星は巡る。
その軌跡を追えば一つの線になり、それはまるで空を掻いたように、もしくは細く腫れ上がったように。
夜が廻り時を示す。
時は背中を押すように迫ってくるのか、それとも前を行くように先を走っているのか。それとも共にあるのか。行くものか来るものか。
――百鬼夜行とはこういうことか?
とは布都の皮肉。
生き物には生存本能がある。それはそのまま生存のために働くものであるが、だからといってそれがいつも生存に繋がるかどうかは決まっていない。
生き物、もしくは生き物だったものが、おおよそ同じ方向に走る、飛ぶ。
夜。
山道。
都からは近くはなくも、それほど遠いというでもない山。
人が切り開いた痕のある道を行く。
――愉快。
布都はあの夜の欲求に従い、翌日の夜、屋敷を抜け出していた。
血にまみれたくて仕方がない。一度その欲求に気づけば、なかなか我慢する気にはなれない。今の平穏な暮らしもまた満足のいくものであったが、それでも足りないものを見つけてしまったのならば、それにあがらうことを選ぶことなんて出来ようか。
――数日居らんだったなら、屠自古はなんと言うだろうか。
なんとも久しぶりに見る有象無象の妖怪の波。
思えば久しく来てなかったと、布都は思うもそれどころではない。
前には見つけるのも困難になっていた妖怪どもが、溢れるほど、いやむしろ溢れて押し出されてきたかのように布都の元までやってきていた。
違うのは、そのどれもが布都に目がけて来たのではなく、何かから逃げてきたかのようであること。
しかしその先が物部布都。
皆、死んだ。
「一体、何から逃げてきたというのか。その先が我であれば意味をなさぬというに」
恐怖ゆえに逃げて来たのか、それとも恐怖から逃れに来たのか。
死とは平等に死であるからゆえに、救いにもなりえた。
――どうせなら我から逃げればいいものを。
嫉妬というには違うけれども少し似た苛立ち。
深まる夜。
山の奥深く。
その先へ。
道標は川の水流のように流れてくる妖怪の群れ。
景気づけだと、派手に殺傷していく。
蒸すような温かみのある臭気が、収まりきれなくなったように、濃く、濃く、広がっていく。
血に酔っていく。
――勘違いの阿呆を見に行くか。
元よりそのつもり。
鬼とやらが見たかった。その後は深くは考えてはいない。なるようになるであろうと、そのくらいしか。
生も死もその程度でしかなかった。少なくとも、すこし前までは。
屠自古に会うまでは。
――なんとも。
寂しく思ってほしいと思っていることに、布都は気づく。それについて明確な言葉が出せないことに困惑した。
悲しんでいる顔は見たくない。そうなるのであれば、いっそ忘れ去ってほしい。
いつものような照れが交じったような笑みのままでいてほしいとすら思えてくる。
時が止まって、永遠にあのほがらかな楽しい時間が続いてしまえばいいのに。
その想う全てを肯定しながも、布都は足を前に進める。
楽しければ、もっと楽しもうとするのが人に備えられた欲であると。
延々に満足せずに欲に準じて追い回す。片方が満ち足りれば、もう片方の隙間を埋めようとする。
――あぁ、心が躍る。
目の前では鮮血が吹きあがる。
逃げてきた妖怪を一つ残らず殺傷する。
――血も、肉も、踊り上がって天へと昇ってしまえ。
布都は口元をつり上げる。
楽しくて仕方がない。
得ることが出来ない、その両方を掴んだ、そんな気がした。
「お」
声が出た。
多少距離はあるが、感じた。
叶うことが約束された期待ほど気分がよくなることもそうない。
前菜を心良く楽しんでいる最中に、主菜の芳醇な香りが鼻腔を喜ばせるような。
遠くとも感じるその気は、まさしく最上級。
少なくとも今までで最高。
きっとそう、たぶんそう。おそらく、間違いなく、そう。楽しみ。
足が自然と早くなる。
地を蹴り、空を跳ぶ。
もう雑魚妖怪など放って。
早く進むと、さらに早く早くと足が進む。
視界がぼやけ線や面になっていく。
風音が強くなる。
そして、
「――ほう」
着いた。
後ろ姿。
思わず感嘆が出る。
いびつなコブのような岩の上に座るそれは、まさしく――。
「鬼か」
それは振り返る。
額から角が様はまさしく鬼。
「人か――」
「どうかな?」
軽口。
「ようやく来たか。その姿、巫女か何か?」
「違うが」
「そうか。まぁ、いい。待ちに待った」
鬼が立ち上がった。
向かい合う。
「生贄、ではななそうだな」
「あ?」
さっきから話が通じていない気がしていたが、どうやら本当にそうらしい。
「人にしてはそれなりの力を感じる。我は、ここよりずっと東からやって来たのだ。なに気負うことはない。お前程の巫女はいくらか見た。――さて本題だ。我を楽しませるがいい。もちろん命がけでな。満足出来なければ、お前たちの町を滅ぼす。これが鬼の遊びぞ」
布都は深くゆっくり息をした。
なんだかよく分からないが、今生最高に侮辱された気がした。
「堅くなる必要はない。鬼と人、そこの差は天と地より広い。それは道理。しかし、お前はお前の全てを見せて我を満足させねばならない。その為にお前は我の元に来たのだろう」
布都の表情から喜色の面だけが抜け落ちていき、瞳が極度の冷気をもって鬼を見据えた。
「何を固まっている。さっさと来んか」
その言葉に布都の何かがキレた。
布都は口を開く。
「――お前は、角を折り、顎を砕き、四肢をもぎ、腸を引きずり出したのち、肝を喰らって殺してやる」
誰に口をきいている。
「興がそがれた」
寸前まで楽しい気分だったのに。
もう――。
「死ね」
布都の抑えていた霊力が解放され膨れ上がる。それに妖力も混ざり、説明のつかない混沌としたものになる。
「空想の道理に溺れて消えろ」
腕を振り。一閃。
黒い刃。
それは鋭い刃、ではなく、空間を吸い込むようなそんな異質さを持っていた。
「んん?」
鬼はその飛刃を手でつかみ、握りつぶした。
「これは面白い」
鬼の口元が歪む。
「もっと見せてみるがよい。楽しめそうだ」
布都の脳が怒りと冷たさを保ちながら、目の前の光景に相手が鬼であるということを再認識させるに至った。
――くそが。
布都は跳躍した。
宙に上がった布都は、そのままとどまり、大きく手を広げた。
鬼を中心とした風の渦が起こる。
竜巻。
霊力が練り込まれた鋭い風は刃となり、岩ごと周囲を切り裂く。
が。
衝撃。
空間が揺れるような音と共に、掻き消える。
――殴ったのか。
見ていたからそう思った。
だが、それが真実なのか疑う気持ちもあった。
しかし、たしかに殴っていた。
鬼は無傷。
布都は目の前の者が鬼であることを、また再認識させられることになった。――いや、ここでようやく鬼というものを理解させられた。
理不尽なまでの力。
およそ人の身では届きうることが出来ないだろうと思わされる程の差。
単純に、傷を負わせることすら出来ないかも知れない。文字通りの必死でようやく傷をつけられるのではと。だとすれば、どうやって倒すまで至るのかと。いや、どうしようもないという答えが出るのみであると。
――それでも。
布都は地に手を着いた。
鬼の足元から土が盛り上がり、鬼を跳ね上げる。
宙に浮いた鬼に向かって、地面から伸びた土の矛が殺到し、――砕ける。
即座に炎を作り、地に降り立ったばかりの鬼に向かって発射する。――も、腕を払われて霧散する。
――これが、これが鬼なのか。
悔しかった。
悔しくて仕方がなかった。
よもや、
――この物部布都が全力を出さねばならぬのか。
布都は息を吐いた。
――おののけ。
布都か立ち昇るものが一気に増す。
布都の瞳が鬼をねめつける。
――お前が誰に向かって何を言ったのか、分からせてやる。
こいつは、我をご機嫌伺いに来た巫女くずれと思ったのだ。
こいつは、我を他の人間と同一と見た上に、それらの為にやってきたのだと思ったのだ。
こいつは、我が万に一つにも敵うことがないと、そう思ったのだ。
鬼と人である、という理由だけで!
――こいつのこいつたる部分をずたずたに引き裂いたのち、殺してやる。
許されることではなかった。
憤怒を込め、それでも抑え、想いを口にする。
「届く、届かぬではない。上に居たつもりでもなったか木偶。増長が行き過ぎて角が伸びたのか? 思い上がるなよ」
誰に口を聞いたか?
「我は物部布都である。道も無くば理もない」
何かを握りつぶすように、手を握る。
「また、未知も無くば断りもない。一切のそれが更新されることなく、ただ前もって決まっていた事実が訪れる」
見据える。
「お前のくだらない敗北という死」
それが事実であると。
「教えてやる」
口を歪め。
「我は物部布都。それだけよ」
宣言した。
布都は駆ける。
即座に鬼のふところに寄り、遅れて向かい撃ってくる拳に構わず掌底を放った。
空に打ち上げられた鬼、両手に力を練る布都。
鬼は布都を見下ろし、布都は鬼を見上げる。
そこには物理的なものと、精神的なものが同一していた。
布都は示す。
――お前が上に居るのではない。
ただそう思うだけであると。
そもそも基準が違うのだと。
上も下も、右も左も、どこかひっくり返してしまえば狂ってしまう。基準とするものを変えてしまえば、全てが変わる。そんなものでしかないのだと。
――勘違いに我を付き合わせた報いを受けろ。
布都の両手から視認可能になった力が鬼へ向かって放たれる。
それは二対の蛇が絡み合うように鬼へと向かう。
霊力と妖力。およそ合わさることのないそれが、自然と共生したように存在している。そしてそれを覆うように禍々しい瘴気のようなものが包んでいる。
威力だとか貫通力だとかそういうものではなく、ただただそれを受けてはいけないと、鬼にそう思わせるものがそれにはあった。
空中で身をよじり避けようとする鬼であったが、叶わない。
布都の放った光線は周囲を巻き込むように進み、わずかにかわしたはずの鬼は空間ごと引き寄せられた。
鬼の横腹を存在が矛盾しているような光線がえぐった。
「ぐっ」
鬼が地に落ちる。
轟音と土煙が舞い上がる。
鬼は立ち上がると、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、――何だ?」
布都はせせら笑う。
「愚か者め。物部布都、そう言ったであろうが」