日曜の夜、鮎美は直樹と六角駅で降りてタクシーで港に着いた。
「やっぱり、送ってよかった。夜になると、ここは淋しいね」
「うん、おおきに」
最初は遠慮したけれど、鮎美も送ってもらってよかったと思うほど、夜の港は淋しかった。人気はない、波も無いので音もない。港といっても連絡船が着く桟橋と漁船のための船着き場が少しあり、あとは島の住民が利用する自家用車を駐めておくための駐車場があるくらいで、道路も港が終点なので車の行き来さえない。そして、ちょうど港は低い山に囲まれるような地形になっているので周りからさえ見えない隔絶された場所だった。直樹はタクシーを待たせて、鮎美と湖面を見た。暗く凪いでいる。
「もう来てくれはったわ」
「みたいだね」
小さな漁船が、こちらへ向かってきているのが、信号灯でわかる。鮎美はスマートフォンの液晶を光らせると、漁船に向けて大きく振った。
「見えてるやろか?」
「どうだろうね。液晶の光量はしれているから」
すぐに漁船は鮎美のスマートフォンではなく港にあった小さな灯台を目当てに到着してくれた。近所の漁師と父親が乗っていた。
「遅うなって、ごめんなさい」
「娘さんを遅くまで連れ回して、すみません」
まだ夜の9時だったけれど、二人が謝ると漁師と父親は笑ってくれる。
「かまわんよ。鮎美ちゃん、ご苦労さんやな。衆議院の議長さんと会おたって?」
「はい」
「鮎美、だいぶ疲れた顔をしているな。ほら、乗って」
父親が手を出してくれるので握った。他人と握手するのと違って、一切の気を遣わなくていい父親との接触が心地よかった。すぐに漁船が島へ向かい、直樹へは手を振って別れた。
「はぁぁ……疲れた……」
「鮎美……」
父親が心配そうにしてくれるので笑顔をつくった。漁船は真っ直ぐに島へ向かう。けれど、島の方から三隻の船が、こちらへ向かってくるのが信号灯でわかった。このままでは衝突するコースなので漁師は減速して様子を見る。向かってきた三隻も島の漁船だった。その三隻が鮎美たちの行く手を塞ぐように前と左右に接舷してくる。そして、挨拶も無しに鮎美へ詰問してきたのは壮年の自治会役員だった。
「昼に民主の竹村と会っていたというのはホンマかっ?!」
「……」
大人に怒鳴るように言われて鮎美は恐怖心を覚えた。父親が鮎美の前に立つ。
「いきなり何ですか?」
「駅前で、見たもんがおる!」
「共産の西沢とも、いっしょやったと京都に出ておったカカァが言うた!」
別の役員も言ってくる。
「いつまで自民の先生らを待たせる気かっ?!」
「「…………」」
父と娘が黙り込むと、また最初に詰問してきた役員が怒鳴る。
「まさか、他のところへ入るとは言わんなっ?! そんなことでワシらが島におれると思うなよ!」
「「…………」」
「もう決めよ! 今ここで!」
「「………」」
「でなければ島に戻さん!」
「……そう言われるのであれば、私は娘と市街に戻ります」
背後にかばう鮎美が震えているので父親は穏やかに言ったけれど、ますます役員は激昂してくる。
「無事に戻れると思うなっ! 二人して沈めちゃるぞ!」
「っ…」
鮎美は怯えて涙を流した。今日一日、とても疲れていてヘトヘトだった。両院の議長と野党の党首、その三人との会談だけでも限界を超えて疲労しているのに、まるで水上戦のように船で囲まれ脅されると、もう感情が高ぶって涙ばかり流れた。直樹も久野も紳士的にしか勧誘しないのに、どうして役員たちは脅迫まがいのことをするのか、それとも表裏一体なのか、鮎美は思考がまとまらず声も出せずに泣いている。娘の涙でシャツの背中が濡れるのを感じて父親が穏便に済ませようとする社会人の顔から、大阪で育ってきた人間の表情に変わった。
「やれるもんなら、やってみろや?!」
「な…なんやと!」
「大阪湾ならともかく、こんな閉鎖された水域で二つも土左衛門つくってポリにパクられんわけがないやろ! 脅しなんぞきくか!」
「くっ……移住者のくせに、逆らう気かっ!」
「ワシの道楽で住みに来てやっただけじゃ! 娘つぶされるくらいなら明日にでも出て行くわい!!」
ずっと移住してから丁寧語で島民に接していた父親がドスのきいた関西弁で吠えると、役員たちは戸惑った。その戸惑いと、もう夜中近いということもあり、鮎美たちの漁船を操作していた島民がタメ息をついた。
「はぁぁ……副会長さん、ワシも帰りたい。もう終わってくれるか?」
「………」
沈黙だったけれど、反論はなく、四隻は島に戻った。それぞれの船は船着き場が離れているので、もう声をかけられることもなく鮎美と父親は家に入った。戸を閉めてから父親が言ってくる。
「鮎美、つらいならお前が一番楽になれる方法をとるよ。六角市街に住んでもいいし、大阪に戻ってもいい。今から辞退でもいい」
「父さん……うん……おおきに…」
もう疲れていたので早めに眠った。早く眠ったせいなのか、それとも気が高ぶっていたからなのか、鮎美は早朝に目が覚めた。
「……霧か……五里霧中やな…」
窓を開けると濃い霧が出ていて何も見えないくらいだった。階下で人の気配がするので降りてみると、父親も起きていた。
「父さん、おはようさん」
「ああ、おはよう。………少し散歩に出ないか?」
すでに父親は玄関で靴を履いていて、ちょうど散歩に出るつもりらしかった。鮎美は数秒迷ってから頷いた。
「うん、ええよ」
月曜の朝なので制服に着替えて散歩に出る。家と家の間を歩いて港へ向かった。途中の自動販売機でミルクティーを買ってもらい、突堤の先まで歩いた。だんだん霧が晴れてくると、多くの漁船が漁に出ているのが見えるようになる。
「………」
「……鮎美、ああやって漁に出ているけれど、淡水魚を売って、どれくらい生計が立てられると思う?」
「そういわれても………、あんまり儲からんのちゃう?」
「私も、そう思う。では、この港を整備するのに、いくらかかると思う?」
「え………」
言われて鮎美は港の設備を見回した。外側の突堤は百数十メートルほど伸び、幅は20メートルほどのコンクリート製で灯台は高さ5メートルほど、内側には木製の桟橋や船着き場があり、一番大きな建物は高さ3階建て、幅15メートル奥行き10メートルほどの鉄骨製で漁協の作業場と、連絡船で来る観光客の受け入れ場を兼ねている。他には小さな倉庫が長屋のように立ち並び、それぞれの漁師にあてがわれている様子だった。
「ぜんぜん、わからんけど……何億とか?」
「30億円は超えるだろうね。しかも、ここにはクレーン車も無い。建設時には、すべて持ち込まなければいけなかったろうし、作業船も瀬戸内海のような競合他社の多い水域ではないから、割高だったろう。でなければ、その業者も経営がもたないからね」
「……そんな額……見当も……」
「他にも、わずか千人に満たないこの島に小中学校、保育園を整備し、維持する教員の人件費、鮎美たちを高校へ送る船頭への手当と燃料代、それらすべて税金からの支出だけれど、それを島民の人口で割ると、明らかに納税額より多くなる。逆に、東京や大阪なんかの都市部では納税額と行政サービスを享受する額は、こういう田舎へ投下される分、見合わなくなる」
「……都会のもんが損してるってこと?」
「ところが、必ずしも、そうは言い切れない。数値化しやすい金額だけを見れば、そうなるけれど、田舎の自然が人の手で維持されること、たとえ販売額は安くても水産加工品が市場に供給されること、これらの役割は、とても大きい。第一次産業がなければ、第三次産業など、やっていられないからね。都市部で大きくお金を動かしている証券、金融、不動産、広告業などは実質的には何も生産していないのに、大きな顔をして田舎から供給される食品を口にしている」
「………」
「都市部が経済的強者であるなら、田舎は政治的強者として生き残りをはかる。選挙のたびに、どの党へ投票するかわからない浮動票より、ずっと支持し続けてくれる固定票のある地域へ、政治家だって色々な優遇をするだろうさ。それは人口に見合わないインフラ設備であったり、学校の設置であったり、不漁時の補助金であったり、とね。うちが格安で借りている借家だって、半分以上は補助金があるから、そうなっている」
「……せやから、この島は自民を?」
「どこでも田舎は似たようなものだよ。田舎になるほど、その傾向が強くなるかな。けれど、この県は少し様子が違う」
「……そうなん?」
「ここは四国や東北のような完全な田舎ではなくて、京都と名古屋に挟まれ、大阪と東京も遠くない、それどころか、それらを結ぶ地点にある。高速道路の整備も早かったし、新幹線も一番に通った。おかげで大手企業の製造拠点は多い。ゆえに県民所得も低くなく、また給与所得者が多いので労働組合の関係もあり市街地では民主党も強い地域なんだ」
「………ややこしい地域なんや……」
「それだけに、どちらも必死になるんだよ」
「……………この島にとって、うちの選択は死活問題に……なるの?」
「………」
父親は鮎美を見つめて答える。
「なる。夕べの様子を見ればわかるだろう。大人げない、というか、あれが大人の一面だ」
「……大人の一面……」
「それでも鮎美の選択は自由だ。けれど、その選択によっては、ここに住めなくなる。彼らにしても住ませておけなくなる、と言った方が正確かもしれない。鮎美が自民を選ぶなら、彼らにとって鮎美は最高の御輿になるけれど、そうでないのなら、このうえない疫病神になってしまう。そう、せざるをえないだろう」
「………父さん、この島、好きなんやろ?」
「憧れてはいた。けど、鮎美と比べれば、どうだっていい」
「…………」
「鮎美の選択は自由だよ。けれど、あまりゆっくり考えてもいられないかもしれない。やきもきしているのは私たち以上だと、夕べ、わかったからね。いっそ、今日を最期に、ここから去ってもいいよ」
「父さん………おおきに、ありがとうな」
「そんな暗い顔をして礼を言われてもな。本当に気にするな。道楽で、ここに住みはじめたんだ。いっそ母さんと鮎美は便利な市街地に住ませて、オレだけ、ここに残ってもいい」
「そ…そんなことしたら、父さんが危ないやん!」
「殺しはしないだろう。一度、体験してみたかったんだ。村八分にされる気分ってのを。いよいよ嫌になったら出て行くから、それまで、ちょっと村八分にしてもらって、その様子をブログにでも書いてみるとかさ」
「………道楽もんが……アホたれ…」
暗い気持ちが、かなり軽くなって、そろそろ登校の時間なので親子での散歩を終え、いつも通りに小舟で送ってもらうために桟橋へ出た。少し早く来たので、鷹姫と同時だった。
「あ、おはようさん」
「おはよう。……芹沢、大丈夫ですか? かなり疲れた顔をしていますよ」
鷹姫は目に濃いクマのある鮎美が心配になった。帰宅が遅く、気が高ぶっていて熟睡できずに早朝に起きたので明らかに睡眠不足だった。
「そうなん?」
「ええ、……何かあったのですか?」
そう問いながら二人で小舟に乗った。すぐに老船頭が高校へ向かってくれる。連絡船は島から最寄りの港を往復しているけれど、二人が乗る小舟は中世に築かれた水路を通って、高校の間近まで送ってくれる。おかげで歩くのは数百メートルですんでいる。
「うん、夕べ、……ちょっと、いろいろ……島の人ら……必死なんやなって……」
「やはり政治のことですか?」
「うん……」
「芹沢、私に何ができるとも思えませんが、手伝えることがあったら、言ってください」
「あんたが……そんな風に言ってくれるなんてね……うれしいわ」
そう応えると、鮎美が涙を流したので、さらに鷹姫は心配になった。
「島の大人たちと、揉めたのですか?」
「……うん……もう、結論を出さんと、あかんにゃろね……」
鮎美は小さくなっていく島を振り返った。
「………あんなに小さな島………あそこで………」
不意に母親のことを思い出した。父は毎日、市街地の建築事務所へ仕事に出る。自分も平日は学校へ行く。けれど、母親は、ずっと島にいる。そのことに思い至って鮎美は決めた。スカートのポケットからスマートフォンを出すと、直樹へ電話をかける。
「もしもし、うちです」
「おはよう。どうしたの?」
「もう決めました」
鮎美が一気に言う。
「自民党で頑張ります。頑張りますから、島の自治会の人らに、これからも仲良うしてほしいと、うちが言ってたと雄琴はんから、伝えてもらえませんか」
「ああ、わかった。……何か、あったのかい?」
「まあ、いろいろ」
「そうか……申し訳ない」
「ええんです。その一言で雄琴はんが関わってないこと、わかったから」
「芹沢さん………、何かあったら、すぐ相談して協力するから」
「はい、ありがとうございます。じゃあ」
電話を終えた鮎美は船底に座り込んだ。
「はぁぁぁ……決めてしもた」
「芹沢…………」
鷹姫が心配そうに見てくれる。それで甘えたくなった。
「なぁ、鷹姫」
「何ですか?」
「さっき、手伝ってくれるって言ったよね」
「はい、言いました」
「うちの秘書になってくれん?」
「……秘書、…に?」
「政党に所属したら任期前でも秘書に給料がでる。うちも勉強会なんかに参加すると日当がでる。ちょっと調べたんやけど、秘書に年齢制限はなかった。っていうか、議員が18なんや、秘書が18で、あかんわけがない」
「…………」
鷹姫が戸惑っている。
「お願いや、うちを手伝って!」
「……………」
鷹姫が迷っている。
「進学する予定やった?」
「いいえ、進学しません」
「就職は? 高卒後、どうするつもりやったん?」
「父を手伝って道場を続け、いずれ婿を迎えて跡継ぎとなってもらうつもりでした」
「あの岡崎くんを?」
「そうです」
「……。うちの秘書を、しばらくやってくれん?」
「…………」
「お願いします。あんたとなら、頑張れる気がするのん」
「……わかりました」
鷹姫が息を吐いてから微笑んだ。
「お受けします」
「おおきに! ありがとうな!」
鮎美が喜んで鷹姫へ抱きついたので、小舟が大きく揺れた。