異界転生譚 シールド・アンド・マジック   作:長串望

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前回のあらすじ

地下水道での疲れを風呂で洗い流す二人。
何気に異界転生譚は風呂回が多い。


最終話 ガーディアン

 じっくりと風呂に浸かってすっかり温まり、帝都の石鹸などを物色した二人は、湯上りでほかほかとした体で夜に沈みつつある帝都を歩いていた。

 あちらこちらで、電気ではない明かりを宿す街灯が灯りはじめ、東の空は紫色に、西の空は群青に染まりつつあった。

 

 見上げれば夜空には、かつての世界と同じような月と、そして見知らぬ星座が並んでいた。

 

「なんだか、不思議だなあ」

「なにが?」

「こう、さ。町並みは全然違うんだけど、星空は同じようなもんなんだなって」

「ああ、確かにねえ」

 

 二人並んで見上げた空は、かつての世界の空よりも、ずっと多くの星々がちりばめられているように思えた。秋口になって冷たく乾燥し始めた空は、はるかかなたの星の光を、常よりも豊かに地上に降り注がせているようだった。

 

「紙月はさ」

「なんだ?」

「うん。えっとね」

 

 未来は少しの間、言葉を選ぶように考えながら何歩か歩き、それから思い立ったように振り向いた。

 

「紙月はさ、やっぱり、元の世界が恋しかったりする?」

 

 問いかけに、紙月もまた少し考えた。

 

「ちょっと……難しいかもな」

「難しい?」

「ああ」

 

 見上げる星々は、その輝きは、かつての世界とは遠い。

 遠いけれど、でも、やはりそれはかつての世界と同じ輝きだった。

 はるか遠くの、届かない光だった。

 

「未練がないと言えば、嘘になる」

 

 確かに、あの世界に紙月の居場所はなかった。

 いつもどこか息苦しくて、生き苦しかった。

 何かになりたくて足掻いて、何にもなれずにあえいでいた。

 

 本当に心から友と呼べる友はいなかったように思う。

 本当に心から信頼できる人はいなかったように思う。

 それでも彼らは確かに紙月の人生を形作る一部だった。

 

 でもいまは顔を思い出すことも苦労するように感じられた。

 見知らぬ人たちを写真の中から探すような心地だった。

 どこか遠く、遠くの出来事のようでさえあった。

 

 母や姉たちのことは、今でも時折思い返す。

 勝手に死んでしまって申し訳ないとか、それでも強い人たちだから乗り越えて行けるだろうとか。

 

 でもそれはどこか霞がかったようにも感じられた。

 分厚い真綿を通しているように感じられた。

 どこか遠く、遠くの出来事のようでさえあった。

 

 確かに愛していた。

 母を愛していた。

 姉たちを愛していた。

 

 しかしそれ以上に、安堵している自分もいた。

 もういいのだと、ほっとしている自分もいた。

 

「嫌いだったわけじゃないんだ。会えるものならもう一度会いたいとも思う。でももう会うことはないんだと思うと、どうしてだか心が安らぐのも感じるんだ。時々無性に寂しくなるのに、時々無性に満たされる」

 

 それは奇妙な感覚だった。

 嫌だと叫ぶほど辛かったわけじゃない。でも逃げ出せてほっとしている自分がいる。

 愛していると確かに感じていた。でも解放されたんだとそう思っている自分もいる。

 

「憎んでいたわけじゃない。嫌っていたわけじゃない。

 寂しくないわけじゃない。悲しくないわけじゃない。

 でも、どうしてだろうな。今はすごく、呼吸が楽だよ」

 

 ごめんな、わけわかんないよな。

 そうつぶやく紙月の手を、未来はただそっと包んだ。

 

「紙月の事情(こと)はわからない。でも、僕は紙月に救われてるよ」

 

 ぎゅうと手を握って、未来はこの背の高い臆病な人を見上げた。

 

「何度でも、何度だって言うよ。僕は紙月に救われている」

 

 紙月にはわからなかった。見上げてくるこの小さな相棒の、その熱量がわからなかった。

 ただひたむきな視線に、気圧されるような心地さえした。

 

「紙月は間違ってないよ。すこし、難しい問題なんだ、でも、間違ってなんかいないよ」

 

 愛していても、疎ましい時だってある。

 信じていなくても、側にいて欲しい時はある。

 

 どんな気持ちも、それ一色ということはなくて、時には驚くほど相反するような感情が、当たり前のような顔をして隣り合わせになっている時だってある。

 

 未来もそうだった。未来も、そうだった。

 

 父を愛していた。でも疎んでいた。

 愛されることが嬉しかった。でも同時に怖くもあった。

 

 いまもそうだ。いまだってそうだ。

 感情はいつだって理路整然と並んでいてはくれやしない。

 思う通りに行かなくって、考える通りにも行かなくって。

 

 それでも、思うことだけは、止められないから。

 

「ねえ、紙月」

 

 きゅっと手を握って。

 

「君のことを、護ってあげたい」

 

 とん、と歩き出して。

 

「それから」

 

 浮かぶのは、苦笑い。

 

「それから」

 

 言葉にはできないたくさんを、噛み締めるような。

 

「……うん、もう少し大人になったら、そのときは伝えるよ」

 

 するりと手を放して、小走りに駆けていくその背中に、紙月は不思議と動悸が高鳴るのだった。




用語解説

・もう少し大人になったら
 子供の少しは、存外に早いものだ。

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