僕らヒーローアカデミア 作:グレート・ジェイ
セロファン その一
1
瀬呂範太の説明をしようとすると、知り合いの多くがこういったことを言う。
「普通にいいやつ」「地味に背が高い」「特徴薄い」「醤油顔」
そんな感じだ。その他大勢の一人、それが瀬呂だった。必死に勉強して、偏差値の高い雄英高校に入学したものの、入学直後のテストの成績は下から数えた方が早く、親を説得して勝ち取った一人暮らしも、面倒くささの方が勝っているように思える気がする。パッとしない高校生活、何とかして変えなければいけないと意気込んでいた、方法がわからないままずるずる過ごしてしまっていた。
そんな瀬呂が変わったのはある朝の事だった。
2
その朝、目が覚めた時に妙に感覚が鋭くなっていたことを覚えている。とにかくのどが渇いていて、目覚まし時計の音がやかましかった。目覚まし時計を乱暴に止めると、目覚まし時計の冷たさや、硬さ、果ては音が振るわせるわずかな振動すらも彼の手には感じられたが、それよりも水が欲しかった。
昨日洗っておいたコップを手に取り、水道から水をだす。一気にその水をのどの奥に流し込むと、ようやく目が覚めて、自分の現状を理解できるようになった。
肘が奇怪としか言えない形に変形している。
「う、うわぁあああ!!!??」
思わず手に持っていたコップを投げ出し、叫んでしまった。慣れ親しんだ肉体が一夜にして変貌してしまったのだ、叫ぶのもやむを得ないことだろう。その犠牲になったのはコップだった。ただし、床に落ちたのではない。
叫んだ拍子に、自分の腕から長い物質が射出されたのを確かに瀬呂は目撃していた。その何かが、空中に舞ったコップを絡めとり、壁に激突してコップを粉砕したのもしっかりと目に焼き付けた。一方の瀬呂はというと、コップの代わりに思い切り尻を床にぶつけた。
尻もちをついたまま、しばらく呆然と砕けたコップの張り付いた壁を見ていた瀬呂だったが、ようやく正気を取り戻した。
「な、なんだよこれ……」
瀬呂が肘に目をやると静かに変形した肘が、いつもの姿を取り戻すように腕に埋まっていった。腕を振っても、もう一度肘が変形したりはしなかった。
怖くなって家を飛び出した。なぜか壁を傷つけたら大家さんに怒られちゃうな、なんてことばかりが頭に浮かんだ。
外に出ても日常はこれっぽちも変化していなかった。変化したのは瀬呂である。
「なんなんだ、なんだんだよ…」
ぶつぶつとしゃべる瀬呂を同級生が見たら、きっと不審に思っただろう。だが、幸か不幸か通っている高校から瀬呂の下宿先までは結構遠く、近くに下宿している知り合いはいない。親の説得に時間がかかり、目ぼしい物件を借り損ねたことが役に立つ日が来るとは思っていなかった。
瀬呂がある程度の冷静さを取り戻すまでに、三十分ほどかかった。
「個性の問題は未だ根深いものなんですね」家電量販店のテレビの中で、アナウンサーが深刻そうに言った。
「うるせぇ」口の中で瀬呂は悪態をついた。
さすがに瀬呂にも理解できていた。個性だ、瀬呂は個性が発現したのだ。
普通だった俺が、めでたく異常な奴に早変わりってか。……泣けるぜ。
急に瀬呂は周りの人間が怖くなった。自分が個性発現者だとばれたら、あそこにいるおっさんは俺を警察に引き渡すのだろうか。それとも、仲間を募ってリンチしてくるとか? もしくはさっさと家に帰って、食事の時に家族に「今日はとても気持ちの悪いやつを見たよ。肘が信じられないような形をしているんだ」と話題にするとか? そして、奥さんはこう返す。「やめてよ、食事中に」
瀬呂は小走りでその場を後にした―――本当は全力で逃げ出したかったが、全力で走ったりなんかしたら個性があるということがばれてしまうと思った。
路地裏にたどり着いた時にはもう瀬呂は泣き出したい気分だった。昨日までの何者かに変わりたい自分はすっかり消え失せていた。どうして俺がこんな目に、そんな思いでいっぱいだった。
「ふざけんなや!!」
めそめそ縮まった体が、ビクンと大きく跳ねた。突然の怒号の主はどうやらすぐ近くにいるようだった。運の無いことに、おたおたとする瀬呂が逃げるよりも早く、くだんの人物は姿を現す。
チンピラというのを頭に浮かべた時、きっとこの男のようになるだろう、そんな印象を受ける人物だった。男は瀬呂を認めると、男のような性質を持つ者特有の、なめられないように極限まで歪められた威嚇するような目で瀬呂を睨んだ。
「何見てんのや!! 見世物ちゃうぞ!!!」
今日という散々な日を思えば、瀬呂が何も言えず、何も出来ないのは仕方ないことだったと思えるかもしれない。だが、男はそんなこと知らなかったし、肝っ玉が小さかった。急に焦ったような顔をすると、再び瀬呂に吠えた。
「まさか! お前見たんか!!?」
「な―――」
何をですか? 震える声でそういうよりも先に男の拳が瀬呂の左の頬を殴りつけた。今日二度目の尻もちをつくと、焦燥感あふれる男の顔がずいぶん高いところにあるように見えた。
「み、見られたからにはい、生かしておくわけにはいかへん!!」
男の手からにゅっと刃物が現れた。妙に鋭くなった感覚からは、あの刃物はナイフでもカッターでも、ましてや手裏剣とかそんなものではない、男から生えているんだと伝わってくる。
個性を生で見たのは、初めてだなと思った後、いや今朝見たか、と訂正した。周りの音がひどく大きく聞こえる。
自分は死ぬんだと思い、ちょっとだけ安心した。これで両親には息子が化け物になったと知られないで済む。頼むから死ぬならスパッとやってくれ。そんなことを考え始めた時だった。
「お辞めなさい」全く知らない男の声だった。「その少年は別に見ちゃいませんよ。そう滅多に誰かを殺すもんじゃない」
「だが!!」
「それとも我々のお話はここまでということですか?」
「それは……チッ! 何してんねん! はよどっかいけや!!」
男の言葉に一目散に走り出せたのはほとんど奇跡のようなものだった。走って、走って、走って。ついにたどり着いた自分の家。瀬呂はもはやほとんど意識を手放しながら、布団に入って、ただじっとしていた。二時間後には本当に意識を手放した。
3
目が覚めた。夢ではないと親切にも教えてくれたのは、壁に張り付いたままのカップだった。
不幸続きで消沈した心でも、着替えて学校に行くという習慣はこなすことが出来た。カップに背中を見送られ、瀬呂は家を出た。
昨日の事ですっかり瀬呂は抜け殻になっていた。個性の発現とそれに伴う恐怖、そして個性を持ったチンピラとそれに殺される恐怖、十五歳の少年が一日の中で味わうにはつらすぎる経験だった。
少年が目の前を横切った。瀬呂は考える。もしかしたら俺は何かの呪いに罹ってしまって、これから不幸なことがとめどなく起こるんじゃないだろうかと。
少年はボールを追いかけている。瀬呂は想像する。もういっそのこと行方を眩ませて、チベット辺りで修行僧になるというのはどうだろうか。そして、同じように悩んでやってきた人達にこう言うのだ。「案ずるな、君たちの悩みなどこの地球に比べればちっぽけな物さ」
ボールははるか遠くまで転がって行ってしまった。瀬呂は思い出す、両親の事を。両親はどう思うだろうか。俺がこんな風になってしまっても、変わらぬ愛をくれるだろうか。それともくれるのは鉄砲玉か? お供はもちろん「私たちの息子をどこにやった! この化け物め!」だろう。
少年はボールを追いかけていく、はるか遠くまで行けるのだろうか? 瀬呂は自分を励ました。おいおい、範太、そう気を落とすなよ。自分の腕を見てみろよ、そこじゃない肘だ。何もおかしなところなんてありゃしないだろう? それに制服は長そでだ。きっとバレずに生活できる。ちょっとびくびくしなきゃいけないが、今までと変わらない生活が出来るんだ。喜べよ。
少年は暴走気味のトラックと出会った。そして、瀬呂はすでに走り出していた。
なにをやっているんだ俺は! 心の中で絶叫する。いかにもヒーロー気取りな行動だと思った。おいやめろ、だめだ。だめって一体何が?
「あ、ありがとうお兄ちゃ――――」
気が付いた時には少年は瀬呂の腕の中だった。トラックは気にもしてないように通り過ぎていく。少年はとってもすごい(自分が知るどんなほかの大人だって、この人より速くは走れないだろう)お兄ちゃんにお礼を言おうと思って、固まった。幼い少年にすら瀬呂の憤怒が一目でわかった。
実際、瀬呂の心は燃え盛るマグマのようだった。昨日と今日のすべてがぐちゃぐちゃにかき回され、シチューになっていた。個性に怒った、社会に怒った、チンピラに怒り、トラックに怒ったが、とにかく腹立たしいのは自分だった。
どうして俺がこんな目に! どうして! 知るかそんなこと! 俺は真面目に生きてきた! 必死に生きてきた! それをなんだ! どいつもこいつも!!
昨日から自分のすべてを否定していたように思える。すべてが俺を否定していたように思える。しかし、それは重大な間違いだった。
少年は瀬呂の腕から離れ、家へと帰っていった。瀬呂もまた家へと帰っていった。
「ただいま」出迎えたカップに言い放つ。「さっきぶりだなクソッたれ」
瀬呂はカップと向き合った。ひどく上着が窮屈に思えて、上着を脱いだ。思った通り肘が変形していた。クソッたれ、お前のことだって待ってたんだぜ。
俺は変わった。きっと少年が大人になるような具合だ。個性を持つ者としての思春期はさっきまで、あの少年を助けるその瞬間までだった。個性を持ったから、誰かに白い眼を向けられると、親しい人たちが離れていくと、そう思った。しかし、それは勘違いだ。思春期特有の物だ。
昨日のチンピラが頭に浮かんだ。俺はお前のようにはならない。俺の体は小さな命を助けるために勝手に動いた。俺自身は諦めていても、心の底はそうじゃなかった。それを誇りにしてやる。誇りを支柱にして、立ち上がってやる。お前のように個性で人を傷つけたりしない。俺は―――
「―――ヒーローになる」
一日中壁に張り付いていたコップは、瀬呂の手によって、意外なほどあっさり壁と別れた。
ホームカミング的ポジションにしようと思っていた瀬呂が、初っ端になってしまうとは…。はい、そうです。スパイダーマンポジですが、そんなにスパイダーマンじゃないです。あえて言うならってだけです。