僕の朝は、いつも誰かに起こしてもらうことで始まる。
「…祝明、もう昼だぞ」
前言撤回、朝じゃなかった。
…でも、朝って何だろう?
この世の時間は何を以て『朝』と定義されるのだろう。それ次第では、今この時間だって朝と呼んでも差し支え――
「起きろ」
「いてててっ…分かったよ、起きるってば!」
耳を乱暴に引っ張られる痛みに負けて、僕は渋々布団から出ることにした。
「うぅ…ギンギツネはもっと優しく起こしてくれるのに…」
「ぶっちゃけ、甘やかしすぎだと思うんだがな」
「あはは、羨ましいなら神依君もオイナリサマに頼んで優しく起こしてもらったら?」
「…ま、寝起きが良さそうで何よりだ」
呆れるように首を振って、神依君は立ち上がる。扉の間際で振り返ると、もう一度僕に催促をした。
「もう昼ご飯は出来てるから、さっさと来いよ」
「…うん」
神依君も気に入ると思うんだけどな、ぐっすり寝るの。
そんなことを思いながら、僕は布団の中に再び潜り込んで二度寝を…
「…さっさと来いって言ったよな」
「あと…あと五年…」
「お前は神話の生き物か!」
ズルズルと引っ張られていく僕は、三人のいるあの雪山が本当に恋しくなる頃だった。
訪れるべし、ホームシック。
―――――――――
「キツネが百二十七匹、キツネが百二十八匹…」
朝ご…じゃなくてお昼ご飯を食べ終えた後、僕は半ば強引に外へと放り出された。
“運動して目を覚ませ”って何さ、疲れたら眠くなるんだってば。
「…あら、コカムイさん」
「百四十よ……ん、オイナリサマ?」
声に呼ばれてそちらを向けば、オイナリサマは赤いお花畑で水やりをしていた。
…指先から涼しそうな霧が広がってるから、多分水やりだと思う。
「眠たそうですね、今日もお寝坊ですか?」
「まあ…何と言うか習慣でね」
そう答えると、オイナリサマはお淑やかに笑ってまたお花の方を向いた。
「…それって、何の花?」
「このお花ですか。彼岸花って名前です」
「あぁ、これが…!」
揺らめく花びらはまるで炎で、一面に広がる赤色は血の海のようにも見える。
「うふふ…炎ですか」
無意識のうちに呟いていたのか、オイナリサマが繰り返す。そして彼岸花を一本摘み取り、僕に向けて手渡した。
「知っていますか? 彼岸花には『狐の松明』っていう別名があるそうですよ」
「松明かぁ、ピッタリだね」
指で弾くとピコンと跳ねる花びら。
その様子が妙に可愛らしくて、ついつい食べたくなってしまう。
「あ、彼岸花には毒があるので気を付けてくださいね」
「毒っ!? ど、どの辺りに…?」
「全体に、満遍なく」
「茎も、葉っぱも、お花も?」
「それと球根もですね」
何それ危ない。このお花畑、血の海じゃなくて毒の海だった。
「でも、しっかり毒抜きをすれば美味しく食べれるんですよ! 今朝の朝ご飯もこのお花の球根を使いましたから」
「…僕、朝ご飯食べてないけど」
「あらら、そうでした。じゃあ夕ご飯にも出しちゃいましょう」
「ありがとう、楽しみにしてるね」
これから毒抜きをするらしい球根を幾つか籠の中に入れて、オイナリサマは神社の本殿へと入っていった。
「…あ、少しいいですか!?」
…と思ったら、すぐに出てきた。
―――――――――
「あの、私から一つお願いがあるのです」
最近どこかで聞いたような台詞を聞いて、僕は反射的に背筋を整えた。
いや、まあ、一応神様だしさ?
「そ、そんなに緊張しないでください! 私の方が…深刻ですから…」
「あ…うん…」
その申告通り非常に深刻な表情をするオイナリサマを見て、もう言葉通りに体の緊張を無理やり解すしかなかった。
「では本題に入ります。とりあえず、ついて来てください…」
そう言って、オイナリサマは彼岸花畑の中を通って向こうへと歩いていく。
僕はその後ろを、花を踏まないよう毒を食わらないよう戦々恐々としながらついて行った。
やがてオイナリサマが立ち止まる。
その足元には、何度も見た模様が描かれていた。
「これって…魔法陣?」
「コカムイさんなら、これが何の魔法陣か分かりますよね」
僕はうなずく。何度も見たし、テレポートの魔法陣に間違いない。
というか、テレポート以外の魔法陣を僕は知らない。あれ、もし違ってても判別付かない? 急に怖くなってきた。
「あなたが思っている通り、これは
それ見ろやっぱり違うじゃん!
テレポートじゃなくて瞬間移動…って、言い換えただけか。ビックリした。
でも、何か問題があるのかな?
見たところ、不完全な部分があったりするようには思えないんだけど。
「で…お願いって?」
「お、教えていただきたいのです。『妖力』…とやらの使い方を」
「……え?」
意外にも、オイナリサマにも出来ないコトがあったようだ。
―――――――――
「そっか、オイナリサマにも使えないんだね」
「ええ…神様である私は、サンドスターさえあれば大抵のことはどうにかできましたから」
それも相当に凄いことだと思うけどな。
さっき指先から撒いていた霧も、全部サンドスターを使って何とかしてた訳でしょ?
…むぐぐ、神様ってすごい。
「それで、そっか…僕はある程度使えるから」
「お願いです、どうか私に御指南ください!」
「指南って…特に意識してやってる訳じゃないんだけど…」
大体それに、やることと言ったら狐火出すくらいだし…
やっぱり、もっとイヅナから教えてもらうべきかな。
「いえ、妖力を少し流し込んでいただくだけで十分です」
「な、流し込むだけ?」
「はい、大体の感じを掴めれば問題ない気がしますから!」
敢えて言うよ、何でもありの神様め。
でもまあ、呑み込みが早いなら――
妖力を誰かに…というかイヅナとかキタキツネとかギンギツネに流し込んだ経験はある。ごく普通の意味で。
あの時はねだられてやったんだけど、やけに心地よさそうにしていた。
まあ、手を繋いでいたからかもしれないけど。
「…どうかしました?」
「少しだけ、考え事を」
そう、経験があるから問題ないかと言われればそれも違う。特に精神面のことを考えれば。
例えば向こうに帰ってから、オイナリサマに妖力を貸したことを知られたら…いやむしろ、必ず知られるだろう。テレパシー恐るべし。
そうなれば、イヅナは不機嫌…で済めば良い方で、最悪の場合は殴り込みに掛かる。
「…私の顔に、何か?」
「ううん、何もないよ」
規格外の強さを誇るオイナリサマなら、イヅナに対して遅れを取ることもないと思う。
イヅナの本気度合いにもよるけど、ある程度は拮抗した激しい戦いになるはずだ。
そうしたら多分、少しの怪我では終わらないと思う。なるべくなら、イヅナに痛い思いはさせたくない。
だから、そんな未来につながる恐れのあるこの選択肢は選べない。
「…そろそろ、決断してくれましたか?」
「うん…決めたよ」
でも大丈夫、僕には第三の選択肢がある。
かつては僕の為に博士が用意してくれたようなある種の逃げ道を、今度は僕自身の手で見つけて選ぶことが出来るのだ。
「妖力は…神依君から貰ってくれるかな」
神依君にも、魔法陣に必要な妖力の一割程度なら備わっている。
少し流し込むだけで十分なら、彼の持つ妖力量で十分事足りるに違いない。
「……」
「あ、あれ、オイナリサマ?」
不思議かな、オイナリサマは固まって返事が無い。
「…ハッ!」
「あ、気が付いた。大丈夫?」
「え、ええ…問題ありません。それで…お答えは?」
あらら、気絶してる間に忘れちゃったのかな。まあ減るものでもないし、もう一回言おう。
「妖力なら、神依君に融通…」
「か、神依さんにっ!?」
「う、うん…?」
どうしたんだろうオイナリサマ。
もしかして、密かに神依君のことを嫌ってたり…?
「わ、分かりました。神依さんに頼んできますね!」
疾風のごときスピードで走り去っていくオイナリサマ。
走っているせいとは思えない程上向きに大きく揺れる尻尾。もしかして…
「まあいいや、あとは神依君に任せよっと」
やっぱりどんな形であれ、仕事は好きじゃないもんね。
さあ、なんか眠いから寝てしまおう。怒られないように、神依君に気づかれない場所で。
そうだ! お花畑で寝るっていうのも、結構ロマンチックでいいかもしれない。
彼岸花の中に体を沈める僕は、襲い掛かる眠気のせいで全てを忘れてしまっていた。
…そう、花の中で赤く迸る毒のことさえも。
―――――――――
「あーうー…クラクラするよぉ…」
二度寝上がりによくある眩暈か、それとも毒に当てられたのか。
何を考察しようと気分が悪いという現実は変わらず、僕が求めるものも冷たい水以外にありはしなかった。
「ホント、ついてないや」
この神社っておみくじはあるのかな? あるなら引かせてもらいたい。中身は全て大吉で。
「おみくじなんて、全部大吉でいいよね…!」
ついでに、花占いも全部『大好き』で構わない…というのはイヅナの談。
都合の悪いことなんては全て捻じ曲げてしまおうというイヅナのやり方を考えれば、そんな占い方も納得かもしれない。
それに僕は…そういうのも嫌いじゃないしさ。
「ぷはぁ…生き返るなぁ…!」
柄杓に掬った御手水を一杯、一気に呷って飲み下す。
あれ、飲んでも良い水だったっけこれ。まあいいや。
「でもそっか…もうすぐ帰れるんだね」
最初に神依君と二人でここに飛ばされた時は、これからどうしようって本気で悩んだっけ。
帰り道も無くなって、行く当てだってそもそも無くて。僕達が短い時間でここまで辿り着けたのも、巡り合わせが良かったからに他ならない。
…じゃあ、神様にお礼参りでもしておこうかな?
「丁度ここ神社だし、悪くないかも」
お仕事は神依君に押し付けて暇になったことだし、そうしよう。
僕はすぐそこに見える拝殿まで、悠々と足音を鳴らしながら歩いていった。
―――――――――
「ええと…どういう順番だったかな…」
とりあえず、思い出せる限りはその通りにしてみよう。
…お賽銭箱の前に立って、まずはお賽銭。
その次には鈴…だけどこの神社には鈴が無い。 じゃあこれは飛ばしていいね。
最後は、拍手でもしておけばいいんだっけ?
「…やるだけやってみよっか」
最初にお賽銭。生憎お金の類は一切持っていないから、サンドスターを固めて五円玉状にしたものを賽銭箱に放り込む。
カランと乾いた箱の音は、空っぽなことを教えてくれた。
「まあ、参拝客なんていないもんね」
若干寂しい気持ちになりながら、パチパチと二回手を叩く。
今まで色々と、ありがとうございました。
そしてどうか、三人の元へ無事に帰ることが出来ますように。
「…ふふ」
向こうから喧騒が聞こえる。
「神依さん、ほんの少しだけですから!」
「分かった、やるから! 頼むから少し落ち着いてくれ!?」
心が静まる水の音と、元気で騒がしい彼らの声を聞いて、僕の胸に何かがこみ上げてくる。
「あ…く、苦しいかも…」
こみ上げる毒の残滓に僕は舌を噛み、今度は柄杓に頼ることなく顔を水に付けてガブガブと流し込んでいく。
「やっぱり…彼岸花の球根なんて食べられ……あ、ああっ!?」
その時、僕は見てしまったのだ。
あろうことか御手水に漬けられ、毒抜きをされている球根の数々を――!