「獣国の皇女」の前日譚。未だ微睡む帝都に現れた殺人鬼と、それを追う二人の男。望まれなかった子供たちと、望まれた復讐者の戦いは異聞帯に何をもたらすのか。

二部一章までのネタバレ前提ですので、ご容赦を。
pixivにも色々載せてます。https://www.pixiv.net/novel/member.php?id=286727

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モスクワ・ジャック

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 四百年前、皇帝(ツァーリ)がもたらした祝福により、わたしたちの血には獣の因子が混ざった。そして、淘汰の歴史を経て、ヤガは今の姿にたどり着いている。積み重ねられた歴史はもはや遺伝子から拭い去ることはできないものだと、村の長老は言った。わたしたちが、呼び名から最初の半分を削って以来。

 しかし、何事にも例外はある。

 聞くだけは聞いていた。誰も理由を解明できてはいないが、稀に「そういうこと」があるのだと。子供を産める歳になった女は、女だけの会合の場で月経の知識と共にこの手の知識も授けられる。対処法と共に。

 対処法。つまりは掟だ。「そういうこと」が起こった時の。この世界で生き抜くために、許された自由は少ない。掟は常に合理的で、反論の余地はない。判っている。全て判ってはいる。

 それでも。

 わたしは、「それ」を手放すことができなかったのだ。

 

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 カドック・ゼムルプスは眠らない。ヤガ・モスクワの長く白い昼が終わり、夜の帳が帝都を束の間覆う間も、冷たい宮殿の片隅に作らせた執務室で無数の書類に目を通す。凡才を自認するカドックにとっては、眠りは厭わしい、強要される逃避だった。

 殺戮猟兵(オプリチニキ)。使い魔。市内に張り巡らされた密告網。それらから吸い上げられた情報が自動筆記で書き出され、晩餐会のメニューのように次々と届けられる。紙、紙、紙の山。整えられたカルデアの設備が懐かしいが、それらは全て彼自身の命令によって凍りつき、流石に手を出すわけにはいかない。

 努めて機械的に書類をめくる。そう振る舞うことで苛立ちを抑える。嫉妬と苛立ち。二百年の間、連綿と一族の血に受け継がれたその感情を都合よく飼いならす術を、カドックは身につけていた。

 

 彼のサーヴァントは、その手管を時に忘れさせるのだが。

 

 他とは別に取り分けていた、とある案件の報告書をめくるときも、カドックが考えていたのは彼女のことだった。彼女の能力、伸ばすべき部分、避けるべき危険。そして、手に入れるべき権限。全て検討し、納得できる方策を整え終えると、カドックは伝令を呼んだ。

「枢機卿をここに」

 男はすぐに姿を現した。長身を聖職者の黒衣に包み、胸元には細い十字架。マカリーを名乗る神父は、後ろ手を組んだままカドックの執務机の前に立った。

「何事かね。皇帝(ツァーリ)への箴言以外で、今私が役に立てそうなことは無いと思うが」

「ある意味、お前の本職とも言える仕事だよ、神父。この件について対処をして欲しい」

 黒衣の神父は差し出された書類を手に取り、カドックに一言断りを入れた上で、全てにじっくりと目を通した。

「なるほど、確かにこれは私の領分だ」

 読み終わった神父は、書類をカドックに戻すと言った。

「アナスタシアを向かわせるわけにはいかない。これ相手では、彼女では『万が一』があり得る。そして、俺にとっては味方につけるメリットのない存在だ。なぜこんなものがヤガ・モスクワに現れたのかはわからないが、」

「その調査も含めて、ということかね。引き受けよう。幸い、皇帝(ツァーリ)の眠りはこのところ深い」

殺戮猟兵(オプリチニキ)は自由に使え。ヤガの密告者にも協力させろ」

「それはありがたいが、もう1ついいかね」

 取引めいたことを普段口にしない聖職者から出た要求に、カドックは眉を上げた。

「なんだ」

「新しい宮廷音楽家にモスクワを案内したい。彼を伴っても構わないかね」

「……いいだろう。もとより、あの男の扱いはあんたに一任してる。僕としては、皇帝(ツァーリ)の目覚めまでの時間を稼ぐ一助になればそれでいい。戦力になるなら、二十分だ」

「ありがたい。それでは」

 神父との会話は、いつも簡潔だ。魔術の家系に生まれたカドックにとって、神父というものは身近なものではない。一族の歴史においても、聖堂教会の関係者とは、交わした言葉より血と刃の応酬の方が多かっただろう。だから、聖職者というものは顔を合わせれば説法をぶつけてくると考えていたカドックの偏見は、あっさりと裏切られた。少なくとも、この男はその手の行為でこちらの怒りを煽ってくるようなことはしない。信用が全くおけないことには変わりないが。

 ふと思いついて、背を向けて退出しようとした神父に、カドックは最後の質問を投げた。

「おい、神父。お前、子供はいたのか?」

 振り返った男の顔に浮かんでいたのは、カドックが見慣れている悠然とした聖職者の笑みではなかった。カドックにはそれが、台詞を忘れた役者がなんとか役になりきろうとしているような、ひどく不器用な感情の吐露に見えた。

「マカリー司教に、ということならイエスだ」

 執務室の扉は、追い討ちの質問を遮るように閉ざされた。

 

######

 

 大事に隠しておけば見つからない。そんな考えはあまりに甘く、浅はかだった。当然といえば当然だ。「それ」を生かすには普通の何倍ものエネルギーが必要になる。燃料、食料、それら資源の蓄えに手をつけるのは重罪で、だから監視も厳しい。私が普通よりも多く蓄えを消費していることは、すぐに知られた。そして、男たちが私を捕らえて家捜しを行い、「それ」を見つけ出した。

 私は薄着のまま、広場に放り出された。四方八方から石が投げつけられる。ぎざぎざの石片が耳を裂く。

 冷気のせいで、痛みは感じない。それよりも、「それ」から引き離される痛みの方が、はるかに激しかった。

 顔役の男が「それ」を片手で掴みあげて叫んだ。

「この女が隠していたものだ!」

 烈しい罵倒と、怯えに近い嫌悪の声が一斉に周囲から沸き起こる。だが、気にしている余裕はなかった。止めなければ。早く、私の毛皮の中に「それ」を収めなければ。そうしなければ、「それ」はすぐに凍ってしまう。

「魔女め!」

「祖先に、皇帝(ツァーリ)に逆らう悪魔め!」

 銃床が背中に打ち下ろされる。体の中で硬いものが砕ける感触と、激しい痛み。だが、ヤガにとってこれくらいは致命傷にならない。だからこそ、男たちも手加減することなく私を殴る。まるで、わたしの「悪い考え」を体から追い出そうとするように。しかし、そうはならない。この想いは、間違いであるはずなどないのだから。

 必死で振り回した手が男の持つ銃のベルトにかかった。バランスを崩した男の襟首を掴み、ためらわず眼に爪を立てた。悲鳴をあげた男を突き放し、「それ」の元へ走る。顔役の男の腕に噛み付き、「それ」を取り戻した。胸元の、一番毛が密な部位に収め、しっかりと抱きしめる。これはわたしの命、わたしの全てだ。誰がなんと言おうとも。

 視界は血で霞んでいる。それでも進まなければ。逃げなければ。わたしが全力で吠えると、見物人たちが怯えたように道を開けた。今だ、囲いを抜けるのだ。わたしはまっすぐに走ろうとした。

 だが、突然膝から下の足が消えてなくなった。そう感じた。力が抜け、地面へ崩れ落ちる。目の前の雪が真紅に染まっていた。胸を撃ち抜かれたのだと判った。

 きいん、という氷が閉ざされるような音が耳の奥で響く。その音以外、もう何も聞こえない。わたしは最後の力を振り絞り、「それ」を自分の胸に空いた穴の中に押し込んだ。

 暖かいでしょう。きっと、この世界で一番。

 この世界に祝福されなかったあなた。せめて、わたしの中に還っておいで。

 

######

 

 

 灰色の男は不信と苛立ちを隠さなかった。

「神父。マカリーと名乗ったな。なぜ、わたしを連れ出す。さっさとアイツに会わせろ」

サリエリにとって、陰謀家の類は見慣れたものだった。オーストリアの宮廷では、貴族や王族、詐欺師たちが常に権謀術数を巡らせていた。うまく乗り切りはしたものの、彼自身巻き込まれたことも少なくない。その経験から言って、目の前の男は最も厄介な種類の人間だった。

「会わせるとも。復讐心のみを糧に殺戮猟兵(オプリチニキ)を蹴散らした男には、然るべき敬意を払いたい。しかし、『彼』は今手が離せない。君の来訪については知らせるので、会えるようになるまで少しばかり、この街について知ってもらおうと思ってね。『彼』の置かれている状況を理解する一助にもなるだろう。君は、単に彼を殺せればいいという殺人鬼の類ではあるまい」

 その通りだ。やはり、この男は自分の求めることを的確に把握している。危険だが、こちらも強引な手段には出られない。

 宿敵の気配。それのみを頼りにヤガ・モスクワに辿りついたサリエリを出迎えたのが、このマカリー司教を名乗る男だった。明らかにサーヴァント。しかし、まともな素性ではなさそうだ。顔立ちは明らかに東洋人で、ステータスも隠匿している。しかも何らかの手段で受肉した擬似サーヴァント。どこをどう切っても、まともではない。

「……私が知るのは、汎人類史におけるモスクワについてのみだ。中には、芸術に理解を示した皇帝(ツァーリ)もいたことを知っている。だが、400年の間停滞を続けたこの世界の帝都に、私が見るべきものがあるとは思えん」

「確かに。だが、この帝都にも最近変化の兆しがある。我々の来訪のみではない。実は、この帝都で『連続殺人事件が起こっている』」

「なに?」

皇帝(ツァーリ)の治世は偉大にして完璧。その支配のもとで、殺人事件など起こるはずがない。起こってはならない」

「馬鹿馬鹿しい話だ」

「そうとも。しかし、この都では、滑稽の一言で片付けるわけにはいかないのだよ。皇帝(ツァーリ)が治安の悪化を見かねて、自ら指揮をとるようなことになっては困る。彼には、まだしばらくは微睡の中にいてもらわねばならない」

 もってまわった口ぶりの神父。サリエリはたまりかね、さらに続けようとする神父を遮った。

「とにかく、その殺人事件とやらをなんとかしないと、アイツには会えないと?」

「そう。帝都が騒がしいと、ピアノの弾き手は身動きが取れなくなる」

「馬鹿馬鹿しい話だ」

「我々は皇帝(ツァーリ)のために、この殺人事件をなかったことにしなければならない」

 

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 気がつくとわたしはそこに居た。肉体の痛みは消え去っている。へし折られたはずの骨も、いつのまにか繋がったらしい。胸に開いた穴も。

 「あれ」はどうなったのか。

 わたしは鼻を高く上げ、周囲の匂いを嗅いだ。不思議なことに、慣れ親しんだ匂いはまるで嗅ぎとれない。熾火や食物、火薬、血。そんな匂いが。代わりに感じ取れるのは、そう、魂の香り。生まれたばかりの魂。死の近い魂。壮年の魂。かつて食物の良し悪しを嗅ぎあてたように、生き物の持つ魂の状態が、匂いとして明確に把握できる。

 なぜそんなことができるようになったのか。疑問はあった。だが、そんなことは重要ではない。「あれ」の存在を嗅ぎとれる。それ以上に大切なことなどない。

 周囲には、「あれ」の気配が濃厚に漂っていた。少し前まで、ここに居たのだろう。今はどこかに出かけているようだが、しばらくすれば戻ってくるだろう。「あれ」は育ったのだ。この世界で。

 大丈夫だ。確信があった。「あれ」は必ず帰ってくるし、万一「あれ」に危機が迫れば自分はそれを感じ取れる。

 わたしは「あれ」を待ってしばらく休むことにした。石畳の上で丸くなり、重ねた両足の上に顎を乗せる。「あれ」が帰ってきたら、温めておいた懐の中に入れてやるのだ。

 

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「君ももう判っているだろうが、ヤガの肉体は汎人類史の人々のものより遥かに強靭だ。単なる刺し傷、切り傷は致命傷にならない」

 神父はサリエリを宮殿の外に連れ出した。不審に思ったサリエリだったが、すぐに理由は判った。神父は、捜査の拠点を市街地の倉庫跡に置き、被害者の遺体を全てそこに運び込んでいた。宮殿に住む皇女に、死体を晒さない配慮なのだろう。

 殺戮猟兵(オプリチニキ)が守衛を務める部屋。中には五つの死体が即席の解剖台に乗せられて並んでいた。獣脂を燃料にしたランプが、ヤガたちの骸にゆらゆらと光を投げかけている。

 死体はどれも、あまりに無惨だった。全員が腹をばっさりと割かれている。物盗りの仕業ではあり得ない、異常な手口。だが、神父は貨物の検品でもするかのように、淡々と死体の確認を続ける。

「ヤガ同士の殺し合いは斧や鉈のような鈍重な刃物か銃で行われる。狙われるのはまず手足。動きを止めてから首だ。外科医術も発達していない」

「だが、この死体は鋭い刃物で解体されているな」

「その通り」

 サリエリは解剖台の傍らに並べられたガラス瓶に目をやる。薬液に浸されて瓶に封入されているのは、犠牲者の内蔵だ。さすがにサリエリも眉をしかめた。

「これらは?」

「被害者のものだ。我々が解剖したわけではない。きれいに取り出された状態で発見されたのだよ」

「医学は詳しくないが、足りないものがあるように思うな」

「慧眼だ。心臓と、それに子宮がない。心臓はおそらく喰ったのだろう。ヤガの血には魔力が宿る。心臓は魔術師のそれ同様に喰らうことで魔力の供給源となるのだ。ちなみに、これまで死体で発見されたヤガは全て女性だ」

「お前は、犯人がヤガだとは思っていないようだな」

「異常な嗜好を持つ存在は、どんな世界にもいるものだ。可能性を排除してはいない。より、有力な候補がいるというだけだ」

「サーヴァントか」

 その通り、と神父は頷く。

「カルデアの『聖杯探索(グランドオーダー)』の道中でも存在が確認されたサーヴァントだ。君の時代からは60年ほど後の反英霊だがね。君も『座』から多少の知識は与えられているかもしれない」

 それは、19世紀ロンドンに現れた、世界で最も有名な殺人鬼。

「私やカドックは、犯人が『切り裂きジャック』だと考えている」

 

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 助けを呼ぶ声が聞こえた。わたしは起き上がる。鼻を持ち上げ、声の出所と匂いをたどる。「あれ」は随分と遠くまで行ってしまったらしい。冷たい土を蹴り、舞い上がる。屋根から屋根へ飛び、「あれ」の元へと急ぐ。

 「あれ」を殺戮猟兵(オプリチニキ)が囲んでいる。獲物に夢中になるうちに、「あれ」は逃げるタイミングを失ったらしい。いつまでも狩りが上手くならない。困ったものだ。

 それでも、わたしが「あれ」を守ることには変わりない。かつてはとても逆らうことなどできなかった殺戮猟兵(オプリチニキ)も、今では恐れるに足りない。わたしの四肢には力が漲り、咆哮は霹靂のよう。

 わたしは庇から跳躍し、「あれ」へ向けて斧を振り上げた殺戮猟兵(オプリチニキ)の首元めがけて躍りかかった。

 

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「取り逃がしただと?」

 壁に貼り付けた大判の市内地図の前で後ろ手を組んでいる神父に、サリエリは詰め寄った。

「あまり私を苛立たせるなよ。あいつに会わせると言うから協力しているのだ。引き延ばそうというなら」

「そのつもりはない。実際、君の案は有効だった。『切り裂きジャック』と思しき犯人を囲むところまでは行ったのだ。しかし、予想外の邪魔が入った」

 神父とサリエリが用意した策は、いわば巻狩りの一種だった。

 二人はこの数日で、モスクワを警備する殺戮猟兵(オプリチニキ)の哨戒パターンに微妙な偏りを作っていた。ある一定のリズムで警備の「穴」がわざと現れるようにして、その「穴」を突こうとしたジャックを逆に網に掛けるという策だった。ジャックが現れた時点で、穴は閉じ包囲が形成される。哨戒パターン作成を担ったのはサリエリだった。交響曲を編むよりははるかに簡単だと彼は言い、ほんの数時間で幾通りもの警備ルートを組んでみせた。

「横槍?ジャックは一人ではなかったのか」

「そうだ。計画通りジャックを足止めし、強力な殺戮猟兵(オプリチニキ)で動きを止めた。サーヴァント並の性能を持つものを五体に、加えて後詰めまで用意したのだ。万全のはずだったが、包囲を破られた。突然、別の敵に包囲の外から攻撃されたのだ」

 神父は地図上に貼られていた葉書ほどの紙を剥がし、サリエリに渡した。殺戮猟兵(オプリチニキ)の記憶を念写したものらしい。

「狼?」

 写っていたのは、巨大な犬のような影だった。一緒に写り込んでいる建物と比較すると、熊ほどの大きさがあるのがわかる。黒い毛並み、見開かれた眼。奇妙に表情豊かな顔つきは、狼特有のものだ。

「これが伏兵か」

「そうだ。見ての通り、巨大な狼だ。これまで、ヤガ・モスクワ近郊でこのような魔獣が目撃されたことはなかった」

「間違いなくジャックと連携していたのか」

「ジャックが逃げ去るまで、殿をつとめたそうだ。助けに来たのは間違いない。不意打ちとはいえ殺戮猟兵(オプリチニキ)を何体か仕留めるだけの力を持っている。殺人鬼に加え、こんなものが跋扈していることが皇帝(ツァーリ)に知れれば、私はただでは済まないだろうな」

「呑気だな。同じ手は何度も通用しないぞ。ジャックもやり口を変えるだろう。再度の捕捉は難しい」

 二人がジャックに手こずっていたのは、単に強いサーヴァントだからではなかった。被害者、目撃者、殺戮猟兵(オプリチニキ)すら、出会ったはずのジャックについて、その詳細を忘却してしまう。ロンドンの霧の中で逃げ延びた殺人鬼の逸話が昇華されたスキル、カルデアの記録にも残っていたジャックの能力「情報抹消」が、能動的な捜査を阻んでいた。

 ジャックと交戦したことは判っても、その容姿や能力、逃走の経緯などはすぐに忘れ去られてしまう。おまけに、ジャックは霧と共に現れるため、必ず防衛側が後手に回る。だからこそ、新たな犠牲の可能性を許容してまで罠を張ったのだ。それが不発に終わった今、ジャックがどう出るか予想は難しい。最悪、市内に見切りをつけて宮殿へ潜り込もうとするかもしれない。宮殿に住まうカドックのサーヴァント、皇女アナスタシアは極めて強力なキャスターだが、女性ばかりを狙って殺した逸話を持つサーヴァントを相手にするリスクは高い。

 たとえ陽動としてでも宮殿を狙われれば、それに対する警備に人員を割かれ、市内が手薄になる。「情報抹消」がある以上、市民のヤガたちによる自衛や密告網は期待できない。たった一体のサーヴァントにヤガ・モスクワは振り回されてきた。しかも、その殺人鬼に増援までいるという。

「いっそ、戒厳令でも発してローラー作戦をやった方がマシなのではないか。このままでは、いたちごっこだ」

「そんなことをすれば、皇帝(ツァーリ)の眠りを妨げる。それに、糸が切れたわけではない。実を言えば、彼らのアジトらしき場所を発見した」

「それを先に言え」

 思わず声を荒げたサリエリに対し、神父は平然と答えた。

「順序立てて言おうとしていただけだ。考えてもみたまえ。情報抹消はジャックの能力だ。今回乱入した狼のものではない。だから、狼の情報については十分に集まったのだ。逃走方向は殺戮猟兵(オプリチニキ)が把握していたし、市民からの目撃例も集まった。それを元に彼らが逃げこんだ地域を特定した。そして、縁のありそうな場所を見つけたのだよ」

「ならば、さっさとそこに兵を送り込め。それで終わりだろう」

「その通りだが、せっかくだ。君も一緒に来たまえ」

「興味ないな。さっさと終わらせて、あいつと会わせろ」

 モスクワに到着してから、だいぶ日が経っていた。これ以上待たされるなら、神父に付き合う理由はサリエリにはなかった。だが、それは神父も了解しているようだった。

「彼らの拠点には、君が欲しがっているものの1つが、もしかしたらあるかも知れないのだよ」

「何のことだ」

「楽器だよ。ジャックの潜伏先は、古い教会だ」

 

######

 

 その晩は、「あれ」と共に狩りに出た。「あれ」は素早く影から影へと飛び移り、うろついていた獲物を仕留めた。獲物の腹を裂いている「あれ」を、わたしは満足して眺める。先日の怪我はもう治ったらしい。頼もしいことだ。

 心はかつてなく満ち足りている。どんなしがらみに囚われることもなく、ただひたすらに大切なものへ愛情を注ぐ。それ以外のことなど、考える必要はない。この生活の、何と素晴らしいことだろう。

 かつてのわたしは、いつも怯えていた。ヤガは弱肉強食の掟のもとで生きる、など今にして考えれば欺瞞もいいところだ。本当に強いのならば、群れる必要などない。村に住み、蔑まれながら生き、ようやく手にした大切なものすら奪われる境遇に甘んじる必要など。

 きっと、かつての同胞たちの言っていた「弱肉強食」は、自分で獲物を取らないことへの言い訳だったのだ。自分たちが「強者」でなくとも、他人に「弱肉」のレッテルを貼ることが出来るのなら、その肉を食える。みっともない手管だ。

 今のわたしは、自分の力だけで子を慈しむことができる。

 わたしは、満足だ。

 

######

 

「ここか」

 訪れた教会の廃墟に、サリエリは落胆した。窓は外から板を打ち付けられ、正教会の特徴である丸みのある塔は、天井のところどころに穴が空いている。教会堂への入り口も、積み上げられた瓦礫で塞がれていた。お世辞にも状態が良いとは言えない。仮にピアノやオルガンが中に残っていたとして、ろくな状態ではないだろう。

「古い教会だな。今では使われていないようだが」

「雷帝の治世でも、始まりの頃はそれなりの文化が残っていた。けれど、ヤガが種として成立していく過程で、教義は失われていった。全く異なる秩序が求められた以上、仕方なくはあるが、聖職にあるものとしては嘆かわしいばかりだ」

サリエリと神父はゆっくりと教会の周囲を回った。礼拝堂の裏手は墓地となっていたが、長年放置されていたのか、もはや転がる瓦礫と墓石の区別はつかない。

「ひどい有り様だ。ヤガに墓地の文化はないのか?」

「ないわけではない。しかし、凍土を掘り返すのは、それなりの手間なのでね。郊外の森にある共同墓地に遺体を運んで終わり、と言ったところだ。この寒さと肉体の強さのおかげで、彼らに感染症の心配はない。よって、遺体の扱いは雑になる」

「鎮魂歌も奏で甲斐がないな」

「そうでもないのだよ」

 主祭壇の裏に位置する場所まで来た時、神父が地面を指差した。ぽっかりと空いた、直径2m弱の穴。中は暗く、見通すことはできない。穴の縁に煉瓦の欠片が見えることから、地下にある人工的な空間の天井が、一部崩れたことでできたのだろう。奇妙に粘度を持った闇が、降り続けている雪を音もなく飲み込んでいく。

「ここだ」

「この穴がどうかしたのか?」

「地下聖堂へと繋がっているらしい。そして、おそらくは切り裂きジャックが這い出てきた穴だ。汎人類史において、ジャックは手紙に『地獄より』と署名したそうだが、ならばこれは地獄への穴だな」

「随分と唐突な謎解きだが、根拠はあるのか?この穴の中に、ジャックにまつわる何かがあると」

「実際に見た方が早いだろう」

 神父は懐から折りたたまれた紙片を取り出した。何らかの術式が仕込まれているらしいそれを、穴の奥へ放る。やがて、紙片の放つぼんやりとした青白い光が穴の底を照らした。見えるのは、砕けた石、礼拝堂の意匠、そして。

「これは……」

 サリエリは言いかけて沈黙し、神父は淡々と告げた。

「これが、この異聞帯(ロストベルト)における『切り裂きジャック』の触媒だ」

 

######

 

 わたしははっきりと感じた。振り向くと、「あれ」も顔をねぐらの方に向けている。感じ取るところがあったらしい。

 誰かが、わたしの領地を荒らしている。

 守るべき場所。墓所を。

 自分でも予想外なほどの怒りがわたしの心を満たした。

 許さない、許せない、許すな、許すな。

 墓を荒らすものを!!

 

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「この周辺に住むヤガに、あらかじめ聞き込みを行わせていた。『教会』という建物の意味すら、正確に把握しているものはいなかった。だが、建物の存在自体は誰もが知っていた。本来の役割を終えたこの教会を、彼らは別の施設として利用していたのだよ」

 魔術の光が、地下聖堂を満たしている。鬼火の青に照らされているのは、積み上がった人骨だった。穴から投げ落とされたものたち、その亡骸だ。

 明らかに小さい。

 崩れ、砕け、互いに混じり合ってはいる。それでも、そこにある人骨で背丈が1m以上あったとおぼしきものは、1つとして存在しなかった。一番小さいものならば、手のひらのサイズ。片手で掴めそうな大きさの頭骨ばかりが、虚ろな眼窩を晒している。

 地下に捨てられていた遺骸は、全て幼児のものだった。

「彼らの口は重かった。普通、強者にはあっさりと降るヤガにしてはね。だが、詰問すると白状したのだ。ここを、『捨て場』にしていたと」

 陰惨な処分場を見下ろす二人の男。その表情に揺らぎはない。一人は復讐者(アヴェンジャー)の霊基ゆえに。もう一人は、その職務ゆえにか。

「この世界の文化なら、まあ有り得ることだ。子殺し、間引き。それ自体は意外ではない。問題はそこではない。なぜ、」

 サリエリは傍らの男に視線を向けないまま、問いかけた。

「なぜ、ここにあるのは人間の幼児の死体なのだ」

 礼拝堂の床に転がる遺体。その骨に、ヤガの特徴は無い。長い顎も、鋭い犬歯も無い。ごく普通の、霊長類の頭骨しかない。この異聞帯では滅びたはずの、サリエリにとっては見慣れた種族の骨。

「まさか、ヤガも生まれた時は汎人類史の人間と同じ姿だというわけではなかろうな」

「無論、違う。ヤガは、生まれた頃からヤガの特徴を備えている。ここにあるのは、そうでなかったものたちの遺骸だ。この世界に祝福されなかったものたち、先祖返りを起こした乳幼児たちだ」

 生まれた頃から、牙も爪も持たず、将来持つこともない子たち。極寒の世界で生きるためのの進化を受け継ぐことができなかった子供たち。祝福を与えられなかった幼児たち。

「ヤガを生み出した術式も、完璧ではなかったということか」

「人が作り出した技術である以上、むしろエラーがあるのは当たり前と言ってもいい。魔術による生物の改良自体が、不自然なものなのだから。人間の出産の際に奇形児が生まれるのと同じく、ヤガの特徴を持たない幼児が生まれることは、ままある。ヤガたちはそれを恐れる。ヤガの姿を受け入れようとしないとはつまり、皇帝(ツァーリ)の治世に対する罪深い反逆の1つと見なされるのだよ。彼らはそれをごまかすため、かつての文化の残り香が漂う場所へと『先祖返り』を捨てる。この世界になかったものとして、消し去るために。この地下聖堂には、400年にわたってヤガ・モスクワ中の『先祖返り』たちが廃棄され続けたのだ」

 怨嗟の声を上げることすら学ぶ前に捨て去られた嬰児たち。聖杯探索において見出された「ジャック・ザ・リッパー」は、堕胎された子供の霊の集合体だった。それと同じ、世界に拒絶された子供の怨嗟が、この地下に溜め込まれていた。ジャックがこの異聞帯(ロストベルト)に現界するにあたっては、何よりの触媒となっただろう。

 サリエリ=復讐者(アヴェンジャー)は考える。決死の抵抗は、時に卑怯や悪意を黙認する。異聞帯(ロストベルト)に踏みにじられた汎人類史は、あらゆる手段をもって異聞帯(ロストベルト)へ己の世界のサーヴァントを送り込み、自らと相入れない歴史が定着するのを妨害しているのだ。捨てられた子供たちすら、「都合がいい」と言わんばかりに利用して。

 この自分、アントニオ・サリエリの現界も、きっと例外ではないのだ。

「ジャックは判った。では、先日新たに現れた黒犬は?」

「こちらはもっと単純だ。少し前、『先祖返り』を産んだヤガの母親がいたそうだ。珍しいことに、彼女は子供を手放すことを拒否し、密かに育てていた。だが、ことヤガ・モスクワに置いてその行為は許容されない。子供は取り上げられてあの穴に投げ込まれ、母親は袋叩きの末に墓地に放置された。いつの間にかいなくなっていたそうだが、おそらく地下聖堂に潜り込んで息絶えたのだろう。彼女の想いもまた、サーヴァントを呼び込む鍵となり得る」

「そうか。確か、イングランドには犬の精霊の逸話があったな」

「ブラックドッグ。稲妻と硫黄の臭いを纏って現れる、死の予兆。ハデスの番犬、あるいはシェイクスピアの戯曲に由来を持つとされる、墓守の霊だ。あるいは、実業家バスカヴィルが、自分の墓を守らせようとして召喚した霊かもしれない。いずれにせよ、あの黒犬は己の墓地に縛られるものだ。触媒を移動させようもないジャックも同じ。必ず、あれらはここに戻ってくる。いや、」

 言葉を切り、神父は懐に手を入れた。掴み出したのは、丁字型の小さな柄。魔力を巡らせることで、薄氷のような刃が形成される。代行者の象徴と呼ばれる概念武装、黒鍵。

「もう、戻ってきたか。外周の殺戮猟兵(オプリチニキ)は突破されたらしい」

 息すら凍るはずのヤガ・モスクワの墓地に、霧が漂い始めていた。

 

######

 

 殺戮猟兵(オプリチニキ)を不意打ちで仕留め、ジャックと「おかあさん」は教会へとたどり着いた。霧に身を隠しつつ、教会を窺う。

 彼らにとっての安住の地、教会の墓地には二人の男が立っていた。一人は、ストライプのスーツを着た灰色の男。もう一人は東洋風の顔立ちの神父。明らかに、殺戮猟兵(オプリチニキ)とは存在感が違う。サーヴァント。

 ねぐらを知られた。その事実が、墓守犬としての本能と狩猟生物としての習性を強烈に刺激した。生かして返さない。ジャックも同じだった。教会は、この異聞帯(ロストベルト)においてジャックが体を休めることができる貴重な場所だった。奪われるわけにはいかない。

 不倶戴天。

 戦闘はすぐに始まった。

 

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 霧の中から唐突に、巨大な顎が現れた。小柄な女性なら、丸呑みできる大きさだった。強烈な硫黄の匂い。血で汚れた犬歯の咬合を、神父は滑るような歩法で避けた。すれ違いざまに、獣のあばらを狙った肘打ち。さらに、同じ腕で黒鍵による斬撃。霧を銀光が裂く。八極拳の手筋による瞬時の反撃を、黒犬は体躯に見合わぬ素早さで躱した。

 宙へ舞い上がって黒犬の突撃を避けていたサリエリには、霧の中から4本のナイフが飛んだ。サリエリの握っていた十字架のタクトが、赤黒い光を放ち武装へと変わった。現れたレイピアが肉切り包丁を払いのける。その時には、暗殺者(アサシン)はすでにサリエリの頭上へと移動していた。 曇天を背に刃を煌めかせたのは、銀の髪とアイスブルーの瞳を持つ少女。露出の多い服の上にぼろを羽織り、腰にはいくつものナイフを下げている。教会の壁をまるで大地であるかのようにジグザグに駆け、ジャック・ザ・リッパーは男の首筋をめがけて逆手に握った厚刃のナイフを振るった。

 攻撃を阻んだのは、羽根のようにたな引く襟飾り。視界を一瞬塞がれたジャックはナイフを寸前で止め、壁を蹴って大きく距離を取った。それでも、伸びてきたレイピアがジャックの頬をかすった。獲物の思わぬ抵抗に、墓石の上に着地したジャックは目を見開く。

 サリエリは伊達なスーツ姿から装いを変えていた。闘牛士を思わせる、身に張り付くような細身の礼服。墓地の鉄柵のように鈍く光る鉄の仮面。赤と黒と鈍色の三色のみで彩られた不吉な衣装は、作られた醜聞による変節と死神の伝説が混じり合って生まれた、灰色の男の内面にして外殻。装甲にして楽器。

 スキル「慟哭外装」。貧弱な霊基しか持ち得ないはずの男が反英雄として現界し、殺戮猟兵(オプリチニキ)を蹴散らして厳冬の皇都まで到達し得た所以だ。

 指揮者が観客に静粛を求めるように、復讐者(アヴェンジャー)はレイピアを掲げる。無論、ジャックがその仕草を気に留めることなどない。あどけない顔のまま、殺人鬼は宣言する。

「おじさんのふく、なんだかとってもそうぞうしいよ。しずかにさせちゃおう……!」

「なるほど。確かにお前は幾多の霊の集合体らしい。聞き分けられるぞ。その声は無数の子供の声の合成だな? 産声さえあげられなかったものたちの叫びと思えば哀れではあるが」

 つぅ、とレイピアの先端がジャックの額に狙いを定める。

「やはり駄目だな。不協和音にも程が有る」

 

 闘いは、互いが想定していたよりも長く続いた。ジャックと黒犬は、拠点を抑えられているために正面から戦うことを余儀なくされ、能力を十分に活かせない。獣も殺人鬼も、本来決闘など行わない。

 一方で、神父と復讐者(アヴェンジャー)の組み合わせにも、重大な欠点が露呈していた。シンプルな、信頼の欠如だ。特にサリエリは神父を全く信用しておらず、背中を預けようとしない。一心同体で動くジャック達に対し、彼らは二体一対一で戦っているようなものだった。

 スコットランドヤードの追跡を逃れながら犯行を重ねた殺人鬼にとっては、つけこむのに十分な隙だった。

 三人と一匹が戦い続けるうち、次第に周囲の霧は濃くなっていった。ジャックの宝具、19世紀末の倫敦の霧を再現する「暗黒霧都(ザ・ミスト)」。硫酸の霧は吸い込んだ者の肺を焼く。しかし、サリエリは全身を慟哭外装で覆っており、神父も洗礼による加護のためにほぼダメージを受けていない。問題はないと、二人とも判断していた。だが、ジャックの狙いは別のところにあった。

 いつの間にかクリームのように濃くなった霧が、神父とサリエリを分断していた。だが、二人は動揺しない。神父は鍛え上げた武功、復讐者(アヴェンジャー)は並外れた聴覚を頼りに得物を振るう。

「くふふ」

 微かに聞こえた、ジャックの笑い声。

 神父の足元が、爆発したかのように抉れた。八極拳特有の、矢の如き踏み込み。黒鍵を握る腕を槍に見立てた神速の突きが、声の方向へ真っ直ぐに伸びる。

 復讐者(アヴェンジャー)のレイピアが震えた。かつて楽壇の頂点に立った男の突出した音感が、たった一本の剣身から複雑な音律を生み出す。旋律は空気を紙細工のように切り裂き折りたたみ、音を超えた速さで剣の切っ先を目標へと届ける。「皇帝の矢(Frecce di Cesare)」。

 その一撃は確かにジャックを捉えたと思った。別方向を向いていた、二人ともが。互いの状況を把握していれば、回避できたはずのトラップ。

 手応えはどちらも軽い。罠と察した時には手遅れだった。

 地面の下から伸びた手が神父の脚を掴んだ。功夫を得た達人を転ばせるのは容易くないはずだった。だが、場所が悪かった。いつの間にか、神父は地下聖堂へつながる穴の上に誘導されていた。

 宝具「暗黒霧都(ザ・ミスト)」は単なる毒ガス兵器ではない。方向感覚を狂わせ、獲物を確実に狩場へと導く罠だ。

 咄嗟に踏ん張ろうとした脚も空を切り、神父は穴の中へと引き摺り込まれた。

「あの神父!」

 サリエリは異変を悟った。だが、突きが空を切ったことで死に体となり、反応できない。その彼を、黒犬からの予想外の攻撃が襲った。

 耳をつんざくような、咆哮。

 繊細さとは無縁の、ただ分厚い音の壁がサリエリの全身を殴りつけた。周囲の把握を聴覚に頼っていた復讐者(アヴェンジャー)は、魔力の籠もった叫びをまともに受けてしまい、思考と全ての感覚を一時封鎖された。そこに放たれる追撃。

 球電現象。ブラックドッグ伝説の解釈の1つ。落雷の直後にごく稀に見られる、浮遊するプラズマ。自然界ではまず発生しない特大のそれが四発、続けざまに復讐者(アヴェンジャー)へ命中した。「墓守犬」がその伝承に宿す、名前のない宝具。

 サリエリの身体は激しい炸裂音と共に弾き飛ばされた。ガラス窓を突き破って教会の中まで吹き飛ぶ。後に残る、硫黄の臭い。

 

 

 穴は地下聖堂に繋がっているはずだった。だが、神父が着地したのは、極寒のヤガ・モスクワには存在しないはずの、生暖かい汚水の河の上だった。頭上を見上げても、落ちてきた穴が見えない。周囲には耐え難い悪臭が漂う。腐敗と死の匂い。

「結界の一種かね。カルデアの記録にはなかったが」

 くふふ、あはは、と笑い声が答える。声の元は一つではない。気配も声も、汚泥に湧く泡のようにそこら中から生まれて弾ける。

「ここはかわ」

「わたしたちがながされたかわ」

「まちのすべてが、ながれるかわ」

「きりも、ちも、したいも、ぜんぶながれる」

「みんな、ながれる」

「ながれて、たまって、うかぶ」

「あなたも、うかぶ」

「うかべてあげる」

「うかべてあげる」

「うかべて、あげる!」

「『終焉なき惨劇の河(スロー・リヴァー)』!」

 ロンドンに下水道が整備されたのは19世紀中盤の事。当時世界最大の過密都市の汚濁を全て飲み込んだ地下水道は、陽の当たらない冥界と化した。

 スモッグから降り注ぐ酸性雨。高級住宅地からスラムまで、あらゆる建物が吐き出す排泄物。そしてその他、都合の悪いもの全て。堕胎された嬰児さえもが、地下の河へと放逐された。

 その有り様を再現したのが、結界宝具「終焉なき惨劇の河(スロー・リヴァー)」。地下聖堂の中でのみ、という発動条件があるものの、一度引き摺り込んでしまえば結界内は実際のロンドン地下水道と同じ規模にまで魔術的に拡張されている。脱出は困難。さらに、悪霊の集合体であるジャックは結界内では擬似的な「分霊」が可能となる。流れる河全てがジャックの居場所になる。

 神父の周囲、四方八方から殺気が溢れる。もはや、気配遮断での不意打ちすら必要ない。闇とガスの中から、ジャック『たち』が現れた。同じ姿で、同じ狂気の笑みを浮かべた子供たち。具現化された地下水道を埋め尽くすほどの群れとなった「切り裂きジャック」が殺到し、手にした様々な凶器を神父の全身に食い込ませた。

「あはははは!」

 一撃を見舞った『ジャック』はすぐに退き、次の『ジャック』がまた現れる。単純な打撃ではない。霊基を揺るがす、呪詛を込めた攻撃だ。際限なく溜め込まれた悪意と悲劇の集合体こそがこの宝具であり、その責め苦に終わりは無い。この地下水道に飲み込まれた敵は、そのまま河の一部として『ジャック』の養分となる。

そのはずだった。

 

「なるほど。この異聞帯(ロストベルト)に呼ばれた条件ゆえに発現した、『切り裂きジャック』の別側面を捉えた宝具というわけだ」

 神父の声は、おそろしく明瞭だった。身体中を切り刻まれ、抉られているはずの神父が、逃れようの無い「死の河」に捕らえられたはずの男が、地下水道全体に響き渡るような朗々とした声で宣言した。

「だが、残念ながら、この河では私は殺せない」

 いくつもの傷でずたずたになり、ただの肉塊にしか見えなくなっていた神父の顔。突然そこに、目が再生した。あるべき場所に、元どおりに。鋼鉄の意思が込められた瞳が、ジャックたちを見据えた。

 一瞬の沈黙ののち、子供達の甲高い悲鳴があがった。

「なにこいつ」

「なにこいつ!」

「うかべ!」

「うかべ!」

「うかべ!」

「うかべ!」

「うかべ!」

「うかべ!」

「うかべ!」

「うかべぇぇぇぇ!」

 ジャックたちの手で、汚濁の中から「棄てられたもの」が次々と拾い上げられた。

 娼婦の心臓を突いたナイフが。

 客の首筋を切り裂いた剃刀が。

 老人の額に振り下ろされた硬い杖が。

 同僚の脾臓を刺した銃剣が。

 妻の後頭部を砕いた火かき棒が。

 孤児を打ち据えた鞭が。

 胎児を母親の腹から引きずり出した編み棒が。

 かつて倫敦の闇に捨てられた無数の凶器が再現され、振るわれる。

 神父はその全てを受け止めた。避けることも、腕を上げて防ぐことも、膝をつくこともせずに。サーヴァントであっても致命傷と言うしかないダメージを幾度受けても、神父は平然と立ち続けた。

 小刀で大木の表面に切りつけているような、戦いとも言えない光景。

 ついに、ジャックたちの手が止まった。疲労からではない。この『終焉なき惨劇の河(スロー・リヴァー)』に呪いと怨嗟が満ちる限り、ジャックたちの力は尽きない。彼女たちを止めたのは、純粋な混乱だった。

「終わりかね」

 攻撃が止んで数秒。すでに神父の傷は全て塞がっていた。黒衣はボロボロになっているものの、その下に覗く肉体には傷跡一つない。治癒魔術による回復を遥かに凌ぐ速度だった。

「どうして……」

「もちろん、これが私に力を貸してくれている英霊の能力だからだよ。『彼』は争いごとが嫌いでね。クラスを当てはめるとしたら魔術師(キャスター)だが、扱えるのは多少の薬草術くらいで、他人を傷つけるような魔術は使えない。皇女のように、強力な精霊を従えているわけでもない」

 神父は、攻撃に耐える間ずっと背中で組んでいた手を解いた。その仕草に、ジャックたちがざわめく。打倒できない敵を前にして狂気が薄れ、彼女たちが抱える根源的な恐怖、自分たちを殺した「大人」への恐怖が表に出つつある。

 あるいは、これも『彼』のスキルなのかもしれない。他人の心を操り、あげく1つの国すらも操った手腕。

「その代わり、彼は英霊として1つの約束を世界と結んだ。役目を果たすために必要な、ごくシンプルな約束を。この権利を行使するには『彼』の霊基を解放しなくてはならない。カドックはともかく、皇女殿下には『彼』の存在を知られたくなかったが、結界の中ならば問題はない」

 『彼』の最後にして、最も有名な逸話。暗殺者に毒を盛られ、銃で撃たれ、切り刻まれ、殴打され、縛り上げられてから川に落とされた。それでもなお、死因は「溺死」。宝具として昇華された、彼の天命。全ては、歴史の岐路に立った母国のために。

「『ロシアの大地と、その正統なる支配者以外の手によって殺されることはない』。それが、グリゴリィ・エフィモヴィチ・ラスプーチンの宝具にして契約、『岐路の影法師(ザ・クロスロード)』だ。さて、」

 神父は身を屈めると、ジャックたちの攻撃によって千切れて落ちていたロザリオを拾い上げた。

「子供達よ。祈りの時間だ」

 

######

 

 容易い相手だった。妙に殻が硬く、噛みちぎる事はできなかったが、何度も歩廊の柱や床に叩きつけると、動かなくなった。程なく消滅するだろう。黒犬はそう判断した。サリエリを残し、彼女は窓から外へと出ようとした。地下に落とした以上神父が生き残る可能性はないに等しいが、子供に万一のことがあってはいけない。

 窓の外。霧はいつの間にか晴れていた。「あれ」の宝具の発動が止まっている。

「子供達は、眠りについた」

 背後からの声に振り向く。祈祷台の奥から、神父が現れた。腕には子供を抱えている。瞳を閉じた、小さな子供を。

 黒犬は吠えた。怒りと絶望で。

 「あれ」が負けたのだ。

 闇雲に、神父へ飛びかかった。神父は子供を床に降ろし、するりと退いた。追いかけることも忘れ、黒犬は子供へと鼻を寄せた。匂いが薄らいでいく。ヤガとは違う、けれど愛しい我が子の匂いが。この世界から消えてしまう。またしても。

 それは駄目だ。それは駄目だ。なんのために、自分は蘇ったのだ。なんのために!

もちろん、棄てられた子供のためだ。子を生かすため、そして子供に仇なす者全てを殺しつくすため。

 犬は我が子を胸に抱いた。かつて、まだヤガとしての肉体を持っていた時にそうしたように。

 

######

 

「聞こえているかね。音楽長」

 力なく床に転がったサリエリに、神父は声をかけた。

「霊核は無事なようだ。その丈夫な外装のおかげだな。しかし、思った以上に君の在り方は歪だ。その身に纏った外装が、なぜそこまで頑丈なのか、それすら君は判ってはいるまい」

 サリエリは返事を返さない。慟哭外装のために形こそ保っているが、その内側に負った傷は深い。混濁した意識の中で、ただ神父の投げかける言葉を聞いている。

「君はあまりにも未完成なのだ。無辜の怪物よ。それでは、私も私に力を貸してくれている『彼』も困るのだよ。君には、最大の見せ場で、最も効果的な曲を弾いてもらわねばならない。だから、私は君をここに連れてきた。君には、ピアノがあるかもなどと言ったが、実を言えば本当に見て欲しかったのはこちらの方だ」

 神父が一歩引いた。わずかに頭を持ち上げたサリエリが視界に収めたのは、先ほど自分を痛めつけた黒犬だった。だが、その姿は変貌を遂げている。体は大きく、より殺気は強く。

「私の不出来な洗礼詠唱のせいだ。切り裂きジャックを完全に消し去ることができなかったのだ。そして、彼女はそのジャック、我が子を取り込んだらしい」

 サリエリは見ていなかったが、神父の顔には言葉とは裏腹の満足げな笑みが浮かんでいた。

「あれが、本当の復讐者(アヴェンジャー)だ」

 黒犬の体がさらに膨張する。体表が煮えたぎる溶岩のように波打ち、そして弾けた。破裂した跡から現れるのは、新たな犬の頭。そしてもう1つ。

 合わせて3つの頭を得て巨大化した黒犬が、ゆっくりと立ち上がる。

「ジャックの霊基と地下聖堂に溜まった呪詛とを取り込んだのだろう。まさしく、ケルベロスだな。テュポーンの子、冥界の番犬。そして、書によっては悪魔ナベリウスと結びつけられる存在」

 神父はサリエリの背後に回ると、その奥襟を掴んで上半身を引き上げた。そして、顕れた神話の怪物と正対させて、耳元で囁く。

「かの神殿にて、その名を冠する魔神柱は名乗った。『音を知るもの』と」

 三頭犬が吠えた。哀しみ、怒り、そして殺意を込めた咆哮が、教会に轟いた。

 神父が見守る中、咆哮を浴びたサリエリの身体が激しく痙攣を始めた。ピアノに共鳴する音叉のように。

####

 思い出すのは、あの病床での会話。彼は問いかけられた。アマデウスを殺したのかと。もちろん、そんなことはしていない。あの、神に愛された天才を、なぜ自分が殺すのか。彼は否定した。そして、音楽家アントニオ・サリエリは穏やかな死を迎えた。家族に看取られて、幸福な生涯を閉じた。

 ならば、今ここに居る自分は誰なのか。復讐者(アヴェンジャー)が自問する。本物のアントニオは座に召し上げられることもなく、人類史の流れの一欠片となったのに。今ここで、正史から遠く離れた場所で這いずり回っている私は誰か。アントニオの死体を乗り越え、今もただ天上の音楽、アマデウスの音楽の残り香を追い求めている私は誰か。

 もちろん、わかっているとも。復讐者(アヴェンジャー)の口元が皮肉な想いに歪む。

 私は「かくあれかし」と望まれたサリエリ。天才の人生に相応しいピリオドとして求められた、灰色の男。死神。劣等感を委託されたもの。誰もが理解できるストーリーの中に、あの天才を押し込めようとした、愚かな徒労の産物。

 今更、紳士を気取ることもあるまい。

 ああ、殺したい。

 魂の奥底が揺さぶられ、無尽の殺意が溢れ出す。

 サリエリはその奔流に、素直に身を任せた。

 

####

 

 黒い三頭犬は異変に気付いた。先ほど自分が打倒したはずの男が立ち上がっている。酷く不安定ながら、自分の足で立っている。いや、それよりも。

 音が聞こえない。

 三つの顎が吠える。確かに自分の怒りは、怨嗟の咆哮は空気を震わせている。だが、それが自分自身の耳にすら聞こえない。異様な息苦しさが黒犬を怯えさせた。

「音を知る、か?」

 静けさは、白いペンキで乱暴に塗り潰されたキャンバスのよう。その中で、男の声だけははっきりと犬の耳に届いた。

「笑わせる。魔神だろうと、所詮はあの天才を殺し得なかった代物。アマデウスの生き様を汚せなかった者の一派が『音を知る』などと名乗るとは。ましてや犬、お前の音は醜すぎる。教会では静かに頭を垂れるものだ」

 ケルベロスの全身から力が抜けていく。沈黙が耳鳴りへと変わる。凄まじい密度の「音」が犬を押し込め、あらゆる知覚を奪い尽くした。

「アマデウスを殺すのは私だ。一度失敗した連中、負け犬は這いつくばって順番を譲れ。宝具『|至高の神よ、我を憐れみたまえ《ディオ・サンティシモ・ミゼルコディア・ディ・ミ》』」

 復讐者(アヴェンジャー)の外装が、内からの圧力に耐えかねたかのように解けた。内側から噴き上がる瘴気を孕んで広がり、竜を思わせる異形へと変貌していく。

 『竜』が指揮者の如く両手を掲げた。教会の歩廊、窓の桟、梁、あらゆる場所にマント姿の顔のない人影が現れた。死のイメージの具現、灰色の楽団員たち。彼らはレイピア、あるいはマスケット銃を握り、身動きのとれない黒犬に狙いを定めた。

 贈る言葉はただ1つ。

「死ね」

 サリエリが両腕を振り下ろすと同時に、魔力に満ちた音の奔流、そして灰色の人影が一斉に黒犬へと殺到した。

 

############

 

「ねぇ、カドック。今日は、どこかで演奏会でもあるの?」

「……いいや、その予定はない」

「でも、音楽が聞こえるわ」

「俺には聞こえないが?」

「そう。でも、その方がいいのかもしれないわ」

 

############

 

 教会は崩れ落ちていた。神父は、今度こそ力を使い果たしてぐったりとした音楽長を抱えて、落下してくる瓦礫から逃れていた。

「ふむ。一部は逃げたか。しかし、霊基は破壊され、戻るべき巣も失われた。もはや脅威にはなるまい。カドックにはそう報告するとしよう」 

 一人呟いたのち、神父は足元に横たわるサリエリへと視線を投げた。すでに慟哭外装は消え去っている。

「己の在り方を見事に示したな、音楽長。君が私にとっての切り札になることも。ならば、私は君を引き合わせることにしよう。君が望む復讐相手に。だが、今回の彼はなかなか自分の役割に忠実だ。一筋縄では行かないだろうよ」

 今だけは、復讐を忘れた眠りに沈む音楽長。彼は神父の浮かべた笑みを見ることはなかった。神父が、疲労困憊して無防備な彼の記憶に、暴発を抑えるべく少しばかりの細工をしたことも。

 全ては、母国ロシアのために。

 未だ冬の終わりの見えない帝都の夜に、束の間の静けさが戻る。

 

######

 

 わたしは逃げた。痩せ細った身体を引きずり、四肢が千切れそうになっても。力が、血が、命が失われていくのがわかる。もう、どうしようもない。わたしは逃げ続ける。帝都に背を向けて。

 追っ手はかからなかった。弱り切った獣を悪戯に撃つような余裕のある手合いは、この国には居ない。居るとしたら、力尽きて倒れたところで確実に餌を手に入れようと寄ってくる輩。だから、わたしは山を目指した。できるならば、誰も近づかない険しい山の峰へ。

 魔獣の群生地を運良く抜け、屍肉喰らいの鳥についばまれることもなく、わたしは山へとたどり着いた。衝動のままに登る。登る。なるべく、可能な限り高く。雲の上、天穹を望めるほどに。もはや棒切れほどの細さになった脚で、わたしは草木の一本もない山をひたすらに登った。

 やがて最後の力が失われた。冷たい岩に首を預け、わたしはもう一歩も動くことができなかった。まだ山頂までは遠いのだろう。周囲は雪が舞い、視界は灰色に閉ざされている。灰色。死の色。何も変わらない、変えられない諦めの色。

 

 

 何か一つでいい。わたしのためでなくていい。なにか、この世界が変わるような。

 

 

 ふと、風が止んだ。

 凍りかけていた瞼をそっと開いた。はるかに頭上、分厚い雲にほんの少しの切れ目が生まれている。そこに、見たことのない色が有った。

 深い湖の色に似ている。

 鉱山の深くから掘り出された、貴重な宝石の色に似ている。

 わたしの手から奪われたあの子の瞳の色に似ている。

 初めて見たその色に向けて、わたしは願った。

 

 

 どうか、あの子の祝福される世界を。

 

######

 

 数週間後、黒犬が消えた高山から一体のサーヴァントが現れた。彼女は立ち行かなくなった幾つかの村を纏めて解放軍を組織する。しかし彼女は「世界を変える」までには至らず、本当の意味でこの異聞帯(ロストベルト)に変化が起こるまでには、カルデアの残党が浮上するまでの更に数ヶ月を待つことになる。

 

 

 

 

 




I got to keep movin', I got to keep movin'
Blues fallin' down like hail, blues fallin' down like hail

And the days keeps on worryin' me
There's a hellhound on my trail, hellhound on my trail


Robert Johnson “Hellhound on my trail”


クロスロード伝説で有名なロバート・ジョンソンの曲ですが、サリエリはこういうの嫌いそう。
それも含めて、今作のテーマソングだったり。

ちなみに、クロスロード=十字路(岐路)=ロシア語で「ラスプーチナ」だそうで。

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