キツネとカミサマ   作:ろんめ

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Ⅴ-156 花は咲かずに血で染まる

 煌々と輝く太陽の光を、おびただしい量の雪が照り返し、目に飛び込んでくる日光は刺すような鋭さを持って僕らに景色を教えてくれる。

 

 雪山の中でも落ち着いた土地――僕らの暮らしている宿――から数百mくらい歩いた辺りにある開けた場所。

 言い換えるならば電源装置の区画。

 

 そこまでの道のりは高く降り積もった雪で足場が悪く、歩けばその道のりは数km程にも感じられるけど、辿り着いた先はコンクリートという名の盤石な人工物によって舗装されているから、これといった過ごしにくさは感じない。

 

 空を見上げれば目と鼻の先に建てられた建造物が嫌でも目に入り、その光景は――荒れ狂う吹雪のように自然が猛威を振るう――この雪山の中にさえも、確実に人の手が入っているのだと僕に実感させる。

 

 しかし、ホッキョクギツネは僕をこんなところに連れて来て一体何のつもりなのだろう?

 

 僕の前を歩き、時々振り返って彼女が見せる一切の屈託がない笑顔からは…果たして何も読み取ることが出来ない。

 

 この本心の掴みにくさはかつてのイヅナたちにも通ずるところがあり、冷え切った空気に囲まれながら僕は背中に冷や汗を流した。

 

 何の理由も告げずにその場の凄みだけで連れてくるところが、如何にもそっくりなのである。

 

「うふふ…もしかして、寒いんですか?」

 

 ホッキョクギツネは一度立ち止まり、僕と歩調を合わせ肩を並べてそう尋ねてくる。

 

 気温に因らない寒気を理由に頷いてみると、なんとホッキョクギツネは自分の腕と僕の腕をまるで恋人がするように絡めて…何食わぬ顔で横に並んで歩き始めた。

 

「ホッキョクギツネも、寒いの?」

「いえ、わたしには厚い毛皮がありますから」

 

 そんな風に嘯きながら、ホッキョクギツネは絡めた腕を強く引く。

 

 彼女の言う通りの厚い毛皮の向こうから、それでも伝わって来るわずかな体の震えは、何よりも雄弁に胸中の不安を物語る。

 

「…まだ歩くの?」

「もう少しですよ。着いたらきっと、ノリアキ様にも分かりますから」

「そっか…」

 

 真っ直ぐ見つめる視線を追っても、僕の目には雪しか映らない。けれど目的地はハッキリしているみたいだ。

 

 そもそもが逆らえる状況じゃない。”大きな尻尾には抱かれろ”とイヅナも言っていたし、しばらくこのまま流されよう。

 

 僕がそう心に決めても、やはりまだ気になることは残っていた。

 

「ところで…その呼び方はどうしたの? ちょっと不自然な気がするんだけど」

「え…?」

 

 それとなく…という感じでもなく単刀直入に訊いてみれば、頭の上にハテナの輪っかを浮かせてホッキョクギツネはこちらを見つめる。

 

 予想外にも、呼び方の変化には無自覚みたいだった。

 

「ほら、前は”コカムイさん”って呼んでたのに、今は…違うじゃん」

 

 自分で”ノリアキ様”と言うのは恥ずかしくて何となく誤魔化した。まあ通じたので良し、ホッキョクギツネはやっと気付いて口を抑えた。

 

 そして、とんでもないことを口走った。

 

「ダメ、ですか…?」

 

 瞬間、脚が固まった。ホッキョクギツネの言葉に身体は脊髄反射的にその動きを止め、その代わりとでも言うように脳が高速で働き始めた。

 

「あれ、ノリアキ様…?」

「ごめん、少し待ってくれる?」

「は、はい…」

 

 不思議そうに首を傾げるホッキョクギツネを横目に、僕は遠い過去の話を思い出していた。

 

 そういえば何時だったろうか。僕の名前の呼び方が変わった時は。

 

 イヅナが僕を”ノリくん”と呼び始めたのは、キタキツネが”ノリアキ”と、ギンギツネが”コカムイさん”から”ノリアキさん”へと呼称を変えたのは、果たしてどの時だったか。

 

 その記憶と現状を照らし合わせて、ホッキョクギツネの状態をどう判断するべきか。

 

 僕には楽観視なんてできない。もしかしたら、否が応でもこの問題に関係させられるかもしれない。

 

 決して現状を甘く見れない頭で、僕は”最悪”が訪れていないことを祈るのみ。

 

 けれど、ホッキョクギツネが今この瞬間向かっている先を考えれば…祈るまでもなく、結果というモノが見えてしまうかもしれない。

 

「…大丈夫、そろそろ行こうか」

「はい♪」

 

 ジャパリフォンを使えば、今すぐにでも誰かを呼ぶことが出来る。

 僕の腕を絡め取るホッキョクギツネさえ振り払えば、この状況に変化を起こすことが出来る。

 

 ――出来なかった。

 

 この期に及んで、僕は選ぶことが怖い。

 この瞬間に彼女の腕を振りほどくことは即ち、拒絶することに他ならないのだ。

 

 放っておけば悪化の一途を辿るのだと分かっていても、一途な視線を向けるホッキョクギツネを突き放せない。

 

「もう少しです…あの場所まで」 

 

 無茶な背伸びは身を亡ぼす。流石にそこまでは行かずとも、あの時の僕の決断は着実に僕から自由を奪っていく。

 

 早く、自由が無くなる瞬間が待ち遠しい。”選ばないこと”を選んでいるとか、そんな心の声は聴きたくない。

 

 やっぱり僕は流れに身を任せ、全てを委ねてしまいたいだけなんだ。

 

 

 

―――――――――

 

 

 

 それから十数分の後、僕達は揃って薄暗い洞穴の中に腰を落ち着けていた。

 

 この場所こそがホッキョクギツネの目的地。彼女が初めに踏んだキョウシュウの地面。僕達が仕組まれた数奇な再会を果たした、きっと彼女にとっては運命の場所。

 

 しばらくの間、無言でくつろいでいた二人。

 

 おおよそ心地よくもあった沈黙を破ったのは、最も恐れていた『最悪』の呼び声であった。

 

「わたし…全部思い出しちゃいました」

 

 他に言葉は要らない。

 

 ホッキョクギツネのその一言で理解した。震えている理由も、僕をこっそりここまで連れ出した理由も。

 

「思い出さなければ良かった…たとえどれだけ不安でも、忘れたままの方が良かった…!」

 

 自分を見失うことへの不安と、悪夢のような記憶の苦痛。

 

 どちらの方が辛いかなんてそれこそ『人による』としか言いようが無いけど…彼女にとってより耐えがたかったのは、悍ましい過去の苦痛だったみたいだ。

 

 ”失った自分”は、どうにかして新しく作れるかもしれない。

 

 けれど全てを思い出し、”壊された自分”の人格を押し付けられてしまえば…もう一度忘れてしまう他に、その過去からは逃げる方法は無い。

 

「少し前までは”思い出したい”って思ってたのに、今では全部忘れてしまいたい…でも、そんなの無理なんですよね。こんなに深く、頭に刻まれてしまっているんですから…」

 

 ()()が出来ないなら、そして自らの力で自我を保つことが出来ないなら…何かに、誰かに縋るしかない。

 

 ホッキョクギツネはきっと、その道を選んだんだ。

 

 

「わたし…帰らなきゃダメですか? ここにいちゃ悪いんですか? ()()()()()、わたしはもう二度と戻りたくないのに…!」

 

 

 ついに想起した惨劇の記憶はオイナリサマへの畏怖を越え、”ホートク”という場所に対しての根強い恐怖として彼女の心の中に蠢いている。

 

 彼女は口を抑えて嗚咽を漏らし、膝を崩して這いつくばった。

 

「ホッキョクギツネ…でも、僕は」

 

 続く言葉を声に出来ない。

 

 大体、全てイヅナに任せてしまったんだ。”任せる”と言うのはつまり、道を選ぶ責任さえも投げ出したということ。

 

「…ノリアキ様?」

 

 今のまま時の流れに事態を任せれば、ホッキョクギツネは今度こそ殺されてしまうかもしれない。

 

 僕なら多分止められる。

 

 だけど、手を出したくない。自分の手で、事態を動かしてしまうのがやっぱり堪らなく怖い。

 

「ご、ごめん、そういうのは…イヅナに任せたから」

「お願いしますっ! わたしを…助けてください…!」

 

 ホッキョクギツネに抱きつかれる。それは”抱きつく”というよりも”縋る”という感じの振る舞いで、そんな彼女の姿に思わずさっきの自分の姿を重ねてしまった。

 

「いや、だから、それは…」

「あの時は助けてくれたじゃないですかっ!? どうして、今度はダメなんですか…?」

 

 そこを突かれると、僕としては非常に痛い思いだ。

 

 別に行動を一貫させる必要なんてないと言ってしまえばそれまでだけど、やっぱり途中で違えてしまうのは少し心地が悪い。

 

 一時の迷いが、ホッキョクギツネを助けようかという気持ちを僕の中に芽生えさせた。

 

 結局僕は、『全てをイヅナに任せる』という選択すら一貫できないのだろうか。

 

 

「ノリアキ様…わたしのこの想いが、オイナリサマによって歪められた結果のモノだとは分かっています。それでもわたしにとっては、掛け替えのない大切な想いなんです」

 

 潤んだ声を出して、同じく湿った瞳を上目遣いに向けて、まるで媚びるように尻尾を振って彼女は僕を繋ぎとめようとする。

 

「それに…わたしとノリアキ様はよく似ていますよ?」

 

 こっちの話も聞かず、自らに暗示を掛けるかのようにホッキョクギツネは早口でまくし立てる。

 

「ええ、本当にそっくりです。ノリアキ様もわたしと同じ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()…」

 

 嬉しそうに、得意げに、さも分かっているかのような口ぶりで、ホッキョクギツネは本当のことを並べ立てていく。

 

「だから、わたし()()は理解できるんです。ノリアキ様の想いも悩みも、わたしとなら共有することが出来るんです…!」

 

 臆病さを積み上げて建てた砦が、ガラガラと音を立てて崩れるのが聞こえた。

 

 立ち尽くす僕に、甘い表情を浮かべて彼女は言う。

 

「ね、ノリアキ様? わたしには、あなたが必要なんです」

 

 柔らかい笑みを不安に歪めて、ホッキョクギツネは僕に縋る。

 

「わたし、沢山役に立ちますから…だから…見捨てないでください…!」

 

 僕は呆然として、未だにどんな答えを出せばいいか決断できていなかった。

 

「待ってよ、僕はそんな…」

 

 今すぐには決められなかった。だから()()()()()、ほんの少しだけ判断を先延ばしにすることにした。

 

 ちょっとした休息の為に…()()()()()、僕はホッキョクギツネの体を押し戻して、離れてもらった。

 

 それが引き金だった。

 

 選択肢というモノは、人生の何処にでも転がっている。その気が無くても、意図せずしてスイッチを押してしまう場合も往々にして存在する。

 

 だからこれはただの不運だ。そう呼んで片付けるには、余りに恐ろしい出来事だったけど。

 

 

 僕に押し戻されたホッキョクギツネは一瞬、何をされたのか理解できていないような顔をして思考停止し、そして数秒の後に彼女の顔は全ての感情を手放した。

 

「ノリアキ…様…」

 

 そして次に見た表情は絶望。

 

 その言葉がこれほど似合う顔も珍しかった。その顔を珍しがることが出来るほどに、僕は薄情であった。

 

「あ、待って。流石に一存では決められないから考えるだけで、別に嫌って訳じゃ…」

「いえ、良いんです。分かってましたから。ノリアキ様は、わたしが邪魔なんでしょう?」

 

 引き攣った頬の上に乾ききった喜びのお面を貼り付けて、嘲るような口調でホッキョクギツネは話を続ける。

 

「ずっと感じてました。最初に連れ出してくれた時も、わたしを見た三人が機嫌を悪くときも…そしてさっきも。ノリアキ様は本当に困った顔をしてましたから」

 

 口に手を当て清楚に微笑む。ホッキョクギツネによく似合ったその清廉な仕草からはしかし、僕の知る彼女の雰囲気が微塵も感じられない。

 

「理解はしていました。でも受け入れたくなかったんです。ノリアキ様。わたしを助けたのは一時の気の迷いなんですよね。知り合いを見つけたから、何となく放っておけなかっただけなんですよね」

 

 ホッキョクギツネはまた僕の話を聞く間もなく、ただ自らを納得させるために喋り続ける。

 

 話せば話す程、未練に染まった彼女の顔は生気を失っていく。

 

 

「…だったら、仕方ありませんよね?」

 

 

 一転、ニッコリ。

 

 憑き物が落ちたように笑って、彼女は懐から鈍い銀色の光を放つナイフを取り出した。

 

 震える手で固く柄を握り、狂乱に染まった目と三日月のように吊り上がった笑みをこちらに向けながら、彼女はゆっくりと近づいてくる。

 

 そして鋭い切っ先を向け、勢いよく振りかぶって…

 

「ノリアキ様…ごめんなさい」

 

 ――輝く長い刃の先を、自らの左胸に突き立てた。

 

「あっ…!?」

 

 刺されることを覚悟した瞬間に僕が感じた暖かみは、ホッキョクギツネの胸から飛び散った血の温度だった。

 

「ア…ハハハ…ッ!」

 

 雪のように白い毛皮をおびただしい量の赤色に染めて彼女は嗤う。

 

 嗤い声を上げながら、胸から抜いた真っ赤なナイフで更に自分の体を傷つける。

 

 腕を斬り、手の平に刺し、指で撫で、脚を彩る。

 

 恐ろしい…そんな陳腐な言葉では言い表せない光景だ。いや、言葉で表現することなど叶わない。この悍ましい光景を、目でしかと観ることなく理解することなど神にだって出来やしない。

 

「はぁ…はぁ…ノリアキ様…♡」

 

 だけど、それよりも何が恐ろしいかと言えば、ボロボロになったホッキョクギツネがまだこちらへと歩みを進めていることだ。

 

 もう彼女の毛皮に、元の色を残した部分は残されていない。身体の端々からは虹色の粒子が溶けだしていて、死が目前に迫っているのは明らかだ。

 

 なのにホッキョクギツネは嗤っている。

 

「あはは…どうしたんですか、辛そうな顔をして…」

「だって、こんな…ひどい…!」

 

 ホッキョクギツネは負傷でまともに声が出ない。

 

 僕は目の前の光景に頭が回らない。

 

 死の匂いが漂う洞穴の最期の時間は、とても静かに流れていく。

 

「ノリアキ様、これがわたしの決断です。もはや一緒にいられないなら、こんな命を永らえさせるつもりなんてありません」

 

 だから悔いはないのだと、病的で、しかし溌剌とした声で彼女は告げる。

 

 僕はまだ動けない。

 

 血の記憶は、冷静を保つには余りにも鮮明過ぎた。

 

 僕の様子を嗤い、ホッキョクギツネが囁く。最期の言葉だと言って、意識を釘付けにする。

 

「二つだけお伝えして、わたしは()()()()と思います。自分の想いさえ抱けなかった、こんなわたしの言葉ですが…どうか聞いてください」

 

 

 

「ノリアキ様、愛しています。わたしのこと、忘れないでくださいね…?」

 

 

 

「…あ」

 

 一瞬で、身体から温度が消えた気がした。

 

 無くなったのは力だ。糸の切れた人形のように、ホッキョクギツネは物言わぬ姿となってそこにいる。

 

「や…やだ…」

 

 死んでる…本当に死んでるの?

 

「嘘でしょ、違うよ、まだ生きてる…生きてよ…!?」

 

 どうでもいいと思っていた。違った。死んだって気にしないと思っていた。違った…!

 

 そんな訳ない。簡単にこの()()が解ける訳が無い。

 

 死ぬのなんて、見たくない。

 

 特に、自分とよく()()姿をしているこの子の死なんて…絶対に。

 

「お願い、起きて…生きてるんでしょ…!? 死んだならそれでいいから、生き返ってよ…!」

 

 手から出した虹色をホッキョクギツネの骸に注ぎ込む。治療の体も成していない、ただ流し込むだけの無駄な作業。

 

 だったとしてもやめられない。

 

 手遅れにになった後の、卑怯な全力を注ぎこむ『振り』だとしても。

 

 遅すぎた全力を使うことで、僕が本気にならなかった事実を帳消しにしようとしているのだとしても。

 

 ホッキョクギツネの心を‥‥忘れようとしているのだとしても。

 

「あ、はは…ぁ…」

 

 そしてそのまま全てを出し切り、徒労は徒労のまま、眠り姫が目を覚ますこともなく。

 

 僕もまた、無為な眠りに堕ちるのだった。

 

 

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