異界転生譚 シールド・アンド・マジック   作:長串望

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閑話
100話記念ショートショート


 それは古槍紙月と衛藤未来が、ようやくこの世界に、そして《巨人の斧(トポロ・デ・アルツロ)冒険屋事務所》での生活に慣れてきた頃のことだった。

 

 最初はただだるさがあった。

 《白亜の雪鎧》のもたらすかすかな冷気が心地よく、少し腰掛けるだけのつもりがうとうとと寝入りそうになる程だった。

 

 未来としては今日はなんだか眠いなとそう思うだけだったのだが、周囲から見ればそれはとても普通ではなかったらしい。

 

 朝起きて顔を洗おうとすれば盥をひっくり返してびしょぬれになり、体を拭くのもなんだかぎこちなく、何もないところでつまづくこと数度、そして事務所の広間で退屈な午前を過ごしている間に、うたた寝どころかぐっすり寝入って椅子から転げ落ちる。

 

 なにしろ鎧の上からでは詳しい様子はわからないとはいえ、さすがにこうまでおかしいと、はたから見ていてもわかるものだった。

 

「兄さん、具合でも悪いんですかい」

「そんなことないと思うんだけど」

 

 しかし返した声はどうしようもなく鼻声だった。

 

 慌てる紙月にせっつかれて鎧を脱いでみれば、肌寒いような、暑苦しいような、何とも言えぬ不快感が全身を襲った。

 

 へぷし、とくしゃみが一度。へぷし、と続けて二度。それから首をかしげて、またへぷし、とくしゃみが飛び出た。

 

「お前、顔真っ赤じゃないか」

 

 紙月は手のひらを未来の額に当て、その温度の高いことに随分と驚いたようだった。ぼんやりとした未来の方でも、紙月の手のひらの冷たさを感じたくらいだったから、温度差は結構なものだっただろう。

 

 もしかして、これは風邪なのだろうかと、未来がぼんやり思い始めたのはようやくその頃になってのことだった。

 

「大丈夫か、未来? つらいか?」

「だいじょうぶだよ……」

「全然大丈夫に聞こえない」

 

 鼻声で答えてはみたが、紙月はますます動揺する一方だった。

 

「ええと、おい、ムスコロ、こういう時どうしたらいいんだ? 医者はどこだ?」

「ただの風邪でしょう。あったかくして精のつくもんでも食えば、」

「医者っているのかそもそも? それとも神官か?」

「あのですな、姐さん」

「《回復(ヒール)》って迂闊に病気に使って大丈夫なのか? 悪化したりしないか?」

「駄目だこりゃ」

 

 あんまり紙月の動揺がひどいものだから、未来の治療のためというより、紙月を落ち着かせるために、馴染みだという施療所の施療師と、医の神の神官が呼ばれた。

 

「お子さんいくつです?」

「じゅ、十一です」

「あらまあ、若いお母さんで」

「俺の子じゃないんです、だから、これがはじめてで」

「はいはい、大丈夫ですからね、すぐ診ますから」

 

 施療所と言うのはつまり診療所のようなものだったが、元の世界に比べると、できることは少ない。昔ながらの薬草などから薬を煎じたり、傷を清めて包帯を巻いたり、骨接ぎをしたり、そういうことをするのだという。

 子供が熱を出したとなればまず頼るところでもあるらしく、施療師は手馴れた様子で未来を診察した。

 

 手のひらで熱を測り、鼓動を聞き、腹の音を聞き、脈を量り、息の匂いを嗅ぎ、舌の色を見た。

 

「風邪ですね」

 

 医の神の神官というものは、施療所の進化系といったようなものだった。実際、施療所でも医の神は崇めているし、その医療技術と施設の違いくらいが、この二つを分けるものだった。

 もっとも、だからといって医の神の神殿の方が施療所より偉いという訳ではなかった。

 神殿は何しろ金がかかるものだし、街中にいくつも立てられるほど余裕があるわけではない。

 施療所の方が治療費はずっと安くつくし、土地土地にそれに見合った施療所がある。

 

 ケースバイケースということだ。

 

 医の神官は何かしらの法術なのだろう、暖かな光を未来の体に浴びせてその容態を確かめた。またそれだけでなく、施療師のように診察もした。

 

「風邪ですね」

 

 腕のいい施療師と、若手の神官、二人がかりでそう診断されても、紙月はそわそわと落ち着かない様子だった。

 

「な、治るんですか」

「あったかくして、精のつくものを食べさせてあげなさい」

「下痢をしたり吐くようだったら、清めて、湯冷ましを少しずつ与えなさい」

「薬とか、法術とか」

「治せなくもないですが、そうすると子供の体はひ弱に育ちます」

「私も薬といっても、こういう時は栄養の出るものをとしか」

 

 おろおろと狼狽える紙月に、二人は顔を見合わせた。

 

「まず親御さんであるあなたが、大丈夫だよと言ってあげなければ」

「御覧なさい。お子さんの方がかえって落ち着いているじゃないですか」

「うぐ」

 

 それでも心配する親の気持ちというものお二人はよくよく知っているから、何かあった時はこう対処しなさいという覚書を書き置いて、紙月の肩を抱いて慰めてくれた。

 

 紙月はちょっとびっくりするくらいの礼金を二人に寄越したようだったが、二人は既定の料金だけを受け取って、次の診察があるからと去っていった。

 

 いつも二段ベッドの上の段で寝ている未来は、今日ばかりは看病の手間もあるし、落っこちたらとんでもないから、普段は紙月の寝ている下の段に寝かせられた。

 

 食欲は余りでなかったが、食べなければ元気にならないということはわかっていた。

 紙月が、南部に行った時に買った(リーゾ)とよばれるお米で粥を作ってくれたのは、ありがたかった。

 この世界の食事には随分慣れてきていたけれど、こうして弱った時には、馴染みの味が懐かしくてたまらなかった。

 

 紙月が本当に心配そうに見つめながら、ひと匙ひと匙、ふうふうと冷まして食べさせてくれるもので、気づけば土鍋一杯にあったおかゆを平らげてしまって、少し苦しくなった。

 

「ご、ごめんな、多すぎたか」

「ううん、ちょうどいいよ」

 

 それでも起きているのがつらくなって、枕に頭を乗せて横たわると、なんだか病人なのだなという自覚がわいてきた。そうして、自覚がわいてくると途端に具合が悪くなってくるような気がした。

 

 紙月が土鍋を片付けに行く間、未来は自分がとてつもない孤独の中に放り出されたような気分になった。事務所の中だから、耳をすませば遠くから冒険屋たちの声や、その動く物音が聞こえては来る。

 けれどその遠くから聞こえてくることが、かえって未来のそばには誰もいないのだということを感じさせて、恐ろしく分厚い真綿の壁のようなものを感じさせた。

 

 未来は頭から布団をかぶって、そのこもる熱の中できつく目をつぶった。

 暑苦しくてたまらないのに、背筋は寒さに震えた。

 全身は汗をかいて湿っているのに、口の中は渇いてつっかえた。

 

 布団の中には、未来自身の鼻づまり気味の呼吸音と、時折せき込む声で満ちていた。背筋からこみ上げる悪寒に対抗するように、湿り気を帯びた体温が充満していた。

 そうしてじっと黙りこくっていると、今度は筋肉のきしむ音、骨のこすれる音、そしてまた頼りない心臓が打ち鳴らす鼓動が聞こえ始めた。

 

 そのうるさいほどの雑音も、やがて慣れてくると曖昧に体温に混じり始め、そうしてなだらかにならされて、聞こえないのと変わりなくなっていく。

 

 布団の中に繭のようにくるまって、未来は自分がひとりっぽっちなのだという充足と孤独を同時に感じていた。

 一人であることはどこまでも気楽に感じられた。熱も寒気も、体の痛みも喉の痛みも、全てがすべて自分のものだと思えば、ここはどこまでも満ち満ちていた。

 独りであることはどこまでも残酷に感じられた。誰とも共有することのできない熱も、誰とも分かち合えない痛みも、全てがどうしようもなく寂しく感じられた。

 

 眠いのか、起きていたいのか、暑いのか、寒いのか、ふらふらと曖昧なまま、未来はまどろみの中であえいだ。

 助けてくれと言いたかったのか。

 放っておいてくれと言いたかったのか。

 

 いまも未来にはわからない。

 

 ただ、布団の隙間をそっと割り入ってきて、額にひんやりと触れてきた体温ばかりが、その答えのように思われた。


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