Write to reach you ~希望の暁~   作:けんごち

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第20話

 十年もの間、ずっと探していた。その存在を信じて疑わなかった自らの過去。サムのロンドンで過ごした十年間は、それが全てであったと言っても過言ではない。代筆屋としての活動を始めたのも、そもそも魔術書の代筆という行為がなぜ自分に出来るのか、その謎が自らの出自に直結していると直感したからである。

 しかし、なかった。サムには十年以上前の過去がなかった。記憶がないのも当たり前だ。そもそも存在しないものを、ただひたすらに追いかけていた。

「……なんということだ」

 チャックはサムの様子を横目で見ながら歯嚙みした。

 魔導士の魔法は精神から生まれる。ゆえに魔法戦では如何に精神的に安定してるかが勝敗の鍵を握るのだが――今のサムは精神の安定などとは程遠い状態にある。

 無理もないことだ、とはチャックには理解出来る。十年間彼が必死に探してきた過去が存在せず、十年前に何者かに作られた存在であることを思い知らされたのなら。アイデンティティーの崩壊。サムの持つ精神力なら、きっと立ち直ることは出来るとは思うが――この状況でそんな猶予はない。

「なんだ。人並みにショックを受けるのか。君はフィリップと違って余計なものが多いな」

 ジョナサンがサムを見下し嘲笑う。これはサムの平静さを奪うジョナサンの作戦であるとわかってはいるが、今のサムには看過できない。

「……黙れ」

「何だ? 怒ったのかい? 作り物のくせに、一丁前に感情のようなものはあるんだね」

「黙れと言っているんだ!」

 サムが魔術書を開く。しかし、光正がサムの腰にしがみつきそのまま押し倒す。

「落ち着け! あんな挑発に乗るなよ! 冷静さを欠くなんてサムらしくないだろう!」

「……うるさい。俺らしいだと? 俺らしさとはなんだ? なぜそんなものがお前にわかる? 俺は、誰かの手によって造られた存在だ! 何もかも、本当は存在しない偽物だった」

 サムの慟哭は痛いほど光正に伝わってきた。しかし、光正には掛けるべき言葉は見つからない。ただ必死にサムを押さえつけるだけである。

「混乱ついでに、サービスでもう一つ教えてあげようか」

 ジョナサンが愉快そうに笑いながら口を開いた。

「私たちは何の理由もなくこの戦艦を空に浮かべたのではない。見たまえ。ここからだとロンドンの街が一望できるだろう? 私たちは、これから神を創り出す。ここから、ロンドンに住む人々を使ってね」

 衝撃の告白にチャックはサムを見上げた。自分の聞いた言葉が信じられない。しかし、目の前で起きていることは全て現実なのだ。

「人間を材料に神を創り出す、だと……そんなことが」

「できるのさ」

 ジョナサンはチャックを指さす。

「これまでの実験で、私は人間を別の存在へと変容させることが出来ることを確認した。人間と他の動物を混ぜ合わせて怪物を造ることもね。そして、このアカシックレコードの力があれば、ロンドンの全ての人間を掛け合わせる事が出来る。何万人という人間から生み出されるたった一人の存在だ。それはまさしく神だろう?」

「狂っている……狂っているぞ、ジョナサン!」

 チャックは叫んだ。しかし、ジョナサンはまるでそよ風のように心地よさそうに受け流す。

「そしてサム。私は君に感謝しているんだ。なぜならこの計画のそもそもの発端は、君だったんだからね」

「……なんだと?」

 呆然とサムはジョナサンを見上げる。

「ロンドンの街中で倒れていた君の第一発見者はリオ・ショーという五歳の子供だったことになっているが――実際に君を最初に見つけたのは私さ」

「それがなんだと言うんだ!」

 サムは光正を振りほどき立ち上がる。そしてジョナサンを射殺すくらいの殺気を込めて睨みつける。

「リオくんは目撃していなかったようだが、君は光の中から現れたのさ。ロンドンの街中に、突然にね。私も魔導士の端くれだったから、すぐに気がついたよ。あれは魔力だったと。そして、知った。魔法で人間を創り出すことが可能であるとね」

 ジョナサンの告白にサムは呆然と立ち尽くす。自分が存在したことが、今ロンドンを襲う未曾有の危機の元凶だった。

「人間が行動を起こすには、できる、と認識しなくてはならない。私は君のおかげで新しいアイデアを得た。もっともそれを形にするには何年もかかってしまったが、ようやく君と同じように魔法で人間を創り出し、そして人間という存在そのものを変容できるようになったのだよ」

 光正とチャックに今サムに掛けられる言葉はなかった。

 十年前から記憶を探し続けるサム。このロンドンの街をこよなく愛するサム。しかし、彼が存在したことがきっかけとして、ロンドンの街が壊滅しようとしている。

「だから、私は忙しいんだ。物語を作らなくてはならないからね。神を称える賛歌を」

「馬鹿を言え! この街の人々全てを犠牲にする悪魔の詩だろ!」

 光正は声の限り叫ぶ。ろくな魔法も使えない彼にとってはこれが精一杯の抵抗だった。

「ふ。さて、もうおしゃべりは終わりだ。絶望を抱きながら、この空で散りたまえ。フィリップ、後は任せるよ。君がサムを斃し、私の方が優秀であることを証明してくれ」

 無言のままジョナサンの発言が終わるのを待っていたフィリップが、三人の前へと歩み出てくる。もはや機械の体を隠そうとするそぶりすら見せない。

 その姿を満足そうに見届けジョナサンは操舵室へと入っていく。そこで誰にも邪魔されず魔術書の最後の仕上げを行うつもりだ。

「このように動揺を誘う戦い方では私の方が優秀であるという証明にはならないが、効率的だ」

 フィリップは魔術書を開く。

 

 ――回転。それが答えだった。銃口を演習場に配置し、それを高速で回転させる。円とは無限に連なる点。回転とは恒常的な運動。その速度を速めれば速めるほど、銃弾の数は比例し増えていく。これこそが銃という機械の欠点を克服した新しい姿だった。

 

 フィリップが魔法を詠む。そして彼の目の前にテューダーを破ったガトリング砲が再び顕現する。

 

 ――土の壁が盛り上がります。地下から現れた土の妖精ノーム達。彼らは一列に並び、まるで粘土細工でもするかのように大地の形を変えます。彼らは、体の割に大きめな手のひらで地面を掴んで押し、一フィートほどの土の壁をあっという間に作り上げました。

 

「サム、赤星さん、身をかがめて!」

 チャックは魔法を詠み、サムと光正に指示を与えた。とっさにフィリップの魔法がどういうものであるかを判断し、その防御壁となる土の壁を顕現させた。

 銃弾が雨あられと容赦なく降り注ぐ。所詮土塊で弾丸を防ぐのには限界がある。砂山をスコップで崩されるように、どんどんと壁が薄くなっていく。

「くっ」

 状況は最悪に近い。この壁が破壊されるのも時間の問題だ。そうすれば、あの弾丸の雨に自分たちの体は晒される。ほんの少し、寿命を延ばしているだけに過ぎない。

 

 ――その瞬間、熱風が彼を襲い、空気が爆ぜる。一瞬、彼には自らに何が起こったかを理解出来なかった。ただ何か熱いものに突き刺されたような、そんな感触だけがした。

 

「光正!」

「赤星さん!」

 サムとチャックはほぼ同時に光正を見た。光正は懐から巻物型の魔術書を取り出し、魔法を詠んでいる。

「僕だって魔導士のはしくれだ! くらえ!」

 ぽん、と何かがはじけるような軽やかな音がした。白い煙が細く上っていく。その場にいた全員がその白い煙の行く先を目で追う。

「……どうした? 他に何かが起こるわけではないのか」

 目の前で何かがはじけたことに動きを止めたフィリップが、辺りの様子を窺いながら尋ねる。間違いなく、今魔法が唱えられた。ならば何かが起こるはず。このぽんとはじける音は、目くらましかそれとも何かの予兆か。そう考えてフィリップは攻撃の手を止め周囲を観察しているが、何の変化もない。

「……やっぱり、僕の力じゃこの程度か」

 光正が自虐的な笑みを浮かべてみせる。なんとかしなくては、と魔法を唱えてみたはいいが、やはり出来の悪い手品程度のことしかできない。

「いえ。おかげで奴の攻撃の手が止まりました。千載一遇のチャンス! 今の隙にこちらから仕掛けますよ、サム!」

 光正に感謝の言葉を述べ、チャックが魔術書を開く。

 

 ――その国には金属で出来たものがありませんでした。ずっとずっと雨が降っていて、その水滴がかかればあっという間に金属がさびてしまうのです。鉄も銅も、金や白金でさえも。ところどころに転がっている赤い錆。それがこの国にある金属のなれの果てでした。

 

「チャック童話、錆の国」

 チャックが魔法を詠むと同時に、霧がフィリップの体を包む。彼と彼が顕現させたガトリング砲をあっという間に赤い錆で埋め尽くす。

「くっ」

 フィリップは後ろに飛び霧から脱出した。しかし、その体は錆に包まれ明らかに動きに問題をきたしている。

「人間の体は脆弱だと貴方は言いましたが、機械もまた脆弱なものなのですよ」

 そしてチャックがサムに合図を送る。

「サム、とどめを! 錆でダメージを受けている今なら、完全に破壊できるはず!」

 チャックの言葉にサムが立ち上がり魔術書を構える。

 

 ――男の体を貫いた。それは、それは……それは

 

 しかし、サムの口から出てくる言葉は物語にならない。まるで言葉が意識からこぼれ落ちていくようだ。言葉と言葉の関係がばらばらになっている。サムが焦れば焦るほど、頭の中に思い描く物語は霧散していく。

「くそ」

 サムは言葉を吐き捨てた。頭の中が嵐に遭ったかのようにぐしゃぐしゃで、何もまともに考えられない。言葉が紡げない。意識的にその声を閉ざそうとしても、頭の中に鳴り響き続ける。

 偽物、ニセモノ、にせもの――

「発想は悪くはないが、錆びさせるだけでは私は倒せない」

 魔法で全身の修理を終えたフィリップが再びガトリング砲を構える。そして三人に向かって再び一直線に弾丸の雨を降らせる。

「サム! 逃げるんだ!」

 光正がサムの体を掴み、全力で地面を蹴る

「くっ!」

 チャックも光正達とは反対側へと向かって飛ぶ。光正とサム、そしてチャックの間を裂くように弾丸の列が飛ぶ。

 転がりながら、チャックは状況が最悪であることを悟った。魔導協会のエリートである検閲官、しかし悔しいがフィリップ相手に一対一の戦いで勝てる自信はない。いや、サムが戦えない今、サムと光正を守るというハンデを負っている分勝利は絶望的だ。体勢を整えるために一時退却をしたいところではあるが、ここは空の上。さらにはジョナサンが魔法を発動してしまうまでもう時間はほとんど残されていない。

「……万事休すか」

 チャックは悔しげに呟いた。チャックの魔法ではフィリップに決定的なダメージを与えることは出来ない。機械の体の耐久力、そして自らを魔法で修理する早さ。勝利に繋げる要素が全く見えてこない。

「サムはもう使い物にならない。もう一人の彼の魔法も無力だ。よって、ロウ検閲官、君の方から先に始末させてもらうのが最も効率がいい」

 フィリップがガトリング砲の先をチャックに向ける。

「くっ」

 チャックは身をかがめ、先ほどと同じ土壁を顕現させる魔法を詠む。それでなんとか弾丸の雨をしのげるものの、それはまさにその場しのぎでしかない。

 削られ飛ばされた土塊が、チャックの口の中へと入ってくる。それらは魔法であるため、土の味がする前に消えてしまう。

「サム! なんとかしてくれ! 僕じゃだめだ!」

 光正がサムを揺り動かす。チャックはなんとか土壁でしのいでいるものの、十数秒程度しか保たないだろう。

「サム! 頼む! チャックが、チャックが!」

 光正がサムを揺り動かす。しかし、サムは人形のようになされるがままだ。

「……だめだ、光正。俺には、何も出来ない。俺は空っぽの誰かに創られた、そんな存在だ」

 力なくサムは呟いた。

「何を言っているんだ! 代筆屋だろ!」

「……期待などするな。俺にはもう」

 その言葉を聞いた瞬間、光正の胸の内に煮えたぎるものがあった。そしてすぐに光正の体全体へと伝わっていく。

 ――違うだろ。

 光正は右手で自分の魔術書を握りしめた。

 ――違うだろ。

 体の中から何か熱いものがほとばしるような感覚。そして、そのエネルギーが右手に、いや魔術書に込められていく。

「何をやっているんだ! 本当の君は、そんなんじゃないだろう!」

 光正が叫ぶと同時に、魔術書がすさまじい光に包まれた。夜空であることを忘れさせるほど、その白い光は辺りを強く照らす。そして、夜空へ、星へと向かって真っ直ぐに伸びていく。

「な、なんだ、あの光は」

 呆然とチャックは空に昇っていく光を見つめていた。何が起こっているのかわからない。しかし、ただそれを美しいと思う。

「そうか……これは」

 攻撃の手を止め、フィリップも光を見上げる。その表情は何かを悟っているかのようだった。

「な、なんだよ、これ」

 光の中心にいる光正は、しかし自分がしていることが理解出来ないでいた。すさまじい光が、まるで魔力が爆発しているような光が、自分の魔術書から発せられている。しかし、それは何かを破壊する力を示す事もなく、温度もなく、ただ光で――そして、その光がサムの体もまた包んでいる。

 サムが立ち上がる。そして乱れた自らのローブを再び纏い直す。そして、歩き始める。サムを包む光が、まるでサムに吸収されるかのように消えていく。

「――ありがとう、光正」

「え?」

 サムは呟くように光正に礼を言うと、真っ直ぐにフィリップの前へと歩いて行く。

「……全て思い出した。俺が何者であるかも」

 サムはフィリップの前に立ちはだかり、魔術書を高々と掲げる。

「十九世紀末のロンドン。一人の日本人の魔導士が現れ、ロンドンの街を未曾有の危機から救い出す。その男は魔法力そのものに直接干渉する能力を持つ、最強の『魔導士殺し』」

 サムはゆっくりと掲げていた魔術書を降ろしていく。

「その名は――百千万字郎。覚えておけ、お前を斃す者の名だ」

 フィリップはサムへと向き直る。

「なるほど。……実に興味深い。こんな偶然があるとは」

「偶然ではない――運命だ」

「なんにせよ、君が自分を取り戻そうと、私のやることに変わりはない」

 フィリップはサムに向かってガトリング砲を放つ。無数の弾丸が真っ直ぐにサムへと飛んでいくが――

 

 ――ガトリング砲。そこから放たれた銃弾は、しかし水滴へと変わる。ただ雨に打たれたように、服を濡らすだけだった。振り払われれば、水滴は簡単に地面に落ちて染みていく。

 

 サムが魔法を詠んだ。銃弾の全てが容赦なくサムに当たる。しかし、それらは全て水滴に変わり、サムは面倒くさそうに濡れたローブの表面を手で払う。

「銃弾が、水滴に?」

「ど、どういうこと?」

 チャックと光正が驚きを隠さずにサムを見つめる。何か魔法をかけて弾丸を水に変えたというよりも、弾丸そのものが自ら水へと変化したように見えたからだ。

「なんという……実に興味深い」

「言ったはずだ。俺は魔力のそのものに干渉できると。お前が魔力で生み出した弾丸を水に変えることなど造作もないこと」

 サムは悠然とした足取りでフィリップへと歩み寄っていく。

「それが魔法である限り、俺には通じない。ゆえに俺は全ての魔導士の天敵、『魔導士殺し』だ」

「なるほど。君が代筆屋などということができたのも……魔力自体に干渉するという君の能力の一端か」

「おそらく深層心理で理解していたんだろう、自分の本質を。だからこそ、俺は代筆屋という自分に固執した」

「理解出来た。興味深い話だ」

「フィリップ。お前も俺と同じく魔法で生み出された存在。しかし、俺はお前に情は掛けない。俺はこのロンドンの街を守る」

「ならば私も私の役目を最後まで全うするだけだ」

 しかし、そう言ったフィリップは自らの魔術書を閉じてしまう。

「アイツ、なんで魔術書を閉じて」

 離れているせいで彼らの会話は聞こえないが、その様子を見ていた光正が疑問を口にした。

「……わかっているようだな」

「私には君に通じる魔法はない。そして、私自身もまた」

「――いいだろう。せめてもの情けだ。全力を持ってして、お前を送ってやろう」

 

 ――その機械はゆっくりと眠りについた。鋼鉄の腕と不死身の体。形だけの呼吸をこれまで何万回繰り返してきたのだろうか。魔法で出来た命。魔力が尽きるまで、彼は生き続けることが出来る。それが絶対的な孤独を彼に与えるとしても。しかし、今この瞬間、彼は絶対の孤独から解放されようとしていた。魔法が解けていく。機械の体に体温はない。呼吸にも意味はない。しかし、それらが止まるまで。それらがなくなるまで。作り物であっても、それは紛れもない命だった。彼の体は光に包まれる。生まれた日と同じように。

 

「これが……サム、君の物語か……」

 光に包まれながらフィリップが呟く。フィリップの体は徐々に光と一体となり、その姿は透けていく。

「なんと美しい……実に、興味……深い……」

 フィリップは名残惜しそうに自らの両腕を見つめる。光は、先ほど光正とサムを包んでいたものと同じものだった。しかし、今フィリップを包む光には、どこか物寂しげに映った。

 光は空へは向かわず、夜の闇へと広がっていく。そして、どんどんと広がっていき、最後には粒になって消えた。

 彼が立っていた場所に、フィリップの愛用していたゴーグルだけが残っている。

「……どうやら、終わったようですね。見事です、サム、そして赤星さん」

 チャックが立ち上がり、光正へ向かって歩み寄る。

「僕にあんな力があったなんて……でも、あの魔力の爆発、どこかで……」

 呆然とした様子でその場にへたり込んでいた。先ほどフィリップを消し去ったあの光、あれと同じものを光正もまた放っていたのだった。どうしてそんなことが出来たのか。その理由もあの光の正体についても皆目見当もつかない。

「……十年前、俺はあの光に包まれていた。それが最初の記憶だ」

 祈るような仕草で空を見上げていたサムが踵を返し、光正へと向かって歩き出す。そして自らの過去について語り始める。十年前、そこから始まったサムの記憶を。

「それからというもの、自分は何者なのか、ずっと探し続けていた……」

 サムは自分の両手を見つめる。全て納得できた。なぜ自分が代筆などという事が出来たのかも、十年間まったく容姿が変わらなかったのかも。

「光正……お前が俺の元に現れたのは……運命、だったのかもしれない」

 サムは魔術書を懐にしまい、光正が立ち上がるのを待つ。そして光正が立ち上がるのを見届けると、おもむろに口を開く

「俺は……俺の本当の名前は『百千万字郎』……お前がつけた名だ」

「僕が! ……待てよ、ももち……」

 サムの告白。百千万字郎――光正は口に手を当て、思い出す。聞き覚えのある名前だ。間違いなく、光正はその名を知っている。しかし、それは――

「はっ、まさかそんな……だってあれは……」

「そう、お前が書いた物語……そこから生み出された存在……それが俺だ」

 サムは静かに告げた、自らの真実を。

 光正は思い出す。十年前、九歳の頃に書いた物語。

 兄の真似をしていた。若くして魔導士としての頭角を現していた兄に憧れて、九歳の光正は物語を書いた。しかし、そこは九歳の子供。光正が初めて書いた物語は英雄譚だった。

 イギリスのロンドン、そこに謎の日本人の魔導士が現れる。そのときのロンドンでは謎の怪物が暴れるという事件が起きていて、日本から来た魔導士がそれを解決するのだ。その男は、魔法力そのものに干渉できるという、どんな魔導士相手にも負けない最強の魔導士。一件無愛想で冷たく見えるけど、本当は優しくて心に熱いものを秘めている。九歳の少年らしい純粋無垢なヒーロー像。兄の図鑑を借りて、存在を知ってからずっと憧れていた。当時、世界最強を誇る大英帝国、そこに颯爽と現れる日本人魔道士という爽快感。九歳だった光正の憧れを全て詰め込んだヒーロー。

 それが百千万字郎だった。

「紙から光が溢れ出す光景を覚えている。夢だとばかり……」

 光正は自らの顔を覆う。実家の蔵の中で、その物語を魔術書として、魔法の真似事をしたのだ。

「あれは魔力の暴走だったのか……その衝撃で僕の記憶も……」

 光が満ちて、視界が真っ白になって、気がつけば光正は蔵の中でひっくり返っていた。数十分ほど時間は経っていたようだったが、光正はあまり気にしなかった。慣れない魔法を見よう見まねでやったせいだと考えていた。記憶もあやふやだったし、それで気を失って変な夢を見ていたのだと思っていた。

 それがまさか――本当にあの瞬間に万字郎をロンドンに召喚していたとは。

「うわっ!」

 甲板が大きく揺れる。この戦艦はフィリップの魔法で生み出されたものだ。もっとも、無から顕現させたわけではなく、魔導協会の建物を材料として生み出されたわけだから実体がある。なので、フィリップが消えてしまってからも少しは保っていたのだろう。しかし、再びこの戦艦が瓦礫と鉄くずの塊に戻るのは時間の問題だ。

「……取り込み中すまないが、戦艦が墜ちます! 退避しますよ!」

 甲板の縁へと走りより、チャックが魔術書を開く。

「サムのように空を飛ぶことは出来ないが、私だって空から降りる程度のことは出来ますよ」

 

 ――雲の国から地上へと降ります。雲の国の王様は言いました。この空に浮かんでいる雲のほとんどは触れれば消えてしまう。しかし、いくつか触れても消えない雲があるのだ。それを乗り物にして地上に降りればよい。その雲の上に乗れば、勝手にゆっくりと降りてくれることであろう。

 

 チャックは魔法を詠むとチャックの周りにもくもくと雲が出現した。

「チャック童話、雲の国の王様。さぁ、皆さん、この上に乗ってください」

 サムと光正は指示に従い雲に飛び乗る。柔らかく体が沈んだが、そのまま下に突き抜ける様子はない。そして、二人の重量のせいか、雲はゆっくりと降下を始める。

「これでいい。高さを失えば、ジョナサンとてロンドンの人々を巻き込んだ魔法は使えないはず」

 チャックが崩れ落ちていく戦艦を見つめながら呟く。

「――そのジョナサンは一体どこへ?」

 光正が呟いた。フィリップとの戦いの途中で操舵室に消えてから、その姿を見ていない。

「確かにそれも気になるが、まずは俺たちの脱出の方を優先するぞ」

 サムに言われて光正は頷く。

「これで全てが終わればいいのですが……」

 チャックが不安そうに呟く。

「……少なくとも、これでどうにかなるような奴ではないからな」

 サムは朽ち果てていく戦艦を見上げる。戦艦がなくなった後には、月が煌々と輝いていた。

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