「–––はい。じゃあ、次の体育、遅れないようにしてくださいね」
授業が終わる。机から解放された生徒達は言葉に表さないまでも喜びを露わにして伸びを始めた。そして、我先にと鞄の中からさらに小さなバッグを取り出す。
夏の日だった。太陽が燦々と照りつけるこんな日に、男子生徒達は浮き足立っていた。その理由はただ一つ。
–––プール。
次の授業は体育で、内容がプールなのだ。合法的に女子の只ならぬ姿を拝める貴重な機会を、彼女持ちも、童貞も、オタクも、いずれの生徒も楽しみにしていた。学校の授業万歳、と。
教材を片付けていた女教師は足早に教室から出て行く。次のクラスの授業の準備をするためだが、一度立ち止まると教室にもう一度、今度は上半身だけを割り込ませて置き土産を置いていく。
「そうだ。次のプールの授業だけど、男子は屋外プール、女子は屋内プールでニクラス合同だから」
この教師の伝令に、男子生徒は口を半開きにし、女子生徒はざわつきをみせる。もちろん、喜びを露わにして。
「嘘だろ、先生。嘘だって言ってくれよ」
「前から女子生徒から苦情が来てたのよねー。男子の視線がエロいって。プール男子と別じゃないと受けないって。それに不審者や覗きの話もあるし、これは学校側の決定だから」
この時期になると、どこの学校も不審者への警戒が強くなるものだ。屋内プールがある学校ならば盗撮や覗きなどの被害は抑え込まれるが、屋外だとそうもいかない。遠目のスコープ越しに写真撮影を行う輩がいないとも限らない。警戒を厳にして望むのは当然である。
もっとも俺はプールの時間が嫌いで、“病魔”が暴走するとやばいという適当な理由でサボっているから見学のみで退屈な時間を過ごしているのだが、背に腹は代えられないだろう。
「この日を楽しみに熱射地獄も、勉学も、部活も、耐えて来たのに!」
「むしろ僕はそれのためだけに入学したのにっ!」
「誰がむさ苦しいだけのプールで喜ぶんだよ!?」
「せ、拙者、三次元の女に興味はないからしてっ、べ、別に期待してたわけでは–––」
男子生徒達はとても楽しみだったようである。露骨な雄どもに非難の目を向ける女子のゴミを見るような視線といったらそれはもう底冷えとしていて、病魔も手伝って鈴白の視線が一番冷たい気がした。
どっちにしろプールに入らない俺としてはどうでもいい議題のため、のんびりと移動開始を待つことにする。叫喚している男子に苦笑いしながら、ペン等を片付ける。
「そうだ桜木君、あなたは屋内で監視員だから」
「……は? いや、なんで!?」
「熱中症とか色々あるからねー。それにあなた警察官の方に護身術習っているとか。まぁ、上で色々あるのよ色々と」
地獄に突き落とされた気分だった。本来なら喜ぶべき状況だが、俺は寧ろ真逆。女子多数に対して一とか何の冗談だ。笑えない、非常に笑えない、見学である自分を恨んだ。羨ましがる男子共は皆楽観的だ。血の涙も流す勢い、再度女子達から悲鳴が上がる。
今度こそ去って行く教師はお気楽だった。男子が一人だけという俺の気も知らないで、男子共が俺を血眼で睨みつける。もう本当にやだ。
「……変態」
「いや、別に見たいわけじゃないから」
桃香は罵倒して教室から出て行った。
元々、この学校のプールは設計上屋外のプールのみだったが急遽急造されたのが屋内プールである。なんでも水泳部の部活が夏や春先にしかできない不平等を嘆願された理事長が「じゃあ、作ろうか」と案外軽いノリで、こともなげに多額の投資をして造られた経緯があり、理事長は相当なお金持ちのようだ。もっとも真意は定かではないが、まともな精神ではないと言える。それが良くも悪くもこうして屋内の温水にも変わるプールの設置をしたのだから、冬場は特別に温水プールの授業があるそうだ。
「……どうしてこうなった」
そして俺は、プールサイドのビーチチェアにて天井を仰ぎ見るという奇妙な体験をしている。誠に遺憾ながら女子のプールの授業を見学するという世の男性なら喜色を浮かべるだろう案件で苦い顔をしているのだ。
「良かったじゃない。女の子の艶姿が見られて」
「鈴白、俺は望んじゃいない」
「あらそう?教室の反応を見る限りあなたもそうだと思ったけど」
「……いや、ライオンの檻の中に兎一匹放り込まれた気分だよ」
隣のビーチチェアに腰掛けて女子がキャイキャイ騒いでるのを同じく眺めているのは鈴白だった。隣にいるのが知り合いというだけでこの安心感、俺はこの状況を相当苦手としているらしい。
更衣室から出て来た女子生徒達は皆が当然のようにスクール水着を着ている。競泳水着姿の女子もいる。ただ共通しているのはどの女子もボディラインを惜しげも無く晒しているというわけで、目の保養と刺激には十分だった。
その中でも一際目立つのが桃香と倉科だ。前者は小さな身体に大きな胸と溢れ出る色香、後者はスタイル抜群の体をしているのでそこだけ次元が違って見える。肌が白いのも映えていて俺は天井を仰ぐのでやっとだった。
「こらー、桜木君、ちゃんと見学しなさい」
「……はい」
教師のお叱りを受けて素直に前を見やる。ここで反論を返せば少なくとも「直視できるわけないでしょ」くらいの言葉は出る。だけどそれで俺の評価は一喜一憂するというものだ。どう足掻いても、踠いても、賽は投げられたのだ。
「そういえば、なんで鈴白は見学なんだ?」
「簡単な話よ。私の病魔、暴走したり制御ミスしたらプールがアイススケート場に早変わりするのよ」
「……マジか」
「もしかして、私が生理だとでも思った?」
「その発想はなかったな」
からかい半分の鈴白の口撃を躱す。くすくすと笑いながら俺を楽しそうに見てやがる。危うくデリカシーないとか言われるところだった。
「楽しそうだなー」
「なんであなたは授業を見学してるの?」
「俺の血も流出したらやばいからなー。あと、着替えるのが面倒くさい」
「男子の着替えなんてすぐじゃない」
「濡れた水着脱ぐのも、濡れた服を脱ぐのも、ベタついて面倒だろ」
「くだらない理由ね。でも、それくらいくだらない方がいいわね。私は好きよ、そういう理由。エロいこと考えているようなバカな連中よりはよっぽどいいわ」
「……否定はしないけどな。男子がバカなのは。だが、俺をあれとは一緒にしないでくれ」
「だってそうでしょ。雄なんてそういうことしか考えてないんだから」
とても厳しい評価に同じ男として肩身が狭い。俺もまったくそういう人間ではないというわけでもないが。
「ふぁぁ〜〜〜ぁ」
「あなた本当に興味ないのね」
「他人の評価に怯えてるだけだよ。チキンなんだよ」
「堂々としてればいいのに。ムッツリと思われるわよ」
チラリと見れば“ムッツリ”。凝視すれば“変態”。どっちも変態扱いは変わらない。
「……いえ、実はホm」
「ちょっと待て。俺は普通だ。至って健全な男子高校生だ」
危うく、勘違いされそうになったところでくいかかる。
妙なレッテルが貼られるか貼られないかの瀬戸際に横合いから水飛沫が飛んだ。
俺の顔面にクリーンヒット。思わず水を口に入れてしまって咳き込む。
振り返った先には、見学席のプールサイド近くまで泳いで来ていた幼馴染がこちらを見ていた。
「……何すんだよ。桃香」
「べつに、なにも」
不貞腐れた感じで横目に睨みつけてくる桃香はいったい何の不満があったのか。
「ほぅ、何もなくて攻撃してきたのか」
「あんたがやらしい目で女子見てるからよ、変態」
見ていない。という否定は受け取ってもらえないのだろう。桃香は半身だけ水から出し前のめりでこちらを見上げていた。扇情的なのは自然とそうなったからだろうか。
「……他の女子ばっか視姦してたら殺すから」
「してない。濡れ衣だ」
「どーだか。やってる人は皆そう言うから」
「やってない奴もそういうわ」
弁明も弁解も余地があったのかなかったのか、桃香は最後まで聞くこともなく立ち去ろうとした。そして身体を隠すように掻き抱くとこちらを睥睨する。
「……変な気起こさないでよね」
「いやもうお前行けよ。絶対ないわ。寧ろお前の裸なんて見飽きて–––」
–––ザパァンッ。
無言の強襲に俺の顔面は水浸しになった。
隣の鈴白の冷気と重なって、体温は徐々に奪われていく一方。
「よし、上等だ。おまえのその姿目に焼き付けてやる」
確固たる意志で反抗心を燃やすと引き際は心得ているのか、桃香は何故か満足そうに無視していく。
「あんまり見てると……」
何やらボソボソと呟いたようだが、空いた距離と女子の喧騒に最後まで聞き取れることはなかった。
授業は平凡に過ぎていく。水辺を煌めく少女達、あるいはダラダラと授業を受けるやんちゃガール、纏うものはいずれも同じく水着という大胆な衣装。どんな娘でも、この学校は全体的に見目麗しい少女ばかりで目に毒だった。温度差は多少あるものの、それぞれ自由に授業を楽しんでいるようで何より。
それから数分程で授業が終わる。着替えの為に五分ほど早く時間を取り、女子生徒達が捌けていく中、隣の鈴白は立ち上がった。
「今日は何もなかったようね」
「そうだな。変質者が現れていないようで何よりだよ」
「時々見回りしに行ってたものね」
「まぁ、そんなバカはいないだろ」
「それより早くあなたも移動しないと次の授業の女子達が入ってきてあらぬ噂を立てられることになるわよ」
それは御免被るので俺も立ち上がる。女子生徒が全員更衣室に行ったのを確認して、その場を後にする前にもう一度見回りをして、教室に戻ろうとする。
–––その時だった。
「……っ」
更衣室から不審な行動を取る黒髪がひょっこっと顔を出す。目元まで伸びた前髪のその少女は周りを確認して、キョロキョロと目を動かすも一向に更衣室から出ようとしない。まさに絵に描いたような不審者だった。
「誰かしら?」
「同じクラスの霧宮だよ。霧宮日和」
「へぇー、女子生徒の名前ははっきり覚えてるのね。そんな子同じクラスにいたかしら?」
この通り、目立たない生徒であるため覚えている生徒も少ない。もっとも俺は日陰者故にあまり目立たない彼女を知っている。因みに地味だが可愛いとは思っている。そう、可愛さが目立たない根暗地味がクラスメイト達の総合評価だ。一度、桃香に「どこが可愛いの?」とか本気の反論を喰らったが俺の知ったことではない。俺は意見を他人に指摘されて変えない人間なのだ。
「……というわけで、話しかけて見てくれ鈴白」
「なんで私が」
「自慢じゃないが、話しかけるのは苦手なんだ」
「あなたって実はとんだチキン野郎なのね」
なんとでも言え。チキン結構。焼き鳥にして食ってしまえ。と、桃香がいたら、またくだらないこと考えていると罵倒されるので思考を緊急停止させる。
その間にも鈴白は呆れたように先陣を切ってくれた。不審な行動を取る霧宮に近づき、接近に気づいた霧宮が硬直したところを話しかける。
「どうしたの、霧宮さん?」
「え、えっと……桜木、君……と」
名前が出てこないようだった。ので、俺は懇切丁寧に教えてやることにする。
「鈴白だ」
「……ん。ごめんなさい。私、物覚え悪くて……」
「気にしないで。私もさっきまで知らなかったから、あなたの名前」
女子の会話とはこんなに怖いものなのか。鈴白の声が冷徹過ぎたのかいけないのか、会話内容なのか、蚊帳の外ながらも恐怖を感じるほどである。
「それで、どうしたのかしら?」
改めて質問する鈴白。何故か霧宮は俺を見ていた。
「俺には言い難いことなら席を外すけど」
「…う、ううん…桜木君は…ここにいて…」
鈴白が怖いのか、まぁ確かに冷酷な女王然とした雰囲気に気圧されるのは理解できなくもない。今度はチラチラと鈴白を盗み見始めた霧宮は怯えた小動物みたいで可愛い。
今度こそ、困ったような笑みを浮かべて霧宮は話を切り出す。
「…その、ね…下…着がなくなっちゃって…」
……それ、本当に俺がいていい話だったのだろうか。
「まさか下着泥棒?春陽君、あなた……」
「俺じゃねぇよ。俺が見回りに行く時、一緒にいただろうが。女子更衣室に入るのも俺は嫌だぞ」
「なにそれ、女子が不潔だっていうの?」
「あほか。入るだけで捕まるわ」
「え、えっと、その…!」
口喧嘩を始めた俺と鈴白を見て慌て出す霧宮。ついその様子に笑みが溢れてしまう。
「安心しろ、からかいあってるだけだ」
「え、私本気のつもりだったんだけど……」
「……前言撤回。訂正。俺は別にマジじゃない」
「マジじゃない?ということは、やったのね」
「やってない。やれと言われてもやらん」
「霧宮さんの下着には盗む価値もないってわけね?」
「そんなことは言ってないだろ」
「霧宮さん、この男はケダモノよ。近づかないようにね」
何故か“ケダモノ”認定を受けて会話終了。
そんなことより、と鈴白は話を逸らす。
「本当になかったの?」
「…う、うん…それで一応、制服は着たんだけど…うぅ…」
もじもじと更衣室に一歩下がる。何に悩んでいるか想像に難くない俺は無言だった。藪蛇は御法度、とにもかくにも霧宮は表を堂々と歩けないわけだ。
「それじゃあ春陽君」
「…嫌な予感しかしない」
「今なら未遂で霧宮さんも許してくれるだろうから、早く盗んだ下着を出しなさい」
「言うと思ったよ!」
持ってないものは出せないと主張するとどこに隠したか質問される。隠してないと答えると–––。
「……まさか、履いてるのっ!?」
大袈裟なリアクションで仰け反ってみせる。鈴白は絶好調だった。ついでに霧宮は顔を真っ赤にして狼狽えていた。ドン引きされないだけまだマシかもしれない。傷は浅い、だが項垂れないわけにはいかない。両膝を突き、地面に手を突き、俺は無実だと叫びたい。だが、叫んだら他の生徒が来てしまうため自重した。このままでは俺が罪人扱いだ。下着泥棒のレッテルを貼られることだけは避けたい。
「……霧宮、俺じゃないからな」
「…う、うん…わかってる、よ…桜木君は、そんな人じゃないって」
「あら、随分と信頼されてるのね」
「…桜木君が優しいの、知ってるから…」
盗まれた本人が理解しているのなら、鈴白の冗談に付き合っている暇はない。このままでは下はまだしも、上はシャツ越しに透けて痴女認定待った無しだ。
信頼してくれている霧宮のためにも、ここは一つ男らしく力になろうじゃないか。現状、問題は盗まれたことよりも先に、今をどう凌ぐかが問題である。
「霧宮、ジャージ持ってるか?」
「…ううん。私、帰宅部だから…」
「鈴白さん、ジャージ持ってますか?」
「下着に続いて今度はジャージ?」
なんだろう。ここまで清々しく責められると何故か心は爽快だ。悟りを開けるかも知れない、なんて一瞬、悟りの境地に達した気がしたが意識は数秒の思考停止をしただけで、ただの現実逃避だ。痛痒に悩まされる頭を抑えて、携帯電話を取り出す。この調子では鈴白は役に立たないため死んでも利用したくない相手を呼ぶことにする。
メール内容は『悪いけどジャージ持って来て』だ。送信相手は桃香、こういう時に……いや、そこまでメールを打ってからアドレスを変える。倉科さんを頼ることにした。
–––ピロン♪
返信はすぐに。やはり携帯電話は文明の利器だ。と、感心しながら返信内容を確認するとこんな一文が書かれていた。
『……わ、私のジャージ?春陽君が着るの?』
「……なんでそうなるかな。借りても着ないっての」
「着ないってことは、嗅ぐのね?」
「なぁ、俺を弄って楽しい?」
彼女の彼氏は大変そうだ、なんて同情をしておく。そうでもしないと精神が壊れそうだった。
「まぁいいや。取り敢えず、俺がジャージ取ってくるからそれで我慢してくれ。霧宮の鞄も持ってくるから、今日のところは早退しろ。送ってくから」
「…ご、ごめんね…迷惑、かけて…」
「いいって。サボりたいだけだし」
「でも…」と引っ込み思案な霧宮は遠慮してくるので、口論を避けて俺は教室へと走り出すのだった。