奥の轟きは、地響きを奏でた。
風の音。
大きく、強い。
風は地表をまくり上げ、木々や砂や生き物全てを吸収し大波のように寄ってくる。
自然の前では、人と植物も土砂も区別されない。
神が自然の権化であるならば、その行いもまたそうのようで。
神子は少し首を傾ける。
「なるほど、やはり神とは人間を理解しないものであるらしい」
神は知らない。人がいかに自然と向き合ってきたかを。無情な様を何度も目の辺りにしても、それでもと前を向き足を進めてきたかを。川の流れを操作し、堤防を作り、またそれらを壊されようとも何度も挑戦してきた。
「ただ流されゆく小石のような存在と思うな」
神子から霊力がほとばしる。
天にも届くような絶大さ。
「――救世の道はここから開かん」
剣が高らかに掲げられ、溢れていたそれに集束される。
「人を知るといい」
波と化した風を斬ろうと構えた、ところ――。
背後の気配が動いた。
「力の見せ所だ! 気を抜くなよ!」
複数の人影が前に出てきた。
それは、今、戦っていたばかりの物部の術士たち。
「これは物部と蘇我ではない、人間と神そうだろう?」
振り返りながら言う男。
神子は然りと頷いた。
妖怪の前では組織の枠が無くなり人間という種になるように、神の前でもそうだったらしい。
「享けうる害も利も、ことごとく受け入れれなければいけない時は終わった。今ここで人が神から独立し、己が足で立ったことを証明してみせよう!」
迫る風に対し、突如現れた大きな壁が立ちはだかった。
物部の術士が作り上げたその壁は、明らかに強い意思と共に熟練された技を感じさせるものだった。即座に強大な壁を出現させれる技量を見れば、周りの蘇我の兵たちも、今まで手加減をされていたことに気づく。
ゆるやかに下がっていた敵愾心が、さらに加速して下がった。
この行為をもって、仲間意識が人と神とで完全に分かれる。
「――信仰とは何か」
神子は目前まで迫って来た風を前にして、小さく言う。
「神とは人とは」
風は強大なれど壁もまた強大。
暴風の響きが地を揺らそうとも、人の心までは揺らせなかった。
「答えは、そう」
風と壁がぶつかる。
音が増し、壁の端の方から風が舞い込む。
決して軽いものではない。
けれども、人々は前を向き続けた。
「ただの意思に過ぎない」
風は霧散した。
同時に壁も解かれる。
辺りの興奮も前に、神子はすでに前傾姿勢をとっていた。
踏み込み、地を蹴る。
眼前。
一閃。
剣戟は光の線となり、神を通過した。
さらに一閃。
斬られた断面が白い筋として現れた。
神から憤怒の表情が出る。
「邪魔をするかニンゲン!」
叫ぶ神。
神子は目を細めた。
「おや、ようやくそれっぽい感情が見れましたね。初めからそうしていれば、愛嬌があったと思いますよ」
「これは依り代にすぎぬ。神はお前らと違って実体に縛られることはない!」
「もしや中身がないから、そのように弱いので?」
「弄るか」
「悔しいのであれば、もう一度やってみますか? しかし私も暇ではないので、その前に斬らせてもらいますが」
「ニンゲンっ」
憤怒に苦味が混じる。
「依り代と言ったわりには、効果があったようで。ああ、そういえば弱っていたのですっけ? ――敗れて、逃げて」
人の気にしているところを突く。
師は優秀だった。人を感情を逆なでにすることに関しては優秀過ぎると言ってもいいほど。もう一人もそう。およそ悪癖としてしか認められないことであったけれど、実際に試してみると何とも気分の良い事であった。
「さてどうします? 何やらもう私の勝ちのようですが」
さらに挑発を重ねてみると、ふと憤怒の表情が引っ込んだ。
教えてくれていないこともあったらしい。
急に我に返ったかのような変化。
何事だろうか。
分からない。
神の口がゆっくりと開かれる。
「……諏訪子。あれだ」
固い表情。視線が横へ。
そこには、少女がいた。
「それは最終手段だって、自分でも言ってただろ」
「今がそれだ。どのみちこのままでは――」
「知らないぞ」
「時はそう長くは待ってくれない。私が私として存在し続けるために、必要だ」
「だから言ったんだ。お前は焦りすぎだって。結局焦ったせいで、何もかも足りなくなったじゃないか。お前は馬鹿だよ、加奈子」
「そうかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない。所詮自己を規定出来なくなった神なんて大したものじゃない。おかげで、いくらでも汚れられる」
「……忠告はしといたからな」
「ああ」
不穏な会話。
楽観視した覚えはなかったが、底冷えのするような何かを感じた。
視線が戻る。
「――ということだ、人間諸君。もうごちゃごちゃとしたのは抜きだ。分かりやすくいこう。皆死ぬ。それでいい。ずいぶん分かりやすくなった」
重たいのに軽い、軽いのに重たい。
違和が重なっていく。
「皆と言いましたか? 残念ですが、他は知らずとも私は死にません。というか、神もそうでしょう」
「いや、死ぬ。お前らのとは少し意味が異なるだけだ。それを踏まえて、もう一度言おう。皆死ぬ。上手くいけば生きる。私か、お前たちか」
「話が見えませんね」
「言葉でなく現実で語ってもいいが、少し急だな。一度行ってしまうともう後戻りは出来ない上に、無い時間がさらに時間が無くなる。残っている時間を燃やすような行為なのさ」
「それをするということで?」
「そうだ。そして、どうあっても邪魔をするのだろう?」
「邪魔をしないとどうするのです?」
「死んでもらう」
「邪魔をすると?」
「死んでもらう」
「我々がどうすると思います?」
「死人はどうにも出来ない。ただの力の一部となったものに意思などは存在しない」
「では我々は生きましょう。過去の英雄。私だけはそう呼ばれないのです」
「望みは?」
「さて?」
公然には出来ない。
代わりに笑って見せる。
――不老不死。
そんな言葉を隠して。
◇◆◇
神を蝕む力。およそ適正頼りのそれは、加奈子の神としての属性とは合わないものだった。本来、神格の高い神ならばある程度なら耐えきるのだが、諏訪子のそれは特別。
だからこそ加奈子は、諏訪子を下に付けようとしたし、成功もした。その代償に、残りの時間が大きく削られることにもなったが目的さえ果たせば全ては良しと出来た。
だがそれは正真正銘の最期の手段だった。
文字通りの最期。実行すればそれが最期。
当初はそれに耐えうる道具を手に入れて、それに憑依させるつもりだった。だが、事が急変しそれも上手くいかなくなった。道具はまだ認識出来ておらず、人間の反意にも受けられない。保険で打った手も駄目だった様子。
毒を食らわば皿まで。
こうなればさらに怨恨を喰らって少しでも力を得るしかない。全ては目的を果たさんがために。
「――諏訪子」
「残念だよ」
「悪いな」
「まったくだ。せっかく色々考えてやってたのに、台無しだ。私の徒労をねぎらうには、一言じゃ足りないね」
「そう言うな。もう最期なんだ」
「ほんと馬鹿なやつ」
「そうだな」
「……はぁ。言っとくけど、私の勘はまだ死んじゃいないんだけどね」
「だがもう待ってられない」
「そーかよ。これだけ言って駄目なら、もう仕方がない」
「ああ」
諏訪子はゆっくりとまばたきをした。
「――サヨナラ加奈子」
地上から黒いモヤが湧き出す。
触れるだけで身が汚れるようなそれは全て八坂加奈子に向かっていった。
収まり切れず、溢れる。
それは全盛期をも超える力、なれども時限付きの力。
加奈子は想像を超えると充分に想像していたそれに叫んだ。
苦悶。
想像で補えるものではなかった。
想像を超えるものを、いかに想像を超えるものとして想像したからといって想像し得るだろうか。加奈子は自身に集まった力を留めておくことすら困難だった。
「っぁ――」
それは誰の声か。
加奈子の身体から押し留めておけなかった力が、周囲に散った。力は怨恨。怨恨は帰るべきところに帰ろうと、ありもしない故郷を探し、たどり着いた。怨恨の元は――。
「っあ、ああっあ――」
そこらじゅうから叫び声が上がる。
生きたまま火で炙ったかのような断末魔。
人から生まれたものは人に帰るらしい。
加奈子から溢れ出したそれらは、周囲の人間無差別にやって来た。
怨恨に包まれた人は叫び終わると、人の形を保ったまま、動かなくなった。
「ぉ、おい! 大丈夫か! 返事をしろ!」
似たような声が辺りから上がる。
返事はない。
ただ、動かない。
物部の人間から、思い当る者が出てきた。それは悪い予感。
「――っ近づくな! 絶対に!」
それは例の戦闘が色濃く記憶に残っていた贄個だった。
「何もしなければ事は荒立たない!」
樹海の戦闘。手を出すまで大人しかった異様の妖怪。
贄個の中で繋がった。
「とにかく距離を離せ!!」
それは悉く正解だった。
「――何故知っている」
加奈子はようやく抑え留めることが出来て、周りを認識出来るようになってきた。しかしそうなると、何故か自分が諏訪子との戦闘により苦労したことを人間が既に学習済みかのように動いている。
「決して、決して、手を出すな!!!」
贄個の叫びに、皆が従う。
加奈子にすれば、驚くべきことだった。諏訪子の領を侵略しに来た時に、動物を掛け合わせ穢れを含ませたものは恐ろし手こずらされたものだった。手さえ出さなければ、何もないないなどと、どうして戦闘の最中に思い至るだろうか。しかし、それを人間がやっている。それも事前に知っていたかのように。
「たったの一回でも、攻撃に当たれば終わりだぞ!」
知っているといっても、その度合いがある。明らかにこの人間は知りすぎている。
「――そうか、お前たちはすでに体験していたのか」
理由は分からずとも、理解はした。しかしせっかくだ。活かさないにしてはもったいない。
「敵味方の判別付かない。そんなことも知っているのだろうな?」
加奈子は怨恨に呑まれた人間たちに向かって、腕を振る。
風の刃が飛び出し、巻き散る。
それを起点として、動き出した。
「っぁあっぁあっあああああ――――」
喉が限界を超えて響きを発する。
この世の不吉の全てを詰め込んだかのような共鳴が、周囲で鳴り渡る。
もうそこには意思はない。ただの反応だけ。与えられた衝撃を吐き出すだけのモノと化した。そのモノが周囲に当たり散らすように衝撃を発し、それに触れた別のモノがまたそれに反応し、衝撃を発する。
「これはっ」
放って置いていいはずがない。しかし、どうするか。およそ人間が関わっていいものではない。だからといって逃げることが出来ようか。柱で円状に張られた結界が絶望を具現化したの壁のように感じられた。
――どうしたって逃れられない。
そんな想いが周囲の人間に伝播する。
が、その周囲には入らない人物がいた。
首を傾げると、頭から伸びる二本の角が斜めに空を掻いた。浮かぶは不敵な笑み。吐き出すそれもまた同じ。
「道が一つに絞られたというのに、一体どこを向いているのです?」
不思議な安心感、そして勇気があった。
「見る方向は皆同じでしょう?」
指導者とは何か。英雄とは。偉人とは。
「下ではなく、前」
人に道を、歩く方向を。
「迷ったのなら、私が指し示してあげましょう」
剣が掲げられ、前へと向けられる。
それだけで充分だった。
沈みかけていた人たちは立ち直った。
――今この場で立たないでいるなんて、どうして出来ようか。
突如友人が化け物なったとしても、自らの運命を予感させられても、ただ前を指し示されるだけで立つことが出来た。支えられたとしても、立ったのは間違いなく自分の足。前にふみ出すには充分だった。
「おおお――」
喚声。
影も光も全て吐き出した。
身一つ、心一つ。
――皆と共にあらん。
その先には、
「死ぬことは許しません。生きて私の雄姿を見るのです!」
神子は気持ちよく駆けた。背中に心地よい圧を感じた。
手始めにと、前方にいたソレに斬りかかる。
緩慢なソレは、容易に神子の剣の侵入を許した。
が、それだけだった。
――この、手応え。
神子は理解した。
もはや肉体は機能していない。まったく別のものが人体の形を取っているだけ。よって肉体の破壊は意味をなさない。浄化させきるように、消す以外にない。
が、それにはあまりにも――。
「……手間のかかる」
周りの数全てを相手していれば、霊力は尽き切るだろう。それどころか、足りるかどうかも怪しい。すぐに物部の術士を頼るのが最善の策であると覚ったが、問題はその後である。これらは明らかにあの加奈子という神が吐き出した余剰である。もし同じ原理で倒さなければならないのだとしたら、とてもじゃないが持たない。可能性があるとしたら、周りの全てを放って置いて、今ある全力で神に向かうしかない。
――策が……。
もしここで神以外のものを無視すればどうなるか。全てが上手くいった時、名声はどうなるか。人は元凶より直接自分に近いの恐怖の方が優先される。誰だって自分に向いた凶刃から救ってくれた人間の方を重く見る。よってこの場合だと神を倒したとしても同程度であろう。神子にとってそれは事後処理の観点からすると避けたい。折半に持ち込みくらいじゃ足りない。どちらの戦闘にも自分が都合良く顔を出すしかないが、どうだろうか。それだと大前提の神に対抗出来るかどうかが怪しくなる。
考えている時間はない。
徐々に徐々に、安地は減っていく。
後方はおそらく結界の壁ぎりぎりにいるだろう。
前は敵の鬱陶しさに有効打は与えれない。
物部勢が果敢に攻撃を開始するも、状況を打開するというほどではない。このまま何事もなくいけば、もしかしたら――なんてところだ。
そんなことをあの神が許すはずがない。
結局のところ、神を相手にしなければならない。
「嫌な立場だ」
無事に帰れたとしても、蘇我馬子とかいう化け物に何を言われるのやらと考えると、ひどく億劫である。
――そう言えば。
化け物といえば、もう一人。