「……何か、来ます」
徐に、オイナリサマが呟く。
「何かって…何だよ?」
「分かりません。ですが、強大な力を持つ何かが、この結界に近づいています」
「へー……えっ?」
さらっと言ってやがるけど…強大な力?
恐ろしい胆力だな。
そう淡々と流せるような話じゃないだろうに。
「……それってやっぱ、問題なのか?」
耳元の髪の毛を指にねじ巻きながら、オイナリサマは答えた。
「恐らく……脅威になる可能性は、十分に有るでしょう」
「……そうか」
オイナリサマが恐れるほどの脅威。
一体どんな奴なんだろうな。
俺はソイツに対して恐怖と、同時に一抹の歓喜の念を覚えていた。
この状況を土台からぶち壊してくれるようなもの。それをずっと、心のどこかで期待していたからだ。
別に、今の暮らしを変えて幸せになれる保証なんて無い。
実はそこまで、今の生活を不幸だと思ったことも無い。
けれど、喉に引っ掛かる違和感がある。
どれだけオイナリサマの愛を呑み込んでも流されずに残る、根深く差し込まれた抵抗がある。
何の前触れもなく訪れた危機。
この行く末を見守れば、違和感の手掛かりを手に入れることも出来るだろうか。
「待ってください、これは……!」
「オイナリサマ?」
焦り声。
初めて聞いたな、オイナリサマのああいう声は。
これは”まさか”と言わずとも、相当ヤバい一件になるんじゃなかろうか。
その予感を的中させるが如く、オイナリサマは読んでいた本を机に叩き付けて立ち上がる。
そして、俺に向かって叫んだ。
「神依さん、今すぐ安全な場所に…!」
「
「いえ、ここはもうすぐ―――!」
彼女が言い終わるより早く、その時はやって来た。
それはたった一瞬の間に、長く残る爪痕を俺たちに残した。
全てが解決した後、どれほどの時間が過ぎようとも、俺はその瞬間に見た景色を決して忘れることはない。
ごく簡潔に形容するならば、こう言う他に無いだろう。
―――空が、砕けた。
「くっ……! 神依さん、私から離れないで…!」
「あ、あぁ…」
結界の破片。
地上に降り注ぐプリズムのような結晶。
それは同じく降り注ぐ日光をバラバラに屈折させ、差し込む虹は天国のような光景を生み出していた。
「す、すげぇ…」
これから起こる事件に期待を寄せ。
差し迫った危機に僅かばかりの不安を覚えていた俺。
それでも、この数秒間だけは、眼前に広がる幻想的な光景に心を奪われていた。
「綺麗、ですね……」
「…オイナリサマ」
彼女とて、それは同じであった。
「……けど、何が起こったんだ?」
視界を揺さぶり、視線を逸らす。
心を無防備にさせる誘惑から逃れつつ、俺は至って真面目にこの状況の分析を始めた。
「結界を壊せるなんて、相当強い奴なんだろうな」
感想みたいな考察だけど、真っ先に俺はそう思った。
今となっては昔の話、俺がホートクの結界に閉じ込められた頃。
祝明とイヅナが助けに来てくれたが、結界を正面から破ることは出来ていなかった。
俺が知る限りイヅナは強い。
そんなアイツでも成し得なかった結界の破壊。
更に言えば、壊すのにそう長い時間は掛かっていないはず。
「想像するだけでもやべえな、これは…!」
こんな奴、いったい島のどこに潜んでたんだ?
……さて、見当もつかないな。
考えるほどドツボに嵌りそうだ、もう少し情報が出てから改めて考え直すことにしよう。
俺は目を開け、頭を上げる。
プリズムは既に全て降り切った様子。
向こうに外の光景が見えること以外、全て普通の景色に戻っている。
そんな中、俺は遠くの林に人影を見た。
「……見間違いか?」
だが、俺は自分の目を疑った。
横を向いて、オイナリサマの姿を再び確認する。
「神依さん、何か気づいたことが?」
「いや…まだ、確かじゃない」
そうだ。
今も確かに、オイナリサマは俺のすぐ隣にいる。
だからアレは、俺の見間違いに違いない。
大体あり得ないだろ、
「いや、でも…」
考え直してみれば、あながち可能性が無いわけでもない。
一つだけ…心当たりがある。
あれは一体いつの話か、数十日は前だった。
火山で妙な果物を貰って、溢れるサンドスターを持て余して”オイナリサマ”を再現しようと試みた思い出。
セーフティに引っ掛かって完成こそしなかったが、再現自体は最後の段階まで進んでいた。
完全にセーフティが機能していなかったか。
もしくは、何か予期しない他の原因があったか。
「道理に沿って考えるなら、それが一番現実的か…」
一応それなら、結界を壊せるレベルに達している奴の異常な能力の高さについても説明を付けることが出来る。
どのみち火山のてっぺんには、
「…オイナリサマ、相手の姿は掴めたか?」
「……いえ。私の予想以上に、敵の隠密技術が高いようです」
「そうか…」
今の時点で、打つ手はなし。
向こう側が攻めてきて、姿を見せた時に叩くしかない。
難しいな、強制的に後手に回らされるとは。
向こうは好き勝手に手を打てる。
出来るだけ時間を掛けて、こちらが焦れるのを待つことさえも。
だが僥倖と言うべきか。
向こうにも、然程の我慢性は備わっていなかったみたいだ。
張り詰めた空気の中で、不自然に草が揺れた。
「―――神依さんっ!」
「っ、来たか…!」
俺たちの反応は早かった。
すぐに構え、いつ飛び出してきても跳ね返せるように備える。
そして真っ黒な影が、俺を目掛けて真っ直ぐに飛んできた。
「…えっ?」
「ちっ、やっぱりそうかよ…っ!」
さっき俺が見た通り。
敵の正体は真っ黒なオイナリサマ。
わざわざ確かめるまでも無くセルリアンに間違いない。
「お前、何が目的だ?」
「ワタシの目的? そんなの、決まってるじゃないですか」
にこやかに、奴は笑う。
「あなたを迎えに来たんですよ、
「……は?」
どうして。
なんでお前は、俺を
「ふふ…!」
戸惑う俺を嘲笑いながら、奴の手がこちらへと伸びる。
その手は俺に届く寸前で、白い影によって遮られた。
「不愉快ですね、私の姿を真似るなんて」
「ワタシこそ、好き好んで貴女の姿を取っている訳ではありませんよ」
互いに睨み合い、同時に距離を取る。
揃って不愉快な表情を浮かべて、緊迫した空気が辺りに満ちる。
自然と生まれる沈黙。
オイナリサマがそれを破り、黒い方へと問いかけをした。
「ところで貴女、どうやって結界を破ったのですか? 力があるとはいえ、生半可な方法では壊せないものであると自負していましたが」
「ええ。流石のワタシも、準備無しにアレを壊そうとすれば……かなり骨が折れたでしょうね」
遠回しな言い回し。
オイナリサマがすかさず続きを促すと、ため息を一つ。
見下す笑みを張り付けて、それでも答えは教えてくれた。
「…利用させてもらったんですよ。結界の構成を
…どういうことだ?
含みのある言い方をされて、俺にはさっぱり分からない。
だが、オイナリサマはピンとくる何かを知っている様子。
珍しく、俺にも聞こえるような大きい舌打ちをして、小さく一言呟いた。
「……
苦虫を噛み潰すように歯ぎしりをするオイナリサマ、美味しいものを頬張るように口をもごもごと動かす黒いやつ。
心に追い討ちを掛けるが如く、奴は詳しい説明を続けた。
「彼女の記憶の中に残った術式の一部を利用して、脆弱性を突かせてもらいました」
「その程度の記憶で破られる結界なんて、ただの役立たずなのですけどね…」
「では、
楽しそうに煽るなコイツ。
額に青筋を浮かべたオイナリサマなんて初めて見たぞ。
「……正直に言って、貴女の立ち回りは上出来でしたよ。
オイナリサマも負けじと煽るが、相手は至って涼しい顔だ。
まあ、余裕あるだろうな。
なにせ、オイナリサマの最大の防壁である結界を破ってここに立っているんだから。
「ですが、この先は有りません。私と対峙した時点で、貴女の敗北は決しているのですから」
「うふふ……舐められたものですね」
いよいよ戦いが始まりそうな雰囲気だ。
オイナリサマが俺の方を向いて、避難を促す。
「神依さん、神社の中に隠れていてください」
「すぐに片付けて、ワタシが迎えに行きますからね…!」
「戯言を。貴女はここで滅びるのみです」
バチバチと視線がぶつかり巻き散る火花。
その圧に、逃げなければと分かっていても俺の足は動こうとしない。
見かねた彼女の、叫ぶ声。
「神依さん、早くっ!」
「あ、あぁ…!」
助かった、やっと足が動く。
急かされるままに、俺はその場から逃げだした。
向かう先は神社、その書斎。
あの建物の周囲は林。
逃げるにも隠れるにも、見晴らしの良すぎる神社の本殿より動きやすい。
一応視線が通れば早くに相手を察知できるが、それは向こうも同じ条件。
スピード勝負で俺に勝ち目はない。
もしもの時が来れば、コソコソと隠れながら脱出の機をうかがうしか方法は無いと考えていいだろう。
「一番は、オイナリサマが勝ってくれることだけどな……」
何だかんだ言って、オイナリサマの下が一番安全だった。
けど、この胸のざわめきはなんだ?
あの黒いやつを見ていると、どうしようもなく落ち着かない。
ただアイツが脅威だからなんて、そんな理由じゃない。
「やっぱり変だ。アイツは、生まれるはずなんて無かった…!」
考えろ。
アイツは一体どうやって、あのセーフティをすり抜けた?
その疑問の先に、全ての答えがある気がしてならなかった。
―――――――――
書斎に隠れてから、早一時間。
あれから何度も地面は揺れて、空気は淀み、俺の神経は擦り減っていった。
「まだ、決着が付いてないんだな……」
ドゴォ……
何かが地面に叩き付けられる音、さっきから幾度となく聞いている。
なんと激しい攻撃の応酬だろう。
俺だったら、一分と保たないに違いない。
「……?」
おかしいな。
あの大きな音の後、何も外から聞こえてこない。
まさか、終わったのか?
「……やっとか」
疲れたよ、隠れているだけなのに。
オイナリサマでも手こずる相手がいるんだな。
この分の心労は、美味しいご飯でも作ってもらって埋め合わせてもらうとしよう。
俺は書斎の扉を開け、外の世界を確かめる。
「………え」
今日驚くのは何度目だろう。
「か、カムくん…!」
「……あ、神依さん」
少し前までの面影など見る影もない、荒れ果てた景色。
その中で、互いに睨み合いを続けているオイナリサマと黒イナリ。
オイナリサマは俺を見つけて嬉しそうな笑顔を見せるが、黒イナリの方は膝を付いていて相当に疲れている様子だ。
当然というべきか、オイナリサマの方が優勢であるらしい。
黒イナリがまだ戦えていることには驚いたが、そう長くは続かないだろう。
それは、酷く荒れた息と止まることなく上下する肩が証明している。
だけど……何だ、この違和感は?
「…オイナリサマ、どうしたんだ?」
「
聞き返されると返答に困る、元より形の無いただの感覚だ。
それでも見過ごせるものじゃない。
俺の直感が、絶えずそんなアラートを鳴らしていた。
……ふと、浮かんだ疑問をぶつける。
「なぁ…止めは刺さないのか?」
「えっ……?」
オイナリサマは優勢だ、黒イナリはもうすぐ限界だ。
ここで畳みかければ、程なく勝利を得られるだろう。
なのにオイナリサマはそうしない。
「俺が言うのもなんだが、早くした方が良いんじゃないか?」
「あぁ、はい、そうですね…!」
俺の言葉に、慌てて攻撃の準備を始める。
「…そろそろ、かな?」
黒イナリが、そう呟いた。
「あ、あれ…!?」
そして綻びは、その姿を見せ始める。
「…オイナリサマ?」
準備を始めてから数分。
未だに、彼女の攻撃は始まらない。
……いや。
「サンドスターが、ボロボロに崩れてる…?」
「なんでしょう、これ…」
黒イナリを攻撃するために手元に集めたサンドスター。
普段なら何かしらを形作って纏まるそれが、今はまるで砂のように脆く崩れ去っていく。
「あはは…っ!」
元凶は、黒イナリか。
「貴女、何を………っ!?」
「オイナリサマっ!」
突如立ち上がり、ダッシュで迫りくる黒イナリ。
手元には鮮やかな黒を発するエネルギー弾、力を残してやがったか。
でも、オイナリサマなら…!
「…えっ」
「あはっ、どうしちゃったの?」
サンドスターが崩れる。
オイナリサマが防御の為に集めた輝きも、一瞬のうちに散って消えていく。
そして黒イナリの拳がついに、オイナリサマに届く。
「さあ、吹っ飛んじゃってっ!」
「お、おい…!?」
ソニック、衝撃波、それは風。
オイナリサマは飛んで行き、段々影は小さく消える。
「……」
にこやかな表情。
勝利の笑み。
俺は確信した。
黒イナリは最初から、この策を実行する時を待っていたんだ。
「何が、お前の目的なんだ…?」
「言ったでしょう、カムくん? ワタシは、貴方を迎えに来たんですよ」
当たり前のようにソイツは言う。
けれどそれは、全然道理に合わないことなんだ。
「おかしいだろ…どうしてお前が、俺を
「……カムくんが気付いたら、その時にちゃんと教えてあげますね?」
切実な問いにも、碌な答えは返って来ない。
ふざけやがって。
こういう部分だけは、その姿にピッタリな振る舞いだな。
「…で、何してる?」
さっきの会話の間からずっと、黒い奴は妙な術式を組み続けている。
他に話題の種もなさそうだし、そこに踏み込んでみることにした。
「結界を張ります。そうして、
「…出来るのか?」
「はい、貰うものは貰いましたからね」
そう言って、黒イナリは掌の上に虹色の結晶を形作る。
正直、結晶の形だけを見たらチンプンカンプンだが、感覚的に俺はそれの正体を理解した。
――なるほど、アレは。
「出来ました。念の為ですが、ワタシから離れないでくださいね」
そう言いつつも、向こうの方から距離を詰めてくる。
正直言って離れたかったが、余計な刺激をしたくない。
俺は奴にされるがまま、奴の張る結界の中に巻き込まれた。
「やっと……取り返せた」
世界が真っ黒な輝きに包まれる間際、そばから聞こえた呟き声。
コイツの正体って、いったい―――?
―――――――――
「…あんま、変わんないな」
よく見慣れた結界。
同じ術式を使ってるらしいし当たり前か。
強いて違う点を挙げるとすれば、昼なのに若干薄暗い程度だ。
まあ、だから何だという話。
もっと気にするべき、憂うべきことが、今の状況には溢れかえっている。
「……はぁ」
ため息の主は黒い奴。
オイナリサマを締め出し、俺をこの結界の中に閉じ込めた張本人。
しかし意外だな。
目的を達成してご満悦かと思ったら、いの一番に出した声がため息になるなんて。
「どうしたんだ?」
「…残念なことに、招かれざる客がいるようです」
…侵入者か、誰だろうな?
オイナリサマはさっき飛ばされたばっかりだし…イヅナとかか。
もしくは、ただ通りかかっただけのフレンズやセルリアンかも知れない。
フレンズだったなら、なるべく穏便に済むよう説得しよう。
「出てきたらどうですか、そこにいるのは分かっています」
黒い奴が威圧的に、茂みに向かって語り掛ける。
奇しくもその緑は、最初に黒い奴が潜んでいた場所だ。
色が揺れ、中から
「……バレちゃってたんだ」
「お、お前…!」
率直に言う、驚いたよ。
今日の世界は、とことん俺に驚愕を与えたいらしい。
「…神依君」
「祝明、どうしてここに…?」
「ウフフ……はるばる火山から、ご苦労様ですね」
敵の策に掛かったオイナリサマ。
俺を『カムくん』と呼ぶ、謎のセルリアン。
一度破られ、再び張り巡らされた結界。
そしてその中でおかしな再会を果たした……祝明。
運命の歯車は刻一刻と狂いながら、奇妙にも噛み合い、尚も回り続けていく―――