私、高町なのはは転生した人間だ。
幼少の、おそらく三歳の半ばごろ、私はかつての人格を取り戻した。
とはいえ、私が取り戻したのはあくまで人格だけであり、残念ながら前世の自分がどういった存在なのかまでは覚えていなかった。
例えば、読み書きやスポーツといった知識。これらは残っているのだが、それらをどうやって学んだのかは一切覚えていません。ようは記憶喪失みたいなものだと思っていただければわかりやすいだろう。
そのおかげで、今通っている小学校では常にトップの成績を維持しているものの、残念ながら前世の知識を得ていて得していることなどその程度でしかなかった。
むしろ、私は何故、前世の知識と人格を取り戻したのだろうかと今も尚悩んでいる程である。
理由を簡単に話せば、全てが既知であることにあった。
勉学も、スポーツも、家族の愛情も、学友との友情も、私にとっては記憶にないが知識として存在しているため、どれも自身の欲求を刺激するものではなかったのだ。
子どもは本来、何も知らないからこそ何でも楽しめる強さがある。そして、その知らないことを知り、経験することによって成長していくものだ。
だけど、私には私の成長を促すものが無かった。
あらゆる全てが見知った何か、その飢えを誤魔化すように勉学にも励んだし、スポーツにも積極的に取り組んだ。
しかし、勉強も所詮は初めから知っていた知識を下地にした延長線上、そこに零から知るという喜びは無い。スポーツにしても似たようなもので、しかも私の身体はどうも運動が苦手なため、早々に諦めることにした。
唯一少しだけ楽しめたのは、私の家族が修めている御神流という武術くらいだっただろうか、この武術の奥義に当たる肉体のリミッターを外すという荒業をこっそり修行風景で見ていたおかげで、私はすっかりこの技だけは使えるようになったけど、その程度だ。
ともあれ、私は九才という年齢にして、既に人生を楽しむことを早々に諦めることにした。
だから精々、私は私を育ててくれた家族を悲しませないために良い子を演じる程度しか人生に意味を見出していない。
浅くも広い交友関係、勉学はトップを維持し、苦手なスポーツも努力で人並みには出来る。家族で経営する喫茶店の手伝いは率先して行い、将来はきっと優しい男性と添い遂げて、心を苛む退屈を押し殺して人生を終えよう。
それだけを目標として私は生きている。私みたいな人格を思い出したせいで人生を台無しにされた高町なのはという少女に対して出来る、唯一の贖罪のようなものだったから。
だけど、そんな私の日常は、ある日唐突に砕かれることとなる。
―
「止めて!」
乾いた音をたてて叩かれた手を引っ込めて、なのはは自分の手を叩いた少女、月村すずかを見た。
別に何か特別なことをしたわけではない。ただ、彼女の机の横に落ちていた消しゴムを拾って彼女に手渡そうとしただけのことだ。だがなのはの善意は理由なきすずかの暴力で弾かれ、手から落ちた消しゴムは再び床に転がってしまう。
「ちょ……すずか!?」
すずかの友人、アリサ・バニングスが驚きに目を開く。そこで騒ぎを聞きつけたクラスメート達も集まってきて、次々にどうしたのかと人の輪を作り始めた。
「……ごめんなさい、月村さん。私、余計なことしちゃったみたい」
叩かれた手を抑えながら、なのははいつもと変わらない暖かな笑顔を浮かべた。だが、男女問わず緊張を解くはずの微笑みを見て、すずかの顔は白よりも青く染まる。そしてそれは、すずかの隣にいたアリサも似たような反応であった。
「わ、わたしも、ごめん、なさい……た、体調が悪くて……」
「……あたし達、保健室に行くから」
「あ……うん。気を付けてね……」
逃げるようにその場を後にする二人を、なのはは見送る。クラスメートも二人の様子を不思議がっていたが、すぐにそれぞれの場所へと戻っていった。
「やっぱり私、嫌われてるのかな」
未だにヒリヒリと痛む手をさすって、なのはは呟く。出来ることなら仲良くなりたいものだが、別に無理して仲良くなる必要もないだろう。
合う人もいれば合わない人もいる。あの二人はきっと後者だったのだろうと、少しの寂しさを覚えたが、クラスの女子に話しかけられたころにはもう、なのはは二人のことなどすっかり忘れてしまっていた。
「……大丈夫、すずか?」
「うん、ごめんねアリサちゃん」
「いいのよ。でも気をつけなさいよ、アイツ、外面だけはいいみたいだからさ」
アイツ、高町なのはのことを思い出してアリサは露骨に表情を歪めた。すずかも似たようなもので、表情こそ歪めはしないものの、顔色は青いままだ。
無理もないとアリサは思う。あんな、まともじゃない人間に微笑まれれば気弱なすずかが怯えるのも当然だ。
元々、アリサとすずかはそこまで仲が良いというわけではなかった。むしろ、すずかのカチューシャを奪って嫌がらせをしていたほどである。しかし、その時一部始終を見ていたなのはの介入によって、皮肉にもすずかとは今や親友同士となっているのだから世の中分からないものである。
「……ホント、アイツが同じクラスなんて最悪よ」
今思い出すだけでも嫌悪と恐怖が同時にこみ上げてくる。
唐突に現れたなのはは、優しく微笑みながらアリサに「そんなことは止めよう」と諭してきた。当然、アリサは素直に聞きもせず、むしろいっそう苛烈に食い掛かった。
関係ないから引っ込んでいろ。
余計なおせっかいをするな。
お前もイジメてやろうか。
他にも罵詈雑言の数々をアリサはなのはに、そしてついでとばかりにすずかへと浴びせたもので、今では深く反省しているが全く持って当時の自分は子どもだったと思うばかりだ。
だが問題なのはそこではない。アリサはそうして無数の罵声を浴びせ続け、すずかなどすっかり涙目で意気消沈しているあたりでふと気づいたのだ。
さっきからなのはは優しい微笑みしか浮かべていない。普通、ここまで言われれば怒るか、あるいはすずかのように涙を流すくらいしてもおかしくないというのに。
しかし、なのはは笑っていた。何を言われても微動だにせず、彫刻の如く笑みで固定されたままアリサを見ていた。
自分を見る目。微笑みに隠されて見えなかったが、よく見ればその瞳がまるで底なしの暗黒のようにアリサは感じた。
空虚な瞳。腐臭を放つヘドロを微笑みの仮面という蓋で隠したなのはの本質。それを、この状況で何も変わらないなのはへの違和感を切っ掛けに、アリサは感じ取れてしまったのだ。
そのあたりで泣いていたすずかも違和感に気付いたのだろう。自分をイジメるアリサではなく、恐ろしい何かを見るようになのはを見て、一歩距離を離してアリサの元へと寄った。
そしてアリサも無意識に近寄ってきたすずかの手を握り、異様とも言えるなのはに恐怖の眼差しを送る。
そこでなのはは手を握り合う二人を見て「なんだ、私の勘違いだったんだね」と言うと、頭を下げてからなんでもなかったようにその場を後にした。
数秒の沈黙、言葉では表現できない恐怖に震えたアリサとすずかは互いに目を合わせ――そしてしばらくの間震えを抑えるように寄り添い合って涙した。
そんな過去を思い出して、アリサはブルリと体を震わせる。
「それにしても変わらないわねアイツ。あの気持ち悪い笑顔、変わってないから余計にそう思うわ」
「うん……」
二年前と全く変わらない笑顔。それはなのはの本質が二年前から何一つ変わっていないという証拠に他ならない。
それが、同年代でも遥かに聡明である二人の少女をいっそう恐れさせる。
普通は変わるはずだ。多感な少年時代、些細なことでも自分達は成長していき、変わっていく。今では大人しくなったアリサも、以前よりも自己主張が出来るようになったすずかも、聡明であれ子どもでもある二人ですら変わるのだ。
だが高町なのはは変わらない。誰にでも平等な笑みのまま、変わらない態度で生きている。
アリサとすずかがなのはの異常に気付けたのは偶然だ。彼女達は偶々なのはが笑みを浮かべている
小学三年生にして完成された一個の自我。これを異常と言わずなんと言うのか。
「早く行きましょう。少し休めば落ち着くはずよ」
「ありがとう、アリサちゃん」
「べ、別に感謝されることじゃないわよ」
だが、すずかという親友に出会わせてくれたことだけには感謝しないでもない。そんなことを思いながら、アリサはすずかと連れ添って保健室へと向かうのであった。
(こんな私を心配してくれてありがとうアリサちゃん)
アリサの気遣いに改めて内心で感謝を述べたすずかだったが、その胸中は未だに一瞬だけとはいえ触れてしまったなのはへの
(でもきっと、アリサちゃんは高町さんのことを勘違いしてるよ)
隣を歩く少女は聡明だが、それでも家系的に特殊な事情があるすずかと違って、なのはに感じた異常を正確には理解できていないのだろう。
それを少し寂しく思うのと同時に、彼女が自分と同じ恐怖を感じずにいることに安堵する思いもある。
(違うのアリサちゃん。高町さんは気持ち悪いだけの人じゃない……)
いっそのこと、この胸を苛む思いをぶちまけて楽になりたいとも考えた。
だがそれはこんな自分を親友と呼んでくれる少女を苦しめるだけの結果しか生まないのを知っている。
だから、すずかは顔を俯かせて唇を噛んでグッと堪え、それでも堪え切れずにか細い一言を漏らした。
「怖い……」
「え?」
「あ、ううん! 何でもないよ!」
すずかは誤魔化すように笑みを浮かべ、訝しむアリサから隠すように再び俯いた。
(高町さんが、恐ろしい……)
夜の一族と呼ばれる人とは乖離した存在であるからこそ、すずかに分かって、人間であるアリサには分からないことがある。
今はただの人間にすぎない高町なのは。
だがもしも、もしも何かが切っ掛けとなって変わるようなことがあれば。
(きっと、うん)
あの子はきっと、取り返しのつかない何かになるような気がする。
いつ芽吹くか分からないそれこそ、すずかがなのはを恐怖する理由に他ならなかった。
―
「やっぱりこの年代の子って気難しいのかなぁ?」
帰り道、クラスの少女と途中で別れた私は、夕焼けにそまりつつある空を見上げながら今日の月村さんのことを思い出していた。
彼女と知り合ったのは、二年前にバニングスさんにいじめられていると私が勘違いしてしまった時のことだと思う。だが何故かあの日以来、あの二人からは私は一方的に距離を置かれているみたいであった。彼女達も他の子には普通に接しているので、どうやら私だけが嫌われているらしい。一応、クラスの子にもそれは心配されて「何かあったの?」と聞かれもしたのだが、私自身理由が分からないのだから困ったもの。
「出来れば仲良くなりたいけど……」
私は良い子を目指している。見渡す限りの既知で溢れた世界、せめて家族だけは安心させたいから。
もしも私が二人の女の子に嫌われていると知ったら家族の皆も悲しむかもしれない。だから友達まではいかずとも、せめて嫌われる要因を解消できれば――。
「ッ……何?」
ふと、私は何かよくわからない感覚を覚えた。首筋がチリチリするような、頭に直接訴えかけてくるような不思議な感覚。
頭痛にも似たそれに堪らず両手で頭を抑える。
「ぅ……」
間違いなく、私の知らない異様な何か。ただの風邪と勘違いするには異常すぎる何かを感じて、私は導かれるままに道路を外れた横の林へと足を踏み入れた。
自分でも馬鹿らしいと頭の片隅で思いながら、足は迷いなく林の中を進んでいく。そして進んでいった先で、私は傷を負ったフェレットが地面に横たわっているのを見つけるのであった。
「大丈夫?」
刺激しないように私はそっとフェレットを腕に抱える。フェレットは何かを訴えるように鳴き声を一つあげたが、すぐに意識を失って力無く眠りについた。
「酷い怪我……」
傷ついたフェレットを放っておけばそのまま死んでしまうかもしれない。本当なら家族に連絡を入れるべきなのだろうけど、今は一刻を争う。なので私は記憶にある動物病院へと足を向けることにした。
そして、あっという間に夜である。動物病院にフェレットを届けた私は、その場で電話を借りて両親に連絡して、お兄ちゃんに迎えに来てもらったのだが、一先ず件のフェレットは家で一旦引き取ることに今日の食卓で決まった。
家族に迷惑をかけたことが心苦しくはあったけど、それでも私は何故かあのフェレットが気になって仕方なかった。
というのも、あの時に感じた妙な感覚。何かのノイズみたいなものが聞こえたような気がしたけど、アレは一体なんだったのだろうか?
「面白いことになったら、いいなぁ……」
ベッドに体を預けて天井を見上げる。
別に、劇的な何かを望むわけではない。
少しだけでいいのだ。この世界でかつての人格を取り戻した私の長い人生の退屈を忘れさせてくれれば、それ以上は望まない。
だからこそ、私は夕方に感じたあの特別な感覚を忘れられず、その時に出会ったフェレットを引き取りたいと家族に相談したのだから。
まぁ、期待したところで結局、特別な何かなんて起きるはずが――。
「ッッ……!? ぁぁ!」
瞬間、あの時と同じ、いや、それ以上の頭痛が私に襲い掛かってきた。
――けて。
頭痛に紛れて幻聴すら聞こえてくる。だけどそれは幻聴と呼ぶにはあまりにもリアルで。
――すけて。
聞こえる。
鮮明になってくる声が私の頭に直接叩き込まれてくる。
――たすけて。
――誰か、たすけて。
「こ、れ……」
分かる。
声の主が何処からか助けを求めてきているのが。そしてそれは鮮明になっていく程、私の頭痛も徐々に収まっていく。
まるでピントが合うかのようにずれが無くなれば、助けを求める声はもう方角すらも把握できる。
しかし、これは一体なんなんだろう。こんなこと、私は知らない。人の頭に直接声を届ける方法なんて
「ひ、ひぃ……」
気付けば引きつけのような笑い声を私は漏らしていた。だけど、いつもの良い子の仮面を被り直すような余裕なんて無い。
だって、私はこれを知らない。
こんな非科学的な現象、私は知らないんだ!
「……幻聴って線もあるけど」
高揚の一方で、自分の冷静な部分が落ち着けと告げる。
方角まで気にしてるのだから幻覚すら見えている可能性だってある。頭痛のせいで正しく現実を認識できていないのかもしれない。
だけど、どうしてか私はこれがただの幻覚でも幻聴でもないような気がしてならなかった。
非常識な今に小さな胸が高鳴る。
私の今を変えてくれる劇的なものを思えば、最早居ても立っても居られず。
「ごめんなさい」
家族へ謝罪を一つ。私は寝間着から私服に着替えると、なるべく家族に気付かれないように音を殺しながら家を飛び出した。
「ハッハッ……!」
幼い体がもどかしい。必死に走ってもすぐに息が切れ、逸る気持ちとは裏腹に一向に前へと足は進んでくれない。
だけど私は足を動かした。
まずは一歩、前へと一歩。
既知と未知への境界線を越えるため、前進は止まることなく――。
「危ない!」
「え?」
不意に聞こえた声と、頭上に重なる影。
半ば唖然と空を見上げた私は、次の瞬間には飛来してきた何かに胸部を貫かれていた。
「ぁ……」
悲鳴をあげる暇すらない。胸を貫いた衝撃のまま、私の身体は木端のように吹き飛んで、アスファルトの大地を数度跳ねてゴミのように地面へと倒れた。
「■■■■ッッ!!!!」
「そ、そんな! 君、しっかりして! あぁ……ぼ、僕が助けを呼んだから……」
誰かの声と獣の唸り声が聞こえる。
だけど、返事なんてできない。
真っ赤な色が横たわる私の瞳に映る。
これは私の血、なの?
片隅で助けたフェレットが人間のように慌てふためいていた。その背後で蠢く黒い何かが、おそらく私を貫いた触手でフェレットを薙ぎ払う。
危ないと告げることも、庇うことも出来ない。
だって、もう体が動かなかった。潰れた内臓から逆流した血潮が口と鼻から溢れる。胸の痛みがないせいか、息苦しさのほうが辛い。
そんな、どうでもいいことを考えていると、私の数倍異常はある黒い怪物が徐々に近づいてきていた。
「に、げて……」
私に助けを求めた声が、今度は逃げてと苦し気に呟く。
でももう無理だ。朽ち果てかけの体は一秒の間に加速度的に死滅していき、こうしている間にも四肢はあってないようなもの。
アスファルトで鑢掛けされた顔の感触も分からない。
これが、私の死なのか。
劇的な何かを期待して、好奇心によって私は死ぬ。
折角手に入れた二度目の生を、こんな形で無意味にしてしまう。
「いやだなぁ……」
死への実感。
残される家族への罪悪感。
そんなことよりも、退屈を終えることなく終わることが何よりも嫌だった。
でももう私には何も出来ない。
だからさっさと諦めて――。
『stand by ready』
真紅の地面を転がって私の眼前に赤い宝石が転がってくる。
それはまるで鼓動のように点滅を繰り返し、神秘的な輝きを放つと。
『set up』
光の波に体が飲み込まれる。
その暖かくも力強い輝きの中、私は――。
「ひ、ひひ……」
常識を逸した異常事態に対して、喜びの声を思わず上げてしまうのであった。
次回、魔法使い。