数日が経った。
その日は、影まで照らすような日差しが強い日だった。
門番や稽古に励む兵、室内で難しい顔をしている者まで、多くの汗を流していた。皆険しい顔をしているが、その中で一番険しい顔をしていたのは布都であった。
布都は大きな瞳を限界まで細めていた。
地面から跳ね返ってきた日光が、瞳から痛みを伴って差込んできている。
「――姫様、日差しが強いご様子。もうお部屋に戻られては」
布都は一人ではなかった。後ろに二人いた。
護衛ではない。監視である。
「お前らが居なければ何処へでも戻ってやるとも」
布都は振り返りもせずに言い放った。昼夜問わず監視されており、鬱陶しくて仕方がない。
「――なりません。ご当主様より言いつけられておりますので」
監視役の男は感情を見せない声で答えた。
「何より、この度のことは姫様の行為がもたらした罰でもあります。甘んじて受けるべきかと」
もう一人の男が、硬い声でそう続けた。
「もう外の空気は充分でしょう。戻りましょう」
そう言われたが、外に出たばかりである。戻るにしては早すぎる。とはいえ、強すぎる日差しに布都も戻る気になっていた。監視役の存在のせいで、毎夜ほとんど寝付けていない。
だが、粘りたかった。
「……もうすこし歩く」
戻れと言われれば戻りたくなくなる。たとえそれが自分を苦しむものであっても、従うのを嫌った。
布都は数歩だけ歩くと、止まった。
寝不足がここまで気を悪くするものだとは思わなかった。
「貴方の立場は決して自由ではありません。それは守屋様といえども同じことです」
あの夜の後、夜が更けすぎており誤魔化せなかった布都と守屋は尾輿に説教を喰らうはめになっていた。捜索隊まで出ていた上に、二人の衣服には血がいたるところに付着しており、大事になった。罰ということで、守屋は親しい仲の豪族の元へと一時的に預けられることになった。これにより、次期当主とされていた守屋の立場が揺らいだと、尾輿の他の子息らが活気づいている。
「分からんなぁ」
布都は独り言をこぼした。
「お分かりにならないというわけにはいけません。姫様には反省を求められておりますゆえ」
独り言というのは誰かに向かって言うことではない。返事など求めてはいないし、その存在も認めることはない。布都は無視した。
「ですので――」
何やらまだ何か言っているらしい。きっと聞こえの良いご立派なことを言ってるのだろう。恐らくはどこでも聞けるようなありきたりなものを。
目でなく耳までやられては堪らない。布都は戻る気になった。
「お前たちの取り柄は、あれだな。忠誠なのだろうな」
布都が振り返りそう言うと、二人の男は誇らしげな顔を見せた。
言葉通りに受け取ったらしい。布都は辟易とした。打てどもまったく響かない。
「父上は血を見るのが好きらしいな」
到底理解は出来ないだろう。希望が血を流すのだ。
(兄上としては楽になったのかもしれないが)
守屋が完全に掌握するためには排除すべき存在がいる。
消すなら早い方がいい。やるなら被害者を装う方がいい。人心は加害者には向かいづらい。
意味が分からないといった様子の二人に、布都は色々と馬鹿らしくなって部屋に戻ることにした。
――今夜だ。
夜の静寂が好きだった。
決めてしまうと、寝れるような気がした。夜更けまでにはまだ少しある。布都は久方ぶりに気分良くまぶたを閉じた。
◇◆◇
闇の中。
布都は、己の存在を知覚した。
目を開けると、暗闇だった。鈴のような虫の音に、遠くから響いてくる蛙の音。
――悪くない。
衣擦れの音も立てずにゆらりと起き上がると、同じ室内に見張りとして立っている男を認識した。
気配を探ると、中と外で一人ずつ立っていることが分かった。
夜更けということもあってか、意識が薄い。
布都はさっと近づき、腕を掴んだ。
掴まれた見張りの男は、ぎょっと意識を覚醒させたが、
「うっ――」
突如として襲ってきた不快感に耐えれずに意識を手放した。
床から鈍い音が響いた。
物音に反応した外の見張りが中に入った来たが、それも同じように腕を掴んだ。
「なっ――」
布都は掴んだ腕から直接霊力を流し込んでいた。耐性の無い者に霊力が入り込むと、扱えない力が外に出ようと体内で高速で巡り回る。それはわずか一、二秒のことでしかないが、意識を失うには充分だった。
布都は掴んだ手で何かを払う仕草をすると、地を蹴った。塀に飛び乗り、さらに次へと飛び乗っていき、――闇に紛れた。
◇◆◇
月は雲に遮られ、あまり顔を出せないでいた。
布都は、そんな月明かりの乏しい闇の中を思い思いに進んでいく。跳んで駆けていくその様はいかにも自由といった感じだったが、布都としてはあまり気分は良くなかった。
(気が利かない夜だな)
足を止めると、額に浮かんだ汗を指で拭った。
風がなく、粘り気のある空気。そのうち降り出しそうな空。
濡れるのは避けたい。木の下にでも逃げ込むしかないかと、山に向かった。
夜に出歩くものは少ない。あまりにも命の危険が高い。夜に出歩く者は避けられない用命を受けた悲運な者か、日中には歩けなくなった社会から弾かれた賊となった者くらいである。そんな賊ですら夜の山にだけは近づかない。夜の山に入れば間違いなく妖魔に遭遇する。証明が必要ないくらいには人類は血を流していた。
布都は山のふもとまでたどり着いた。
山の始まり。静寂を装っているが、内には妖しさが渦巻いているのが分かった。
その激しさがふもとまでやって来ていた。
(待ちきれなかったらしいな)
布都は愉しげに顔を歪めた。
隠すことすらしないいくつもの気配が、布都を手招くように待ち構えている。布都が歓迎に応じて森に足を踏み入れるやいなや、気配の一つが飛び掛かってきた。ぎょろりとした目玉に、裂けたような口。猿のような顔だけがやけに大きく、胴体との均衡が取れていない。
布都は触れることを厭った。身を躱し距離を取ると、手刀の形を作った手を、猿顔の妖怪に向けて荒く振った。
「ギャ、ッギャギャ――」
顔に深い裂傷を負った猿顔の妖怪は、顔から様々な液体を撒き散らしながら暴れまわった。ただ痛みを誤魔化すためだけのようなでたらめな動き。そうやって暴れまわった結果、木に衝突し、その衝撃で裂傷箇所から内容物が溢れた。転倒間際には、狂ったように手足をバタつかせていたが、それも次第に収まっていき、やがて静かになった。
「――醜いな」
日中に見たら、さぞ気味の悪いことだろう。
血が匂ってきた。苦いがほのかに甘い、そんな香りだった。
発生箇所は一つしかない。押し返すように鼻を鳴らしたが、あまり意味はない。すぐにまた入り込んでくる。見た目と違って匂いはあまり嫌ではなかった。
「これと変わらないと考えると少し嫌だが、まぁいいか――」
血の匂いに釣られたか、周りから感じる気配の数が増えていた。
気の高ぶりを感じる。
口元の歪みに獰猛さが増す。
高ぶったものを周囲に発した。
ざざっ、と葉が擦れる音が立ち、連続していく。
気配が遠ざかっていった。
「――っち」
楽しもうとしたからだろうか。布都は後悔した。
気の高ぶりが邪魔をしたようだった。
人を脅かす妖魔も対して人と変わらないらしい。
「冗談ではないぞ。こんなものが自由であるはずがない」
それでも布都は奥に足を踏み入れるしかなかった。捨てるものはなく拾うものしかない。
そう思ってここまで来たというのに、拾おうとしたものは指に引かかりもせずに落ちていった。
とはいえ、まだ山に入ったばかり。生い茂る木々は未知を隠している。
「まだ出だしだな」
肩を落とすにはまだ早い。
現実なんてものはいつも否定してやるくらいで丁度いい。
そう思えば今の出来事も思慮の外へと出ていった。