馬車などという楽な乗り物はなかった。
この地には元々馬という生き物は存在しておらず、馬がこの地に入ってきたのも最近のことであった。いくら物部氏といえどもまだ所有していない。
布都を連れた物部の一行は朝一から歩いていた。
布都は朝が嫌いだった。夜が明けるというだけでも気分が良くないのに加えて、朝というのはどうにも騒がしさの前触れのようで好きになれない。それを朝に起こされた挙げ句、歩かされている。
目的地に着かない限りはこの気怠い歩み終わらないが、着いてもまた気怠いものが待っていた。到着して布都が連れて行かれたのは宮中の宴会場のような広場だった。
そこでは音曲が奏でられ、愉快そうに酒を片手に談笑している者たちが多くいた。
(なんとつまらないことか)
広場には屋根だけの建物が四方にあり、自然とその屋根に人が集まり、そのままその集まりが勢力分布図のようになっていた。分かりやすく、臣と連とで分かれている。
物部氏も大連として屋根の中心で、大いに談笑を楽しんでいた。
布都はそこに混じらない程度に距離を取っていたが、着いた当初からずっと視線が向け続けられている。あからさまではないにしても、布都には鬱陶しかった。
「はぁ……」
そして単純に視線の数が多い。見世物になった気分に徐々に我慢が出来なくなり、布都は不機嫌を表に出し始めていた。特に、物部尾輿に
目が合わないように視線を散らしていると、あることに気づいた。
(そういえば子供が多いな)
そもそもこういう場に来ない以上、比率など知りもしないことだったが、見渡すとやけに多かった。耳を澄ましてみると、どうやら今回が特別にそういうものであるらしかった。
自分たちの未来を自慢するかのように、我が子を自慢し合っていた。謙虚な言葉で迂遠に自慢するその言葉の遣い方が布都にはどうにも気に入らない。隠した欲が隠せていない上に自己を取り繕おうする精神が、ひどく醜く感じた。
その中に自身の父の物部尾輿も含まれているのだから、布都としてはため息も出ない。尾輿は自慢に返ってくる返事を、気分良く愉快に受け止めていく。
その度、集まる視線が増えていく。
――不快極まる。
話のダシ、それか酒のつまみ。布都は、口に入れられ噛み砕かれる食べ物を想像した。
しかし、まだ始まったばかりである。
「あの、話をしても――」
布都に言わせるところの積極性が長所だと勘違いした阿呆が近づいてきた。
一人話しかけに来たと思うと、好機とばかりに数が増えた。
「私は――」
「布都姫でありますよね――」
大方親に何か吹き込まれているのだろう。返事の有無に関わらず、しつこく話しかけてくる。
身分的にもまともに相手もする必要もない。布都は時が過ぎゆくのだけを待った。
そうしてると、
「――布都よ。こちらに来い」
ついに尾輿に呼ばれた。
愉快なことが起きないのは分かっている。
「はぁ」
義務を果たすしかなかった。少なくとも今は、まだ。
「ほぉ、そちらが――」
目が合う。尾輿と同じくらいの年の男。先程から視線だけは送ってきたくせに、初めて見るかのように、上から下へとじっくりと見られた。
「布都よ、挨拶をせぬか」
頭を下げるだけにとどめた。
(口を開けば呪詛が出そうだ)
尾輿は取り繕った。
「いや、悪くは思わんでくれ。この子はいつもこのような感じでな」
「なるほど、将来は大物かもしれませんな」
「いやいや、これが中々大変でしてな」
「うちの息子の嫁に欲しいくらいですよ」
「おお。そう言っていただくと、親としても安心出来る」
自分のことを、自分を置いて話している状況。
布都は頭を下げたまま聞いている。
こういう目にあうのは分かっていたが、ここまで不快な気分になるとは思わなかった。
(これ以上は付き合いきれない)
一つ息を吸い、一言絞り出す。
「――ではこれにて」
そう声を発すると、すぐさま背を向け歩き出す。
ようやく顔を上げると、少しすがすがしい気持ちになった。義理は果たした。少なくともやるべきことはやった。それが期待通りではないとしても。
――何処か。
見渡すと、再び会話の機会が訪れたとばかりに、どこぞ子息らがこちらに意識を向けているのが分かった。冗談ではない。
これに毎度のごとく付き合ってる兄を想うと、布都は素直に感心した。その兄は、若いやつらが集まっている中心で談笑をしていた。
(行くわけにもいかない)
布都は行き先を見失ったままだった。
大いに困ったが、その矢先、場の空気が変わった。
確認してみると、広場に武具が運び込まれ、それによって人の興味が移動していっていた。
どうやら見世物が始まるらしい。
すぐに手を挙げたどこぞの子息らが、広場の中央で棒で打ち合ったりと、自身の才を見せ始めた。
(その手の棒と何が違う)
自身を誇示するための道具。振り回しているのは棒か自分か分からない。
布都は、周りの視線は中央に集まってることに気づいた。
(逃げるなら今だろう)
休憩場のような場所があることは先所に教えられていた。
向こうと、先着がいた。
若い男。年は守屋と同じくらい。
目が合う。
「――っち」
抜け出せたと思ったのに、人がいる。
布都は無表情のまま、瞳に不機嫌さを映つして見せた。何処かへ行けと、言外にそう伝える。道理で言えば、去るのは後から来た自分の方であることが分かっている。言葉には出来ない以上、視線で察してもらうしかない。察しさえすれば、身分を考えてすぐに何処かへ行くだろう。
が、男は和らげに笑うだけで動かなかった。
細い体つきの男である。おそらくは病弱であるために広場の見世物に参加出来ずに抜け出してきたところか。そう、布都が算段をつけたところ、
「ああ、先ほどずいぶんとつまらなそうにしていた方ですね。お戻りになられると皆さん喜ぶと思いますよ」
と、攻撃してきた。喧嘩を売っているらしい。
「……名を名乗れ」
睨めつけながら言うも、
「人に名を聞くのならば、まずは自分からではないでしょうか?」
意にも介さず返してきた。
「我が名は物部布都である。それ、名乗ったぞ」
名乗ると同時に、催促する。
(何処の誰かは知ったことではないが)
売られた喧嘩は買った。
だが、
「なるほど。物部の姫様でしたか」
目の前の男は態度を変えずに、その次を続けた。
「私は蘇我馬子といいます。これもなにかの縁。どうでしょうか、仲良くしませんか」
布都は即答出来ず、何度かまばたきをした。
布都は政治には疎い。知ろうとしなかったので知識がない。それでも蘇我の名前くらいは知っていた。そして馬子という名が誰を指すのものかも加えて。
「……仲良くと申されても、お互いの立場がそうはさせないでしょう」
馬子は少し驚いたような仕草をした。
「まさか、その様な言葉が返ってくるとは」
布都は眉をひそめた。
何だかつまらないことを言った気がする。いや、気のせいではない。
「蘇我馬子、でしたね」
馬子という男をじっと見た。
名と顔を憶えた。
――兄上とはずいぶんと違う。
守屋は押せども動くこともないどっしりとした力強さを感じるが、馬子には押してもするっと躱されそうな掴みどころのなさを感じた。
「――で、馬子殿はあれに参加しないので?」
人に殿とつけたのはこれが始めてだった。だがしっかりとやり返す。
「さぞご活躍されるに違いないと思うのですが――」
「いえ、私は不参加にしてもらいました。荒事は得意ではなくて」
馬子はやんわりと受け止めてみせた。
「では、貴方の武器は言葉であると?」
「まさか。私が出来ることは微笑んでいることくらいですよ」
「政治ですか」
「貴女もでは?」
布都は目を丸くした。
「他者の欲を理解出来ない者には無理なものです。貴女なら充分な素質がある。やり合うが楽しみですね」
「いえ、あまり興味がないので」
たった今先程、馬鹿にすらしていたものである。
布都は自分にそういう部分があるようには思えなかったが、目の前の男が言うのならそうなのだろうかと思わないでもなかった。が、自分の言葉に嘘もない。
「興味がないですか。それはまたどうしてでしょう?」
「他人を操ってやりたいことがないからでしょうね」
「ふむ。しかし私としては、やりがいのある相手がいた方が嬉しいのですけどね」
「兄の守屋がいます。充分ではないかと」
「こういうのは多ければ多いほどいいのですよ。その少なさに一度でも嘆いたことがあるのならば、誰だってそう思はずです」
「……貴方に負けるために参加しろと?」
「――まさか。楽しみませんかと、お誘いをしているのです」
馴れ合いと欲が混じり合った醜悪なものが政治だと布都は思っている。この先も変わらずにそういったものに関心を持てる気はしない。
布都は首を振った。
「まぁ、気長にいきます」
馬子は話を終わらせずに、続けた。
「そういえば、恋愛も政治も緩急が大事なんですよ。知ってました?」
「知ってるとお思いで?」
「さて? なにしろ初対面ですので」
布都は脱力し、息を吐いた。
――敵わない。
口では相手の方がずいぶんと上手であるらしい。
苦笑し、布都は白旗を上げた。
「今日は負かされました」
「おや、ひどく負けず嫌いな方と思ったのですが」
「負けたものは仕方ない。認めて次の勝負をする方が、まだ勝てるというもの」
「では?」
やる気になったのかと、馬子の期待交じりの声色に、布都は否定を込めた笑みで返す。
「呼ばれているようなので、行くだけですよ」
肩をすくめて見せる。
参加するのが億劫でしかがなかったお遊びも今ならそうでもない。
「――布都! どこにおったのだ! 探していたのだぞ」
布都は駆けつけてきた尾輿には目線すらやらず、そのまま中央へと歩み出た。用は分かっている。
――何か。
見渡すと、矢の的が目に入ったので決めた。
「弓を」
近くにいた何処かの家人にそう言うと、すぐに持ってきた。
受け取った弓を二度振って見せると、用が済んだのでそのまま返した。
その布都の行為を、矢がないと言外に伝えていると受け取ったのか、
「――い、今すぐ矢もお持ちします」
と、家人が慌てて取りに行こうとしたが、布都は止めた。
「いや、必要ない」
「はい?」
「返すぞ」
布都はそのまま中央の広場から背を向け去っていく。
何事かと布都を止めようと動こうする人間もいたが、その全てが足を止めて同じ方向を見た。
音だった。カランと小気味の良い音、木が鳴る音。
そこには、木の的が四つに割かれ、地面に倒れていた。――いつ切ったのか。そう思うも、布都のやった動作の中でそれに当たるのは、弓を軽く振っていたような動作のみ。皆、理解せざるを得なかった。
布都はそれまでの見世物を、真に見世物にしてみせた。
出て行く布都を止めようとする者はいない。
――帰るか。
布都の足取りは軽くなっていた。