押し殺した悲鳴。声を出すのさえも恐ろしい。自己の存在が一時的に無くなってしまえばと思えてくるような状況。しかし、現実そのようなことは起こらない。彼、彼女らの存在は確かに現実世界に在って、世界の物理法則の中にある。肉体は壊れるものだった。
恐怖を感じる以外に許されるものが限りなく少なかった。悲惨だった。抵抗出来ない死がすぐそこにあった。戦うことが出来ない。ならば逃げるしかない。しかし結界がこれ以上先に行くことを妨げていた。逃げることが出来なければ、他に何が出来るというのか。
神は区別しない。その神から吐き出された怨恨もまた同じく。
怨恨は非戦闘員の集団にも飛んできた。
逃げようにももうすでに結界の端。身を押そうが、人でつっかえるのみ。
――どうして。
屠自古は呪うしかなかった。
自分を抱えてここまで連れて来た人が――。
――どうしてっ。
急に投げ飛ばされ、この身だけは助かった。
振り返ると、人の形が崩れていく様が見えた。今の今まで自分を抱えてくれていた腕は黒く染みわたり、そこから気味の悪いぶよぶよとした芋虫のようなものが毛みたいに生え出てきた。妙な水音がすると、動き出した。
身体が捻られ、続いて腕のそれが振り回される。
屠自古はとっさにしゃがんだ。
上から音と風が通過するのを感じると、背中の血液が後ろへ飛び出るような感覚がした。
辺りを見渡すと、周りを見ると人が減っていた。
「ぁ」
人は減っていない。
減ったと思った人たちは、吸いついたようにバケモノから腕から伸びたそれにくっついていた。それは人をくっつけたまま上に掲げられていて、おそらくそのまま下に振り下ろすのだろうということが分かった。身がすくむ。自分だけ助かった罰かもしれない。もうたくさんだ。少しだけ生き長らえたせいでこんなに怖い思いをするのなら、もういっそ何も感じなくなる方が――。
「――お、ここにおったか。見つけるのに苦労した」
気づけば目の前に影。
すぐに分かった。
揺れる灰銀の髪。ただ一人しか知らない。
「どうしてっ」
直前まで何度も思ったことが、別の意図で口から出る。
「どうしてとはなんじゃ?」
何事もなかったように首を傾げる布都。この場に似つかわしくなさ過ぎて、どう反応していいのか分からない。
「こう密度が高いと上手く探せんかったな。うむむ」
どうしてアレに背を向けていられるのだろうか。屠自古は泣きそうになるくらいにわけが分からなかった。
「ん? ああ、あれが怖いのか」
布都は首を後ろに向ける。
「まったく、危うく馬子殿にどやされるところだった。馬鹿め」
布都の身体が向き直ると、待ち構えていたようにバケモノより触手が生えて針のように伸びてきた。布都がそれをそのまま素手で受け止めたその時、バケモノの全身が光が内から溢れて霧のように掻き消えた。
「は?」
「ほれ、助けてやったんだぞ。――感謝の言葉はまだなのか?」
「いや、そのっ――」
「なんと……、素直に礼も言えないとは我悲しい」
とてつもなく下手な泣き真似を見せられる屠自古。
まだ下手な真似は終わらない。
「およよよ。育て方が悪かったのであろうか、それとも元が恐ろしく残念だったのであろうか」
「おま、おまえっ」
いきなり現れて助けられて驚いているうちに、気づけばもの凄い罵倒されている。
感情が追いつかない。言いたいことなんて、いくらでもあったのに、そのどれもが今では出てこない。
「い、今までどこにっ」
やっと出てきた言葉はそれだった。そんなこと聞いたところでどうにもならないことは、言ってすぐに分かった。それに自分から聞いたのに、その答えも理由も聞きたくなかった。
「『どこ』と言われると、そうだな。……どこであろうか? 実のところ我にもよく分かっていない。行き着くところが分かっているようなそんな生き方もしてみたかったのかもしれんと、今更に思うところである」
「一体何を」
「っと、これはいかん。関係のない話をした。――というわけで、こういうのはどうであろう?」
にやりと笑い、
「どこかと問われると答えづらいが、今はここにいる。うむ、どうであろう?」
納得のいく答えが出来たといった表情の布都に、一発ぶちこんでやりたくなった。今はここにいても次にはいなくなってるかもしれないのに。やっぱり何も分かっていない。
「待つのは嫌いだ」
「では走って追いかけてみるか? それともぴょんと飛んでしまうか?」
「追いつけなければどうする」
「知るかよ」
「は?」
「待つのが嫌なのだろう? なら追いつくかどうかなんて関係あるまい」
話の本質が分からないまま、乗ってみたが、何だか話が進みすぎてる。
「それに生憎我は追いつかなかったことがない。そら、行くぞ」
「え、どこに――」
布都との距離が近づく。
「待つのが嫌なのだろう? なら迷う必要も探す必要もあるまい」
不敵な笑い。
「あの素敵頭の計画はめでたくご破算よ。我がちょっと良いところ見せてやろうと思っただけで全てを掻っ攫われるのだ」
手が伸びてきて、
「目印は非常に見やすい。天にそびえる変な頭である」
一気に引き寄せられる。怪し気だけど柔らかな香の匂いがした。
「――空を行く我に障害はないのだ!」
片手で引き上げられ、足が宙に浮いたと思うと、すでに空にいた。
「え、う、ちょっ」
「落ちたところで死にはせん」
それはお前だけだろうと言いたくなったが、恐怖で口に出来ない。
感じる風がどんどん強くなっていく。
目を開けているのも怖くて、掴まることしか出来なかった。
◇◆◇
見えないけれど、聞こえる。
風音に他の音が混じっていく。
人の声や物音。木を切り倒したような音が、まるで地面を叩いているかのようにそこら中で起こる。
「――やぁ、生きておるか?」
風が止み、布都が喋ったことで、屠自古は目を開けた。
布都の白い衣服が見え、そこから視線を伸ばすと、その光景が見れた。黒い鞭のようなものが地面をどんどんと叩いていたり、人がそれに対抗している様子が。
屠自古が神子は無事だろうかと心配した時、
「見ての通りですが?」
その声がして、
「っえ!?」
目が合った。
しかし、すぐに逸らされ。
「……どういうつもりです?」
「安全な所へ連れて来たのだが?」
二人で話し始めた。
「ここが安全に見えると?」
「言葉を変えると、マシなところへ連れて来た」
「……そういうことですか」
この場で安全な地などない。ならば一番マシな所はどこか。それは守る意思がある人間で、かつ力を持っている者のそば。
「で、貴方はどうするつもりで?」
「わざわざ聞くのか?」
「楽しそうだったので」
「つまらないものを楽しもうとする勤勉さと謙虚さを身に着けようと思ってだな?」
「ならさっさと諦めることをおすすめしますよ。それは無駄というものです」
「ちょっと見ないうちに口が悪くなったな。舌の上で毒でも転がして舐めてるのか?」
「たいへん美味ですよ? 舐めてみます? 口移しでもいいですよ?」
「阿呆め」
噛み切られたいのか。言外にそう言う布都の表情は、言葉に反して楽しそうだった。
「じゃあ――」
「うむ」
遊びはそこそこ。やることはやらなければいけない。
布都は、神子へと屠自古を押しやった。
「私のそばから離れないように」
神子は片手で屠自古を抱き寄せ、もう片方の手で剣を持ち、前へ突き付けた。
「――道は光が通った軌跡」
もう神子は神の対処を布都に任せた。よって力の配分をする必要がなくなる。
「影は退くがいい」
剣から発せられた光はその一切を押しどけ、放射状に広がっていった。
周囲に極光が走り渡り、怨恨のバケモノは大きく打撃を受けたようにのけ反った。
布都はその間を駆け走り、神へと向かう。
事態が動いたと、周囲の人間は絶望の訪れを遅れさせるだけ時間が、本格的に変わっていくのを感じた。
だが、それを感じたのは人間だけではなかった。
「――絶望の産み方を知っているか?」
上空より見下ろしていた神から、黒いもやが溢れ出す。
「望みというのは順序通りに絶えさせると効果的だ」
走り寄っていた布都に、もやが迫る。
それが人をバケモノへと変異させたものであると、皆すぐに分かった。
布都は避けない。
――全てに通じる術などない。
そのまま突っ切った。
「っ」
神をも含めた周囲の驚愕は無視。布都はただ神を見ていた。
手を握りしめ、霊力を練り上げる。
「やはり火がいい」
拳に火が宿る。
投げつける。
火は神にまで到達すると、火柱となって周囲を焼いた。
正確には火は神を除いたその空間のみを焼いた。熱は神には届かなかった。保有している力が違い過ぎる。今では、先ほどの神子の斬撃でも傷をつけられるか怪しい程に、神の中では力が充溢していた。それこそ抑えきれずに吐き出してしまうくらいに。
「うぅむ」
布都は首をひねった。
周囲の人間も、それが攻撃に値すらしなかったことに気づいた。
だが布都にはそんなことはどうでもよかった。
気がかりを口に出す。
「何か反応しないのか? これじゃつまらんぞ」
そんな布都を、神は無表情で見つめている。
「……何か言ったらどうだ?」
それの返答もない。一体何なんだと言いたくなったが、返事がない以上はかける言葉もない。
口は利けるはずだった。さっきまで喋っていたわけであるし、布都には理由が分からない。
結論から言うと、慣れから生じる思考の偏りであった。
布都がどうしたものかと考え出したところで、神が口を開く。
「――お前は何だ?」
問われた布都は、
「何だかよく聞かれる気がするな。いつも思うのだが、そういうのは口で説明出来るものなのか? もっと言うと、神に分からないものがただの人に答えられるものなのか?」
逆に聞き返した。
「それはお前がただの人ではなく、理より外れた存在だからだ」
「……確かに我は気づいたときから仲間外れだったが、いつの間にか理からも断りを入れられていたとは思わなんだな」
「言葉遊びが好きなようだ」
「好かんのか?」
「非生産的だ。何も産まない」
「娯楽を産んでいるだろう」
「そんなものは仮初めの享楽に過ぎない。真なるものは人間には分からんだろうな」
「これはこれは、よもや風流を理解しておらぬとは。風が肌を撫で、水音が耳を潤わす。そんな楽しみを知らんのか? 風の神と聞いたが、それは偽りであったか? まぁ、実に信用にならない情報源ではあったが」
「――何だと?」
段々と感情を見せ出す神、加奈子に、布都は気分が良くなってくる。
「――ああ、そういえば随分とゆっくりとしてるじゃないか、急ぐんじゃないのか?」
「急いで欲しいのか?」
「なるほど、急げなかったわけか」
「何故そう思った」
「適当に予想を言っただけだが?」
にまにまと勝ち誇った顔をする布都。加奈子の目に熱が生まれる。
「どうやら当たりだったようで何より。どうせ抑えるのに手一杯で馴染むのに時間がかかるのだろう? ろくに人間を知らないやつがそんな力を得るからそうなる」
「お前は――」
布都の言い草に、加奈子は自身の疑問に一つの答えが出た。
「あれを避けたのでも弾いたのでもなく、取り込んだというのか」
答えとばかりに、布都の中身のない袖が盛り上がる。
「種も仕掛けもあるが、そのどれもよく知らん」
袖の先から黒いもやが溢れ出す。明らかに受けた量を上回っていた。
「さて、満腹なところ悪いがおかわりはどうだろうか? きっと美味いぞ」
布都の放ったもやが加奈子に襲いかかる。
「っ――」
避ける加奈子。
「遠慮することはない」
さらに放つ布都。
「元は欲しかったものだろう? 何を避ける必要がある」
布都も動いた。
加奈子の避けた先。
始めから知っていたように、そこへ向かっていた。
「物語の終わりなんてものはあっけないものだ」
一瞬の煌めき。
フツ。淡泊な音。張り詰めた糸を切ったような、そんな音。
光を斬ったかのよう。周囲にいた者すべては、瞬きにも似た一瞬の暗転、そして光を見た。灰銀の輝き。
そして皆が気づいた時、神は落下していて、布都は剣を抜いていた。
剣は淡くくすんだ雪色の光を放っていた。
「猶予なくやってくる断絶には、感情が追いつかないものだ」
落下する神は二つに割れていた。断面から怨恨が勢いよく吹きだしている。
布都は見下ろしながら、剣を腰に戻した。
知っていたが故に気づいた者が、その名を言った。
「――布都御魂剣」
物部守屋の声だった。