結局のところ、布都はどうして帰ることを延期したのかは分からなかった。何となくその方が良いような気がしただけという曖昧なものしか浮かんでこなかった。
「自分が何を望んでいるか。その答えをハッキリと持っている者はいるのかな」
布都は手頃な岩に腰掛けながら、そう呟いた。
右膝を曲げ、左の太ももの上に置いている。両手は後ろにやって岩に手をつけて重心を後ろに流していた。
首を上げるといつも変わらない夜空が見えた。
「何か、お悩みですか」
布都は1人ではなかった。周りに幾人かいた。村にやってくる妖怪等への見張り番である。
「屋敷に戻らなければいけない気がするが、気が進まない」
「何か懸念でも?」
「ない。……と思うのだが、実のところあるのかもしれない。このままでも悪くない気がするものの、どうしてかそれでは良くない気がする」
「では答えは出てるようなものです」
「戻るべきか」
「はい」
村人はうやうやしく頭を下げ、礼を取った。
「我らはどこへなりとも付いていきます」
周りの村人たちもならって同じように頭を下げた。
「念を押さずともよい。明日の朝にでも発とう」
「承知しました」
「一応言っておくが、つまらない所だ。その上に命の危険もある」
「つまらないかどうかはさておき、命の危険であれば今でも充分かと」
「たしかに」
布都はくすりと笑うと、立ち上がった。
「じゃあ、我は寝る。お前たちも上手くやれ」
「っは」
決めた以上はやる。布都はそう思うも、そう思わないではいられないくらいには気がすすまなかった。義務というのはそういうものかもしれない。
◇◆◇
山を降り、人道を通り、その集団はかなり目立った。
しかし、その歩みが邪魔されることはなかった。
先頭を行く者に、皆が気後れした。灰銀の髪に空のような瞳、己とは違う存在に皆が道を開けた。どこの誰かと聞きに来た者も、ただ一度名乗るだけで去っていった。
屋敷の前までたどり着くと、門前で護衛と一緒に父の尾輿が待っていた。
布都が立ち止まると、互いに目が合った。
少しの間、無言が続いたが尾輿が先に口を開いた。
「……布都、で間違いないか」
「感じたままに判断するのがいいでしょう」
尾輿は眉を寄せたが、布都は変わらず無表情だった。
「後ろのは我の部下です。寝食の用意をお願い出来ますか?」
「ああ。その程度であれば問題ない。すぐに用意しよう」
「助かります」
布都は振り返ると、目だけ合わせた。村人たちが頷いたのを見ると、前を向き直した。
「では我は休みます」
布都は屋敷の中へと歩いていった。
自室へ行く途中、首を傾げた。
尾輿の様子が前とは違っていた。前のままだと、あのまま長々と問答することになっただろう。しかし、一番最初の問い以外は何もなかった。人が変わるには何かきっかけが必要になることを布都は知っている。
(何かあったな)
てっきり何かしら言い合いするものとばかり思っていた布都は、気がかりになった。
(後で聞いてみるか)
部屋に入ると、懐かしさが香りとともにやってきた。
腰を下ろすと、壁に寄りかかり目を閉じた。
力が抜けていく感覚がして、思いの外自分が疲れていたことを布都は知った。
(少し寝よう)
意識がぼんやりと輪郭を失い、まどろみの中に溶けていった。
そうしてしばらく経った頃、部屋の扉が開いたことで布都は目を開けた。
「――お前が布都か」
知らない男だった。年は少しばかり上。目の力が強く、身体は鍛えていそうな肉付きだった。
布都は口を開かなかった。頭の中で既に数度殺した。
「おい、俺の言葉が聞こえていないのか。お前が布都かと聞いている」
布都にとって、二度言われようが催促されようが自分が行動する要因にはならない。脅威も興味も毛ほどに感じない。
布都は見ることすらやめた。
「……そうか、後悔するぞ」
去ったのが分かると、布都は立ち上がった。
日差しが眩しかった。
「教育がなってないな」
開けたままになっていた扉を閉めると、そう言った。
部下を何人か連れていたが、どれも同じような態度だった。
(もしやこれか?)
尾輿の変容の原因が分かった気がした。
この後、また同じことがあった。それにより布都は確信した。
(このままでは物部氏が内部から壊れるな)
身の程を超えた欲というのは己を滅ぼすが、欲によっては周りを巻き込むことになる。
(さっさと兄上を呼び出さば片がつくだろうに)
自分を特別な存在だと勘違いしたやからほど面倒なものはない。理想を無理に現実として当て嵌めようとするから、歪が生まれる。関わって良いことはない。
しばらくすると、また同じようなのがやってきた。
「――お前が」
何か言っている男の横に、まだ十を越えたくらいの童男がいた。緊張しているようで、表情が硬かった。子供とはいえ、女のように線が細かった。
――おや?
何かを感じ取った布都は、身を近寄らせた。
「名は?」
「――あ、えっと、贄個といいます」
「そうか」
名前を聞くと、布都は身を引いて元の位置に戻った。
その様子を見ていた贄個の横にいた男が、気分良さげに鼻をならした。
「お前の弟だ。お前を越える才能の持ち主だとも言われている。態度を改めるなら早い方がいいぞ」
何か言っている男を無視して、布都は贄個によく見えるようにして指を立てた。
「見えるか?」
びくびくとしていた贄個が目を大きく開くと、
「は、はい!」
かしこまったようにそう答えた。
「充分だ」
布都は微笑んだ。
満足した布都は、虫を払うような手付きを行った。
「もういいぞ。去れ」
布都は退出を促した。
「いい加減にしろよ――」
そう言って踏み出した男を、布都は鬱陶しそうに睨んだ。
「っ」
睨まれた男は、息が喉で詰まった。そのまま逃げるように部屋を去っていった。
今度は扉は閉められた。
夕方になった。
夕食は運び込まれずに、別室で取ることになった。
案内された部屋の中には、父ともう一人。布都は記憶を辿って、その者が物部氏の中で最高の術師であることを思い出した。己の師として数日接することになった男だった。
「来たか」
空いた席は一つ。
布都は座った。
「念入りに人払いはしてある。近づく者があればすぐに排除する手筈だ」
「何か聞かれたくないことでも?」
「いや。お前が好きに喋れるようにしただけだ」
布都は首を傾げた。
「深くは聞きませんが、あまり意味を感じませんね」
「聞こう」
「聞かれたくない話など持ち合わせていませんので」
「まぁ、そうだろうな。――こちらから話そう」
尾輿は真面目な顔で口を開いた。食事にはまだ手をつけていない。
「……兄弟には会ったか?」
「ええ」
「どうだった」
伺うような視線。
布都は素直に答えた。
「特に。顔も大して憶えていませんね」
「……そうか」
「ああ、でも一人だけ顔を憶えてますよ。優れた術師になるでしょう」
「お前がそう言うのであればそうなのだろう」
「聞きたいことはそれですか?」
「ああ」
尾輿は黙り込んだ。
横の術師が尾輿の盃に酒を注いだ。
尾輿は一気に呷った。
「あいつを呼び戻す」
「よろしいので?」
誰を指しているか、疑問は浮かばなかった。
「必要があるだろう」
「我は傍観に徹するか怪しいですが」
「どうせ結果は変わらないだろう」
尾輿は深くため息を吐いた。
「悪くはないんだ悪くは……」
布都は食事を口に運びつつ、この父にも情というのものがあるとはと少し感心した。
「いなくなってから分かる何とやらですか?」
「それだけなら良かったが、な」
これまでの人生を氏族の維持、強化を第一に考えてきた尾輿にとっては、跡継ぎの問題での内輪揉めが信じられなかった。揉めるというのが分からないでいた。こんなものは勝ち取る以外にないと思っている尾輿からすると、寝ながら遊んでいるようにしか見えない。この程度のことに時間をかけているようでは、物部としての政治は到底務まらない。
「血が多く流れるでしょう」
「……出来るだけ最小限にしたいのだ。長期化するも、大きくなるも、必要ない血が流れる」
尾輿は布都を見た。
その意図は明確だった。尾輿は小さく言う。
「有望な者は残してほしい」
布都は眉を寄せた。
「それを兄上にやらせるつもりで? ご自分でやった方が早いでしょうに」
「次の長がやる方が収まりが良いだろうからな」
「ああ、そういうことですか。我としては兄上が望めばそうするだけです」
「充分だ」
恐らく結果的にそうなるだろう。布都は、面倒そうな顔で事を終わらせる守屋を思い浮かべた。
「ではそろそろ――」
布都は立ち上がった。
去り際に振り返ると、
「前よりずいぶんと話しやすくなりましたね」
「少し弱っているだけだ。歳のせいにしておけ」
「そうですか。人とは変化するもの。これが旅路で得た一番大きなものかもしれません」
「旅か、良いな。羨ましくすら思える」
尾輿が少人数で外に出るようなことがあれば、いたるところから刺客が訪れることになる。
布都は部屋から出ると、部屋に残っている尾輿は大きく息を吐いた。
「……疲れたな」
横の術師がいたわる。
「肩に乗るものの重さからすれば仕方がありませんよ」
「まぁ、な。……あいつの言葉ではないが、あいつ自身も前より話やすくなっていた。旅のせいかな」
「私の目からでもお変わりがあったように感じました」
「髪の色からして違うしな。……で、どうだった。贄個と比べてどれだけ違う」
わざわざ同席までさせた理由がそこにあった。
「難しい答えになりますが」
「何を言おうと構わん。今更腹など立てるわけもない」
「……では失礼して。贄個様はあと数年もすれば私の座を譲れる程の才気を感じさせます。これぞ物部が神の恩寵を受けている証とでも言えましょうか」
「聞こえが良い話だ」
「しかし、姫様に関しましては何も分かりませんでした」
尾輿は術師をまじまじと見た。術師の男は神妙な顔を下に向けていた。
「……人が神を測ることが出来ないのと同じです。私などが力を測ろうなどど、畏れ多いことです。私があの方の名を口にすることは、これから先に一切無いでしょう。私にとってそれは不遜を超えております」
尾輿は言葉が見つからなかった。
「分からないことが分かる程度の私が何を言うかと思われるかもしれませんが、あの方の進む道が物部の道となるでないかと」
「その分からないことが分かる程度が分かるやつはお前の他にいるか?」
術師は首を縦にも横に振らなかった。
「分かった」
尾輿にはその答えが何を意味するかを理解出来た。どちらも正しくないというだけだった。
「俺がまだ生きていることが一番の証拠だな」
汁物を口に運ぶと、すっかり冷えていて、喉を伝う感覚がありありとした。
「この機会に毒も入れれないとはな」
尾輿は食べる気を失って、立ちが上がった。
外はすでに暗くなっていた。