから、日本に帰ったら、やることいっぱいや。もう一部で、うちのこと内閣総理大臣臨時代理って言い出してるみたいやし頑張るしかないわ。ってことでカネちゃんに頼みたいねんけど、情報収集は続けてほしいけど、うちのおばあちゃんとか、うちにとって大事な人についての安否情報は朗報しか、伝えんといて」
「朗報しか? いいニュースしか聞かないの?」
「そうよ。知ってもダメージを受けるだけのニュースは教えんといて。震災直後の三日、一週間が勝負なんよ。すでに台湾なんかに寄り道して出遅れてる分、少しでも政府を立て直さな、どんどん混乱するもん。うちが中心にならざるをえんにゃったら、気になるけど気にせん方がいいことやもん」
「……そっか……そういうのも……いいかもね…」
鐘留は離陸寸前までネット接続していて琵琶湖でも津波が発生し数百人の死傷者が出た情報を得ていたけれど、黙っていることにした。全国的に死者数が多すぎて、いまだ氏名の発表などはされていない。その確認作業さえ進んでいない様子だった。
「……ぐすっ……介式師範……ぅぅ……」
鷹姫が泣いているし、知念も悔やんだ顔をしている。
「介式警部がオレと長瀬警部補だけ行かせてくれたのは、長瀬警部補は半年前に結婚してたし、オレにも紀子がいたから……ぐすっ…」
「長瀬はん、結婚してはったんや?」
「はい」
「結婚指輪してへんやん?」
鮎美は長瀬の左手を再確認した。指輪は一つもしていない。そして一時は黄色ローブだった長瀬も今はSPらしいスーツに戻っている。
「単純に指輪をつけると、指がムズムズして気持ち悪いので結婚式当日しかしていません」
「そういう人もいるんやね」
知念がまじめな顔で言ってくる。
「しばらくは芹沢大臣は月谷陽湖さんとして振る舞ってほしいっす」
「そうやね。そうするわ」
鮎美は髪を左右に分けてまとめると、ツインテールにした。陽湖はティアラをつける都合上、アップにしていたけれど、普段の陽湖はツインテールだったので鮎美が真似をしてツインテールにすると、クラスメートでも間違えそうなほど似る。それから議員バッチは内ポケットに隠し、陽湖の制服についてある議院記章を借りた。変装が終わり、また知念が言う。
「月谷さんから伝言があります。こうなったとき、伝えてほしいと、あらかじめ聴いていたっす」
「そう……それで?」
「本当に私は、ひどいことをして、どんなに謝っても謝りきれません。これで償いになるとは思いませんが、シスター鮎美は日本にとって必要な人です。苦難ばかりでも、どうか頑張ってください。そして一つだけ言わせてください。自分が最高権力者だと感じたとき、私は権力に酔い、狂いました。権力は人を簡単に狂わせます。自分が言うことは何でも正しい、自分の判断こそ最高、他人は自分に従えばいい、そんな悪魔の酩酊です。私はその酔いが醒めたとき、悔やみきれないほど悔い、今も悔いています。私と同じ失敗だけは、どうかしないでください。ご活躍と日本の復興、全身全霊をもって祈念いたします。……、以上です」
「……陽湖ちゃん……あんたの気持ちはわかったよ。おおきにな」
鮎美は台湾の方向を振り返り、そして前を見る。前を見て、これからのことを考えようとして、かたわらで泣いている鷹姫に目をやった。
「鷹姫、いつまでも泣いてんときよ。介式はんにも、また会えるって」
鮎美はシートベルトを外し、長瀬と知念の前を通らせてもらい、鷹姫の隣りへ戻った。
「……ぅぅ……ぐすっ…」
「鷹姫、ほら」
鮎美はハンカチで鷹姫の涙を拭いた。それでも、また濡れる。泣きながら鷹姫が言う。
「……芹沢先生の秘書を……辞めさせて…ください…」
「な……なんでよ?」
「私には、その資格がありません……ぐすっ…ぅうっ…」
「鷹姫……いろいろ気にしすぎやって。あんたは最高の秘書よ」
「…いいえ……恥ばかりの……愚か者です…」
「そんなことないって」
「いいえ……いいえ、あるのです……ずっと、黙っていました……卑怯にも……ずっと隠していましたが……私には発達障害の疑いがあるのです」
「発達障害……」
鮎美は自分を刺した大津田のことを思い出した。詳しい病名までは知らされていないけれど、ラブレターを無視しただけで凶行におよんだ大津田には発達障害があったらしいことは忘れたくても忘れていない。それは鮎美も鷹姫も同じだった。
「私は…ぅぅっ…小学校の頃に発達障害ではないかと…ぐすっ…検査を受けています」
「……なんでよ? 鷹姫は普通やん」
「…私は……まわりの空気を読むということが…できません…」
「それは……そやけど」
「興味が偏っていて、好きなことに拘り過ぎます。人との距離感、関係が一方的で……拒絶的であることが多いのです…」
「……たしかに」
「過去のことはよく覚えていますが、未来を想像し新しいことをするのも苦手です」
「そう言われると………」
もともと鷹姫はクラスで浮いていたし、まわりの空気を読むことは少なく、剣道を極めたし、戦国時代にかかわることの記憶も豊富で、また出された課題である学校の勉強や党支部での政治の勉強は優秀だったけれど、鮎美のように新しい発想をすることは少ないし、スケジュール管理のような定型的なことは得意でも、未来や状況の変化に対応するのは苦手で、なにより人間関係は極端に一方的で、鮎美に対しても当初は見下す態度だったのに、議員と秘書という関係になると、見上げる態度に変わり、他のクラスメートに対しても、たいていは見下す態度で接し、教師や介式などの目上に対してはきちんと敬って接するけれど、およそ対等な人間関係というものを築くことは少なく、相手を自分より上か、下かという目線で見てきている。
「ぐすっ……知識はあっても、一般人が備える常識が備わっていない部分があります……言葉を言葉通りにとらえ、裏にある意味が読めないことがあります…」
「………」
普通の女子は年頃になれば無駄毛を気にするし、平気で服を脱いだりしないのに、鷹姫は夏でも腋を剃らないし、裸を見られることへの抵抗も欠けていて、また児童だったとはいえ、おもらしをすれば周囲の空気が変わって問題や雰囲気が改善することがあったとしても、おもらしを繰り返すことは普通はしない。許嫁にしても、今どきの女子であれば、たまたま好きな男子と組み合わされる場合以外は抵抗をもつのが普通なのに、好きでも嫌いでもないので結婚し、剣道場を続けていくという決まり切った未来を受け入れていた。秘書業務においても、夏子や石永らと陳情の帰りに急遽外泊することになったとき、みんなでいっしょに泊まろう、という言葉を字面通りに受け止め、男女別にせず大部屋を予約したりしている。それらは普通ではないと、鮎美も何度も感じている。
「私は変です……普通の人から見て……人と違います……」
「………普通の女子高生では……ないとは思ってたけど…」
話し方も古風で、それが礼儀正しいのか、癖や趣味なのか、判然としないものの、ごく普通の女子高生から、かけ離れていることは確かだった。
「…ぐすっ……そして、ときに過去の嫌な出来事がフラッシュバックして情緒不安定になります……母を亡くしたこと……それに甘えて、おもらしなどしていたこと……」
「お母さんを亡くすのは、誰にとっても、ものすごい嫌なことやと思うよ。まして幼児期にお母さんが死ぬのって、一億人の他人が死ぬよりショックやん」
そして、今まさに情緒不安定なんやね、陽湖ちゃんのせいで、と鮎美は泣きながら話す鷹姫をかわいそうに思った。また鷹姫が涙を零す。
「……でも……私は……普通ではありません……きっと、発達障害です…」
「………」
「こんな私は……ううっ……秘書に相応しくありません……辞めさせてください…」
「……ちなみに、その検査で疑われた障害の病名は何なん?」
「アスペルガー障害………もしくは……高機能自閉症です」
「そう……それが、さっき言うた特徴にあてはまるんや」
「はい」
「そんなん気にせんときよ。ただの個性やん。うちが同性愛者なんと、いっしょやと思てみ」
「…いえ……違います……障害は障害です……私に秘書たる資格も気力もありません。まして、総理代理の秘書など……とても…つとまりません…ぐすっ…ううっ…どうぞ、辞めさせてください……お許しください…」
鷹姫がシートからおり、床に土下座してきた。
「ちょっ……鷹姫、そんなことして……」
「辞めさせてください……お願いです」
「鷹姫……」
「もう無理です……私には……無理です…」
「………。うちも総理代理なんて、ちゃんと勤まるか、不安でいっぱいよ。けど、ここは踏ん張りどころやん? いっしょに頑張ってよ」
鮎美は床に膝を着いて、土下座している鷹姫の両肩を握って頭をあげさせるけれど、鷹姫はイヤイヤと首を横に振る。
「いいえ……いいえ……私にはできません……無理です……辞めさせてください…ぅぅ…」
「鷹姫…………うちにも支えてくれる人が欲しいのよ。地元にいた静江はんらかって無傷とは限らんし。たちまち、そばにいてくれる鷹姫が、どんなに心の支えになるか、わかってよ、ね?」
「うっ…ううっ…ううっ…無理です…ぐすっ…ひぐっ…嫌です…うぐっ…辞めさせて…ひぅ…あぅぅ…もう嫌っ……帰りたい……お家に帰りたい……島のお家に帰りたいです…ぅぅ、うわああん!」
子供のように鷹姫が泣き出した。
「鷹姫……」
「あああん! もう帰りたいッ! うわあああん! あああん! お母様ぁあん!」
機内に鷹姫の泣き声が響き渡る。そのために何人かの女子が同じく帰りたい気持ちになって泣き出した。
「アタシも帰りたいよ…ぐすっ…ママ……パパ…」
「私も……ううっ…」
「仁美まで、泣くなよ。すぐ帰れるって。オレらの地域は地震の影響ない感じだしさ」
慰める方もつらそうだった。
「鷹姫、そんな大声で……みんなまで、つらい気持ちになるから……」
「うわああん! ああああん!」
大声で泣き続ける鷹姫は胎児のように身体を丸くして、自分の両膝を抱いた。そのせいで下着が丸出しになるのにもかまっていないし、下着の股間がジワジワと濡れてきて、おもらしを始めたので鮎美は肩を握っていた手を離した。
「………鷹姫………こんな……あんた……見たくなかった……」
恋が冷めるのを感じた。詩織と結婚していても、まだ鷹姫に恋していた。剣道で無敵の強さを誇って、いつも凛としていて、まるで侍のようで、そんな鷹姫に強く惹かれていたのに、この窮地になって、辞めたい、帰りたいと言って大声で泣き、オシッコまで垂らしている姿は幻滅だった。
「……くっ…」
こんな時に……この土壇場で……こんな腑抜けた姿……見たくなかった……もうええよ……うちの前から消えて、あんたは邪魔なだけやわ……好きになるんやなかった……、と鮎美は愛想が尽きて言う。
「わかったよ。辞めていいよ。鷹姫は家に帰り。今日まで、ありがとうな。鷹姫が家に帰れるよう、ちゃんとするから安心して泣かんと待っておいて」
鮎美は片腕と恋を同時に喪った心地だったけれど、それでも優しくポンポンと鷹姫の頭を撫でた。抱きしめると自分も泣いてしまいそうなので意識して感情を抑え、日本のことを考える。帰れば、中央行政機関の再編をしなければならない、霞ヶ関は消失している。ハコ、モノ、ヒト、カネ、どうやって確保するか、問題は山積みで初動が肝心だった。
「おっ! 戦闘機だ!」
窓の外を見ていた貴久が言った。義隆が興味をもつ。
「どれ? ああ、あれは…………J-10Bだな」
義隆は機体の特徴から確信的に機種を言った。2機の戦闘機がA321の左右に平行飛行してきて、窓から、よく見えるほど近い。鮎美も見た。
「ジェイテン……ふーん……飛んでる戦闘機なんて初めてみるわ」
「あの独特なエアインテークと、ベントラルフィンの配置、水滴型キャノピー、間違いない。J-10Bだ」
「まだ沖縄の手前やのに、わざわざ自衛隊が来てくれたんや。うちが乗ってるの知ってるのかな?」
「………芹沢……やっぱ、お前が総理だとか不安すぎる。いや、危険すぎる。どう見たって中国軍だろ!」
「え、でも、ジェイテンやろ? ジェイって言うたら日本やん。ジェトロもジャクサもジャパンのJよ」
女子たちは鮎美と同じ程度の認識だったけれど、貴久もタメ息をつきながら言う。
「はぁぁ……日本の戦闘機はFで始まるよ。まあ、アメリカの系列だけど」
「ほな、中国軍が、なんで、ここに………ろくなことやない気がするけど…」
鮎美の言葉は機長のアナウンスで遮られた。呼ばれた鮎美は操縦席に行った。副機長が往路で鳩山や谷柿と通信したときのヘッドセットを渡してくれる。どうやら平行飛行している戦闘機から通信を求められているようだったので、ともかくは応じる。
「もしもし、私は生徒代表の月谷陽湖です」
鮎美は英語で嘘をついた。
「我々は中国人民解放軍だ」
向こうも英語で言ってくるし、アジア人同志の英会話なので発音は聞き取りやすいけれど、相手の声は酸素マスクをしているせいで、くぐもって聞こえる。
「はい、こんにちは。お会いできて光栄です」
「月谷ではなく芹沢鮎美と話がしたい」
「すみません。この飛行機にシスター鮎美は乗っておりません」
「嘘をつくな。乗っているはずだ」
「私は神に仕える者、嘘はつきません。真実、この飛行機に芹沢鮎美は乗っておりません」
「……」
向こうのパイロットが、こちらを見ているけれど、大きなヘルメットをつけているので鮎美には相手の顔は見えない。相手からも鮎美の顔など、いくら接近していても見えていないだろうと判断し、あえて堂々と陽湖がやりそうなポーズで祈りの形に手を組んだ。
「なぜ、芹沢鮎美が乗っていない?」
「台湾で歓迎するとおっしゃられましたので、降りて行かれました」
「…………。少し待て。確認する」
「はい…………」
やばいかな、中国と台湾って、どのくらい情報やりとりしてんのかな、もう陽湖ちゃんの正体バレてるかな、バレてても、そんな速攻で中国にも伝わるんかな、確認するって、どこにやろ、自分の上司やろな、ってことは中国軍の基地とかで、そこの指揮官がどう判断するかやね、と鮎美は思考しつつ、台湾を出発した時間から考えて、そろそろ沖縄の日本領空に入るはずだとも期待する。また中国軍パイロットが通信してきた。
「君たちを保護する。我々の誘導に従え」
「……」
とりあえず捕まえるちゅーの、おおざっぱやな、けど正解や、くっ、どないしよ、と鮎美は左手を唇にあてて考える。
「私たちは地震に遭った家族のもとへ急いでおります。一秒でも早く日本へ帰りたいのです」
「日本は危険だ。原発から拡がった放射能で、とても危険だ。だから、保護する」
「………………」
たしかに原発にも津波が襲ってきたって情報は見たけど、放射能の情報までは知らん……そんな情報あんのかな……けど、わざわざ親切に保護してくれはるもんやろか、っていうか先に芹沢鮎美を出せ、とか言うたし、基本的に平宝と同じやろ、それにチェリノブイリの事故でも間近にいた人間は亡くなってるけど、10キロ20キロも離れてたら平気やん、とりあえず日本海側の空港に降りる予定やし問題ないやろ、ただモロに拒絶すると余計に、向こうも強引なこと言うかもしれんし、ここはゆっくり返事しよ、あと少しで沖縄のはずやし、と鮎美は時間稼ぎをしてみる。
「保護していただいた場合、どうしてくださるのですか?」
「とても歓迎する」
「……」
嘘丸出しやん! とつっこみたいのを鮎美は我慢した。
「我々の誘導に従え」
「どこへ誘導してくださるのですか?」
「浙江省の義鳥空港だ」
「それは、ぜひ行ってみたいのですが、まもなく沖縄が見えます。沖縄に母親がいる人も乗っています。どうか、地上の様子を観察する時間をください」
「……………。沖縄も原発が壊れて放射能で危険だ」
「……そうなのですか……」
沖縄に原発は無かった気がするんやけど……きっと無いよ、沖縄に原発は……、と鮎美は国内の原発の位置を思い出してみるけれど、やはり沖縄にはない気がする。印象的なのは隣県の福井県敦賀あたりに関西便利電力の原発が多数あることだった。
「繰り返す。我々の誘導に従え」
「少しだけ沖縄を見せてください。危険であれば離れてくださってけっこうです。故郷を見たいと泣いている人がいます」
「………危険だ。早く誘導に従え。危険だ」
鮎美たちの視界に沖縄本島が入ってくる。鮎美は機長に沖縄上空を低空で旋回するよう頼んだ。
「危険だ。早く離れろ」
「………どの原発が壊れたのでしょうか……わかりますか?」
っていうか、もう領空内ちゃうん、いつまでついてくんのよ、と鮎美は沖縄本島を観察しつつ焦った。まさか領空内まで入ってくるとは思わなかった。けれど、沖縄本島を見ておきたいのは真実なので、しっかりと観察する。沖縄を襲ったのは20メートル前後の津波で那覇空港には飛行機や自動車、建物の残骸などが散乱している。大きな船さえ、陸上に打ち上げられていた。
「……………」
胸が痛くなった。
「危険だ。早く誘導に従え」
「……ぐすっ…」
かなり胸が痛い。死体さえ転がっているように見える。あれが死体でなく、ただの漂流物であってほしいと思う。そして泣きそうなので、いっそ泣いておくことにした。
「ううっ…ぐすっ…ああっ…街が…ううっ…人が…」
「…………元気を出せ」
「……」
女の子への優しさはあるんやね、と鮎美は中国軍パイロットに人間味を感じた。
「ありがとうございます」
「もう、いいだろう。西へ転進しろ」
「少し機長とお話しします」
鮎美は機長に頼み、鹿児島方向へ進んでもらった。当然、通信が入ってくる。
「どこへ行くつもりだ?」
「鹿児島が無事だという情報がありましたので、そちらへ向かいます」
「ダメだ。我々の誘導に従え」
平行飛行していたJ-10Bが加速して鮎美たちの前方に出ると、翼下の空対空ミサイルを見せつけるように旋回して機体の腹側を向けてきたけれど、鮎美にとっては戦闘機は常にミサイルがついているものという認識で、それが脅しだと感じる知識が無かった。
「西へ転進しろ」
「……義鳥空港までは何分ですか?」
「約1時間だ」
「私たちの燃料は残り少ないのです。台湾で、わずかにしかいただけませんでした」
本当は満タンで、まだ5000キロは飛べたけれど、鮎美は嘘を重ねて時間稼ぎを試みる。
「鹿児島と距離は変わらない。転進しろ」
「……」
ホンマかいな、そもそも浙江省って、どこやねん、と鮎美は中国の地図など覚えていないので思いつつ、話を変える。
「私のクラスメートが言っていたのですが、乗っていらっしゃる、その戦闘機はジェイテンビーというのですか?」
「……ほォ、わかるのか。フフ、否定はしない」
かなり誇らしげな声が返ってきた。せっかくなので鮎美は男性心理をくすぐることにする。
「それに乗っていらっしゃるということは、かなりのエリートなのですね」
「そうだ。厳しい訓練を積んだ者だけが搭乗できる」
「すごいですね。カッコいい」
男性に対してのカッコいいという概念そのものが鮎美には理解できていないけれど、一応は心を込めて言ってみた。
「フフ」
満更でもない様子で、また接近してくる。
「陽湖といったな。お前の顔も見てみたいものだ。早く西へ転進しろ。悪いようにはしない。可愛がってやる」
「……」
男の人の単純さって人類共通なんやね、女の子への評価はまず顔やし、次おっぱいでお尻、まあ、うちの女子への評価も似たようなもんやけど、と鮎美は女子を抱きたい気持ちには共感しつつ、さらなる時間稼ぎを試みる。
「あなたの名前を教えていただくことはできますか?」
「金胡晋(きんこしん)上尉だ」
「私は18歳ですが、金さんは、おいくつですか?」
「オレは……少し待て」
胡晋が別の無線を受けているような気配があって、しばらくして言ってくる。
「陽湖、おしゃべりは終わりだ。ただちに西へ転進しろ」
「え? どうしてですか?」
「ただちに西へ転進しろ」
またJ-10Bが加速して前方へ出ると機体腹側を見せてくる。さきほどよりもA321との距離が近く、意味がわかっていない鮎美も操縦席にいる機長と副機長の緊張感で、なんらかの威嚇的な行動なのだと悟った。
「ただちに西へ転進しろ」
「わかりました。台湾にいるシスター鮎美と連絡をとってみます」
そんな手段は無かったけれど、時間稼ぎで言ってみて、通信をやめ、機長に鹿児島までの時間を聞いた。あと25分だと言われる。
「…………」
「ただちに西へ転進しろ」
再び平行飛行で接近してきている。機長が危険だと胡晋へ警告しているけれど、離れてくれない。鮎美でさえ威圧感を覚えた。
「ただちに西へ転進しろ」
「ぐすっ……私は日本へ帰りたいです」
涙声で言ってみた。
「ただちに西へ転進しろ」
もう女の子の武器は通用しなかった。また胡晋がA321の前方に出ると、今度は腹側を見せるのでなく減速して距離をつめ、進路を妨害してくる。じわじわとJ-10BとA321の距離が近づくと、操縦席にいるのに鮎美たちはジェットエンジンの熱と振動を感じ、機長が危険と判断して高度をさげてかわした。すぐに再び胡晋が前に回ってくる。
「警告する。ただちに西へ転進しろ」
「……。金さんに家族はいますか?」
「ただちに西へ転進しろ」
「私の母は妊娠しています。中国へ避難する前に顔を見に行きたいのです。お願いします」
「ただちに西へ転進しろ。これは警告だ」
そう言った直後にJ-10Bが23mm機関砲を発砲した。
ジィィ!
あまりに連発速度が速いので一つの音に聞こえつつ、撃ち出された弾丸が前方で流れ星のように飛んでいる。鮎美は息がつまるような圧迫感を覚え、背筋が冷たくなった。それは機長も同じだったようで、A321が民間機であることを繰り返し、伝えている。
「ただちに西へ転進しろ。これが最期警告だ」
「………この飛行機は以前に着陸に失敗して後部に損傷があります。中国の空港に迷惑がかかるかもしれません」
「転進しろ!」
前方に出てきたJ-10Bが距離をつめた直後に強烈に加速し、ジェットエンジンの熱風をA321の操縦席に浴びせてきた。
「熱っ…」
さきほどよりも熱を感じたしA321の風防が損傷しないか心配になるほどの衝撃も感じた。機長が胡晋へ返信し西へ進路をとった。鮎美は抗議したけれど、これ以上は危険だと言われると従うしかない。
「………くっ……」
どないしよ、中国でも、うちは月谷陽湖です、と通すか、それとも、いずれバレることやし、素直に言うか、あかん、うちは閣僚中、唯一生存が確認されてるもんや、それをわかって拉致る気なんや、平宝がちょっかい出しにきたときのレベルとは、もうちゃう、そやったら、どうする、機長に背後からチョークスリーパーかけて副機長を脅すか、それとも二人ともを眠らすか、無理や、うちの技量では不意打ちで一人がせいぜい、こんな時に鷹姫がいてくれたら……鷹姫……、鮎美がつらさで涙を浮かべたとき、前方右側から別の戦闘機が4機も接近してきた。
「くっ…応援まで…」
鮎美は胡晋の援軍だと思ったけれど、通信が入ってくる。
「こちらは日本航空自衛隊です」
「自衛隊……」
鮎美は英語に対して思わず日本語で答えていた。鮎美にはわからないけれど現れた4機はF-15DJだった。
「中国軍機に告ぐ。意図を明らかにせよ」
「………。我々は民間機を保護している」
「うちは…私たちは日本へ帰りたいのです」
日本語で鮎美は言った。自衛隊機も日本語で問うてくる。
「芹沢鮎美総理代理ですか?」
「……。いえ、その友人の月谷陽湖です。ですが、彼女の所在を知っています」
鮎美は嘘を突き通すことにした。ここで正体がバレると、胡晋の反応も懸念されたし、まだ台湾まで近いので通信が傍受される可能性も考えた。
「金さん、ここまで、ありがとうございます。私たちは日本へ帰ります」
心にもない謝辞だったけれど、陽湖なら言うかもしれないと考えたのと、胡晋のメンツを立てた方が素直に引き下がってくれるかもしれないと期待していった。
「ちっ…」
舌打ちされたけれど、さきほどまでのような威嚇行動はしてこなくなり、A321は九州方向へと進路を戻した。しばらく2機のJ-10Bは平行飛行していたけれど、日本領空に入る前には消えた。自衛隊機が問うてくる。
「どちらの空港へ行かれるのですか?」
「決まっていません。とりあえず日本海側でおりられるところを探す予定ですが、できれば関西に近いところがよいのです」
「では、小松を目指してください。あと、新田原基地司令より通信があります。対応してください」
すぐに航空通信が入ってくる。
「新田原基地司令の岩本信一1等空佐です。芹沢鮎美総理代理の所在についてご存じというのは本当ですか?」
「はい、本当です」
「彼女は、どこに?」
「この通信が傍受される可能性はありますか?」
「……あります」
「では申し上げられません」
「……。だが、彼女を早く見つけないと困ったことになりかねない。小松ではなく新田原へ一度、おりていただけませんか?」
「困ったこととは何ですか?」
「傍受の可能性を考えると申せません。ですが、非常に大切なことです」
「わかりました」
鮎美たちのA321は宮崎県にある新田原基地に着陸する。宮崎県の海岸線には高知県よりは低かったものの高さ40メートルを超える津波が襲っていて、沿岸部は壊滅している。新田原基地は標高79メートルの位置にあり、幸いにも損傷していなかった。着陸中に義隆が叫ぶ。
「飛行教導群が無事だった。おっしゃ! 日本、終わってねぇぜ!」
「……ヨシタカはん、それが何なんか説明してもらえると、うれしいんやけど。一応は防衛白書で見かけたことはあるけど、そんなに重要なもんなん?」
「戦闘機パイロットの中でもエリート中のエリートが集まってる隊だよ。他の隊に指導するための隊だから、ここが日本のトップ集団なんだ」
さらに義隆は興奮気味に色々と語ってくれたけれど、専門用語が多すぎて鮎美の脳には残らなかった。とはいえ、朗報だとは判断して搭乗口が開くと、鮎美と知念、長瀬の三人でおりる。純粋な軍用の空港であり、民間機のためのターミナルなどないのでタラップを足でおりた。時刻は午前11時で日は高く、3月のわりに寒くないものの風が強く、鮎美のスカートが舞ったので手で押さえる。車両で迎えが来て、基地司令がいる建物へ案内された。
「基地司令の岩本です」
岩本に続き、もう一人いた見知った男性が挨拶してくる。
「県知事臨時代行の南国原で…ああ?! 芹沢さん!!」
南国原が鮎美の顔を見て気づいた。
「どうも。……芹沢です。岩本さん、嘘をついて、すみませんでした」
頭をさげた鮎美が議院記章を外して議員バッチに付け替える。ツインテールにしていた髪もおろした。それで岩本もテレビで見たことのある鮎美を思い出した。
「あ、……本人だ……所在を知るもなにも、ここに…」
「すみません。うちが乗っているとわかった場合の中国側の反応が読めず、友人の名をかたりました」
「なるほど。たしかに、それが賢明な判断です」
岩本と鮎美が握手し、ついでに南国原とも握手する。
「南国原先生、どうも、お久しぶりです」
「ええ、お久しぶり」
「あの、県知事臨時代行というのは?」
「芹沢さんと似たような状況なんですよ。たまたま帰郷していて、そしてボクが辞めた後の選挙で知事になっていた人と副知事、さらに県議会の議長副議長まで津波のために行方不明で、法的な根拠はないけれど、ともかくもボクが、ここで行政の長として仮に権限を執っています」
「そうやったんですか。ご苦労様です」
「もしよければ、芹沢さん、いや、芹沢総理代理からボクが宮崎県の知事を代行することを承認してほしい。事態が事態なので自衛隊にも県内各地へ出動要請を出しているけれど、そもそも今のボクは法的には、ただの無職なんだ。この基地には去年、口蹄疫で処分した家畜の埋却を頼んだよしみもあって岩本司令にもよくしてもらっているけれど、総理代理の口から承認いただけると、いろいろやりやすい。お願いします」
「わかりました。南国原先生を県知事の臨時代行として承認します」
「ありがとう」
「それで、岩本司令、うちが見つからないと困ったことになる、というのは?」
「はい。現在、自衛隊の指揮が二分されているのです。一つは小松基地から司令してくる三島氏、もう一つは洋上の巡視船しきしまから指揮を執る畑母神都知事。三島氏は陸自を中心として指揮下におさめ、畑母神都知事は海自を中心としており、この両者が我々空自へ協力するよう別々に言ってくるのです」
「それは、また……こんなときに…」
「こんなときに権力争いをしている場合でないことは二人とも承知しているようで、両者は協力し合っているのですが、どちらが上かということでは一致せず、いずれ険悪になるかもしれません。法的根拠のあるトップが決まれば、おさまるかと思います。ここに芹沢鮎美総理代理を発見し無事であった発表させてください」
「…………」
「何か不都合が?」
「……私の友人を台湾に置いてきました。芹沢鮎美の身代わりとして。いまだ彼女が芹沢鮎美を名乗っているなら、嘘であったことが台湾政府にバレます」
「それは……」
「けれど、冷酷ですが、それも覚悟の上のことです。発表してください。その前に、現在わかっている状況を教えていただけますか?」
「はっ!」
岩本が九州地方の被害状況と、わかっている範囲の全国の被害を教えてくれる。加えて自衛隊の救助活動の進行状況も教えてもらい、それに1時間かかった。
「わかりました。ともかくも小松に向かいます。私の無事は小松基地への着陸後に発表してください」
「はっ。離陸前に用意するものはありますか?」
「………。いえ」
鮎美自身も生徒たちも空腹だったけれど、言わないことにした。言えば出発が、また1時間は遅れるし、宮崎県は沿岸部の道路に被害を受けていて物流が山側のみになっている。ほとんど被害の無い石川県や福井県に到着するまで我慢することにした。再びA321に搭乗し離陸すると4機の戦闘機が護衛についてくれた。四国を飛び越え淡路島上空になると、鮎美たちも帰ってきたという気持ちになる。
「お、護衛の交替か」
ずっと窓の外の戦闘機を見ていた義隆が言った。4機の戦闘機に、さらに4機の戦闘機が合流してきている。
「小松の303飛行隊か」
「あんた、よーわかるなぁ、まったく同じ戦闘機に見えるけど」
「同じF-15DJだけど部隊マークが違うんだ」
「ふーん……あ、呼ばれてる」
また鮎美は機長から操縦席に呼ばれた。もう慣れたので、すぐにヘッドセットをつけて通信する。
「もしもし、生徒代表の月谷陽湖です」
「こちらは小松303飛行隊プリースト、芹沢鮎美総理代理についての情報を教えてほしいと、三島氏から言われています。ご存じですか?」
「はい」
「総理代理は、どこに?」
「着陸後に告げます」
「わかりました。護衛を交替します」
話しているうちに琵琶湖上空になる。高々度からは平穏そのものに見えて心から安堵した。
「よかった。……けど、自分の地域……自分の国に被害が無ければ、そんでええなんて……人間は……ホンマに勝手なもんや。こんなときに領空侵犯やら、ちょっとした移動にまで護衛がいるやなんて………。それぞれの立場の違い……。……それに鷹姫……もう、立ち直れへんのかな……」
鮎美は着陸まで鷹姫のことを考えた。着陸すれば総理代理として忙殺されるはずで、生徒たちはバスか何かで帰郷させるつもりでいる。鷹姫が秘書を辞めて島に帰るなら、もう二度と鷹姫と会うことはないかもしれない。もし鮎美が島に帰れる日があっても、鷹姫は自分を恥だと思って顔を出さない気がする。
「………鷹姫………陽湖ちゃんに、されたことで、それほど……」
鷹姫の立場になって気持ちを考慮すると、あれだけ打ち拉がれているのが、わからなくもない。鷹姫自身、凛とした自分を保つことにプライドもあったろうに、その芯を破壊するように陽湖は責めたし、あれだけ嫌がって二度とすまいと誓ったおもらしを学年みんなの前で何度も強制されて、しかも手足の自由がなかった。鮎美も侮辱的な姿勢で拘束されたけれど、桧田川の治療を受けたときにも拘束は体験したので少しは慣れていたし、鮎美は30分おきに外してもらえた。鷹姫は心が挫けるまで、ずっと拘束されていたし、自分の強さに頼る心も大きかったはずなのに手も足も出せない状況にされて、叩かれ、水を飲まされ、失禁して泣き出しても罵られ続けていたらしい。途中着陸した中国では平宝たちの前でも失禁してしまい、その動画がネットで万を超えて再生されている。さらには鮎美の同性愛を否定する言動まで強制され、心をねじ曲げられている。なのに鮎美は復讐を後回しにして、当座は陽湖と協力してしまった。鷹姫は陽湖がズリ落ちた額のティアラを直すために手をあげただけでビクリとして失禁するほど怯えていた。腕力では陽湖など一瞬で叩き伏せられるはずの鷹姫が、そこまで怯えている自分を、どれだけ強く恥じたか、想像を絶した。おかげで黙っていた幼少期のおもらし癖や、発達障害を疑われたことまで告白して、秘書を辞めたいと言っている。
「辞めさせてあげるしか……ないかな……限界超えてイジメられたんやし………」
最後尾のシートに戻ると、鷹姫は制服の上着を頭にかぶって顔を隠している。それが逮捕された容疑者のようで滑稽に見えるということにさえ気が回っていない様子で震えているので泣いているのだとわかる。ときおり他の女子が来て、罵ったことを謝ったりするけれど、彼女たちの罪悪感を軽くすることはできても、鷹姫の傷ついた心には余計に痛みを与えるようで鮎美は睨んで追い返しておいた。ここまで鷹姫が傷ついていると、たとえ陽湖が台湾で輪姦されていても自業自得としか思えない。ただ、もしも介式まで、そんな目に遭っているとしたら鮎美の心も痛むし、介式がいなくなってしまったことも鷹姫には大きなダメージに見えた。また、別の女子が鷹姫へ謝りに来たけれど、鮎美が睨んで追い払う。そんな空気を読まずに義隆が言ってくる。
「宮本さ。いつまで泣いてんだよ? もう立ち直れよ」
「あんたも叩くのに参加しといて、よう言うなぁ」
「悪かったって。あとさぁ、発達障害のこと気にするなよ。実はオレも発達障害の検査を受けさせられたことあるし」
「え? なんでよ? ヨシタカはんも普通やん」
「オレさ、全校集会で整列してるのとか苦手だし。物理とかの理系は成績いいけど文系はサッパリだし。興味あることは覚えるけど、興味ないことはスルーなんだ。あと空気を読まないどころか、あえて乱すし」
「あ~……そういう感じはあるね。けど、単にヤンチャなだけちゃう?」
「って思うよな。なのに宮本と同じアスペとか、高機能自閉症って言われた。まあ、疑い止まりだったし、宮本も疑い止まりなら、それでいいじゃないか。確定診断だったとしても、それで自分が変わるわけじゃないし」
由香里も話に入ってくる。
「私も中学で発達障害とか言われたよ。あれって教師が従わない生徒を、とりあえず弾こうとしたり、自分の指導が悪いわけじゃないって言い訳するために検査を勧めてる感じするし。マジムカつく」
「由香里はんは、なんで? 普通に女子として空気読んでると思うけど?」
「単に中1のとき初エッチした先輩に捨てられて自棄になって6人くらい男をチェンジして、どんどん遊んでたら、教師が親と相談して検査に持ち込みやがった」
「そんな理由で……。むしろ、ヨシタカはんも由香里はんも強引な宗教勧誘に、けっこう対抗して、骨のある方やったやん」
「全体が流れそうな方向に、はねっかえる奴は邪魔ってことなんじゃないの」
「黙ってるけど、けっこう発達障害を違われたヤツは多いぞ。宮本、気にするなよ」
「そうそう。あと、意地悪言ってごめんね。やり過ぎだって思ったけど、あのときはクソマザーにそれを言ったら、今度は私までリンチされそうでさ。言えなかった、ごめん」
由香里も謝ったけれど、鷹姫は顔を隠したまま泣き続けA321は小松空港に着陸する。民間機なので基地側でなく空港ターミナル側におろしてもらえた。
「うおおお! 帰ってきたぜ!」
義隆が叫び、貴久も叫ぶ。
「ああ、腰がダルい! やっとシートから、さよならできる!」
「とりあえずコーラ! できればビールくれ!」
泰治も自販機を見つけて喜んだ。小松空港に地震の影響は無く、海の近くだけれど日本海側なので平穏そのものだった。女子たちも喜ぶ。
「あ~……お風呂入りたい」
「お腹空いた。あ、オニギリとか売ってる!」
「アタシも買う!」
時刻は13時で、今すぐ自動車で帰れば六角市まで16時には着ける。教師たちは生徒を帰宅させる責任を果たすため、バス会社などに電話してみている。幸いにして東京行きの観光バスや大阪行きのバスツアーなどが中止になっていて、空きはありそうだった。鮎美も自動販売機でミルクティーを買い、糖分を得て、やっと一息ついたけれど、三島が日本刀をもった青年と近づいてくる。知念と長瀬は素早く鮎美の前に出た。
「おおっ! 芹沢殿! 乗っておられたのか! 黙っているとは人の悪い!」
「悪い人に、いっぱい狙われたんでね」
「ともかくも無事のご帰還、心よりお祝い申し上げる」
三島が握手を求めてくるので応じた。さらに日本刀をもった青年が名乗る。
「自分は田守広志(たもりひろし)であります。三島先生の護衛を務めております」
「はじめまして。芹沢鮎美です。三島はん、さっそくですけど、状況を聴かせてください」
「ああ、もちろん!」
三島と小松基地司令の鶴田都司(つるたとし)空将補から、鮎美が状況説明を聴き終え、今後の方針を生き残った全国民に向けて発信するため、カメラの前に立ったのは15時前で、地震発生から24時間が過ぎていた。