布都の眼前には、澄んだ泉があった。波紋も起きないような、静かな所だった。
泉を囲うように木々が茂っており、その空間を陽が照らし出すように差している。
人の欲には際限がないものだ。父よりそう教えられた布都は、何か違うなぁと、しみじみ思った。なにより初めて食った謎の甘い餅がえらく美味かった。
「うぅむ」
茶を啜ると苦味の他に、新緑を感じさせる香りがあった。きっとこの茶も貴重なのだろう。たいへん美味しく、味わったことがないものであった。
茶といえば葉の香りをどうにかしてお湯に移しただけの手間がかかる大して美味くないものだと思っていたが、なかなかどうして今飲んでいる茶は美味だった。きっとこういうのを本物のというのだろうか。しかし、こういうものをしれっと独占してるというのは何ともいい身分だなあと思わないでもなかった。自分にではなく、横の男に対してである。
「どうです? なかなかいいものでしょう?」
男は柔和な笑みで布都にもう一つ差し出した。
「いや、結構。舌が慣れると困る」
惜しい気がしないでもないが、一度断った以上はと布都は未練を断った。
ここには二人しかいない。
「――馬子殿はいつものこのようなものを口にしているので?」
「そうですね。貿易はうちの管轄なもので、美味しい特権のようなものとでも言えましょうか」
「そう聞くと、蘇我が羨ましく思えますね」
「おや、物部でも似たようなものでは?」
蘇我は貿易を、物部は国内の物品を。それぞれ集めて朝廷に貢いでいる。互いに特権に与れている。
「うちはもう少し血なまぐさいので」
「それは共通の課題といえますね」
「誰しも土と血が好物なようで」
「なるほど。しかし、あの方ならどうするでしょうか」
「兄上のことですか?」
「はい。あの方なら、どのような形であれ上手くやるでしょう」
きっとそうだろうなぁと頷きつつ、布都は意外な気がした。
「随分と、評価してらっしゃるのですね」
「数少ない特技というやつです。人を見るのが好きでして」
「――では?」
布都は目を流し、馬子の目と合わせた。
「どう見ていいか分からないというか、定めてしまうと損してしまうような気持ちになりまして」
言葉の意味が分からず、布都は首を傾げる。
「損、ですか?」
「ええ。私は決めるということがどうにも嫌いのような気がして」
「それすらも曖昧ですね」
馬子は大きく頷くと、立ち上がった。
「――しかし、おかげで取り逃すことも減りました」
数歩歩き、馬子は振り返る。
「そろそろ帰りましょうか。間違いが起こらないとは限りませんからね。あの人の命は失うには惜しい」
「その間違いが起こらないと踏んだからこその判断だと思いますが」
「それでも急ぐことに越したことはありません」
布都は立ち上がり、馬子に付いていくことにした。
細い身の背は頼りなかった。それが弱さに見えないのはこの人によるものだろうと布都は思った。
決めるのが嫌いというのは、言ってしまえばどんな時でも最後の一手は残しているようなものではないだろうか。つまり、目に映るものを信じていない人なのだ。苦労するだろう。自分はどうだろうか。
――いや。
今は考えない方がいいような気がして、止めた。
顔を上げると、集団を成した鳥たちが夕焼け前の空を飛んでいた。時間の進みは思っているより早かった。
◇◆◇
布都と馬子が蘇我の屋敷に戻ると、ざわめきたった。どうやらもう帰ってこないと本気で思っていた者もいたようで、ざわめきが慌ただしくなり、やがて騒ぎにまでなった。
走り回る音の中に、力強く確かな足音が混じっていた。
「何を言っている。蘇我の者はまだ恥を重ねようというのか」
それは布都にとって聞き覚えのある、よく通る声だった。
「――布都よ。戻ったか」
「ええ、蘇我の居心地は如何でしたか、――兄上?」
「それが茶も出らんどころか、まともに会話も出来ないらしい」
守屋の後ろには困り顔の男が数人。馬子の指示を求めて、視線を送っていた。
それに対し、馬子は言葉を発さずに、『退がれ』と顎で奥を指した。
「し、しかし――」
馬子の眉間にシワが寄る。
「っ失礼しました」
馬子の機嫌を損なうわけにはいかない彼らは、大人しく退がるしかなかった。
馬子はそれを見送ると、守屋に頭を下げた。
「これは無作法をしたようで、――申し訳ありません」
頭を下げられた守屋は表情を変えずに言った。
「いや、気にしてはいない。そういうものだろう」
「えぇ、そういうものです。彼らが去る必要があったことも、あなたが彼らを鬱陶しく感じたのも、まだ誰も死んでいないことも」
本来ならば、この場で正しかったのは下がらされた彼らだった。しかし、正しさという物差しは俗人のものである。二人は、正しさというものが誰かに用意されたものだということを知っている。
「俺はとぼけられるのは好かん」
「はて」
首を傾げる馬子に、守屋は眉を寄せた。
「今更ながらようやく気づいたわ。まったく情けのないことだ」
この状況は元々、守屋側の仕掛けたものだった。守屋と布都の二人で蘇我の屋敷に押しかけるという、通常ならあり得ない行動。そのまま馬子と布都が外出までするという事態。それらの流れは全て守屋の考えた通りの筋書きだった。悪ふざけにしてはやり過ぎているが、若気の至りということで押し通すことにした。
事態としてはその筋書き通りに進みはしたものの、守屋にはやられたといった感覚があった。
――試したな。
事前に用意したというのは考えすぎだろう。しかし、ある程度の予測くらいはあったのではないか。少なくとも負けない程度の予防策のようなものがあってもおかしくはない。事実、これは勝ちでも負けでもなく、引き分けともいえない。ただうやむやになった。だが向こうにとっては、ちょうどいいから器でも測ってやるかといった感じだっただろう。敵として見合う存在であるかを。
知った以上はこのままとはいかない。やれらた以上はきちんとやり返してみせるのが誠実な対応だろう。
「今度はそちらがうちに来るというのはどうかな」
守屋は馬子の反応を期待したが、馬子は何でも無い言った様子でありながら、
「それはお断ります」
きっぱりと断った。
「ん?」
守屋としてはてっきり乗ってくると思っていた。
馬子は表情を変えずに、微笑を保ちながら言う。
「やはり、相手は選びたいものです」
「相手?」
訝しむ守屋に、馬子は親愛すらこもって見える表情を浮かべて見せた。
「あなたに殺されるのであればまだしも、――それ以外の方では足りませんね。この矮小な命となれど、やはりもったいなく感じます」
守屋は、馬子の命の惜しみ方に外見では分からない狂いを見た気がした。
「……選民思想の持ち主とは意外だったな」
「それは我々が言う台詞ではないでしょうねえ」
「まぁ、その通りだが」
階級があり、身分がある。才能があり、上下がある。
両者ともにその頂点にいるという自負があった。今日、二人はそれを知り合った。
馬子は満足していた。
「それにしても今回のことは驚きました」
「そうは見えなかったが」
「ああいう時は流れに逆らわないようにしています。不思議とそうするほうが結果的に上手くのでね。――私としては、布都姫もこっちの側だと思っているのですが」
「布都が? まさか、真逆だろう」
話半分にぼやっと聞いていた布都は、顔を上げた。
「……なんと失敬な。唐突に話を振られたかと思えば」
布都は反論しようと難しそうな表情をしたが、
「……まぁ、よく分かりませんが。同意するのも癪なので、そのどちらでも在りたくないと答えましょうか」
特に論ずることが見つからなかった。
考えたこともないかった。つまりは自分にとってどうでもいいことなのだろうと思った。
「そもそも、あらゆる言説にさほどの意味を感じません。我々には絶対的基準というものが天より与えられているわけではないのですから」
語りながら、気づいた。
「地上に産み落とされたその時から、我々に与えられたものは全てに対する不信です。あらゆるものに対して疑問を持ちます。おそらく全ての人間が同じでしょう。しかし、その疑いからは暫定的な答えしか得られません。つまり、個人の願望を逸脱しきれないのです。――なので、『どちらでも在りたくない』と答えるのがまだマシな答えと言えるでしょう」
手に入らないからこそ求めるのだと。それが空虚に感じるからこそ、退屈なのだと。
布都は口を閉じた。