話は遡ること1時間ほど前。
ロッジの一室で、2人のキツネが話をしていた。
「……」
「……」
いや、まだ話は始まっていなかった。
もはや必要も無いと思うけど一応説明しておくと…部屋にいるのはイヅナとキタキツネ。
2人して外に出かけてしまったコカムイとカムイに置いて行かれ、それからずっとこの沈黙が続いている。
お互い相手の目をやんわりとではあるが威嚇するように見つめ、この部屋に入ろうとしたアリツカゲラはドアノブを握ることなく退散した。
身動きすら憚られる膠着状態。
これはこれで一種の安寧と呼べるのかもしれないが、流石に嫌気が差してきたのだろう、1人が口を開いた。
「イヅナちゃん、お薬…使う?」
「……え?」
ニコニコと笑って放たれたキタキツネの言葉に、イヅナは耳を疑った。
「ボクね…思ったんだ。そろそろ、もっとノリアキと
朱に染まった頬、そしてため息混じりに吐かれる言葉。
イヅナは『
「それで、
「うん、イヅナちゃんにも手伝ってほしいな…って」
可愛らしく首をかしげる黄色いキツネ。
「ふーん…」
白いキツネはその様子を見てしばし思案した。
相手の思惑はどうあれ、しばらく愛しの彼と大きな進展が無かったことも事実。
これに乗っかって
しかし、何故こんな提案をしたのだろう、と。
「だけど意外、キタちゃんなら1人でやると思った」
「そうしたら、必ず止めるよね…?」
眼を見合い、同時に微笑んだ。
「ふふ、当たり前でしょ?」
なるほどなるほど、中々に頭が働くようだ。
…と、イヅナは思った。
「それで、いつにする?」
「今日だよ」
コンマ1秒も開けぬ即答。
イヅナもその言葉に大きく頷いた。
どうやら彼女たちの辞書に「我慢」という2文字は存在していないらしい。
「…ボクが眠らせて抱えるから、イヅナちゃんはボクを持って飛んでって」
「行くのはお屋敷でいいとして、キタちゃんが抱えるの?」
「イヅナちゃんなら、持ち逃げできるじゃん」
「…あはは! そうだったね」
一切の隙を与えようとしないキタキツネをイヅナは面白がる。
それも、己が力のみで目論みを達せられるが故の余裕なのだろう。
いつでも始末できる…コカムイさえ許せば。
実際には不可能でも、優位に立っているというだけで心には安らぎが生まれる。
イヅナが出した結論は、『今日の所は手伝ってあげる』というものだった。
「なら早い方がいいね」
「ううん、かばんが出発してから」
白狐の口笛が鳴る。
「そうね、騒ぎにならないように」
落ち着いた足取りで出口に向かい、外と中の境界で振り返る。
「ねぇキタちゃん…私のことは嫌い?」
キタキツネは面食らったような顔をし、目を細めて答えた。
「嫌いじゃないけど…ノリアキは渡したくない」
「あらら…奇遇だね」
外に出ると、イヅナはキタキツネの腕を掴んで港まで一直線に飛んで向かった。
その後は身を隠して、好機をじっと待ち続けた。
誰にも見つからなかったが、もし誰かが見たら2人は正に仲良しだと勘違いされただろう。
それ程までにくっついていたが、彼女たち自身は気づかなかったようだ。
その話は置いておくとして、チャンスがやって来た。
「しくじらないでね」
「…ボスじゃないんだから」
残念ながら、ジョークを笑う観客もくしゃみをするボスもいなかった。
この時代のロボットにくしゃみをする機能はないのである。
「ノリアキ…」
キタキツネはこっそり忍び寄るときでさえ名前を呟くのを忘れない。
しかし聴覚に関しては鈍感なのかコカムイ、成す術もなくご就寝。
「やった…!」
コカムイにご執心のキタキツネも、この結果には大満足である。
「よいしょ…」
例のごとくお姫様抱っこでコカムイを抱える。
それが一番楽なのだから、しょうがない話だ。
「上手くいったね、キタちゃん」
その後は予定通りに港を飛び立ち、来たるべき時を迎えるべく屋敷へと胸を膨らませて向かう。
真横に見える虹を通り過ぎ、平原と山の境界に差し掛かったころ。
上空の風のいたずらだろうか、コカムイがにわかに目を覚ました。
「…んぇ?」
「あ、ノリアキ……!?」
予想外も予想外。
まさか、目的地に着くまでに起きてしまうなんて。
「わわ、どうしよう…」
「…ねぇ、キタキツネ?」
頭が真っ白に、雪山の景色よりも真っ白に。
「ぁ…動けない…」
「…ぇ?」
どうしてだろう。
まさか、眠り薬の分量を間違えてしまったのだろうか。
そんな不安に駆られてイヅナを見ると、空飛ぶキツネはもうこれ以上ないほど得意げに胸を張った。
「感謝してね? 私が手を打っておいたんだから」
「……ありがとう」
例によって例の妖術。全くなんと便利なことか。
「ぇ…イヅナ?」
「もうちょっとで着くから、我慢して? ごめんね、ノリくん」
「え、ちょっと……うぅ…」
眠り薬の追加投与。
胸ポケットの布を噛んで器用に引っ張って、右手で口元にもう一度被せた。
残り物だけど、効果は多分あるだろう。
もう彼に逃げ場なんて残されていないから、ある意味ではただの気休めだけど。
その後は難なくトラブルも無く、眠ってしまいそうなほど平穏な道のりが続いた。
「…とうちゃく」
「さあキタちゃん、準備を始めよっか」
「…うん」
布団を敷き、その上にコカムイを寝かせる。
自由に動けないせいか若干寝苦しそうに見える。
「もうちょっとの辛抱だからね…!」
とは言っても、これ以上するべき準備はない。
襖を全部ピシャリと閉めて、暗がりになった部屋で横たわる彼にまとわりつく2人。
撫でられる感覚で目を覚まし、起こせない体を恨めしそうに見る彼の服に、イヅナがそろりと手を掛けた。
それに合わせてキタキツネが、彼の首筋をぺろりと舐める。
「…?」
「大丈夫、全部私たちに任せて」
「ね、ノリアキ」
「……うん」
諦めたように彼が目を閉じると、2匹の狐が暗闇の中で舞った。
甘い、甘い、嬌声と共に。
やがて言葉は鳴き声へと変わり、もはやその部屋の中に『人間』はいない。
もし、襖の向こうの景色に耳を
貴方にも、中の様子を窺うことができるかもしれない。
ほら、鳴き声が聞こえてくるはず。
――こん。こん。こん。