プロローグ
「そんなことするわけないでしょ‼頭おかしいんじゃないの!?」
その怒鳴り声は体育館中に響いた。その声で何事だと様子を見にきた者も大勢いた。佐山陸もその1人だった。もっとも、彼はもともと体育館にいたので、声のした方へひょいと顔を向けただけだったが。それも反射的にそうしただけであって、特に関心があったわけでもない。しかし、その怒鳴り声の主を見た時は愕然とした。その人物は普段は滅多に声を荒げたり感情的になったりすることのない、美人で有名な雪村みちるだったからである。その怒鳴り声以上に彼が驚いたのは、そう叫んだ後の彼女の様子だった。もともと色白な肌は更に白くなり、血の気を失っていた。唇はわななき、両目は目の前の男子をにらんでいる。それでいて、何も見えていないようにも見えた。体も小刻みに震えている。佐山には今にも雪村が倒れてしまいそうに思えて気が気でなかった。一体誰がそうさせたのだろうと相手の方もちらりと見やると、また驚いた。雪村の様子を見た時ほどではないけれども。
その相手とは、強面で、実際不良で有名なバスケ部の先輩だった。授業や部活のサボりは当たり前、煙草も吸っているのを見たという生徒も大勢いる。喧嘩も日常茶飯事で警察からの補導を受けるのもしょっちゅうである。もちろん、万引きや恐喝も同様だ。その先輩が、ややほうけたような顔で雪村を見ている。物静かな、しかも後輩の女子に怒鳴られるのは初めてだったのだろう。先生や警察に対しても「うるせぇ、ぶっ殺すぞテメェ!」くらい平気で言いはなつ先輩が何も言い返さない。それほど衝撃が大きいのだろう。そして、少しだけ怯えているようにも見えた。
周りの生徒にとっては、雪村の様子よりも怒鳴った相手の方に衝撃を受けたようだ。ざわめきが倍になる。
「一体何なんだ、この騒ぎは」
その時、佐山と同じバスケ部員の高梨千秋が現れた。
「聞こえてなかったのか?」
「誰かが叫んでるのは分かったけど、誰かまでは…」
そこまで言い掛けて、言葉が途切れた。その「誰か」が分かったのだろう。息を呑む音がした。
「雪村が、あの先輩に…」
「意外だよな。」
「意外なんてもんじゃ…。危ない‼」
そう言うが否や、高梨は雪村の方に駆け寄って、さっと抱き止めた。雪村が倒れかけたのだ。
「大丈夫か?顔色悪いけど」
「うん、大丈夫…。ありがとう。」
「んだよテメェ、先輩に逆らう気か。なんだよ、さっきの態度は。」
先輩は高梨の登場により我に返ったのか、いつも通りの高圧的な態度に戻っていた。
「お言葉ですが、何の根拠もなくいきなり人を泥棒呼ばわりする人に敬意を払う必要性を感じられなかったので」
「もういっぺん言ってみろ‼」
先輩が雪村の胸ぐらを掴もうとしたら、その腕を高梨が掴んだ。
「先輩、どんな理由があろうと暴力は駄目です。」
「どいつもこいつもなめやがって‼」
悲鳴とも歓声ともつかない声が上がった。近くで、「高梨君かっこいい…」という声も聞こえる。(高梨は学校一のイケメンと名高く、ファンクラブができるほど女子にもてる。)
「殴るんでしたら私だけにしてください。高梨君には関係ありません。」
そう言った時の雪村には血の気は戻っていた。体の震えも止まっていた。つまり、いつも通りの雪村だった。先輩に対する敵意のこもった目付きだけがいつもと違っていた。
関係ない。雪村がそう言った時、高梨は少し悲しそうな顔をした。遠目からも明らかだったが残りの当事者はそのことに意を介さず、言い争いを続ける。
「おい、何の騒ぎだ今度は!」
そこでやっと教師がやってきた。誰かが呼びに行ったようだ。複数人、男の体格がいい教師がいる。
「先公なんか及びじゃ」
「いいから暴れるな‼」
そういうや否や、あっという間に取り押さえられる。いくらなんでも複数で囲まれたら抵抗できないようだ。犯人の現行犯逮捕みたいだな、と佐山は思った。
「雪村、大丈夫?怪我とかは…」
「全然大丈夫。ありがとう。あ、これ返さなくちゃ。」
そう言って差し出したのは、黒い革の財布だった。
「あれ、これ俺の…。雪村が持ってたのか?」
「多分さっきね、ぶつかった時に落としたんだと思うの。返さなくちゃと思ってたんだけど、どこに行ったのか分からなくて、体育館で待ってれば会えるかなって。そうしてたらあの先輩が私のこと高梨君のストーカーやら泥棒やらいきなり言ってきて、それで腹が立っちゃって。」
そう語る雪村の顔は先ほどとは反対にやや赤くなっていた。悔しさがぶり返したらしい。その様子を見ながら、佐山はおかしいと感じた。雪村は普段感情を露わにしない。むしろ喜怒哀楽に乏しいタイプだ。雪村を嫌う生徒の中には、彼女を人形だと呼ぶ者もいた。実際はそれほど表情を変えないわけでもないが、そう言いたくなる気持ちも佐山には分からないでもなかった。その雪村が、あれほど感情を剥き出しにしている。口調も違う。通常より子供っぽくなっている。
「そっか、そりゃそうだな。ただの八つ当たりだろうから気にするなよ。財布、ありがと。」
「ううん、ねぇ、高梨君。」
「何?」
「私のこと、泥棒じゃないって信じてくれる?」
そう言って雪村はすがるような目をして高梨を見上げた。高梨はやや狼狽したように目をそらす。
「最初から疑ってないし。」
「それ、もう一回私の目を見て言って。」
そこでやっと高梨は雪村を正面から見て言った。
「俺は雪村を泥棒だなんて思ってない。」
雪村はふうっと息を吐いて、にっこり笑った。
「ありがとう。その言葉が聞きたかったの。」
そう言うと、さっさと高梨に背を向けて走り去っていく。その背中を名残惜しそうに見送っている高梨に佐山は声をかけた。
「呼び止めないのか。」
「そんな必要ないだろ。怪我してないって言うし、何で怒鳴ってたのかの理由も聞いたし。他に何の話があるんだよ。」
「さっき高梨君には関係ないって言ってたけど、俺の財布だったんだからそんなことないだろ、とか?」
「それだと責めてるみたいじゃんか。つーか、そんなこと考えつかなかったわ…。お前よくそんな頭回るな。さすが学年一位。」
「高梨以上に関係ないな。それにしても、雪村すごい強気じゃなかったか。あの先輩がヤバい奴だってことくらい知ってるだろうに。」
「怖がってただろ。あんな顔面蒼白になってたし。」
この時は高梨の言葉を聞き流していた。そうなのかというふうに。
「びっくりしたぁ。あの不良に言い返す人がいるなんて。」
「しかもそれが雪村さんなんてね。雪村さん助けに行った時の高梨君、チョーかっこよくなかった?」
「めっちゃそれな‼いいなぁ、私も雪村さんみたく高梨君に庇われたい。」
「それじゃ、高梨君が庇ってくれるんだったら、あの不良に反抗できる?」
「えーそれは無理ぃ。」
ギャラリーな女子達の他愛ない会話を聞きながら、高梨は雪村だから庇ったんだよ、他の奴だったら何もしないと佐山は心の中で呟いた。高梨は雪村のことが好きだから。関係ないと言った時の高梨の顔。雪村の方をまっすぐ見ることさえできない姿。あれを見てて分からないのか。すごく分かりやすいじゃないか。さっき呼び止めないのかと言ったのは、そのこと遠回しにからかったのだった。
「どうしたの?佐山君たら、ぼんやりしちゃって。」
気が付くと、寺崎陽南夏がいつも通りの機嫌の良さそうな顔でそばに立っていた。
「雪村さんのこと見つめちゃって。もしかして恋患い?」
茶目っ気たっぷりにそうきかれ、だから佐山も安心してその冗談にのれた。
「かもな。雪村可愛いし。」
「高梨君も雪村さん好きなのかもなぁ。いいなぁ、2人みたいなかっこいい男子にモテモテで。」
そう言ってから、寺崎は佐山をチラッと上目遣いで見て、微笑みながら小首を軽くかしげた。
「だからびっくりしちゃったぁ。あんな感情的な雪村さん、初めて。」
しかし、佐山はそんな寺崎の微笑みや仕草にまるで注意を払っていなかった。さっきの雪村の表情の変化について考えていたのだ。顔面蒼白な表情、怒った顔、晴れやかな笑顔。初めて雪村を見た時から、きれいな顔だとは思ったけれど、同時につまらない顔だとも思った。ある一定以上の感情を表せない、人形のような顔。女三ノ宮が現実にいたらこんな感じなのだろうと。先ほどのような意思を持った顔もするのかと、ただそればかりを考え、意外に思っていたのだ。同時に、その時の顔が、今まで見た中で一番可愛くてきれいだと。