Write to reach you ~希望の暁~   作:けんごち

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第1話

 霧の向こうには魔物が潜んでいる。

 十九世紀ロンドン、この街を震撼させる連続殺人事件が起こった。後に切り裂きジャックの殺人と呼ばれるこの事件は、ロンドンの濃い霧に紛れるかのように未解決のまま迷宮入りしている。

 しかし、この事件の真実を語った証言がロンドン警察の倉庫に眠っていることは、誰も知らない。

 1888年11月、ある一人のホームレスが深夜の警察署のドアを、大声で何事かを叫びながら割れんばかりの勢いで叩いた。あまりの剣幕に何事か対応した警察官が扉を開けるやいなやホームレスは中になだれ込み、部屋の隅で頭を抱えて震えていた。大方ホームレス同士の縄張り争いにでも負けたか、不良少年にでも襲われたのだろう。そう判断した当直の警察官は面倒くささを隠さずに、ホームレスの首根っこを掴みつまみ出そうとした。しかし、ホームレスは喉が潰れるのも構わないとばかりに奇声をあげて抵抗した。当直の警察官は同僚と目配せをすると、三人がかりでホームレスの体を担ぎ上げた。屈強な警察官三人に拘束されて抵抗もむなしく、叫び続けるホームレスの体はドアへと運ばれた。そして、体をドアに押しつけられた瞬間、ホームレスは灼けた鉄に背中を押しつけられたかのように目を見開き体を反らし、そして叫んだ。

――魔物だ! 霧の向こうから魔物が出た! 殺される! 俺もあの女みたいに切り裂かれて殺される!

 本案件の記録は残されはしたものの、アルコールで頭が壊れた人間の妄想として誰一人としてまともに取り合わなかった。そして時の流れの中でその存在すらあっという間に忘れ去られ、真実は未だに眠り続けている。

 

 *

 

 赤星光正は途方に暮れていた。

 横浜からロンドンまで、蒸気船と陸路を継いで約五十日間の旅路。せっせと貯め込み、一部は借金までした路銀はとうに尽きてしまっている。なんとかロンドンまでたどり着けたのが不幸中の幸いとでも言うべきだろうか。

 金がないならないで、最初の数日は野宿でも構わないと考えていた。ロンドンは大都市だ。人々の賑わいの中に紛れて時間をやり過ごし、深夜どこか人気のない場所を探して夜の静寂の中どこかで眠りにつく。そう考えて過ごしているロンドン一日目――日が落ちると同時に街全体が人気の無い場所になってしまった。

 路地裏の石畳に光正は座り込む。ロンドンは霧の街だと聞いていたが、本当に霧が深い。夜の暗闇も相まって、街の中で遭難してしまいそうだ。野宿を警察に咎められる心配はなさそうだが、どうにも落ち着かない気分に光正は支配されていた。

 その全てはこの霧だ。人の気配は全く感じられないのに、霧の向こうになにかがいると本能が警鐘を鳴らし続けている。おかげで、眠気が全く襲ってこない。

 光正はぶるぶると首を振った。今、考えるべき事はそんなことではないからだ。

 代筆屋を見つけなくてはならない。そのためにこのはるばるロンドンまでの旅に出たのだ。

 自分にも使える魔法書はあるのだろうか――自分に本当に魔法の才能が無いのかを、知りたい。ただそれだけのために光正は地球の反対側へとやって来た。

「魔法書どころじゃなく、今晩を無事切り抜けられるかどうかの方が問題だよね」

 英国人がよくやるように両手を広げて、光正はわざとおどけてみせた。そうでもしないと、この雰囲気に押しつぶされそうだからである。

「そりゃこんだけ霧が濃いと、イギリス人も外を出歩くわけないよね。寒いし、陰気だしね。……でもパブもやっていないっていうのは、ちょっと、変……かな?」

 そのとき光正の耳に何かが砂利を踏みしめるような音が聞こえた。まるで光正の一人言におびき寄せられたかのように。

 刹那、光正の背中に冷たいものが走り、光正は慌てて口をつぐみ、腰をかがめる。

――やはり、何かがいる?

 声をかけようかとも考えたが、光正の生存本能がそれを拒否した。明らかに、違う。ここにいるのは人ではない。それでは野犬の類いだろうか。いや、それもまた違う。

 じりじりと音を立てて何者かの気配がゆっくりと近づいてくる。濃い霧の向こう、感じた獲物の気配を確かめるかのように。

「あー!」

 光正は意を決し、叫んで駆けだした。声を出せば『何か』に気づかれるかもしれないが、誰かが助けてくれるかもしれない。故郷の日本では、山歩きをするときに熊よけに鈴を鳴らす。同じように、『何か』もひるんでくれるかもしれない。

 光正は知らない路地裏をただがむしゃらに走った。追跡を振り切るかのように交差点という交差点を全て曲がった。自分がどこにいるかももうわからなくなってしまったが、どこだっていい。あの『何か』から逃れられるのなら。

 ろくな食事をとっていない体に全力疾走はきつい。喉はからからで、肺は痛み、脚はもげてしまいそうだ。石畳の段差に引っかかり、光正は頭から地面に突っ込む。砂利が顔に擦れる感触がする。ここが限界だった。光正は上半身を起こし、背後の様子を窺う。『何か』の気配は、しない。

「よかった。逃げ切れ――」

「そこの貴方。こんなところで何をしているんです?」

 安堵の息をついたところに不意に声を掛けられた光正は、慌てて正面を振り向いた。化け物が現れたか、と目を見開いたが、目の前にいたのは若い男。肩ぐらいまで伸びた髪に、涼しげに整った顔立ち。そして彼の身を包むローブ、さらにはその手にある本。間違いない、彼は魔導士だ。

「こんなところで何をしている、と質問しているのですが」

 慇懃な態度ではあるが、言葉には氷のように突き刺さる響きがある。光正を不審者として警戒していることは明白だ。

「いや、その、僕は」

「……そのイントネーション。貴方はイギリス人ではありませんね」

「えぇ。日本から」

「貴方の服装から察するに、魔導士ですか?」

 光正は頷くかどうか悩んだ。選択を間違えれば悲惨な目に遭うであろう事は明白だ。

「もう一度質問します。貴方は魔導士ですか?」

 男の声色がより一層冷たさを増した。そして、光正は気づいた。いつの間にか自分の両隣に妖精のようなものがいる。間違いない――魔法だ。

「はい」

 光正は頷いた。隣にいる妖精達は何もしてこないが、光正の周りを離れずにゆっくりと円を描くように飛んでいる。

「日本の魔導士が、こんなところで何をしているんです?」

「あの、ロンドンまで来たけど、お金がなくなって……野宿でもしようかな、と思って」

 妖精達は変わらず光正の周りを回っている。何かを仕掛けてくる気配はない。

 男は呆れ気味にため息をつく。きっと光正のことを、頭のおかしな奴、とでも思っていることだろう。

「貴方は魔法書を持っていますか?」

「はい」

 光正は懐の巻物の感触を確かめながら頷く。確かに魔法書だ。子供の悪戯以下の魔法しか出来ない代物だが。

「では、最後の質問です。その魔法書は、代筆屋によるものですか?」

 光正の背中は粟立った。なんと答えるか、どうするか。気がつけば、周りにいる妖精達は距離を詰めてきている。まるで光正の心の中を見抜いているかのように。

 どうすればいい? どう答えるのが正解なのか――

「……いいえ」

 光正は素直に答えた。代筆屋を探してロンドンまで来たが、手元にある魔法書が代筆屋の手によるものではないことは事実だ。

 光正の答えを合図にして、妖精達が男の方へと戻っていく。男は再び呆れ気味にため息をつくと、魔法書を閉じた。

「全く紛らわしいものです」

 男はそう言ったが、何と紛らわしいのかは、光正には皆目見当もつかなかった。

「一応、自己紹介はしましょう。私は英国魔法協会の検閲官、チャック・ロウ」

「検閲官! エリートじゃないか!」

「貴方の名前は?」

「僕は、赤星光正」

「で、このロンドンで野宿をしようなんて考えている貴方は、わざわざ日本から自殺でもしにきたのですか?」

「自殺? どういうことだよ。僕はただお金がないから」

 チャックはまたため息をついた。どうやら呆れたときの彼の癖らしい。

「……ロンドンに着いたのはいつで?」

「今日だけど」

「なるほど。では、何も知らないというわけですね」

 チャックはゆっくりと光正に歩み寄る。地面に座ったままだった光正も立ち上がって、チャックに相対する。

「お恥ずかしい話ですが、最近、深夜から夜明けにかけての殺人事件が多発していましてね。ですので、ここ最近、まともな市井の方々は、日が落ちると同時に家に閉じこもり外は歩かないのですよ」

「あ! そうか! だから、人っ子一人いないんだ!」

 この異常な状況と街を包む不穏な空気に光正はやっと納得した。

「私は協会の検閲官ですから殺人事件に直接関係はないのですが、このように人気が無いとなると不逞の輩が街をうろつくには絶好の状況です。そういうわけで、怪しい人物がいないか巡回していたわけですが」

 言葉を継ぐ代わりにチャックは冷たい目で光正を見る。

「すみません……紛らわしくて」

「まぁ、いいでしょう。しかし、こんなところで野宿をされて、野垂れ死なれても迷惑です」

「迷惑です、ってひどいなあ」

 光正は肩を落とす。チャックはどうやら真面目な人物らしいが、融通が利かないというか一言一言が容赦ない。

「それに腐っても魔導士となれば、協会の立場としても放っておくわけにはいかないでしょう。今夜一晩、協会の施設をお貸しします。少なくとも、野宿よりはましでしょう」

「え! いいんですか!」

 予想外のチャックの厚意に光正は目を輝かせた。捨てる神あれば拾う神あり、は日本のことわざである。

「仕方がありません。貴方の死体の後始末や実況検分に、我々英国民の税金を使われたくはありませんからね」

 チャックは身を翻し、さっさと付いて来いとばかりに歩き始めた。

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