「……どうしたの?」
「き、キタキツネ……」
雪山の宿、右を見れば白銀の景色が一望できる廊下で、僕とキタキツネは向かい合っていた。
雲から顔を出した半月の光が、廊下の床に二人の影を作っている。
「今日の、紅茶のことだよ。……キタキツネが入れた」
「……あれのこと?」
人差し指を頬に当てて、首をかしげてすっとぼけている。
今でも信じられない、キタキツネを追及するなんて……
いや、責め立てるわけじゃない、ただの事実の確認だ。
「うん、イヅナのにだけ、別の何かが入ってたんじゃないかな、って思ってさ」
「……そうなの?」
紅茶に他の物が入っていたか、キタキツネが分からないわけはないのに。
「ティーポットには入れられないから、カップに酢が入れられたんだと思う」
「そっか、イヅナちゃん、気の毒だったね」
まだ、白を切っている。
キタキツネは、僕が感づいたと気づいているはずなのに。
「キタキツネだけだよ、酢を入れることができたのは」
「……ばれちゃった?」
笑った。屈託もなく、邪念もなく、ニッコリと、純粋に。
でも、確かにその目には普通でない想いが込められている。
髪型も髪の色も、目の色も、服装も体形も違う。
それなのにキタキツネにイヅナが重なって、僕はその面影を幻視した。
「……っ、うぅ……」
急なめまいに襲われた。
キタキツネの中にある感情を、改めて強く認識したせいだろう。
立っていられなくなり、膝をついた。
「ノリアキ、だいじょうぶ?」
心配するような言葉と共に歩み寄ってくる。
しかしその声色に焦りの色はなく、本当に心配しているのかは分からない。
あるいは、自分ならどうとでもできると思っているのか。
「ん、気にしないで、それより、なんで……?」
「それは……なんかいやだけど、イヅナちゃんと同じだよ」
「イヅナと、同じ?」
「うん、ずるいって思っちゃったんだ。ノリアキと、イヅナちゃんが仲良くしてるのが」
その言葉を聞いて、キタキツネに重なって見えていたイヅナのような面影が鮮明になり、イヅナとは形を変えて僕の目に焼き付いた。
それでも、キタキツネが持つ感情はイヅナと似通っている。
イヅナはキタキツネを疎ましく思いセルリアンをけしかけ、
キタキツネはイヅナへの妬みで紅茶に酢を入れた。
実際にやったことの規模は全く違う。
しかし、もしキタキツネにセルリアンを操ることができたら、間違いなくイヅナと同じことをすると直感した。
「……なん、で」
「……? きこえなかったの?」
「そうじゃなくて、どうしてこんな、嫌がらせみたいな……」
「うーん……どうしてかな?」
首を左右にこてん、こてんと交互に傾げ、ゆらゆらと長い金髪を揺らした。
穏やかに微笑んでいるが、その表情は困っている。
「わかんない、どうしてなの、ノリアキ?」
キタキツネが僕に迫り、更に距離が縮まった。
少しでも体を前に出せば、体がぶつかってしまうだろう。
「……っ!」
キタキツネは腕を伸ばしたが、僕に触れた途端にさっと手を引っ込めた。
その代わりに、更に一歩隙間を縮めた。
顔を見ると頬が紅潮していて、息が荒くなり肩を大きく上下させている。
キタキツネがすぐ近くにいるせいで、前髪が目を覆いその隙間から目が見える。
しかしそれが、却って彼女を艶やかに見せた。
「ち、近いよ……?」
絞り出すようにそう言うのが精一杯で、キタキツネを押し戻す気持ちも自分が一歩引く元気も湧いてこなかった。
「ダメ?」
そう尋ねながら、キタキツネは両腕を僕の背中に回した。
そのまま体を強く僕に押し当て、胸に顔をうずめた。
「えへへ、あったかい」
「そりゃ、雪山の空気と比べたらね……」
僕は何を言っているんだ。
そうじゃなくて、今のこの状態はまずい。
「ずっと、このままがいい……ねえノリアキ、なんでなの?」
キタキツネの心音が伝わってくる。
それに共鳴して、僕の心臓もドクドクと鳴る。頭がガンガンと鳴る。
「……それは」
僕は知っている。少し前にも、ついさっきにも、思い知らされたばかりだ。
でも、キタキツネに言っていいのか、僕が、していいことなのか?
「――きっと、疲れてるんだよ、色々あったからさ」
結局、僕は誤魔化すことにた。
もしかしたら、全部僕の思い違いかもしれない。
キタキツネはものぐさで、多くのことをギンギツネに頼っている。甘えん坊とも言い換えることが出来るだろう。
今日は珍しく外出して図書館まで行った。
その疲れが出て、甘えん坊な性格が僕に対しても出てしまったに違いない。
……ほら、言い訳や理由なんて、いくらでも用意できる。
「……そうなの?」
それでも、キタキツネは納得がいかない様子だ。
「あはは、そうだって」
「…………」
未だ釈然としないキタキツネだが、ある程度我に返ったようで赤面しつつ腕を解いて僕から離れた。
「キタキツネ、一つだけ約束して? もうあんなことしないって」
「……うん、約束する、もう、イヅナちゃんにあんなことはしない」
ああ、何かしたわけでもないのに疲れた。
ひとまず、この言葉を聞くことが出来ただけ安心というものだ。
「……行かなきゃな」
キタキツネの方を向くと、俯いているのが見えた。
前髪に隠れてその表情を読み取ることはできない。
「帰っちゃうの?」
顔を上げることなく尋ねてきた。
「終わったらロッジに戻る、ってイヅナと約束したから」
「……そう」
彼女は口惜しい声色で、ポツリとそう言うのみだった。
僕は戻る前にギンギツネにも一声かけようと屋内に入った。
……もしこの時振り返ってもう一度キタキツネの目を見ていたら、そこに宿る真意を読み取ることが出来たはずだ。
例え分かったとして何ができたかは分からない。
それでも、僕が一度気づいたはずの狂気を見落としたことに変わりはないだろう。
「じゃあ、僕はロッジに戻るよ」
「でももうこんなに暗いわよ、泊まっていけばいいじゃない」
「うぅ、ごめん、イヅナの約束だから」
「……そう、なら仕方ないわね」
ギンギツネは残念そうだが、それとは何か別の思惑があるようにも感じ取れた。
「それじゃ、また」
「ええ、今度は博士にもらった紅茶をごちそうするわ」
どうやら彼女は紅茶の味を気に入ったらしい。
こうざんに続き、ジャパリパークに紅茶文化が広がりつつある。
僕が感じた
「……あはは、すっかり暗くなっちゃった」
飛ぶためにキツネの姿になり、赤ボスを片手に抱え脚に力を込め今飛び立とうかというその瞬間、後ろから服の袖を引っ張られた。
「うわわ……な、何?」
ほとんどが忘れているだろうけど、今着ている服は和服だ。
洋服よりも、袖を引っ張られたときに崩れてしまう。
崩れた服を整えながら振り返ると、そこにいたのはキタキツネだった。
「……キタキツネ?」
「え、えと……一緒に行っちゃ、ダメ?」
しどろもどろになり、手を
「まあ、僕は構わないけど……ギンギツネはいいって言ってた?」
「……ぅ」
露骨に目を逸らしたのを見るに、何も言わずに出るつもりだったらしい。
それにしても、黙って外出しようとする行動力があるとは驚きだ。
それも、もしかしたら……
「あら、こんな所にいたのね」
宿の中からギンギツネが出てきた。
キタキツネを探していたらしい。
「ギンギツネ……」
「ほら、戻るわよキタキツネ」
「えー、でも……」
「……? どうしたの?」
宿の中に戻ろうとしないキタキツネを怪訝に思っているようだ。
ここは、僕が助け舟を出すべきだろうか。
「待ってギンギツネ、キタキツネは……むぐ」
フォローに入ろうとしたところでキタキツネに手で口を塞がれた。
「その……ボク、ノリアキについていきたい」
「んぐ……はぁ……らしいけど、いいの?」
ギンギツネは大層驚いている。無理もない、僕もキタキツネがこんなことを言い出すなんて夢にも思わなかった。
勿論、紅茶に酢を入れたりするとも全く思っていなかった。
「……いいじゃない。行ってらっしゃいキタキツネ、怪我だけはしないようにね?」
少しでも、心配したりどうするか考え込んだりするかと思っていたら、案外即決でゴーサインを出した。
むしろ、ギンギツネの笑顔は心配事が解決した時のように明るかった。
「……コカムイさん?」
「……! ああ、行っていいんだね」
こちらの言葉を待たぬほどの速い決断に度肝を抜かれ、反応がコンマ一秒遅れてしまった。
「じゃあ、キタキツネをよろしくね」
「わかった……じゃあキタキツネ、赤ボスを持っててくれる?」
赤ボスを手渡すと、何も言わずコクリと頷いて両腕で抱えた。
続けて、赤ボスを持ったキタキツネをお姫様抱っこの形で抱え上げた。
「行ってらっしゃい」
「……いってきます」
僕に抱えられたまま、キタキツネは手を小さく振った。
「……しかし、どうして一緒に行きたいなんて?」
「……」
キタキツネは答えない。視線は遥か下の地面に向いている。
とはいえ、下を見るには首を真横以上に曲げる必要があるから辛そうだけど。
「下が見たいの?」
「……気になるだけ。見るのは、こわい」
「あはは、それもそっか」
今の高度は大体50メートル前後か。
結構飛んだから僕は慣れてきたけど、キタキツネは二回目だ。
それに自分で飛んでいるわけじゃないから、怖いのも仕方ない。
「……えっと」
「…………」
話すことがなくなっちゃった。
イヅナはあっちの方からわんさか話題を出してくれるから話には困らなかったけど、キタキツネはやっぱり無口だ。
「ふふ……」
というより、何もせずとも今のこの状態が彼女にとっては心地の良いものなのかもしれない。
時折僕の白い狐耳に向けられるねっとりとした熱い視線には、何度も背筋が凍りそうになったけどそれも仕方ない。
あの時温泉でされたことの感覚が未だ耳に残り、例の
「あ、そういえばゲームは持ってきてる?」
「む……ボクが忘れると思うの?」
「……あはは」
三度のジャパリまんよりゲームが好きなキタキツネのことだ。
あの携帯ゲーム機はお風呂の時以外四六時中肌身離さず持っていてもおかしくない。
「ずっと持ってるの?」
「……うん。だって、ノリアキがくれたから」
その言い方だと、少々ニュアンスが異なってきそうだ。
「そろそろ、ロッジに着くよ」
ゆっくりと降り立った。時間にして数十分だろうか。
キタキツネは名残惜しいようで、降ろそうとしても動く気配がない。
だったらもう少しこのままでもいいかな、と思っていたけど、それを良しとしない者がいた。
「……っ! お、降りてキタキツネ!」
「えー……? ……わかった」
なんとなく急いでいることは理解してもらえたようで、渋々だけどキタキツネは降りてくれた。
その直後、ロッジの扉が開けられた。本当にギリギリだった。
「ノリくーん!」
ロッジから飛び出してきたイヅナは、文字通り一直線に僕に飛びつき抱きついた。
「思ってたより遅かったね、どうしたの?」
それはキタキツネを連れてきたから……と答えたい。
しかし答えられない、なぜか。
「イヅナ、く、苦しい……」
イヅナの抱きしめ方があまりにも強く、声がうまく出せないからだ。
しかも、こんな時に一番役に立つべきであろうテレパシーは使えず、イヅナが読み取ってくれる気配もない。どうしてだ。
しかも、後方から送られてくる視線が恐ろしい。
具体的に言えば、キタキツネがいる方向から送られている。
「ノリくん、ノリくん……! ……ん?」
腕の力が弱まった。どうやらキタキツネに気づいたらしい。
「けほっ、うぅ……」
イヅナの腕から開放された僕は、その場に崩れ落ちた。
「あれ、キタちゃん、どうして来たの?」
「……ボク、来ちゃダメだった?」
お互いに激しい言葉はない。
しかし、声の中には押し殺した刺々しさが見え隠れしていた。
「……あはは、とにかく、一度中に入ろ?」
僕の言葉を聞いて、一応は納得した様子で二人とも建物に入ってゆく。
ただ入るだけなのに、どこか牽制しあっているような動きをしていた。
それを見て、ここから前途多難な日常が待ち受けているんだろうな、と今更ながらに感じたのだった。