萃香と別れた布都はゆるりと人の世界へと戻ってきた。
向かったのは蘇我の屋敷。
道中、かなりの多くの視線にさらされた。
――無理もない。
かなりの間、姿を見せていなかった。それが物部の姫であり、蘇我馬子の妻という存在であれば当然というもの。
とはいえ付き合う気なんてさらさらなく、視線を無視して歩き、屋敷に着いた。それからも注目は終わらない。えらく驚いた顔の門兵をしり目にして、そそくさと自室に向かう。いくら視線は気にならないといっても限度がある。鬱陶しいと思うのは避けれない。
むすっとした表情で歩く布都。
自室に入ると、匂いがした。
――これは。
鼻の奥から脳天、そして身体の中心にまで、酸いというと違うけれども似たような感覚が走る。
――懐かしいのか。
ふと、物部の屋敷に行っても同じように感じるのだろうかとも思ったが、もう出歩く気にはなれなかった。部屋の空気が身体の隅々まで行き渡ると、途端に気力の全てが沈静化し睡魔を覚えた。それはこの空間と同一になりたいと思うほどのものだった。
布都はさっさとと寝具を用意すると、そのままするりと夢の世界に入った。
これは一種の至福であろう。夢の入り口で布都はそう思った。いや、極楽と言った方が良かったか? と、好きでもない仏経典での知識を巡らせながら……。
蘇我の屋敷は当然大騒ぎになった。
死亡説や誅殺説、様々あったわけだが、当の本人はひょっこり一人で帰ってきている。当然騒ぎにもなる。
とはいえ、そうそうに部屋に籠った布都に会いに行こうとする者はいない。用事という用事もないし、正直に言ってしまえば少し怖いというのもあるだろう。普通ではないというのはそういうことである。ただまあ、例外というのはいるもので――。
知らせを聞くやいなや部屋を飛び出した者がいる。
その者は思考がぐるぐると回っている。
思えば、屋敷内で走るなんてことはもう無くなっていた。周りの視線、礼儀や品に意識がいくようになってきている。それでも走り出した。あれこれ考える前に、体が勝手に動いた。気持ちが背を押すのではなく、気持ちが胸ぐらをひっつかんで身体を動かしたかのよう。
一目散。部屋の前に着くやいなや、扉を横にすっとばす。
「――布都っ!!」
いた。
ただ、寝ていた。
屠自古にとってはそれは少しの安心を覚えさせるものだった。心の準備など出来ているはずもなく、ただ衝動で駆け出していた。何と言えば、何を話せばとか。相手は何思っているのだろうかとか、自分は忘れられたわけではとか。そのような事が言葉になる前のぼんやりした状態で屠自古の脳裏を駆け回り、確かめたくない怖さの中でもただ会いたい見たいという一心で駆けていた。
「……布都?」
屠自古の見た布都は、前と変わりがなかった。すやすやと寝具に身をくるんで寝ていた。時はある程度経ったかのように思われたが、それでも布都に変化は見られなかった。といっても、見たことがない布都を見たには違いなかった。
目を閉じ黙って寝ている布都は、どこか神聖というか生気がないというか、そんな不思議な感触を抱かせるものだった。
起こすどころか、触れるのもためらわれるその様。
屠自古は少しの間見つめた後、踵を返すしかなかった。
そのあと父の所へ行き、事の顛末を語った。
「寝ていて、話せませんでした」
「疲れているんだろう。起きるまでそっとしておきなさい」
「……はい」
屠自古はひとまず頷くことにした。政務で忙しいところに押しかけてきているわけである。そのくらいの分別はついている。
そして立ち去るその寸前。
「あぁ、そうそう。明日は例の人が屠自古に会いたいって言ってたから、空けておきなさい」
「はい。――て、父上っ?」
「うん?」
「その、例の人って……」
「君が都をぶらついている時に絡まれた時に助けてくれたあの人だよ」
「し、知っておられたのですか」
「私は全てを知っているんだよ」
「父上が言うと冗談に聞こえません」
馬子は笑って流した。
屠自古は知る由もないが、その全てが仕組まれたことである。仕組まれたというと策略的であるが、実際は当事者の一人である厩戸皇子が企画した演出というやつである。馬子はそれに乗っただけ。
「じゃあ今日はもうゆっくりしておきなさい。明日にそなえてね」
「はい、そうします」
屠自古は自室へと帰った。
時というのは流れるものである。
緑が茶へ、茶が緑へ。
時などというのは人間が勝手に感じているものであるが、人間がいなくても大地は芽吹きを繰り返す。人間なんてものはその上にいるものでもなければ、ましてや下にいるものではない。単純に共にあるものである。時の移ろいに合わせて芽吹いて咲いて枯れゆくものである。その流れに則していないのなら、自然の中にはいない。つまるところ、人間ではない。妖怪、それとも神、もしくは仙。
「うぅむ」
目覚めた布都はうねった。
長い夢を見ていた気がする。
全てが溶け込んで自らの正体も分からなくなって、でもそれを知覚している自分は在るというような。時の中にいるのに、時の中にいない。妙な感覚。
起きると全てが固定されて見えた。
木の天井。
身を起こすと、知っている部屋が見えた。
「――そうか」
帰ってきたのだと、改めて思った。
膝を立て、手をつき起き上がろうとすると、
「ぅぎゃ」
横に転倒した。
――二、三日くらいは寝ていたようだ。
思いのほか疲れていたのだろうと得心すると、布都はもう一度立ち上がろうとした。
全身の感覚がぼんやりとしている。数日眠りこけていたからだと、布都はすぐに理解したが、また倒れた。
今度は立ち上がりきったあとのことだった。
重心のバランスが取れずによろけてしまい、それを修正出来なかった。
「ぎゃ」
二度の転倒の理由は確かにあった。
布都は左の袖を右手で握りしめた。
布都の右手は抵抗なく左袖を掴みきった。
そこには袖しかなかった。
腕はない。
萃香に消し飛ばされたきり。
「慣れたと思っていたのだが、存外そうでもないらしい」
その萃香としばらく旅をしていたのである。布都としては、まさか帰ってきたあとに腕がないことに煩わされるとは思わなかった。
今度こそと立ち上がると、しっかり立ち、前を見据えた。目的が決まった。
――馬子殿に頼んで、服を用意してもらおう。
袖が長くひらひらしたものが欲しかった。
今も同じ特徴を持つものを着てはいるが、旅の途中に見繕ったものである。生まれも育ちも高貴な布都としては品質が大いに気にくわない。
布都は、馬子の元へと向かった。
「――ということで、服が欲しいのですが」
「それは構いませんが」
馬子にしてみれば久しく顔を見せたと思ったら、いきなり服を新調したいと言われ、さすがに理解が追いつかなかった。そもそも、布都の言う『ということ』とやらも分からない。
「――ああ、屠自古には会いましたか?」
「いえ?」
帰るやいなや寝て、起きるやいなやここに来た。
出会ったのは、すれ違った人間を勘定にいれなければ馬子だけといってもいいくらい。
「貴女が帰ってきたと聞いて、飛んで会いに行ったそうですが寝ていてそのまま引き返したそうで」
「ほぉ、それはもったいないことを」
その時の顔を見たかったと、布都は純粋に惜しんだ。
「ずいぶん寂しがっていましたよ」
「ふむ。……まあ、ゆっくりと待ち構えていることにしましょう」
その方が面白そうだと、布都は悪い笑みを見せる。
「――それで、どうでした?」
「はて、何をでしょう?」
「鬼、ですよ」
布都はきょとんとした表情を作ったあと、にっこりと笑ってみせた。
「気の良いやつでしたよ」
「そうですか」
馬子はおぼろげであるが何となく分かった。少なくとも、鬼に会ったのは確実らしいとも。布都から感じるものも、変わらない様であるが少し雰囲気が軽くなったような気がした。
「鬼というのは酒や喧嘩好きなようで、我々が思っているよりはるかに即物的というか生を謳歌しているというか、まあとにかく愉快なやつらでした」
布都が他者についてここまで喋るのは珍しいことだった。
馬子は少し意外に思い、続きを引き出そうとした。
「鬼と面白い交流を楽しんだようですね」
「うむ。視界が広がったというよりか、今まで見えていたものがより見えるようになったというべきか。とにかく、良い出会いであったと思えます」
布都がここまで物事を好意的に判じ、かつ言い切ることはそこまでない。
続ける。
「ただ、鬼というものに固執するのはよくないかもしれませんね」
「というと?」
「種族問わずに面白いものは面白いということです」
裏を返せば、種族問わずにつまらないものはつまらない。
布都はにこやかな表情を一転させ、含みのある笑みを浮かべる。
「もう少し言うと、つまらないものはせめて糧になるのが義務でしょう」
そう言う布都に、敢えて馬子は改まった様子で言った。
「布都姫。もし、面白いけれど気に入らない者が現れたらどうしますか?」
「……? そのようなことが有り得ますので?」
馬子ははっきりとした声色で、
「きっと」
と、短く答えた。
来月も三回は更新出来るように尽力します