2月14日、言わずと知れたバレンタインデー。
しかし皆がその日を待ちわびているわけではなく、街を眺めると密かに暗い視線が辺りを飛び交っている。
全く、まだ朝だというのにこの調子なのか。
その視線の闇に当てられ、俺も若干沈んだ気分で学校に到着した。
昇降口も、朝から異様な雰囲気だ。
門の前に立ち、普段は元気な挨拶をみんなに配る男子生徒も今日はその声の中に仄かな怨嗟が籠っている。
おいおい嘘だろ。
バレンタインデーってこんなに暗い行事だったのか?
小学校に通っていた時はこんなこと一切無かった。
そもそも学校にチョコを持ち込むのは禁止だったし、渡すにしても学校の外だったからかな。
中学初のバレンタインデーは、恐ろしい瘴気と共に俺を出迎えてくれたらしい。
俺は、この空気を今日含めて3回も味わうことになるのか。
雪を踏む音が耳の中に響く。
気にしていなかったはずなのに、神経が尖って大きな音に聞こえてしまう。
それとも全部俺の勘違いか?
だとしたら何よりな話なんだがな……
「ん? あれは…」
そんな俺は、下駄箱の辺りに見知った人影を見つけた。
「あ…やめとくか」
見つけた人物は今声を掛けるべき者ではなかった。
なんでかって言うと、この空気だからな。
相手も俺に気づいた。
…頼むから、まだ話しかけないでくれよ?
「あ、カムくーん!」
…アウト。
致し方ないことなんだが、周りの視線が怖くなる。
ええい、かくなる上は無視だ無視。
周りなんて気にせず教室に直行すると決意した。
「おはようカムくん、今日は寒いね」
「ああ、みんなの雰囲気も冷たいな」
そう言うと、真夜はやっと気づいたように辺りを見回し、クスクスと笑った。
「あはは、どうしちゃったのかな?」
「分かんないならいいんじゃないか」
「…そうね、じゃあ私は先に行ってるね」
「ああ、またすぐな」
軽い会話の後、真夜は教室へと行ってしまった。
同じ学級だからすぐに会うんだけどな。
下駄箱から内履きを取り出し、代わりに登校靴を中にしまう。
「……ん?」
変だ。下駄箱の中からいつもと違う匂いがする。
でも、中には何も入っていない。
「気のせいか…?」
そういえば、さっき真夜の奴俺の下駄箱を開けていたような…
しかし中には何もないし、何か無くなったわけじゃない。
「疲れてるのかもな…」
程なくしてこの問題は頭の片隅に追いやられ、俺もさっさと教室へ向かうことにした。
「おはようございまーす!」
「…元気だな」
朝の挨拶当番は屋内にも配置されている。
特に彼女が大きな声を出しているわけではないが、周りと比べると随分元気がいい。
「おはよう、神依!」
「ああ、おはよう北城…今日はやたらと元気だな」
普段の北城のイメージは物静かだが、今日はまるで別人だ。
いいことでもあったのか、もしくはこれからあるのか。
「神依は、元気じゃない?」
「あんまりな…まだ朝だぞ」
「でも、いいことあったんじゃないかな?」
「…何の話だ?」
「ふふ、照れちゃって…」
そんなことを言われても、無いものは無い。
適当にはぐらかしつつ、俺は教室へと急いだ。
「遅かったね、カムくん」
「ハハ、北城の奴に絡まれてな」
ようやく背中の荷物を下ろせた。
ええと、1時間目は数学だったかな。
「またなの?」
「いつものことさ、気にすることもない」
残りの勉強道具も机の中にしまって、準備は終わった。
「今日、バレンタインだね」
「…だな」
真夜は横目でこっちを見てくる。
…その目は、なんだ?
何か言えってことか…
「まぁ…期待してるよ」
「…うふふ、信じていいよ?」
こういうイベントの日の真夜は実に盛り上がっている。
俺は知っている、真夜が心の底で望んでいることを。
でも俺は知ってしまった、あの日、真夜の家で。
俺は……
午前の授業がすべて終わり、生徒たちは思い思いに弁当の包みを広げ歓談と共に食する。
「カムくん、一緒に食べよ!」
「……ああ」
「オレもご一緒させてもらおうか、神依」
「あ…遥都、じゃなくて博士」
「どっちも一緒だね…やれやれ」
あからさまに肩を竦めながら遥都は向かいの椅子に腰を下ろした。
「あ、私もいいですか…?」
「あら、北城ちゃんも来たの?」
とどのつまり、いつもの4人組だ。
俺も弁当のふたを開けて食べ始める。
別に内容は詳しく言わない。
説明したところで意味なんて無さそうだからな。
とにかく、俺が作った弁当だからワクワクとかそういう気持ちが出てこないことだけは確かだ。
「カムくん、それ…」
「あげないぞ」
「か、神依…」
「お前の分もない」
自分のがあるんだから、それで我慢してほしいものだが。
「じゃあ神依」
「なんであると思った…?」
なんなんだ、俺の弁当はスーパーにあるような試食なんかじゃないぞ。
親父の料理の悲劇を乗り越え、研究を重ね丹精込めて作り上げた一品一品が詰まっているんだ。
「それが分からないやつは…もぐ…許しておけないな…もぐもぐ…」
「あーあ、怒らせちゃったみたいだ」
そんなこともあって、今日はあまり会話をせずに昼食の時間を終えてしまった。
「えー、つまりこの文章から読み取れるAの感情は……」
念仏のような声が教室に反響する。
こんな音を延々と聞いていると集中力が削がれてしまう。
周りの奴も退屈そうに授業を受けている。
たった1人、真夜を除いて。
「~♪」
当の真夜も、国語を楽しんでいるわけではなさそうだ。
「はぁ…」
「神依、どうした?」
「っ、いえ、何でも…」
「…そうか、さて、次の段落だが……」
ああ、この分なら1人で読んでいた方がよっぽど楽しいな。
「あはは、退屈だったね…カムくん」
「これに関しては同感だな…」
ともあれ、これで今日の授業は終わりだ。
そして、今この瞬間に今日のメインイベントが始まるのだ。
なんとこの学校、今日だけ全ての部活動が
すると集まる部活は集まって、それ以外は各々で楽しむという構図が出来上がる。
まあ、楽しめる人たちは好き勝手やっているらしい。
…中学校だというのに、果たしてこんな調子でいいのだろうか。
ちなみに、学年末テストは来週だ。
「じゃ、俺は帰るか」
「すぐ届けるから待っててね~」
「…はいはい」
ヒュ~ッと音が経ちそうなほど素早く行ってしまった。
これだと、俺が家に着く前に真夜が先回りしそうだな。
「…ちょっと急ぐか」
真夜が早く着くだけなら問題は無いが、アイツは勝手に俺の部屋に入る。
母さんも一切の疑問なく部屋に上げてしまう。
片づけとかの準備も全然やらず、何なら真夜が掃除をする。
帰ったら部屋で真夜が寝ていた時の衝撃を、今でも鮮明に思い起こせるんだ。
「神依、今日は……あれ?」
「悪い遥都、もう帰る!」
待つんだ真夜、少なくとも俺が帰る前に家に着くんじゃない!
「……おお、珍しい。名前呼びってことは、アレ本気だね」
ええい、急げ。
動け俺の足よ。できるならもっと動け!
冷静に考えて馬鹿らしいことをしているのは分かる。
しかし真夜が更に恐ろしいことをしかねないのはもっと理解してくれるはずだ。
よし、あと少しだ。
自宅近くの公園には時計があり、針は3時45分を指している。
この時計は4分程遅れているから、今はおよそ50分頃だ。
玄関の扉に手を掛ける。
間に合ってくれ――!
「ただいま!」
「おかえり神依、真夜ちゃんが上がってるよ」
「……」
間に合わなかった。
俺の努力は、息を切らして走った500mの汗は、一切が無駄に――
「神依?」
「…ああ、分かったよ」
仕方ない、気持ちを切り替えよう。
別にやましいことは一切無いのだから、堂々としていればいい。
…まるでこれから叱られる奴みたいな心構えだな。
「全く…」
若干重くなった背中を伸ばして、1歩1歩を踏みしめながら自分の部屋へと進む。
ガチャリ…
「おかえり、カムくん!」
「…お前はこの部屋の主か?」
「あはは、お邪魔してまーす」
真夜はベッドの上に転がり、ぬいぐるみをいじって遊んでいる。
名誉のために言っておくと、そのぬいぐるみは俺のものじゃない。
一方的に真夜から押し付けられたものだ、2年前にな。
ただ片づけると機嫌を悪くしてしまうから、仕方なしに部屋に置いたままにしている。
「見てよカムくん、この子かわいいでしょ!」
「2年前にも聞いたセリフだな、そしてお前はそれを俺に寄越した」
「チョコレートと一緒にね! …あ、今年のチョコも持ってきたよ」
ピョコっと起き上がり、肩に掛けていたバッグから1つの箱を取り出した。
正座になって、キッチリ俺に向き直る。
「…カムくん」
「あ、ああ…」
両腕の先に差し出された箱を、俺も両手で受け取った。
「…食べていいか?」
コクリ、静かに頷いた。
箱の中からは、赤みを帯びたチョコレートが出てきた。
イチゴが混ぜ込んであるのだろう、斑点がいくつか見える。
大口一口かじり取る。
「それで…
「ああ…
一瞬目を見開いた真夜。
だがすぐに表情を戻し、何ともないような笑顔で言葉を紡ぐ。
「そっか…ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ」
「…ところで、
「…? 当然だ」
「なら、よかった」
その後にあったのは他愛のない言葉の応酬。
無意味な会話を終わらせた頃には、既に外は闇に包まれていた。
「…もうこんな時間なの!?」
何気なく外を眺めた真夜、大きく驚きの声を上げた。
「そろそろ帰らないと、親が心配するぞ」
「しないよ、絶対」
言葉の終わりと同時に返された声は外よりも深い闇を湛えているように思え、また朝は来ないだろうと感じさせるのに十分なほどの淀みを孕んでいた。
「……でも、帰る時間だ」
「…わかった」
返事と共に真夜の表情は明るく変わり、玄関を過ぎるころには先程までの様子を思い出せなくなっていた。
「じゃあまた明日ね、カムくん」
「ああ、またな」
そして真夜が出ていくと、入れ違いざまに父さんが玄関に姿を見せた。
「あ、父さん?」
「おお、ただいま神依。真夜ちゃんが出てきたが、今年も来てくれたんだな!」
「あ、ああ…今年もな」
父さんや母さんは嬉しく思っているようだけど、俺からしたら…
「父さんは少し安心してるぞ…」
「心配しなくていいっての」
気に掛けるのなら、もう少し真夜のことを理解してくれ。
「おかえりなさい、もう少しで夕飯できますから支度してきてくださいな」
「ああ、そうするよ」
父さんは部屋に戻り、きっと着替えやらするのだろう。
「神依、このお皿を運んでちょうだい」
「これか、今日も美味しそうだな」
「もう、今日もそんなこと言って…!」
だけどそうか、父さんは俺の将来のことまで考えてくれてる。
…自分で未来を決めるなら、身の振り方は考えないとだな。
翌日、2月15日。
今日は昨日と違って明るい朝だ。
心なしか太陽も燦燦としているように感じる。
「…寒いな」
冬の晴れの日は何より気温が低い。
手をこすりながら何とか途中の通学路を乗り切った。
半ば凍りかけの手を動かし下駄箱を開ける。
そして、俺の体は凍り付いた。
「…なんだ、これ」
下駄箱に入っていたのは、プラスチックの袋。
その中には、
その紙切れには、こうあった。
『答え合わせです、ボクのチョコの隠し味はコレでした! …気づいてくれた?』
「この字…この文章…!」
紙切れに名前は書いていない。
答えを合わせるような問題も受け取っていない。
しかし俺は、すべてを理解した。
だから真夜は昨日、俺の下駄箱を…
そして、これの差出人は――
「なるほど、な…」
手元にあるこの袋を、今すぐ捨ててしまいたかった。