今日という一日は、赤ボスの踏みつけによってその始まりが告げられた。
「ノリアキ、少シイイカナ?」
「んぅ…なに…?」
赤ボスに叩き起こされるのもこれで何回目になるのかな。
最初にそれをされた時から、赤ボスの起こし方はほんの少しも変わっていない。
色んなものが変わり果てた生活の中でそれを想うと、寂しい気持ちにもなる。
ただそれでも、何も知らなかったあの頃に戻りたいとは微塵も思わないのだ。
「付近デセルリアンノ出没ガ確認サレタヨ」
「倒しに行けってこと…?」
「…”イヅナ”ハモウ向カッタヨ」
「分かった、行ってくるよ」
立ち上がって大きく伸びて、パチンと頬を叩いて目を覚ます。
だけど目を覚ますのは後でもよかった。下手に意識が冴えたせいで、余計な所に気が回ってしまったからだ。
「あ、布団…」
急いでいても、畳むくらいはしなきゃ。
…セルリアンとどっちの優先順位が高いのかは知らないけど、とにかくそう思った。
中途半端に起きた賜物かもしれない。
そうして布団へ伸ばした腕が、横からガッチリと掴まれる。
「話は聞かせてもらったわ! 布団は私が片づけるから行ってらっしゃい、ノリアキさん」
「え? ああ…ありがとね」
彼女に急かされて部屋を出た後、色々思考が脳裏をよぎる。
ギンギツネ、随分と素早く出てきたなぁ。
『話は聞いた』って…一体いつから聞いていたんだろう?
「ま、いっか」
雑多な思考は雑多なままで、無意識の海に消えていく。
それが大事な考えかどうか、忘れて判断も下せない。
しかし忘れたということは、それほど大事じゃ無かったんだろう。
少なくとも僕は、知らないものを大切にはできない。
―――――――――
「ふぅ、見掛け倒しだったね」
「大きいのが見た目と態度だけなんて、何処かの森の誰かさんみたい」
”何処かの森”といえば、僕は真っ先に図書館を思い浮かべる。
そこにいるのは博士たちだけど、そんなに大きい見た目はしていない。
むむ、僕の知らない誰かの話をしてるのかな。
「…ノリくん? ボーっとしてどうしたの?」
「え…? …ああ、赤ボスに朝早く起こされたせいでまだ眠くて」
僕がそう誤魔化すと、イヅナは明らかに不機嫌な顔をした。
怒らせちゃったかなと一瞬肝が冷えたけど、イヅナの怒りの矛先は赤ボスに向いているようだった。
「私一人で十分なのに、ノリくんの手を煩わせて…! 今度見掛けたら電源を止めてあげようかなぁ…?」
「赤ボスも、イヅナを心配してたんじゃない?」
「別にいいよ、ノリくんさえ…私を想ってくれたら」
その後もしばらく話をしていたけど、やっぱりだんだん眠くなってきた。
イヅナには先に食べててと伝え、僕は寝室に足を運ぶ。
その途中で、ギンギツネが布団を片づけてしまったことを思いだした。
「畳でも、眠れなくはないかなぁ…」
しかしそんな
僕は近頃減っていたお昼までの二度寝を決行しようと心に誓って、寝室の襖を横に引いた。
「……あれ?」
だけど、床にはまだ布団が敷いてある。
しっかり手入れはされているようで、皴もなく綺麗だ。
…もしかして、二度寝することを察してくれたのかな?
真実は分からないけど、そんなことはどうでもいい。
居場所も知らないギンギツネへと心の中で感謝を伝え、僕の意識はふかふかの海の底へそっとその身を下ろした。
―――――――――
「あ…寝てる…」
私の視線の向こうには、襖と戸の枠の隙間から見える彼の姿。
普段から散々直視しているはずなのに、こうして見るとまた特別なように感じられてしまう。
「寝顔も素敵ね…ふふ…!」
無意識のうちに零れる呟きを垂れ流し、私は袋に詰めた白い
美味しい。幸せの味が口いっぱいに広がる。
そして私は朝から何というものを食べているのだろう。背徳の味が頭を白く染め上げる。
「…ギンギツネ?」
「ひゃっ!? …ど、どうしたのキタキツネ…?」
咄嗟に袋を体で隠す。
幸運にも、キタキツネはお菓子の存在に気づかなかったみたい。
「ギンギツネが、ノリアキの部屋覗いてたから」
「別に、キタキツネもよくやることでしょ?」
「…そうだけど」
少し目を向けると、訝しげに首を傾げている。…怪しまれたかしら、それなら言葉は慎重に選ばなきゃ。
考えている間に、お菓子は服の中へと隠した。
「キタキツネこそどうしたの? 朝ご飯ならもう作ってあるわよ」
「別に、何でもない」
「あら、そう」
何でもないと言いつつも、キタキツネの視線は襖にチラチラ向いている。
向こう側の様子を想像しているのかしら。
まあ、精々想像してるといいわ。私は直接見てるから。
「…お腹すいた」
しばらくするとキタキツネは行ってしまい、一人になった私は晴れて堂々とお菓子を食べられるようになった。
「ん…ノリアキさん…」
そのまま私は、彼が目を覚ますまでずっとその寝姿を眺めていた。
―――――――――
「ふわぁ~…お昼かぁ…」
二度寝の後の目覚めとは、得てしてパッとしないものだ。
僕は朦朧とする頭を振って、なんとか目の前の景色を認識した。
ゆっくり起き上がって、今度は布団のことなんてすっかり忘れて、空っぽになったお腹を満たしに部屋を出る。
そこで、ギンギツネと出くわした。
「……あ」
「あれ…何してるの…?」
ギンギツネは僕を見ると固まって、横歩きで僕の後ろまで移動する。
「ええと…お布団、片づけるわね…!」
「…う、うん?」
大きな音を立てて襖が閉じられる。
ギンギツネの様子を訝しみつつも空腹には逆らえず、僕の心はご飯を夢見た。
そのとき、床に落ちている白い髪の毛に気づいて拾い上げる。
それほど長くないから、多分イヅナではなく僕の髪の毛だ。
「…まぁ、落ちてるよね」
さほど気にせず髪の毛は適当に放り捨てて、僕は遅い朝ご飯を食べに行った。
―――――――――
「気づかれて、ないよね…?」
ざわめく胸を押さえ、平静を保って私は彼の様子を確かめた。
しばし眺めて、私は強く安堵する。
ノリアキさんの様子が普段と何ら変わりなかったから。
「これなら大丈夫そうね」
私が穏やかなため息を漏らせば、それを聞きつける狐がいる。
「何が大丈夫なの、ギンちゃん?」
「あっ…こほん、イヅナちゃんには関係ないわ」
「…ノリくんには?」
「……さあ、どうかしら」
本当は大アリなんだけど、彼女相手にそれを素直に認めるのも癪で。
十中八九誤魔化しきれやしないことを知っていながら、私はお茶を濁す。
「あはは、惚けちゃって。嘘ついたって良いことないよ~?」
「イヅナちゃんに話したところで、『良いこと』があるようには思えないわ」
「つれないこと言わないでよ、
素っ気なく突っぱねても、今日の彼女はまだ食い下がる。
普段からこんなにしつこかったかしら。ノリアキさんへのアプローチは執着の二文字に尽きるけど、それは私も同じだから言うことはなし。
それでも飽くまでノリアキさんに向いていて、私に矛先が向くのはコレが初めてな気もする。
やっぱり、あの時派手にやった
だったら、もっと煽り立てるのも悪くない。
「そうね、折角だから教えてあげるわ」
「おおー、太っ腹」
…張り倒してやろうかしら。まあいい、それなら煽り返してやるわ。
「私はね、あなた達が持ってないものを持ってるの、あなた達が知らない、ノリアキさんのことを知ってるの」
「…へぇ」
「教えてあげるのはコレだけ、気になるなら自分で考えてみたら? ノリアキさんに聞いても答えは出ないと思うから」
イヅナちゃんの顔が狐面のように強張った。
いい気味ね。
普段は飄々としている分、怒った顔を見るのは格別の気分だわ。
一瞬、私は
だけど、隠して、見つけられない様を眺める方がずっと気持ちいいはず。
そう言い聞かせて、衝動をもっと強い欲望で塗りつぶす。
「じゃあ、私はやることがあるから」
代わりにくるんと背を向けて、悠々と歩く姿を見せつける。
怒ってるかしら、歯ぎしりでもしてるのかしら。
想像するだけでも、それは格別な愉悦だった。
―――――――――
「ノリアキさん~♡」
布団に彼を押し倒す。
幾度となく繰り返されたことなのに、彼の初々しさは全く変わらない。
緊張を示すようにピクピクと震える耳が可愛らしくて、ついつい噛みついてしまった。
「あっ…!」
震える体を抱き締める。
「怖がらないで、私に任せて…?」
今この瞬間、ノリアキさんが私の腕の中にいる。
他の誰でもない、私だけのものになってくれる。
――今度は髪の毛に噛みつく。
出来ることならこのまま彼を連れ去って、誰もいない場所で一緒に暮らしたい。
――優しく、痛まないように噛みちぎる。
どうして、この時間が永遠にならないのかしら。
――口の中で髪の毛が解けて、サンドスターの味がする。
どうして、一緒に消えてしまえないのかしら。
――虹は綿あめのように解けて消え、
「…楽しそうだね、ギンギツネ」
「ええ。だって、あなたがいるもの」
私たちが雪ならば、解けて混ざって一緒になれる。
でも、本当に私たちが雪だったら、冷たくて解かせないのかな。
…なーんて、変なことを考えるのね。
全部解けるに決まってる。
この胸に迸る熱が、全て熱しつくしてしまうもの。
夜闇が私たちを覆い、白い夢が私たちを蕩かす。
『夜は長い』というけれど、本当かしら。
どんなに長くても、私の時間は一瞬で過ぎてしまう。永遠に続いて欲しいと願うほど、時間は短くなっていく。
…カミサマは、とっても意地悪ね。
どうすれば、この時間を永遠に出来るのかしら。こっそり首に回した腕を、気取られぬよう背中へ回す。
―――――――――
「よいしょ…ふぅ…」
早朝、草木も雪も、ノリアキさんも眠っている。
起きないうちに、
「ごめんね、少しだけ我慢して…?」
「ぇ…んぅ…」
彼の上半身を優しく起こして、そっと枕を引き抜いた。
代わりの枕は私の枕、何でもないのに嬉しい気持ち。
私も簡単な存在になっちゃったものね。勿論、全然悪いことじゃないけど。
彼の枕を取った後は、ポケットから袋を取り出す。
真っ白な髪の毛がたくさん入った、
「あはは、今日も沢山ね…!」
丁寧に指先でつまみ取って袋に放り入れる。
集中して、意識の全てを注いで髪の毛を回収する。そうしなければ、髪の毛は無意識のうちに口へと運ばれてしまう。
「これで全部ね…美味しそう」
いつから隠れて髪の毛を集め始めたのか、もう覚えていない。
これがずっと、私の毎日の楽しみだった。
でも今は、もっと楽しいことがある。
ノリアキさんの髪の毛を、そっとたくし上げる。
「……♡」
起こしてしまわないように、痛がらせてしまわないように、私は恐る恐るそれに噛み付く。
歯で挟んで、潰すように切り取って、舌でじっくり味わった。
ずっと食べてきた、変わらない味。それなのに、全然違う。
もう、私はこの想いを隠さなくてもいい。なのに私は、彼に隠れて
そんな取るに足らない矛盾が、スパイスのように甘い虹色を際立たせる。
「…ごちそうさま」
どろどろに溶けた白色を飲み込んで、私は彼の隣で目を閉じる。
今日のお昼ご飯は、イヅナちゃんが作ってくれた。