Write to reach you ~希望の暁~   作:けんごち

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第13話

――真っ直ぐに一本の鈎縄が夜の夕闇に飛んだ。その先は橋桁に絡まり、川の流れにのるまま、船はゆっくりと弧を描き接岸した。

 

 魔法で顕現させた鈎縄が橋の支柱に絡まった。そのまま上流への流れに乗って、サムと光正の乗ったボートは弧を描きながら岸にたどり着いた。先ほどサムと光正が乗り込んだ対岸になる。ウォータールー橋のふもと、ちょうど一時間程前に光正と共に渡った橋である。

「……ウォータールー橋まで流されたか」

 サムは呟きながら軽やかな足取りで岸へと降り立った。

「一時はどうなることかと思ったよ……」

 深いため息をつきながら光正もサムに続く。

 未だに川は逆流を続けているが、サムが魔力の供給を中止したので、その勢いはまさしく波が引くようになくなってきている。緩やかな流れになったおかげでサムと光正は大して苦戦することなく無事岸に降り立つことが出来た。

「川が逆流するなんて、普通は人が大勢押しかけて大騒ぎになると思うんだけど――」

 光正が周囲の様子を見回す。つい先ほどまで轟音と共にテムズ川が逆流していたというのに、周囲は冗談のように静まりかえっている。ただ川面にうっすらと月の光を反射しているだけだ。

「もう日は沈んでしまった。連続殺人事件、そして怪物騒動。おかげでここ最近のロンドンは、日が沈んだ後は人っ子一人いなくなる。静かなものだ」

「ロンドンに来た初日は驚いたよ」

 光正は初めて過ごしたロンドンの夜を思い出す。世界に名だたる大英帝国首都ロンドン。まさかその街が日が沈むと同時に人っ子一人いない寂しい場所になっているとは夢にも思っていなかった。

「で、これからどうするんだい? 代筆屋のサム」

 光正がサムに尋ねる。チャックの追跡を振り切ったとはいえ、二人がお尋ね者になってしまったことに変わりはない。このままロンドンを離れるのか、それとも――

「イーストエンドロンドンに戻る」

 迷いなくサムは言い切った。そして再びテムズ川沿いの遊歩道を歩き始める。

「ちょ、ちょっと待てよ! またロンドン塔の方に行くってことかい?」

「あぁ」

 光正の質問にサムは頷くが足を止めることはない。光正は駆け足にサムに追いつく。

「それでいいのか? また、チャックが待ち受けているんじゃ?」

「……それならばそれで構わない。イーストエンドロンドンの怪物、どうやら他人事だと静観している場合ではないようなのでな」

 サムはDとチャックの言葉を思い返す。

 Dが自分の代筆した魔導書を必要とした理由。魔導士二十人を投入したかちこみ。そしてチャックの言った『禁書』という言葉。確かにサムによる代筆は魔導協会の取り締まるべきところであろう。しかし、サムの書いた魔導書自体は『ただの魔導書』であり、禁書と呼ばれる類いのものではない。

「おい、光正。禁書とはどういった類いのものか言ってみろ」

「はぁ? なんでだよ」

「いいから言え。お前も魔導士の端くれだろう」

 そこまで言われれば光正も意地になる。不承不承ながら、光正は学校で習った禁書と定義される魔導書について思い出す。

「禁書と呼ばれる魔導書は、社会に対して著しい混乱や不都合、災害を招くような類いのものを指す。例えば、貨幣の偽造とか、恐ろしい病気を流行らせるとかだね。そして禁書を書いた魔導士には非常に厳しい罰が適用される。まぁ、言ってしまえば問答無用で極刑――つまりは死刑だね」

「あの検閲官は、俺が禁書を書いた、と言っていた。しかし、誓って言うが、俺はそんな類いのものを書いた覚えはない。代筆屋とはいえ、その程度のモラルはある」

「……まぁ、わかるよ」

 光正の返事にサムは驚いた顔で振り返った。

「な、なんだよ?」

「……驚いたな。そこまで信頼されていたとは」

「別に信頼とかじゃないけど……ただ、アンタがそんなことをしない人だっていうのは、なんとなくわかるよ」

「ふっ」

「なにがおかしいんだよ」

 光正はサムの背中をつついてやろうと手を伸ばしたが、サムはするりと身を翻しそれをかわした。

「ところで、なんで魔導書をチャックに投げつけたんだい? 相手の隙を作るためとはいえ、ちょっと危険な手じゃなかった?」

 光正は先のサムの行動について問う。魔導士にとって、魔導書とは命に等しいといっても過言ではない。いくら複数持っていたとはいえ、それをあっさりと投げてしまうのは理解に苦しむ行動だった。無論、それゆえにチャックの油断を誘えたわけだが。

「検閲官は魔導書鑑定のプロだ。聞くところによれば、彼らの筆跡鑑定は百発百中らしい。どれだけ意識的に筆跡を変えようとしても、人間の癖というのはなかなか隠しきれないものだからな」

「つまり、チャックにサムの魔導書と彼の言っていた禁書、その二つを鑑定してもらって、自分の無実を証明してもらおうってこと?」

「あぁ、そうだ。だから、俺はお前にあの検閲官の人となりについて尋ねた。自分の見立てにこだわるあまり証拠を捏造もしくは黙殺するような人間だったら何の意味もないからな」

「なるほどね」

 光正は納得した様子で空を見上げる。日が沈んだ直後の今はまだ霧は出ていない。よって、このロンドンに来て初めて星空を見ることが出来た。

 星空は、地球の緯度と経度によって違うと聞く。よって、きっとこれは生まれて初めて見上げる空なのだろう。

「無実を証明してもらえるなら、わざわざ川を逆流させてまで逃げなくてもよかったんじゃないか?」

「馬鹿を言え。禁書の件では無実でも、俺は代筆屋だ。十分連中にとってはお尋ね者だ」

「だねえ」

 そして光正は自分も仲良くお尋ね者になってしまったことを嘆かわしく思う。本当に、大金をはたいてロンドンまでやって来て目的を果たせずお尋ね者になっただけ、などとなってしまえば救いがないにも程がある。なんとしてでも魔導書を代筆してもらわねば、と光正は再び決心を固める。

「光正。お前はあの検閲官やレイン警部補と知り合いだと言ったな? どういう経緯で知り合った? お前は連中についてどれくらいの情報を持っている? 全て教えろ」

「いいけど……」

 ここで光正は、情報を教える代わりに代筆しろ、と条件を突きつけようかと考えたが、やめておいた。光正にだって魔導士としての矜持はある。そんなせこい真似まではしたくない。

「チャックと会ったのは、僕がロンドンに来た初日の夜だ。路銀が尽きちゃってね。野宿でもしようかとロンドンの夜の街をうろついていたら、怪物の気配を感じて、それで逃げ回っているときに出会ったんだよ。まぁ、チャックには保護という名目で一晩牢屋に入れられちゃったけどね。それで、翌日の朝、レイン警部補がチャックを訪ねてきて、なぜか僕も一緒にマルティン博士のところまで行くことになって」

「マルティン博士? 何のためだ?」

「例の殺人事件関連だよ。遺体の状況についてマルティン博士の知見を求めに行ったんだ」

「それは納得できるが、なぜお前と検閲官も連れて行く必要があったんだ?」

 ふぅ、と光正は小さく息継ぎをする。

「死体の状況が異常だったんだよ。マルティン博士は、サメに食いちぎられたバラバラ死体、と見立てた。けど、ロンドンの街中でサメに食いちぎられるわけがない。だから、レイン警部補は魔導士の関与を疑っている。それでチャックに水を向けたんだ。あぁ、あと、ロンドン警察自体は怪物説には懐疑的というか消極的なんだってね」

「あぁ。最初の方に起きた娼婦達が殺された殺人事件、それについて犯人を名乗る男からの手紙がセントラル・ニューズ社に届けられた。切り裂きジャック、訊いたことはあるか?」

 光正は首を横に振る。

「ロンドンに着いたのがほんの数日前なら仕方がないか。とにかく、切り裂きジャックと名乗る犯人からの手紙、そんなものが新聞社に届いてしまったせいで、この事件は一気にセンセーショナルなものとなった。そして、それに続く怪物の目撃騒動。おかげでこの一年間、ロンドンは静かな恐怖と狂騒に包まれている」

「そうか……。新聞社に手紙まで届けられている以上、警察の立場としては、実は全部怪物の仕業でした、なんて言えないわけだね」

「警察にも面子があるからな。というよりも、やつらはほぼ面子と体裁の為に動いているが……まぁ、いい。話が逸れた。それ以外の情報としては何がある?」

「レイン警部補がアンタを探していたよ。最初に図書館に行ったときはアンタはいなくて、しょうがないから僕とレイン警部補が昼ご飯を食べていたらリオくんを見かけて。それでレイン警部補がリオくんにアンタの所在を尋ねたんだよ。リオくんと知り合ったのはそのときだ」

「なるほどな。そのレイン警部補とは今朝会ったよ」

「レイン警部補はアンタに何を尋ねたんだ?」

「図書館にある魔導協会の関連資料について、改竄の可能性があったどうかを訊かれた」

「それで?」

「俺の知る限り、つまりこの十年ほどの間についてはその可能性はないと答えた。怪物の召喚が出来る魔導士についても尋ねられたが、生憎心当たりはなかった」

「怪物の召喚か。けど、アンタやチャックくらいの魔導士だったら出来るんじゃないか?」

 光正は先ほどのチャックとサムの戦いを思い返す。童話を武器とするチャックは実際に妖精や巨人を顕現させて見せたし、代筆屋であるサムについてもそれができないというわけはないだろう。

 しかし、光正の質問にサムは静かに首を横に振る。

「確かに出来ないことはないが――魔法による顕現状態を維持するには常に魔力を供給する必要がある。俺と検閲官がやりあった時のような短時間の顕現なら、まだその負担はたいしたことはないが、例えば十分間顕現させるだけでもそうとうきつい。それに、そんな怪物が目撃されたというのなら、そのすぐ近くで魔導士の姿も見つかっていないとおかしい。距離をとればとるほど、魔力を供給するのは難しくなる……と、お前も魔導士だったな。ここまでの説明はいらなかったか」

「別にいいよ。僕にはそんなことが出来る人たちの事情なんてわからないし」

 光正は素っ気なく返した。

「サム。で、これからイーストエンドロンドンに戻ってどうするつもりなんだ?」

 光正が話題を変えた。

「俺の与り知らぬところで事が進んでいるのが気にくわない。今朝会ったレイン警部補が、俺に、夜は出歩くな、と釘を刺した。だから俺は確信した。怪物は本当にいる。ならば、俺自身の目でそいつを確かめてみるつもりだ」

 サムは言葉の端に自らの決意を込める。本来何の関係もないはずなのに事件に巻き込まれてしまった腹立たしさはあるが、それ以上に――リオたちのいるこの街にそんな怪物が潜んでいるという事実が許せない。

 サムは光正を振り返る。

「光正。お前はどうする? 無理して俺に付き合う必要もない。お互いお尋ね者とはいえ、代筆依頼未遂のお前ならせいぜい国外退去がいいところだろう」

「記憶力がいいっていう話なのに、忘れたのか、サム。僕は魔導書を書いてもらうまで、アンタから離れないって言っただろ」

 光正の返事にサムは吹き出すように笑う。強がりを言っていることは伝わってくるが――それと同時に彼の不退転の覚悟も感じられる。

「好きにしろ。ただし、何があっても俺を恨むなよ」

「そんときはアンタに取り憑いて、アンタを一流のホラー作家にしてやるよ」

 実体験に基づく恐怖小説、いいだろ? と光正は笑った。

 

 

 ロンドン警察オフィス、そこでレインは紅茶を片手に資料の束を順繰りにめくっていた。日が沈んで後は、部下達に極力外に出ないように指示してある。本来ならロンドンの治安を守るべく、彼らは夜にこそ警邏に出るべきなのだが、それはレインが禁止した。とはいえ、部下の警察官たちから不満が出ることはなく、むしろ彼らはほっとした様子でお互いの顔を見たのだった。

「レイン警部補。頼まれていた資料をまとめてきました」

 今朝、チャックにマフィアと勘違いされた人相の悪い警察官がレインに紙の束を持ってきた。

「あぁ。ありがとさん」

 礼を言いながら、レインはその紙の束を受け取る。紙束をレインがしっかり受け取ったのを確認してから、レインの部下は話を切り出す。

「しかし、レイン警部補」

「ん。なんだ?」

「ここ一年間の間に起きた事件とか、事故とか、行方不明者とかの情報をできる限り調べてまとめましたけど……なんていうか、警察に報告されている分は氷山の一角だと思うんですよね」

「……そうだな」

 レインは頷く。確かに部下のいう通りだ。警察が把握できるのはほとんどが通報された情報のみ。警察官自身が情報収集に当たることはあるものの、その数はたかがしれている。

「で、それがどうした?」

「いや、それを踏まえた上でも、なんていうか、このロンドンの街で改めていろんな事件が起こっているんだなって思いまして」

 レインは部下の顔を見る。三白眼気味の目に尖った歯――よくよく見れば決して器量の悪い顔立ちではないのだが、いかんせん第一印象が悪い。しかしながら、彼自身は正義感の塊のような男であり、それは共に仕事をする警察の仲間ならば誰もが同意することだろう。そんな正義感に満ちた彼の表情には、歯痒さが全面に浮かんでいた。

「人の業っていうのは、恐ろしいもんさ。この稼業をしていれば、いやというほど痛感させられる。しかし、それでも俺たちみたいなのが存在しないといけねえ。汚れがあるというのなら、それを掃除する奴がいなきゃあ、この世はいつか汚れだらけになってしまうさ」

 責任感の強い警察官なら、必ず一度は向かい合い、そして嘆く自らの力のなさ。自分の部下もそういったことを感じるようになってきたか、とレインは思う。

「そうですね。けど、事件の記録とかを調べると、世の中には俺なんかの想像もつかないとんでもないことを考えてやってのける悪意が存在するんだな、って改めて思い知らされます」

「想像もつかないことをやらかす悪意、か」

 レインは昨日の夜に出会った怪物に思いを巡らす。あれは一体何なのか? 何らかの人為が存在していることに疑いの余地はない。しかし、それが何を目的として、何のために存在するのかについては皆目見当がつかない。

「レイン警部補、ここ最近、夜は例の連続殺人事件の捜査に出ずっぱりでしたけど、今日はこんな風に中に引きこもっていていいんですか?」

 レインの部下が不思議そうに尋ねた。

「あぁ。ちょいとばかし、俺の手には余りそうだということがわかったんでね。その代わりと言っちゃあなんだが、今はこうして基本に立ち返っているわけさ。道に迷ったのなら、一度原点に立ち返れ。オミヤにならないための基本だな」

 オミヤ――警察の符牒で迷宮入りを指す。

「そうですか。あと、俺になんか手伝えることってありますかね?」

 部下の申し出にレインは天井を見上げて考える仕草をしてみせる。

「そうだな。じゃあ、夜食でも頼もうか」

「いいですけど、残念ながらぱさぱさになったパンくらいしかないですよ」

「やれやれ。こんな夜はもっと温かいもんを食べて英気を養いたいもんだな」

 そう言ったとき、レインは何かを思いついたとばかりに唇の端を伸ばしてみせる。

「そうだ、お前さん知っているか? 日本にはきつねうどんっていう麺料理があるらしいぜ」

「きつねうどん? え、日本人って狐の肉なんて食うんですか?」

 部下が驚いた顔でレインを見る。してやったり、とレインは心の中で思うが、それは表情には出さない。

「魚を生で食ったり、狐を食ったり、日本人の食文化はよくわかりませんね」

 レインの部下は一人納得した表情で腕を組み首を縦に振る。

「なら、お前さんには日本の食文化はあわねぇということだな」

 レインが悪戯っぽく言うと、部下はふるふると首を横に振る。

「いやいや。こう見えて、俺、日本の食文化には興味あるんですよ。日本で食べられている甘いもの。本で読んだんですけど、団子って奴、一度食べてみたいです」

「ははっ。そいつァいいな。なら、この一件が無事片づいたら、日本旅行といくかい?」

「いいっすね! けど、一体いくらくらい金と時間がかかるんですかねえ」

 俺ら公務員の安月給じゃ到底無理ですよ、とレインの気安い提案に部下は苦笑いを返した。

「さァて。与太話に付き合ってもらって感謝するぜ。おかげでいい気分転換になった」

「そうですか。話し相手になるくらいならいつでも大丈夫なんで、気軽に声を掛けてください」

「あぁ。そいつはありがたいな」

 レインは笑いながら、部下の持ってきた資料の束に視線を落とす。図書館のように資料が綺麗に整理されていれば調べ物も楽なんだが、と思った時、ふとサムのことを思い出した。

 Dの組織が魔導書の代筆を頼んだ代筆屋はサム――その情報に驚きはしたものの、どこか納得できるものもあった。サムが発見されたとき、その身元についての捜査を担当したが、そのときからサムのどこか浮世離れした印象は鮮烈だった。あいつならそれくらいできてもおかしくはないな、とそう思う。

 チャックは代筆屋がこの一連の殺人事件および怪物騒動の首謀者であると見立てているようだが、果たしてそれはどうだろうか? レインは警察官として人を見る目には自信がある。そのレインの見立てでは、到底サムがそんな事件を起こすようには思えなかった。

 ならばDの、二人を出会わせる事に意味がある、という言葉。この二人が邂逅することによって、事態は大きく変化するというのか。

「星にでも訊いてみるか?」

 レインは窓の外を見つめながら呟く。しかし、ここ最近のロンドンの夜は霧が濃く、まともに星が見えたためしがない。

「なんにせよ、もう俺の出る幕はねえな」

 レインが紅茶のカップに口をつけたときであった。ふと、一つの疑問が彼の頭の中に浮かび上がる。

 何か、思い違いをしていたのではなかろうか?

 あの怪物は、無から作り出されたものだと考えていた。しかし、その考えは間違いで、本当は――

 レインはひったくるように先ほど部下が持ってきた資料の束を手に取った。そして目的の箇所を開く。

 この想像は間違いであって欲しい。しかし、レインの中にある第六感が警鐘を鳴らし続けている。

「……俺たちの想像もつかないことをやらかす悪意、か。もし本当にそうだとしたら、いかれてやがるどころじゃねえぜ」

 吐き出すように呟いたレインの言葉は誰の耳に届くこともなく、静かに床に吸い込まれ消えていった。

 

 足音ばかりが妙に響く。サムと光正は再びロンドン塔周辺まで歩いて戻って来ていた。

 途中、チャックが自分たちを追って来ていないかと光正ははらはらしていたが、サムの方は落ち着いたものだった。曰く、あの検閲官なら自分たちを追跡することよりも、まずは禁書についての鑑定を優先するだろう、と。

「この辺りは、霧が濃いね」

 周辺をキョロキョロと見回しながら光正が言う。テムズ川沿いに歩いて来たわけだが、東へ向かうにつれてどんどんと霧が濃くなっているのは気のせいだろうか。

「そうだな。おかげでいろんなものが紛れ放題だ」

 辺りを注意深く探りながらサムが応える。

「いろんなものって?」

「娼婦にホームレスにマフィア、そして怪物。あとは代筆屋と日本から来た風来坊とかな」

「ほんとサムって表情一切変えずに冗談を言うよね」

「事実を言ったまでだ」

 どうにもこうにも光正にはまだサムという男の人となりが掴み切れていない。最初はもっと冷たく感情表現に乏しい男かと思っていたが、実際に話してみると意外とそうでもないことがわかる。

「……リオたちの家はイーストエンドロンドンの近くにあるんだ」

 サムが一人言のように言った。

「……そうか。なら、放っておく訳にはいかないか」

「お前は関係ないだろう、と言いたいところだが、何やらお前と俺には妙な縁があるようだな。まさか、リオとまで知り合いになっているとは思わなかった」

「そうだねえ。リオくんのことなら、僕も他人事だとは思えないよ」

 光正はリオの顔を思い出す。人の良さを絵に描いたような優しい少年だ。彼に身に何かが起こるようなことがあってはいけない。それは付き合いの浅い光正ですらそう心から思う。

「僕もせめてマルティン博士に連絡しておきたかったなぁ。僕が帰らないときっと心配しているだろうし」

「……すまなかったな」

「なんで謝るのさ」

「結果的にではあるが、お前まで事件に巻き込んでしまった」

「巻き込まれるっていうなら、初日に怪物から逃げ回った時点でもう十分に巻き込まれているよ」

 光正がそう言って笑ったときだった。サムは口を閉ざし、そして光正の唇にもその人差し指を当て、黙るようにと仕草で伝えてきた。

「……な、なに?」

「……気配がする」

「気配?」

 サムは頷くと探るように辺りの霧を見回した。宵闇もあいまって視界は悪く、数フィート先もはっきりとは見えない。しかし、サムは真っ直ぐに一点を見つめている。

「おい。さっきからこちらの様子を窺っているようだが――お前は何者だ?」

 サムが霧の向こうに声を掛ける。しかし、返答はない。光正はごくりと唾を飲み込んだ。

「もう一度訊く。お前は人間か――それとも怪物か?」

――よく気づいたな。

 白霧の向こうから声が響いた。しかし、その音は人の口から発したものというには不思議な反響をしていて、そうまるでサムと光正の周囲全体が震えるような音がした。その異常な雰囲気に光正の表情がこわばる。

「やれやれ」

 サムがそう呟いたときだった。白い霧の向こうに黒い何かの姿が浮かんだ。それはまるで立ち上がった狼のような、そんな印象を光正達に与えた。

「本当に怪物がいるとはな」

 涼しい顔でサムは言ってのける。

「って、何をのんびりしているんだよ! 怪物じゃないか!」

「あぁ。俺たちはこいつを探していたんだろう?」

「いや、でも!」

 光正はレインに見せられた写真を思い出した。全くもってして鮮明なものではなかったが――現場の凄惨さは嫌というほど伝わってきた。陸を歩くサメ、そんな風に形容される恐ろしい怪物が、今目の前にいる。

――我に恐怖しないか。いいだろう。今宵の血の生け贄はお前達だ!

 狼男が大きく両手を広げる。

――今宵この血は貴様らの血に染まる。その首筋を掻き切り、血を噴き出させてやろう! そのはらわたを引き裂き、血の染みと化してやろう! ゆめゆめ逃げ切れるなどと思うなよ。出でよ、我が僕達よ!

 狼の言葉と同時に、その周囲にさらなる何かの気配が生まれた。光正は目をこらす。そしてすぐに気がつく。それらはこの狼と同じような姿をしていて――そう、いつの間にかすでに恐るべき怪物達に囲まれてしまったことを。

「うわあ! なんだこいつら!」

 光正は叫んだ。想像していたものと違う。レインとマルティンの話では、陸を歩くサメのようなものではなかったか? しかし今目の前にいるのは獣。狼、馬、鹿、そんな姿形をしている。

 怪物は一匹ではなかった。複数いたのだ。

――さあ行け! 我が僕たちよ!

 怪物達が距離を詰めてきた。近づいて、いっせいに飛びかかろうという算段だ。

「どいてろ」

 それだけを言って、サムは光正の前にでる。胸には魔導書を携えている。

「ちょっ! 今さら魔法を? 間に合わないって!」

 光正は叫ぶ。いくらサムが凄腕の魔導士とはいえ、もうあと数秒で怪物は自分たちに飛びかかり、あの狼が言ったとおり血しぶきを上げながらこの地面の血の染みと化すのだろう。

「もうおしまいだぁ!」

 光正は思わず叫んでしまった。はるばるロンドンまでやって来て、こんな形で事件に巻き込まれて、そして怪物どもに食い殺されるなんて夢にも思わなかった。自分に魔法の才能がないと受け入れればよかったのか? 最初から諦めていれば死ぬことはなかったのか? 頭の中でぐるぐると過去の出来事が回る。人は死ぬときに走馬灯を見ると言うが、これがまさしくそうなのだろうか。

 しかし、光正の混乱はサムの一言でかき消される。

「ああ。もう終わった」

 

 ――雷鳴が響く。彼らは神の怒りに触れた。その存在は理からはずれてしまっていた。天を目指したイカロスは、そのロウの羽を太陽に溶かされ、大地に打ち付けられた。真理には何者も逆らえない。光に満ちる。しかし、それは日光のようなものではない。ほとばしる神の怒り! 雷! それは全てを打ち砕く。雷神トールの鉄槌のように! この世界が生まれた日のように!

 

 辺りを激しい光の帯が包む。まるで積乱雲の中に突っ込んでしまったようだ。雷は、樹齢数百年の大木ですら焼き切る。その恐るべき力が、この半径数十フィートの空間に満ちあふれる。そして、この世の理からはずれた怪物達に、その牙を剥く。

 ほんの数秒で全てが終わった後、辺りにはただ煙が立ちのぼっているのみだった。

「すごい……」

 光正は腰抜かしてへたり込む。サムが魔導士として高い実力を持っていることは知ってはいたが、まさかここまでだとは思わなかった。ほんの数秒で、辺り一面を焼き払うほどの強力な魔法を起動させるとは!

 何事もなかったかのようにサムは身を翻し歩き始める。

「ま、まって」

 光正も慌てて立ち上がり、サムの後を追う。

「どうしてそんなあっさり移動するんだよ! こいつら怪物の正体を調べるんじゃなかったのか?」

 しかし、光正の質問にサムは答えない。そのまま何も言わずに歩き続ける。

「おいってば!」

 光正はサムの腕を掴み、強引に止めた。しかたがない、とばかりにサムはおもむろに光正を振り返る。

「一体何だって言うんだよ」

「……光正。お前は、俺に、魔法で怪物は顕現できるのか、と尋ねたな?」

「あぁ、そうだけど」

 突然サムが何の話をし始めたのか、と光正は首を傾げる。

「そのときに俺は言ったはずだ。これほどの怪物を顕現させるというのなら、その近くに魔道士がいないとおかしいと」

「え、あぁ。――え?」

 光正は辺りの様子を窺う。確かに、光正達は怪物と遭遇した。しかし――その怪物を顕現させた魔導士は近くにいただろうか? それに狼の怪物が他の怪物を召喚した魔法のようなもの、あれは間違いなく狼自身の口から発せられていた。

「それって、つまりどういうことだよ? 怪物の魔導士がいるってことかい?」

「――いや、あるいは」

 しかし、サムの言葉は二人に投げかけられた言葉によって遮られた。

「さすがだね! 素晴らしいよ。それに気づくとは!」

 拍手の音と共に称える言葉が聞こえた。声の響きは先ほどの怪物のものとは違う。人間の喉から発せられる声だ。

「大丈夫だよ。そう警戒しなくてもいい。僕たちは君たちの味方さ。そう、怪物退治のね」

 霧の向こうから光正達の前に現れた人影。

「僕たちも怪物騒動を追いかけていてね。君たちが検閲官に絡まれているのも見ていたよ。あの検閲官は魔導協会きってのエリートだって言うのに逃げ切ったのは大したものだ」

 霧の向こうから現れた優美に笑う挑発の優男。小さなシルクハットをアクセサリーとして頭につけている。

「あ、あなたたちは一体? それにさっきの怪物は?」

 思わず光正の方から問いかけてしまった。サムは光正の迂闊さを咎めるような視線を送るが、それ以上は何も言わない。

「ジョナサン・ワイルダー、新鮮な恐怖を貴方に……表ではホラー作家で通っている」

 ジョナサンは光正の質問に丁寧に腰を折り挨拶をしながら答えた。

「ジョナサン・ワイルダー、なんか聞いたことがあるぞ」

 光正は自分の記憶を思い出す。この名前はロンドンに来てから聞いたはずだ。いろいろなことがありすぎて、それがずっと前のように思えるが、実際にはほんの一日前の記憶。

「あ、あのホラー作家の人か! 本屋さん前で見た!」

「知っていてくれるとは光栄だね」

 ジョナサンは柔らかく笑うとサムを見る。

「あぁ。俺もあなたの名前は存じ上げている。有名人だからな」

「そうかい? それは光栄だな。もし君が今僕の本を持っているならサインでもして差し上げたいところだが――そんな余裕はなさそうだね」

 そう言ってジョナサンはサムの肩を叩く。確かに、のんびりと会話を楽しんでいる余裕はない。ここは今、怪物達の徘徊する魔窟なのだ。

「……ほう、君は……私と似ているようだ。実に興味深い」

 ここでジョナサンの後ろから一人の男が現れた。まさか人が無から現れるわけはないので、先ほどからこの場にいたはずだったのだが、その存在を光正とサムは認識できていなかった。まるで機械のような無機質なしゃべり方が印象的だ。服装も魔導士と言うよりは時計職人のようで、それはおそらく彼が首からぶら下げている懐中時計に引きずられている印象なのだろう。

 その男がゴーグルの奥の瞳でサムを見つめている。どうやら、私と似ている、のはサムらしい。

「……あなたは? それに似ている、とは……?」

「彼はフィリップ・マイルズ。想像力が豊かでね、突飛な発言は大目に見てくれ」

 ジョナサンがフィリップの発言を取りなした。気にするなとでも言うように、ジョナサンは首を振る。そして、表情を繕いおもむろに口を開いた。

「さて、先程の怪物についてだが……あれは人間だ。数時間前まではね」

「え?」

 ジョナサンの発言を、光正は一瞬理解出来なかった。怪物――人間――数時間前まで――ということは、先ほどサムが倒した怪物は、元々は人間?

「……君の方は驚かないね。やはり、気づいていたか」

 ジョナサンに水を向けられても、サムは表情を変化させなかった。

「……あぁ。先ほど、俺たちが倒した怪物。奴は誰かが魔法で顕現させたような存在ではない。それに確かに奴は『魔法』を使って見せた。ここから導き出される結論は――あれは魔導士が変質した姿だということだ」

 サムの答えにジョナサンは満足げに頷いてみせる。

「禁書が原因らしい。私たちの仕事はその調査を兼ねた怪物退治だ」

「禁書?」

 光正はジョナサンの『禁書』という言葉を反復した。たしか、チャックもそう言っていたはずだ。つまり、チャックはどこかでこの街に現れる怪物を発生させる原因となった禁書を見つけて、だからその犯人として代筆屋を疑って自分たちの元に現れた。これなら合点がいく。そんな恐ろしいものが本当にこの街にばらまかれているのだとしたら、チャックがあそこまで勇み足に自分たちの拘束に動いていたのも合点がいく。

「君たちはあの検閲官に容疑者として疑われているらしいが……ふむ。どうだろう、潔白を証明するためにも、私たちに協力しないかい?」

 ジョナサンはサムと光正に協力を依頼してきた。

 どうするべきか、と光正はサムの表情を伺う。しかし、相変わらずその顔は整ったまま何の変化も示さない。フィリップも表情の変化が乏しいが、今のサムのそれはこの二人に警戒心をまだ抱いているためであると光正は思った。

「ありがたい申し出だが、自分の潔白は自分で証明する」

 サムは抑揚のない声でそう答えた。

「自分の潔白は自分で証明するって? どうやって?」

 申し出を断られたが、ジョナサンは柔らかい笑顔のままサムに問い直した。

「悪いけど、相手は検閲官だ。一筋縄でいく相手じゃないよ?」

「……言い方が悪かった。俺の潔白を証明するのはもう俺自身ではない。検閲官だ」

「検閲官、だって?」

「そうだ。すでに俺が潔白であるという証拠は渡してある。少々強引な形ではあったが。直に俺が禁書を執筆したという疑いは晴れるはずだ」

 サムの言葉にここで初めてジョナサンが少し不快感を示した。

「なるほどね。けど、僕たちよりも、君たちにいきなり襲いかかった検閲官の方が信頼できるっていうのは、変な話じゃないかい?」

 確かにジョナサンの言葉には筋は通っているだろう。

「そうだな」

 サムはジョナサンの言葉を肯定した。その反応に、ジョナサンの表情に喜色が浮かぶ。

「確かに、俺自身、あの検閲官が信頼できる人物であるかどうかについては、まだわからない。しかし、光正がそう言った。あの検閲官は信頼に足る人物だと」

 そう言ってサムは光正を見る。

 光正はサムの発言に驚いた。まさか自分がそこまでサムに信頼されているとは夢にも思わなかったからだ。

「申し訳ないが、お引き取り願おうか」

 サムは抑揚のない口調でジョナサンに言ってのけた。ジョナサンはいらだちを隠さない様子で髪を搔きあげていたが、すぐに機嫌を直したのか、元の柔らかい笑顔を二人に向けた。

「わかった。そこまで言うなら仕方がない。けど、一つ教えてくれないかい。証拠って、君は一体何を渡したんだい? そんな呑気にものの受け渡しが出来るような雰囲気じゃなかったけど」

 サムと光正はお互いの視線を合わせる。どこまで言っていいものか、と考えたが、せかっくの申し出を断った手前、それくらいは教えておく義理があるだろうと思った。

「渡したのは俺の魔導書だ。それで検閲官が筆跡鑑定を行えば、すぐにでも俺の潔白は証明されるはず」

「――なるほどね」

 少しの間、何かを考えていたようだが、サムの答えにジョナサンは納得したように笑った。

「ということは、さしずめ彼は今君の魔導書の鑑定を行っている、というところかな?」

「あぁ。願わくば、な」

 ここでジョナサンは納得した様子で、最初の一言以外何も言わず突っ立っていたフィリップの背中を叩く。

「よし! というわけだ、フィリップ。僕たちは『僕たちの仕事』をしよう」

 フィリップは無言のまま頷くとサムと光正には全く目もくれずに身を翻した。

「ありがとう、二人とも。『貴重な情報』をいただけて、うれしいよ」

 愛想よい仕草で手を振りながら、ジョナサンとフィリップの姿は再び白い霧の中へと消えていく。その様子をただサムと光正は何も言わずに見送った。

「人間を、怪物に変える魔術書があるなんて」

 光正が誰にともなしに呟く。

「……光正。どうやら逃げ回っている場合じゃないようだ。レイン警部補やロウ検閲官――信頼できる人物達の協力を仰ぐ必要がある」

 サムの言葉に光正は頷く。

「でも、いいのかい? アンタは本来、禁書の問題なんて関係ないはずじゃないか?」

「代筆屋である前に、俺は図書館の司書――いや、ただの本を愛する人間だ。だからこそ、禁書なんてものがこの世に存在することは許せないんだ」

 そう言って、サムは悪戯っぽく表情を崩してみせた。

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