さすがに泊まる気まではない。
帰らないと後が面倒である。そもそも抜け出すようにして来ているので、このまま戻ったとしても面倒が待っている。どちらにしても面倒には変わりはないが、軽いに越したことはない。
守屋は周りに聞こえるように言った。
「――では、このあたりで帰るとしよう」
言い終わると、守屋は背を向けて歩き出した。
「帰り道には充分に気をつけてください」
馬子も言い終わると背を向けた。
互いに用はなく、もうこれ以上のことはないと周りに示している。
布都と守屋が屋敷を出ると、空はすでに柿のような暗い橙色をしていた。遠くの空でカラスが鳴いており、夜の訪れを告げていた。
二人の歩いている道は草木が除かれただけの人道で、両脇には人が隠れることが出来るくらいの木々が立ち並ぶように茂っている。
しばらく歩くと、守屋は足を止めて口を開いた。
「鳥がどうして鳴くかを考えたことがある」
長く伸び切った影が、暗闇と混じり合い出し、輪郭だけがようやく分かるくらいに陽が落ちてきた。
「考えているうちに気になった。あれこれと予想してみたのだが、いまいち気に入る答えが出ない。お前ならどう考える?」
同じように足を止めた布都は、守屋を少し見上げると、
「泣きたいから泣いてるのでは?」
首を傾げて、そう答えた。
守屋は鼻を鳴らすと、「まぁ聞け」と言って布都に顔を向けた。
「俺は2つに絞ってみた」
守屋は左手の人差し指を立てた。
「1つは、恐怖だ。一人では耐えれないから仲間を集めている」
立てた指を一つ増やし、守屋は続ける。
「もう1つは存在の主張だ。自分がここにいるということを自分で確かめている」
言い終わると、守屋は腰に下げた剣の柄を握った。腰をひねり、すっと剣を抜くと、木々に対してに剣先を向けた。
「――お前らはそのどれかに当たるかな」
木の輪郭が揺れて、膨れる。分離して、人形に成った。
手の先から伸びる鋭利な影。武器を持っている。
「……気づいていたのか」
守屋は肩をすくめた。
「やはり俺はあいつに比べると、少し小さいのかもしれんな。思わず、ほっとしてしまった」
守屋は顎を上げると、影たちを見下すようにして見た。
「敵は弱いに越したことはない。俺は強敵に喜ぶような精神を持ち合わせていないようだ。ここで殺してしまうのがもったいないくらいに、
影たちの持つ武器は槍や弓のようであったが、その内の一つに剣として捉えられない影があった。剣とは武器ではあるが、殺傷のしやすさだけでいえば槍や弓に劣る。それでも剣を持つ人はいる。それは地位の証明でもあったからだ。豪族の、それも長やその限られた親族にしか持てないもの。それが剣であった。
守屋は剣を横にすると、剣を持っている影の首の高さに合わせた。
「……何かの間違いで、お前が蘇我の長となってくれたらどれだけ楽だったことだろうか。――だが、お前はここで死ぬ。何と残念なことだろうか」
その言葉に、影たちは殺気立った。
「――今すぐ殺してやる」
憎悪を向けられた守屋は首を振って見せた。
「悪いが、それは無理だ。お前たちには到底勝ち目がない」
嘲笑が起こる。
「この暗さで、我々の数が分からないか。二人で何が出来る」
「例え、俺が一人であってもそれは現実には起こり得ない。というより、もし俺が一人であるならば、お前たちはもっと早く死ぬことになるだろう」
「何を言っている」
「やはり勿体ないな。その理解の悪さに、思わず惜しくなるよ」
「……問答は止めだ」
あたりはすっかり暗くなっていた。夜と言い切るにはまだわずかに明るさがあるが、表情が見えなくなる程度には暗い。
「――広がれ」
影たちが動き出す。
「お前らの運命は用意されている。例えここで死ななかったとしても、あいつに手抜かりはないだろう」
言い終えると同時に、飛来音。
守屋は剣を振った。
金属のぶつかる音と、地面に落ちる音。
「面倒だな」
守屋は舌打ちした。
(直接来ればいいものを)
守屋はもう少し挑発してやるべきだったかと後悔した。
「兄上。あまり遅くなると、父上たちへの言い訳を増やす必要が出てきますよ」
「まったく面倒ばかりが増えていく」
守屋は地を蹴った。
姿勢を四足動物のように低くして駆ける。
身構えた影を確認した守屋は、速度を緩めて敵の目前で上半身を起こした。
守屋の行動の変化に、影は堪らず武器を振るった。こう暗くては目からでは正確な情報は入ってこない。通常より予測する幅が大きくなる。その予測が困難になったがために、恐怖を払うようにして武器を振るっていた。その結果は、空気を揺らした音がしただけであった。
守屋は、振るわれた武器と入れ替わるようにしてその空間に入り込み、剣を振った。
どさりと鈍い音がした。
「よくもっ」
使命と仲間の仇をとろうという意思が載った銅矛が、守屋に目掛けて差し込まれた。守屋はそれを半身を引いてかわすと、銅矛の戻り際に柄の部分を片手で掴み取った。そのまま力ずくに一気に引き、柄の元にある肉体を引き寄せる。その到達地点に、杭のように剣を差し込むと、敵の腹部に深く突き刺さり、生温い液体が守屋の手を濡らした。
剣を引き抜くと、守屋は事が終わったとばかりに、剣に付いた血を払った。払っただけで落ちなかった分に関しては、倒れている敵の衣服を裂いて、拭き取り始めた。
その様を見せられ、激昂した者が一人だけいた。
「何をやっている! ささっとあいつを――!」
手に持った剣を振り回し、周りを見る。
「なっ」
いるはずの者が誰も居なかった
それがどういう意味であるか、察した。
「こんなはずじゃっ」
逃げるしかない。それ以外に生命を維持する術がない。背を向け、全力で駆け出した。
守屋はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、その背を冷めた目で見た。
「――布都」
影が一つ起き上がる。その影である布都の手からは血が滴っていた。
「必要はありませんよ」
「ん?」
布都は獰猛な笑みを隠さない。
「死にかけを一人、逃しております。せいぜい血をバラ撒いてることでしょう」
守屋は額を抑えた。
「……そういうのが、好きなのか?」
「まぁ、えぇ」
どこか嬉しそうに答える布都に、守屋はため息をついた。
「周りには隠しておけよ」
「善処します」
狼とも野犬とも違う、低い遠吠え。
間を置かずに、叫びという形でもって結果が知らされた。