日が暮れて、帰宅した二人はいつも通りの日常に戻った。明日から夏休み、早速だらけ出す春陽君はぼーっとしながらパソコンのディスプレイを見ていた。
「そうだ倉科、お風呂どうする?」
「どうするって?」
「そろそろだと思うんだよ。明日にはもう、元通りの生活に戻れると思う」
突然、そんな事を言い出す春陽君。
大事な事をさらっと告白した。
詳細な理由など説明もせず、ただそうだと。
私の中で突如沸いたのはモヤっとした感情。
「も、戻れるの…?」
「普通の病気にもあるだろ。熱を下げるには汗をかけって。それと同じであれからずっと消費し続けた病魔は一時的だけど、症状が治まる。逆に消費しないとまた暴走する」
「……あぁ、そういうことなんだ」
「今回の件は倉科が溜め込み過ぎた悪い気が暴走しちゃった結果、誰からも認識されない倉科の病魔特有の症状を発症したんだろうな。その中でも特に厄介な、世界にすら自動干渉する強力な奴が現れて『倉科の存在』を誰からも消したわけだ。この場合は、透明にしてしまったというのが一番正しいんだろう。一時的に認識できなくしたわけだから」
「じゃあ、春陽君だけはどうして私のことを覚えてたの?」
疑問が残る。世界でたった一人だけ、私を見つけてくれた彼はいったいどうして私のことを思い出してくれたのだろうか。
「お前を見るまで忘れていた。でも、そこにいると認識したらなんとなく戻ってきた。まるで思い出したように。俺がお前のことを忘れなかったのも多分、俺の持つ病魔のせいだ。俺の病魔は脳にまで及んでる。だから、記憶や認識に干渉されたところで他の人よりは軽かったんだろうな。影響が」
私は納得した。上で、気になった。
「春陽君の病魔って……?」
「血を媒介に宿っているとんでもない悪魔だよ。だから、干渉されてもそこそこ抵抗できた。これ以上は話せない。俺も命に関わるんでな」
「話せないのに、どうしてそこまで教えてくれるの?」
「さぁな。俺もこの数週間、いい思いができたからな。その料金だと思ってくれ」
冗談めかしたようにそう言ってこの話はおしまいと話を切り上げる。
なんだか名残惜しくなってしまった私の脳裏に桃香ちゃんの名前と顔が浮かぶ。
前々から、春陽君の事を好きな彼女には悪いと思うけど、それでも少しだけ私も何か残したいと思った。
私もそれなりに春陽君の事を気に入っていたのだ。だから、もう少しだけわがままを言わせて欲しい。
「それなら、もう少しだけ延長料金払ったほうがいいよね。命に関わるなら吊り合いは取れないよ」
「吊り合いとか考えなくていいよ。別に俺が好きでやったことだから。というか、特に何もしてないし」
「ううん。それでもやっぱり私は君がいないと不安で壊れてたかもだから」
チラリと私の方に振り返った春陽君の頰にチュッと口づけをする。直後、硬直して彼は仏像のようになった。
「最後にお風呂一緒に入ろ」
「いやいや、気づいてないかもしれないけど、最近物に触ってるからね倉科さん。だから、スポンジくらい自分で持てるようになってし一緒に入る必要は……」
「あっ、本当だ。持てるね、携帯」
手近にあった春陽君のスマホを手に取り操作する。
ついでに、私でもロックを解除できるように操作しておいた。
「だからね、春陽君。最後だから、背中流させて欲しいんだ。今まで手伝ってもらってばかりだったから」
「いや、あれむしろ好きでやったことで……」
「女の子のこんな願いも叶えてくれないの?」
「……あぁもうわかったよ」
観念した彼がそう応える。最初っから素直になればいいのに、女の子と一緒にお風呂に入りたいって。
「それじゃあ、最後だからな」
「うん。今までありがとう、春陽君」
多分、後になって言うのは恥ずかしいだろうから、私はこの時お礼を言った。
◇
「秋穂、目が覚めた?」
朝の光。部屋の中に差すそれに煩わしさを覚えていると、ベッドの側で母親の声がした。まだ眠い身体を無理やり起こして状況を確認するとどうやら私は元に戻れたらしい。私の存在を認識してくれる母がいて、見慣れた懐かしい天井があって、見慣れた光景がどれも懐かしく感じて、そして虚無感を感じた。
「……今日は何日?」
「まったく夏休みだからって寝てないで早く起きて朝食を食べなさい。そうしないと食器が片付かないんだから」
「あぁ、うん、ごめんねママ」
不思議な感じだった。戻って来た、というのに喜ぶわけでもなく嬉しいわけでもなく、ただただ心の中にぽっかりと大きな穴が開いてしまったみたいだった。喪失感、というやつなのだろう。春陽君と過ごすのが当たり前になり過ぎていて、今の生活がものすごく物足りないような気がするのだ。
急かされるまま朝食を済ませ、ぼんやりとした頭で考える。
実際は考えどころか、ぼーっとすることしかできなくて、現状に甚だ疑問を浮かべるだけ、戻って来たなんて実感は殆どない。ため息を吐くと私は考える事をやめて取り敢えず行動することにした。
長時間放置していた携帯を手に取ると、ある番号を覚えている限りで押してみる。電話帳に記録されていない相手に掛けてみた。その相手は五回程コール音の後に出た。
『……どちら様ですか?』
昨日、聞いたはずの声が妙に懐かしく感じ、私はなんだかホッとしてしまう。
「私だよ。倉科秋穂……ねぇ、私、戻れたよ」
『……』
「……春陽君?」
私の中で嫌な予感が膨れ上がっていく。そしてそれは、数拍の沈黙の後に証明されてしまった。
『ごめん。何のことかわからない』
「そんな……あんなに一緒にいたのに」
感情が昂り語気が荒くなる。
どうして?どうしてなの?ってわけがわからなくなって。
呆然として、通話を終了させて、私はメールボックスに一通の未読のメールが届いていることに気づいた。
私はこの騒動中に届いたのであろうメールを開封する。すると、差出人は彼だった。
思わず私は、のめり込むように携帯の画面を見つめた。
そこに書いてある内容はこうだった。
『君がこの手紙を開封する頃、全部解決した後なのだろう。そしてもし、手紙が届いているのなら、まずは謝罪をしておこうと思う。もし万事上手くいっていたのなら、君が透明だった記憶は君が元に戻ると同時に消滅したはずだ。……いや、消滅とは違うかな。君の病魔を察するに記憶を透明にしたのだろう。君と紡いだ時間は今や、俺の知らないところにある。そういう俺もおそらく君との記憶を忘れているはずだ。だから、ごめん、そうなることがわかっていて伝えなかった』
これが謝罪の言葉。
私は涙ながらに「ずるいよ」と零してしまった。
『君のことだから、忘れられるなんて嫌だなんて駄々をこねると思ったんだ。無駄な心配だったかな』
「ううん、私はきっと……」
彼の危惧に私は同意する。きっと、彼にこの生活の全てを忘れられるくらいなら、一緒にいたいと駄々を捏ねた。私はそう思いながら続きを読んだ。
『でも、いつかきっと、また思い出せる。いくら世界に変調をきたすほどの病魔といえど、抗体を持った俺は一時的に忘れてしまうだけ、それに記憶は、思い出は、また作ればいいんだし』
まるで言い訳をするようなそれに彼らしいなぁと私は笑みを零してしまった。あぁ、まったく、かなわないなぁ。そう、そうなのだ、だから私は決意する。
「……そう。いつかきっと」
そうと決まれば、宣戦布告だ。
私は大切な親友に、物申さなければならない。
携帯電話で私はまた違う誰かと連絡を取るのだった。
そうして、午後。とある喫茶店へ足を運んだ私は待ち合わせ相手がいない事を知ると、適当な席に案内されてカフェラテを一つ注文した。程なくして運ばれてきたカフェラテを緊張と共にゆっくりと飲み、心の準備を固めるために一息。そうしていれば、呼び出した相手はすぐにやってきた。
「やっほー、秋穂」
「……桃香ちゃん、来てくれたんだ」
「大事な話があるっていったのはあんたでしょ。電話でも話せない内容ってちょっと気になってさ」
「えへへ、ごめんね」
謝罪には色々な意味が含められていた。申し訳ないというか、此の期に及んで、という形だけど。
彼女、紫月桃香に私は告白しておかなければならない。宣戦布告、ともいうけれど。
注文を取りに来た店員にカプチーノを頼み、少しの待ち時間の後ですぐに飲み物を運んで来た。それを一口飲んでから、キョトンとした表情で話しを促してくる。
「それで、話って?」
「……そうだね」
いざその時となると口は動かず、言葉も出ない。また誤魔化すようにカフェラテを飲んでから、私は大きく深呼吸をして、覚悟を、本当の覚悟を決めた。
「……私ね、桃香ちゃんの恋、応援できなくなっちゃった」
「……それって、どういう……」
「私ね、春陽君のこと好きになっちゃった」
一瞬、世界が止まって見えた。私と桃香ちゃんの間には無言の沈黙が広がり、やがてしどろもどろになりながら動揺を隠そうとして目を逸らしながら、
「へぇー、そうなんだ、へぇー、別に私にはか、関係ないし」
虚勢をはる。
相手がそうくるなら、私だってそれでいい。
私達の関係がどうなろうと、もう後には退けないのだ。
私だって、こんなところで逃げたくない。
「私が言いたい事はそれだけ。これからは積極的に狙っていくつもりだから、春陽君の幼馴染の桃香ちゃんには一応伝えておこうと思って」
「……本気なんだ」
横目に私の様子を窺っていた彼女は途端に真剣な表情になる。
「……」
お互いに飲み物にも手をつけず、涼やかに睨み合う。
どんな意思が込められているのか、私には彼女の意図を読み取ることができなかった。
そうしてようやく、桃香ちゃんは飲み物に手をつけて、飲み干すと立ち上がる。
「私、手助けはしないからね」
「うん。そのつもりだよ」
少し不機嫌そうに店を出て行く桃香ちゃん。
これが今回の事件の顛末だった。