Write to reach you ~希望の暁~   作:けんごち

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第16話

 何度その血をすすっただろうか。床に置物のように転がった弟と妹の首を見つめる。その両目は恐怖に見開かれている。生きたまま食われることの恐怖に加えて、身近な人間に裏切られた絶望もあるのだろう。私は、そんな彼らの顔を見つめながら、床に這い血をすすり続けている。

 これは何度目のことだろうか。もう夢と現もわからなくなってきた。私は何度となく弟妹を襲い、首をかみちぎり、そしてその血で乾きを癒やしてきた。

 必死に何度も抗う。これは私ではないと。

 しかし、私は抗いきれない。抑えようもない渇きが、私を凶行へといざなう。もう、誰かが私を斃してくれることを祈るしかない。私では私をどうすることもできない。

 どうして、こんなことに。どうして。どうして。どうして――

 

 ――気持ちをしっかり持て。お前は誰だ? 答えろ。

 

 頭の中に声が響く。聞いたことのある声だ。でも誰かは思い出せない。

 

――思い出せ。お前は誰だ? これまでの記憶を思い出せ。お前にとって一番大切なものはなんだ? 何のために、お前はこれまで生きてきたんだ?

 

 何のために? そんなのは、決まっている。私は、これまで、この街の秩序を守るために働いてきた。エリート、などと人は私のことを呼ぶ。けど、そんなものはどうでもよかった。

 

 ――思い出せ。お前は、何のために検閲官までになったんだ?

 

 検閲官。そうだ、私は魔導協会の検閲官。何のため? この街の秩序を守るため。魔導士達を取り締まる。けど、本当は何のためだったのだろう? 私は、何のために辛い勉強を続けて、何のために必死に検閲官として働いてきたのだろう?

 あぁ、そうだ。思い出した。少しでも、ほんの少しでも――弟妹達が暮らすこの街がよいものであって欲しい。ただそれだけだった。

 

  *

 

 湿気をはらんだ空気と頬に当たる芝生の感触。これまでの意識では感じることのなかった土の匂いにチャックは気づいた。そして、ゆっくりと両目を開ける。暗闇が薄く自分の上にのしかかり、その上を柔らかなベールのような月光が包む。

「……私、は」

 チャックは呟いた。ここはつい先ほどまでチャックの意識が囚われていた世界とは違う。そう、ここは――グリーンパークだ。芝生の真ん中に寝そべっている。

「よかった! 気がついたんだね!」

 聞き覚えのある声がした。チャックはゆっくりと首を動かし、そこへと視線を向ける。

「……もう魔法力の影響は感じない。危機は脱したな」

 心配そうに自分をのぞき込む顔と、大きく息をつきその緊張の色を少しずつ和らげている顔――チャックはその二人が光正とサムであることに気づく。

「貴方、達は……そして、私は……」

「あまり無理はするな。つい先ほどまで、お前の体は人間と怪物の狭間にあったのだからな」

「え?」

「とにかく間に合ってよかったよ。サムの魔術書が近くにあったおかげで、この広い公園でもチャックのいる場所がすぐにわかった」

「間に合った? 私は、一体?」

「……俺が怪物になりかけていたお前を引き戻した。知っての通り俺は代筆屋だ。だから、発動している魔法に干渉することができた」

「チャックを見つけたときはびっくりしたよ。うずくまりながらすごい形相で苦しんでいたからさ」

「代筆屋とはいえ、変わってしまったものは元へは戻せない。もし引き戻せず、怪物になるようだったら、俺はお前を斃すつもりだった。お前を引き戻せたのは、お前自身の精神力のおかげだろう」

「私は……怪物に、なりかけていた。ということは、何度も見たあの悪夢は」

 あれは怪物になった自分が見せていた未来の光景。もしも抗いつづけていなかったら、サムが魔法で引き戻してくれなかったら、そう思うとチャックの背筋に寒気が走る。

「そうだ。私は――」

 チャックは上半身を起こし、記憶を掘り返す。この公園で何があったか。まだ頭は霧がかかったようにぼんやりとしているが、ゆっくりと時系列順に記憶の糸を手繰る。

 そう、最初はサムの魔術書と禁書の鑑定をしようとして、それで人気のないこの場所まで足を運んで、そして――

「ジョナサン! ホラー作家のジョナサン・ワイルダー、奴が禁書をばらまき人々を怪物に変えていた!」

 チャックは思わず叫んでいた。あの後出会った恐るべき出来事。ジョナサンの告白。

「ぐっ、こうしてはいられない」

 チャックは両手を地面につけ、体を起こす。体力は大きく消耗しているが、体そのものへのダメージはなさそうだ。それに気づいたチャックは、自らの体を手で押さえ傷口を探す。

「……おかしい。確かに私は銃声を聞き、銃に撃たれたはず」

 チャックの記憶の中に、ジョナサンが硝煙の立ちのぼる拳銃を手に持った姿がある。体の自由を一瞬で奪われたことから狙撃されたものとばかり思っていたのだが。

「……なるほど。そうか。銃声を『トリガー』にして禁書の魔法は発動するように仕掛けられていたのか」

 サムが納得した様子で呟く。

「だとしたら、私を撃ったのは、空砲ということですか?」

「おそらくそうだろうな」

「ちょ、ちょっと待ってよ二人とも。二人で何を納得して話を進めているんだよ」

 チャックとサムの会話に光正が割って入る。

「……魔導士は魔術書に言葉を貯めている。それは常識だからお前も知っていると思うが、そこから力を引き出す場合、魔法の発動および方向性を制御するトリガーを用意しなくてはならない。それが魔導士の詠唱になるわけだが――実は魔法の発動に必要なトリガーを仕込むことも可能だ。自動魔法、とでも呼ぶべきだろうか。実際には魔導士が離れると魔法が弱まること、また複雑な条件付けが難しいことから、実効的な魔法とするには魔導士に高い技術が要求される。よって、あまり使用する魔道士はいない」

 しょうがない、といった様子でサムが光正の質問に答える。

「つまりジョナサンの禁書は、対象とする相手が禁書を持った状態で銃声を聞かせることにより発動するということです」

 言いながらチャックが立ち上がる。魔法の影響下から脱したおかげが、体の力の戻りは早い。この分なら活動に大きな支障はなさそうだ。

「代筆屋の名を騙り禁書をばらまき――そして、適当なタイミングでトリガーを引けば、魔法が発動し人間が怪物に変わる。そういう仕組みだったのか。そしておそらくは怪物がどういう行動をするのかについても、禁書の中で指示があったのだろう。この街で、ずいぶんなことをやってくれたものだ」

 地面に転がる禁書を睨みつけながら、サムが憎々しげに呟いた。

「それじゃあ、この禁書を持っている人は銃声を聞いたら怪物になるってことかい?」

 光正が怯えながら尋ねた。ジョナサンがどれだけの禁書をばらまいたかはわからないが、銃声をトリガーに無差別に周囲にいる人間を怪物にする、とあっては、今後もその災禍は予断を許さない状況にある。

「それは問題ないでしょう。おそらく、ジョナサンが近くにいて魔導書に魔力を供給しなければ、トリガーだけでは発動しないはず」

「そ、そっかぁ……。それならとりあえずは一安心、でもないか」

 光正は胸をなで下ろしたが、すぐにそれが尚早であることに気づいた。肝心の犯人達はまだ野放しのままだ。

「……半分意識は失っていましたが、私のおぼろげな記憶では、奴とフィリップと呼ばれた魔導士は、私から禁域の鍵を奪いました。そうだ、こうしてはいられない。早く奴らを追って、魔導協会に戻らねば!」

「待て」

 勢い駆け出そうとするチャックの肩をサムが掴む。

「一筋縄ではないかない相手だ。焦って飛び込むべきではない。まずはお互いの情報を共有する。お前が、ジョナサン・ワイルダー達と出会ったのは何時だ?」

「はっきりとした時刻は覚えていないが」

 チャックは懐中時計を確認する。

「おそらく三十分ほど前のことです」

「三十分前だって? 僕たちはあの二人と別れてからすぐにこっちへ向かって移動してきたんだ。それなのに三十分前にチャックに追いついていたなんて、速すぎるよ!」

 光正が疑問を口にする。確かにあの光正とサムが怪物に襲われた直後、ロンドン塔の近くでジョナサンとフィリップに会った。そこから走って移動したとしても、三十分前にグリーンパークに到着するのは不可能だ。

「何らかの魔法を使って移動した、とみるべきだろう。まだその正体はわからないが」

 サムが光正の発言を捕捉した。

「貴方方も、あの二人に会っていたのですか」

「あぁ。あの後、俺たちは再びロンドン塔の方へと戻った。そしてそこで怪物に襲われた。その怪物は、魔法を使った。おそらくは……魔導士を怪物へと変容させたのだろう」

 サムの言葉にチャックは苦々しげに唇の端を引き延ばす。

「私も同じように、怪物になった魔導士になりかけていたということですか」

「実は僕たちもジョナサン達が犯人じゃないか、って気づいていたんだ。その怪物の喋った言葉がジョナサンの小説の文体にそっくりだったからって理由でね。それで、えと……ごめん。チャックが襲われたのは、僕たちがチャックが禁書を持っていることを教えたせいだと思う」

 光正は申し訳なさそうに頭を下げた。結果的に、光正とサムがチャックが禁書を持っていることを教えた事により、チャックは危険に晒されてしまったことになる。

「……私もサムが代筆屋として禁書をばらまいていると疑ってしまった。お互い様ということでもういいでしょう。私たちがやるべきことは、一刻も早く奴らを止めることです」

 チャックは奥歯を噛みしめる。ジョナサンとフィリップに完璧に翻弄されてしまった。その上、禁域の鍵まで奪われてしまうとは。

「奴らは禁域の鍵を私から奪った。ならば、真っ直ぐに協会に向かっているはず。私は協会に戻ります」

 チャックは協会の方を見る。禁域の鍵にはセキュリティが施されている。チャックが鍵を奪われたことは、すぐに他の検閲官達にも伝わっているはずだ。さらに扉を開けるには三つの鍵が必要で、一つ奪われただけでは扉は開かない――だが、どうにも不安が抑えきれない。あの二人の魔道士の力は、検閲官としてのチャックの経験を持ってしても全く底が見えない。

「サム、貴方には代筆屋としての咎があるとはいえ、この状況です。見逃しましょう。ですから、貴方方二人はもうこの一件には関係ない一般人です。巻き込むわけにはいかない。安全な場所へ行ってください」

「断る」

 チャックの提案をサムはにべもなく切り捨てた。

「なっ! ここから先は貴方達にはもう関係のないことなのですよ!」

「……俺は十年以上前の記憶がない。このロンドンで過ごした日々が、俺の全てだ。だから、この街に危機が迫っているというのなら、それを見過ごすわけにはいかない。ロウ検閲官、別にお前のためなどではない。ただ、俺の、俺自身のために、俺は戦う」

 サムは有無を言わせぬ調子で言い切った。そして先陣を切って魔術協会へと向かって歩き始める。

「僕だって、魔術書を書いてもらうまでは離れないって決めているんだからな」

 歩き出したサムのすぐ後を光正が追う。そんな二人の姿を驚愕に満ちた表情でチャックは見つめる。

「ちょっと待ってください。わかっているのですか? 相手は人を怪物に変える恐ろしい魔導士なのですよ! それを相手にしようという貴方達は、自分の身の程をわきまえているのですか!」

「……もちろんわかっているさ。俺は、ただの代筆屋だ」

「僕はただの落ちこぼれ魔導士だ」

 サムに続いてなぜか光正まで自信を持って言い切る。チャックはもはやその姿に失笑にも似た感情を抱くしかなかった。どうしてだろうか、この二人と一緒にいれば、何にも負ける気がしない。

「……これは本来検閲官の仕事です。お二人ともくれぐれも私の足手まといにはならないよう!」

「……ふっ。先ほど勝負では、まだ俺の力を知るには不十分だったか?」

「もう。二人とも馬鹿言っていないでさっさと行くよ! さっさと全部終わらせるんだ。それで僕は魔術書を書いてもらう。わかったね!」

「……光正。さすがの俺もお前のしつこさにはほとほと手を焼くよ」

 チャックとサム、二人の背中を押す光正にサムは悪戯っぽい笑顔を浮かべてみせる。

「では、さっさとロンドンの街を救うとするか」

 サムの言葉を合図に三人の魔導士は真っ直ぐに駆け出す。

 

  *

 

 禁域へと続く巨大な鉄の扉。ジョナサンはその前に立ち、三つの鍵穴に一つずつ鍵を差し込んだ。内二つはフィリップが魔法で複製したものだが、その工作精度には全幅の信頼を置いている。案の定、何の引っかかりもなく三つの鍵は等しく鍵穴の中で回った。

「……鍵は問題なさそうだな」

 ジョナサンの背後からフィリップが声を掛ける。

「やぁ、フィリップ。そっちの方は無事片付いたのかい?」

 脳天気な調子でジョナサンはフィリップに尋ねた。

「問題はない。テューダー検閲官には十分な傷を負わせ行動不能状態にした。念のため、とどめを刺そうとしたが、それには失敗した」

「とどめに失敗? 君が失敗をしたのかい?」

 意外そうにジョナサンは目を開く。

「脳髄に向けて銃弾を打ち込んだのだが――それがテディベアのぬいぐるみにすり替えられていた。おそらくはウィローハウス検閲官の魔法だと思われる」

「なるほど」

「テューダー検閲官の出血状態から、とどめを刺さずとも数十分で絶命すると判断。加えて、ウィローハウス検閲官を追撃するのは彼らの策に乗ることになると考え、こうして合流することにした」

「なるほど、ね。で、フィリップ、君はちゃんと教えてあげたのかい? 彼らの同僚、ロウ検閲官がもう怪物になっちゃっているということ」

「……彼はもうこの世にいない、と答えた」

「また婉曲的な表現だねえ」

 やれやれといった調子でジョナサンは笑みを浮かべる。

「私たちはロウ検閲官が怪物へと変化したのを確認していない。ゆえに怪物になったとは断言できない。今までは、魔法を発動させた後は必ず怪物かを確認していたのに、なぜあのときは確認せずに場を離れた?」

「そりゃだって、周りに僕たちしかいないわけだからねえ。怪物になったロウ検閲官に襲われたら困るだろう?」

「そうか? 私なら問題なく迎撃できるが」

「そういう問題じゃなくて、自分の自分の仕掛けた悪戯に自分で引っかかるなんて間抜けな話ってことさ」

「……実験結果を確認しないのならば、その場で殺害した方がより確実であったと思うが」

「わかってないなぁ、フィリップ。君はホラー作家にはなれないね」

 ちっちっち、とジョナサンは人差し指を振る。

「禁書を操作していた検閲官が怪物になって自分の大切な家族の生き血をすする――ホラー小説ならそれくらいの理不尽でエグい演出がないとね」

 ジョナサンはさも愉快な冗談を言ったとばかりにカラカラと笑う。そして表情を真面目なものに変え、重い鉄の扉に手を掛ける。

「さて、もう実験はいい。十分なデータは得られた。後はここに秘められたアカシックレコードをこの手にし、そして僕は――悲願を達成する」

 そう高らかに告げるジョナサンの額にうっすらと黒い蜘蛛の姿が浮かび上がった。

 

  *

 

 ――どうしてそんなに黙ってばかりいるんだい? 僕の方に悪いところがあったとしたら、それはちゃんと直すよ。男はドア越しに必死に語りかけるが女の返事はない。わかった、僕が悪かった。反省の証としてこの頭を丸めよう。男は髪を切り坊主頭になった。それでも女の返事はない。もしかしたら、僕が何か君に危害を加えると思っているのかい。よし、ならば僕は身につけているものを全部脱ごう。男は全裸になった。しかし、それでも返事はない。どうしたんだい、ここまでしても話を聞いてくれないのかい。それでも返事はない。業を煮やした男は扉を開けた。そこには、一つのテディベアのぬいぐるみがぽつんと部屋の真ん中に置かれているだけだった。男はぬいぐるみに必死に謝り、あまつさえ裸にすらなってみせたのだった。開け放った窓から風が吹き込み、男はそのまま風邪を引いたのだった。

 

「大丈夫でにゃんすか!」

 魔術書を懐にしまいウィローハウスは倒れ伏すテューダーに覆い被さる形で叫ぶように安否を確認した。テューダーはうっすらと目を開けると、またゆっくりと目を閉じる。

「なんだい……ここはあの世じゃなくて、うちの一階じゃないか。そうかボーヤの魔法でアタシを逃がしてくれたわけだね」

「にゃにゃ。今頃あのゴーグルくんはぬいぐるみに話しかけてるでにゃんすよ! それにちょっとワガハイの魔法もいたちの最後っ屁に仕掛けてやったでにゃんす。けど、ワガハイの力では、後はもう逃げ出すだけで精一杯だったでにゃんす」

 ウィローハウスはその表情に珍しく深刻な後悔の色を浮かべ顔を伏せる。

「……馬鹿を言っちゃあいけねえよ。破壊力を追求するのは、魔法の本質じゃねえさ。魔法ってのはね、自分の言葉を通じて世界に働きかける、それが一等大事なんだよ。だからボーヤ、アンタはアンタの言葉でちゃんと世界に向き合って言葉を紡ぎな」

 テューダーは穏やかにウィローハウスに語りかける。しかし、彼の出血は未だ止まることなく、そのローブは血に濡れ重みを増していっている。

 なんとか医者に診せなくては、とウィローハウスは考えるものの、彼の魔法に大人一人を抱えて長距離を移動するものはない。彼の体格と体力ではテューダーを抱えて走るなどという芸当も出来ない。

「ボーヤ。アンタはさっさと逃げな。悔しいけど、今のアタシらの手に負える相手じゃねえ」

「しかしでにゃんす」

「アタシの事は置いていきな。自分の身のことはてめえが一番よくわかってる。もう後はくたばるのを待つだけさ」

 弱々しくテューダーがそう言ったときだった。

「お前さん、諦めちまったら、助かるもんも助かりはしねえぜ」

 そう言って真っ直ぐに二人の元へ駆け寄ってくる人影。ひときわ大きなその影の主は――

「レイン警部補さんでにゃんすか!」

 ウィローハウスに呼ばれてレインは小さく頷くと、自らのコートを引きちぎった。そして、それを手早く倒れ伏すテューダーの体に巻いていく。

「見たところ急所は外れている。止血はした。今すぐに外科医の元に運べば助かるかもしれねえぜ」

「ちょっとアンタ……なんで、こんなところに?」

「……ちょいとばかしロウ検閲官に用事があって来てみたんだが、そうしたら入り口の鍵が壊されていたんでな。何かあったと思って中に入ってみりゃあ、お前さんがぶっ倒れているっていうな」

 言いながらレインは血がつくことも気にせずテューダーの体を担ぐ。

「……レイン警部補、悪ぃことは言わねえ。アンタもさっさと逃げな。悔しいけど、賊はアタシらの手に負える相手じゃねえ。それにチャッキーも、あいつらに」

「……そうか。何にせよ、お前さんを医者に診せるのが先決だ。なァに、俺の知り合いに無愛想だが腕のいい外科医がいる。そいつをたたき起こしてお前さんの治療をさせるよ」

「にゃにゃ! 不幸中の幸いか、奴らはワガハイ達を追ってこなかったでにゃんす。つまり、今こそが逃げるチャンスぞなもし」

 ウィローハウスもテューダーの体を支えるようにして立ち上がる。

「しかし、警部補クン、ワガハイ達には病院まで移動する足がないでにゃんす」

 そう、ウィローハウスの言うとおり、テューダーの状況を鑑みれば、大の大人を担いで病院まで走るほどの時間の猶予はない。

「それなら心配無用さ。お前さん達が入り口近くにいてくれて助かった。あとはあの扉から出れば――」

「レイン警部補! 光正達は無事ですか!」

 入り口から三人をのぞき込む人影が叫ぶようにして声を掛けた。

「マルティン博士! 馬車の御者にすぐに出発できるよう準備をしろと伝えてくれ! 行き先は病院だ! 緊急のけが人が一人いる!」

「なっ……わかりました!」

 レインに言われてマルティンは素早く身を翻し、入り口の前に止めてある馬車の御者に指示されたままを告げる。

「やや! あの長髪の美男子はどなたにゃんすか?」

「海洋学者のマルティン博士さ。今はあの赤星光正の身元引受人になってもらっている。その光正が夜になっても帰ってこないって言って警察署まで来たんでね。俺も気になってここまでやって来たってわけさ」

 駆けながらレインは答える。

「にゃるほど! ということはチャッククンに会いに来たのも、あの日本人クンの行方を捜すためでにゃんすか?」

「それもあるが……本当の目的は違う」

「本当の目的、とな?」

「あぁ」

 駆けながら、レインは何か苦いものでも吐き出すかのような顔をした。部下の警察官の言葉、我々の想像もつかないような悪意――もしかしたら、何か根本的な思い違いをしていたのではないかと考えた。そして行き着いた仮説があった。

「ロウ検閲官に確認したかったのさ。人間を怪物に変える――そんなことが魔法で出来るのかってな」

「にゃにゃ!」

 あまりにも常軌を逸したレインの質問に、何事も飄々と受け流すさしものウィローハウスも驚愕した。

「……なるほど、ね。禁書事件を追っていたあの子の表情が……険しかった理由も、解った気がするよ。あの子は、気づいていたんだね」

 レインに背負われたままのテューダーが力なく呟く。

「全く……頼ってくれ、って言っていたのにさ。……まぁ、アタシ自身、偉そうな口叩いてこの体たらくじゃ、しゃあねえか」

「テューダー検閲官。あまり喋らない方がいい。今は体力を温存することに意識を集中しろ。すぐに医者に診せてやる」

 レインが弱々しく語りかけてくる背中のテューダーに注意する。

「……ありがとよ。でも、これだけは、言わせてくれ。……この事件の犯人は、ジョナサン・ワイルダー。あのホラー作家さ」

 そこまで言い終わったところで、テューダーはその意識を手放した。

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