初対面の人間に言う事は様々であろうか。
明け透けに言ってしまうと、そのほとんどが『あなたはどちら様でございましょうか?』ではないだろうか。
布都はまさしくそれに直面していた。
二つの意味で、である。
「お前が女狐だな! 蘇我に何をしに来た!」
布都は敵地という名の新しい住まいで、それまでの様々のものを意に介せずにのんびりとしていたが、どたどたと元気な足音と勢いよく開かれたふすまと威勢のいい声に、
「何じゃ、ちっこいの」
至極めんどくさそうに答えた。
「ちっこいのではない! 私には屠自古という父上に貰った名がある!」
「そうか、ではちっこいの。何の用じゃ」
布都はなんとなく分かってきた。
可愛い可愛いクソガキが可愛さあまって暴走しにきただけだと。
「だからちっこいのじゃないと言っている! どうやって父上をたぶらかしたのかは知らないが、私がいるからにはそう上手くはいかないぞ」
「何がどう上手くいかないというんじゃ?」
「それは、だから、その」
「その?」
「う、うるさいっ」
「何がうるさいのか? ほれ、言ってみろ」
「う、うぅぅ」
言葉に詰まったかと思えば、大きな目がうるんできた。
からかったらからかったまま面白いように反応するので、布都は少し愉快になってきた。
布都は唇を舐めてみせ。
「お主の父上の味はどのようなものであろうな?」
「は?」
そして、いかにも悪そうな顔を作った。
「っな!?」
これまた素直に反応するちっこいの、つまり屠自古に、布都はせっかく作った悪い顔が崩れそうになるほどに楽しくなってきた。
感情のまま、顔が赤くなったり青くなったり。そんな屠自古を見ているだけでも忙しい。
「――ところでお主、最後に父に会ったのはいつじゃ?」
「き、昨日の夜?」
思わず、正直に答える屠自古。
布都は吹きだしそうになるの抑え、さらにたたみかけた。
「そうかそうか。今朝、我のご飯はえらくご馳走だったぞ?」
「は?」
「何言ってんだこいつ」と、屠自古の顔にはまったく隠されていない形で怪訝な顔になった。
「いやぁ、美味かった美味かった」
布都はお腹をぽんぽんと叩いて見せた。
その後、わけが分からないと顔に出ている屠自古を見ると、にやりとまた悪い顔を作った。
――父が喰われた。そう理解した屠自古の目が大きく見開かれた。
「ぬ」
「ぬ?」
「ぬぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁ!」
間の抜けた奇声と共に、走って突っ込んできた。
布都は突っ込んできた屠自古に手を伸ばし、頭を抑えた。
それでもまだ声を上げながら前進を止めない屠自古に、布都は決壊した。
「ぶはっ――」
屠自古は、自身を抑えていた手に力が抜け、何事とかと顔を上げると、上には布都がおらず、足元にうずくまるように倒れているのが見えた。
布都は細かくけいれんするように、お腹を押さえ震えていた。
笑いが止まらない。
このような阿呆初めて見たと、呼吸が苦しいほどに笑った。
生涯ここまで笑ったことなどない布都だが、今はそんなことに気づけるような状態ではなかった。笑止ならぬ笑死しそうになっていた。
屠自古は何だかよく分からないが、馬鹿にされていることは分かった。
だが、目の前にうずくまる者にどうかしようという気も起きなかった。
足音。
男の声。
「……これは何事でしょうか?」
その声色は困っている色をしていた。
「ち、父上っ!? 生きていたのですか!?」
娘にいつの間にか死んだことにされていたその人、つまり蘇我馬子である。
声は困惑そのものであったが、目は何やら面白いものを見つけたような色を映していた。
何やら驚いている娘に、笑いが止まらない様子の布都。
何となく状況がつかめてきた馬子は、
「勝手に殺さないでくれないかな?」
柔らかな声。駆け寄ってきた屠自古の頭を優しく撫でた。
「父上っ、父上っ、今です! 今ならあの女狐を倒せます!」
うずくまる布都から吹きだす声が漏れる。布都は笑いを堪えつつ、顔を上げた。
「……えぇっと、――お主の名はなんじゃったかな」
「屠自古だとさっき言ったばっかりだろう! さてはお前馬鹿だな!」
「ぶふっ」とまたもや吹きだす布都であるが、
「屠自古か。よく覚えたぞ。して、我は女狐でなく、布都じゃ。そう呼ぶがいい」
「女狐!」
「布都」
「女狐!!」
「布都」
布都は考えた。
「……そう言えば、お主は馬子殿の子だったの。であれば、我は義理とはいえ母であるな。母上、そう呼んでくれてもよいのだぞ?」
「ふざけるな! 誰がお前を母などと呼ぶか!」
「母上」
「女狐」
「母上」
「女狐」
「布都」
「ふと。――あっ」
またまた布都は吹きだした。
「……いずれ母と呼ばせてやろうぞ?」
「うっさい、ふと!」
顔を真っ赤にし、ぶすくれながら部屋からどたどたと逃げ去っていく屠自古の小さな後ろ姿を布都はにまにまとした笑みで見送った。
そのままの機嫌のまま、馬子に話をふる。
「おや、馬子殿。生きておったのですか?」
「ええ、ちょっと黄泉返ってみました。おかげで面白いものも見れました」
面白いものとは、布都は少し思案して――
「我もあのように面白い者は初めて見ましたなぁ」
思い返すと、くつくつと笑いが出てきた。
「いえ、貴女の方ですよ」
「我が?」
きょとんとするも、すぐに意味が分かった。
「……あぁ、実に面白かったので――」
また笑いが出てきた。
こんなに愉快な気持ちになったのはいつ以来であっただろうか。
「馬子殿の子とは思えない、……いや、なるほどあれは馬子殿の子でしょう」
「というと?」
「少々形は違うものの、感じる雰囲気からする根の部分は同じ」
馬子は興味をそそられた相づちをうつ。
布都は少し羨ましそうな目をして言った。
「あれは上のくらいの人間ほど気に入いるでしょう」
人と人との軋轢に疲れた人間ほど、あのように真っ直ぐなものは輝いて見える。
あんなに喧嘩腰だったのに、不思議とすんなりふところまで入り込んでしまう。
屠自古の父、蘇我馬子には、誰かを惹きつけるような武はない。むしろ、どちらかというと病弱で細身である。であるのに、隆盛極まる物部氏と対する位置に居続けているというのが馬子の並外れた才覚。温和な印象ではあるが、立ち位置から考えて見た目通りであるはずがなく、であるが、どうしても当人から受ける印象は押せば倒れるのではないかというくらいの雰囲気の柔らかさ。
どういった手を使って物部氏に対抗し続けているか、そんなこと布都にとってはどうでもいい事であった。馬子がどういう人間であるか、必要な情報はそれだけで充分だった。馬子を知れば、結果が見える。結果に至った手段などせいぜい書物か何かに記する程度のものでしかなく、そうでもしなければ人の記憶にも残らない。文字ではそうそう表せないものこそが重要だった。
「ではさしずめ貴女は壁の上で下に向かって睥睨しているお姫様といったところでしょうか?」
「いえ、我の下には誰に居ませんよ」
布都は謙遜するように首を振った。
――上下左右居らぬだがな。
今度は少し寂しそうに首を振った。