Write to reach you ~希望の暁~ 作:けんごち
あまりにも自分の心の中が静かなことに万字郎は失笑してしまう。今、目の前にある風の壁から飛び出した瞬間何が起こるのか――想像するだに恐ろしい話であるはずなのに、恐怖心はみじんもない。
自分が造られた存在だから、感情に欠陥があるのか? いや、違う。この心の平穏はなかった。つい十分ほど前までの自分には。
心の奥底から勇気があふれ出してくるのがわかる。とどまることがない。自らの使命、そして運命。それが万字郎の体を突き動かしている。
「サム! 三を数えたら、この風の壁に切れ目を入れます!」
「……あぁ。俺が出たら、すぐに閉じてくれ。そこから先は、何があっても自分たちの身を最優先で守れ」
万字郎の言葉にチャックは苦いものをかみつぶしたように首を振る。
「……実に情けのない話です。本来ならば、魔導協会の検閲官である私こそが死地に赴かねばならぬところを」
「気にするな」
不安を隠そうともしないチャックに万字郎は笑いかけた。テムズ川のほとりで戦ったとき、光正がチャックのことを信頼できる人物であると言い切ったことを思い出す。確かにその通りだ。今日の夕方出会ったばかりの万字郎でさえ、光正の答えに心の底から同意できる。
チャックは意を決した様子で唇を噛みしめる。
「ではカウントダウンをします。ワン、ツー」
万字郎と光正はお互いの目を見る。そして無言のまま頷きあった。
「スリー!」
「いくぞ! 最終決戦だ!」
チャックの合図と共に風の壁に切れ目が走った。万字郎は迷わず飛び込む。この街を覆う暗闇を切り裂くがごとく。
*
「逃げたつもりだろうが、そこは袋小路。ふっふっふ、ホラー小説にありがちな展開さ。君たちの命運は尽きたのだよ」
余裕を持ってしてジョナサンは三人を見下ろす。風の壁により『死の灰』からその身を守っているとはいえ、チャックの体力と魔法力には限りがある。対してジョナサンの魔法により生み出されたアンデッドには疲れという概念がない。時間が経てば経つほど、勝利は揺るぎないものとなる。
チャックの力が尽きるにせよ、彼らが業を煮やして賭に出るせよ、ジョナサンにとっては心地よい時間であった。
「怯えながら力尽きるか、恐怖に駆られ自暴自棄となるか――さぁ、君たちはどうする?」
ジョナサンがそう呟いて唇の端を歪ませた瞬間だった。チャックの創り出す風の壁に切れ目が走る。そしてほぼ同時に万字郎が両腕を交差させた体勢で飛び出してくる。
「無謀! そっちの方か!」
ジョナサンは高らかに笑う。おそらく飛び出すと同時に最も攻撃力の高い万字郎が自分に向かって魔法を撃つのだろう。理にはかなっている作戦だが――
「サム。君は自分自身を過信しているよ」
ジョナサンが嘲笑う。
飛び出すとほぼ同時に周囲を待っている灰が万字郎へと向かう。そしてあっという間に万字郎の体は真っ黒に染まる。言葉を発する隙もない。いや、口を開いた瞬間に容赦なく灰は万字郎の口腔を埋めるだろう。
「あーはっはっは! 実に間抜けだな、君たちは!」
ジョナサンが額を抑え天を仰ぎ高らかに笑う。
すでに万字郎は自身の姿が見えないほど黒い灰に埋め尽くされている。魔術書を懐から取り出すことも出来ない様子だ。
「アカシックレコードを手に入れた今となってはどうもでいいのだが……最強の魔導士をベースにした怪物、か。中々におもしろそうだ!」
笑いが止まらないままジョナサンが魔術書を開く。
――黒く染まった体は腐敗し腐り落ちるように姿を変えていく。その異形にもはや妻の面影はない。伸びすぎた牙をカチカチと鳴らしながら、獲物へ迫る。悪魔の力を存分に振るい、周囲を腐敗させる魔力を容赦なくばらまく。草木は枯れ、大地は汚染され、空気はどす黒く染まる。目に触れる全てに死を与える為に。
「……ふふ、新鮮な恐怖を貴方に。実体験を元にした新作さ」
ジョナサンの詠んだ魔法。万字郎はゆっくりと地面に膝をつく。全てが灰で覆われているため、その表情も呼吸もわからない。しかし、徐々に彼の全身が作り替えられていっている事ははっきりと見て取れる。
「サービスだよ、サム。君に敬意を表して、私の新作を君に捧ごう」
ジョナサンは自らの勝利を確信していた。ここまで魔法が進んでしまえば、万字郎には抗う術はない。チャックが手を出してくる可能性もあるが、彼が防御を解いた瞬間、万字郎と同じくこの黒い灰に飲み込まれてしまうことだろう。いや、それ以前に怪物と化した万字郎に殺されてしまうか――
「さまざまな実験を重ねてきたが、ここへ来て最高傑作に出会えるとは私も運がいい。そう、運命は、私を神に導いているのだ!」
鉄の棒の上でジョナサンは大きく両手を広げる。その姿は広がる闇全てを飲み込むかのようだ。
さて再びロンドンの人間達を生け贄にするにはどうするのが効率がいいだろうか? 再び高く飛ぶのもいいかもしれないが、ゆっくりと時間を掛けて取り込んでいくのもまた一興かもしれない。もはやジョナサンを止められる人間はこの世界に存在しないのだから。
「……ずいぶんと……ご機嫌……だな」
「ん? サム、君はまだ喋ることが出来たのか」
万字郎が言葉を発した。ジョナサンは意外そうにその姿を見つめる。チャックの例といい、強力な自我を持つ人間にはある程度抗うことが出来るのかもしれない。
「まぁ、いいさ。すぐに君も私の魔法で怪物に変わる」
ジョナサンは余裕を取り戻す。万字郎が言葉を発したことには驚いたが、彼の体は黒い灰に埋め尽くされ、動き出す気配すらない。精神力のみで抗ったところで、事態の打開は出来ないことは明白だ。
「おとなしく諦めたらどうだ、サム? 抵抗すればするほど苦しみが長引くだけだよ」
ジョナサンは嘲笑う。
「……諦める? 何をだ?」
しかし、万字郎はジョナサンを嘲笑い返す。
「……往生際が悪いのは美しくない。無意味に結末を引き延ばすのは、読者にとってもストレスになる」
「……読者にとって? お前にとっての間違いじゃないのか?」
万字郎は鼻で笑うとゆっくりと立ち上がる。
「悪いが、俺は怪物にはならない。俺は――日本から来た侍、百千万字郎だからな」
――百千万字郎は力強く立ち上がった。魂を侵食しようとする灰も、彼にとっては何の問題にもならない。万字郎の鋼のように鍛え上げられた精神を汚すことは誰にも出来はしないからだ。最強の魔導士の前に小細工は意味を成さない。万字郎は高々と右腕を掲げた。そして、その精神力持ってして腐敗の呪いを打ち破る。
「な、なんだと!」
目の前の光景に思わずジョナサンは叫んでしまった。
万字郎の体を力強い光が包む。そして、万字郎が右腕を堂々と天に向かって掲げると同時に、彼を覆っていた黒い灰は光となり霧散する。
「ぐっ……この出来損ないの魔導士が」
ジョナサンは犬が牙を剥くように歯を見せた。その表情からは先ほどまでの余裕は消え失せ、不快感が溢れている。
しかし、光正はそんなジョナサンの様子は全く意に介さず、真っ直ぐにその姿を見つめる。
「……ジョナサン。アンタに書き換えることは出来ないよ。百千万字郎は、僕の物語の主人公だ!」
巻物型の魔術書――そこに光正は物語を書き綴る。このロンドンの街を救うため、はるばる日本からやって来た一人の魔道士の物語を。
「ジョナサン、貴様がいかに俺の存在定義を書き換えようとしても無駄だ。お前は、光正には勝てない」
万字郎が静かに言い放った。
「く……くっくっく、舐めないでもらいたいね。君を怪物に書き換えるのはただの余興だ。私の力を持ってしてこの地に腐敗と死を! 貴様らがなんであろうと関係はない! 全ては私の物語の中で悲劇として朽ち果てていくのだ!」
ジョナサンが魔術書に力を込める。
腐敗と死の魔法――いや、それは呪いと言った方が正しいのかも知れない。このグリーンパークに刻みつけるのだ。この場所そのものが命あるものを呪い、そして破壊する。万字郎がよみがえろうが関係はない。
「三流作家ども! 私の勝利は揺るがない!」
再びのジョナサンの攻撃。しかし、万字郎はただ静かにジョナサンの姿を見上げるだけである。
「……三流作家、か。確かに、俺たちはサーカスの曲芸のようにお互いの命を支え合ってここにいる。人によっては、無様にすら見えることだろう」
万字郎は魔術書を開く。
「チャックが光正の命を守り、光正が俺の命を守る。命綱を繋いだぎりぎりのところで、なんとか俺はこの場所に立っている。一歩間違えれば奈落の底に落ちるであろう、細い糸の上で」
「あぁ、そうだとも! 貴様らは細い糸に縋っているだけだ! ならば今私がその希望の糸を切ってやろう!」
ジョナサンがさらに魔術書に力を込める。
瘴気に当てられた万字郎の体が少しずつ黒く染まっていく。しかし、万字郎はそれでも落ち着きを失わない。これが最後だと言わんばかりに、ゆっくりと確実に魔術書を構える。
「あぁ、確かに細い糸だ。――だが、確実にお前を倒せる」
――命の輝きに満ちていた。偉大なる生命の息吹。天からの雨が土に染みこみ、土が草木を育み、草木が動物たちの命を繋ぐ。生命の偉大なる輪。神が与えた祝福。創造こそが最も偉大なる力だ。言葉を持ってし、世界に働きかける。人の言葉は創造力に満ちあふれている。何者にも負けはしない。最高の生命の輝きを生み出すことが出来るのだ。
万字郎は自らの魔法に全力を込める。
「ジョナサン、貴様に見せてやろう――魔導士の、魔法の真骨頂を」
万字郎は魔術書をジョナサンではなく足元の大地へと向ける。
万字郎の放つ魔法のすさまじい光。それはかつて自分が生まれたときに包まれていたものに似ていた。それが万字郎を中心として、円が広がるように周囲を覆い尽くしていく。
「ま、まさか、貴様ぁ!」
ジョナサンは叫んだ。しかし、もはや彼には為す術はない。
「……なんという力だ。大地が、空気が、震えている」
目の前の光景にチャックは畏怖すら感じていた。
「光に包まれていく……そうか、これが、万字郎、君の物語なんだね」
静かに、しかし力強く光正が呟いた。いつの間にか自分たちを守っていたチャックの魔法が消えている。それはもう必要のないことだから。
「がは!」
足場としていた鉄の棒が崩れ、ジョナサンは大地に落ちた。したたかに体を打ち付けた後、痛みをこらえるようにして両肘を支えに上半身を起こす。
「まさか……まさか、私の魔法を上書きして見せるとは」
表情を憤怒に歪ませながら、ジョナサンは周囲を見回す。先ほどまで満ちていた禍々しい空気はない。死の匂いも消えている。大地は明日の朝日を待ちわびるがごとく、静かな生命力に溢れている。
「俺は代筆屋だ。お前に出来て、俺に出来ない道理はない」
万字郎が何でもないことのように言ってのけた。そして、静かにジョナサンを見下ろす。
「引きずり下ろしてやったぞ、ジョナサン。お前の魔法の本質は変容。だから、俺の力ではお前の魔法によって変化してしまったもの自体には干渉することが出来なかった。しかし、それはお前も同じはずだ」
万字郎は先ほどまでジョナサンが立っていた鉄の棒を見る。
「だからこそお前はその上に立っている必要があった。自分の放った魔法の効果に、自分が巻き込まれてしまうからな」
呆れるように万字郎は嘆息する。
「安全な場所から無差別に周囲に取り返しのつかない害悪を振りまく。ジョナサン、お前は光正の言うとおり、最も弱い魔導士だ」
チャックと光正も万字郎に歩み寄り隣に立つ。
「そう。ゆえに地面に落とされた今、貴方は迂闊に魔法を使うことが出来ないはずです」
「……諦めるんだ、ジョナサン。君にはどうあがいてももう勝ち目はない」
チャックと万字郎の言葉。しかし、ジョナサンはそれらに耳を貸すことなく立ち上がる。
「何を勝ち誇っているんだ……サム、貴様は私の魔法を上書きしたつもりだろうが、再びさらにそれを上書きすることも私には可能なのだからな!」
ジョナサンは魔術書を開く。
――狂え! 悶え苦しめ! 死と腐敗と呪いを! 大地は腐り、水は濁りきり、空気は死を運ぶ。この世界は地獄でしかない。人間という存在の卑小さを無力さを、その全てを嘲笑うように、呪いの惨劇はこの世界を包んでいく。
ジョナサンは魔法を詠む。自爆覚悟の無差別攻撃だ。
――真実はなく、全ては赦される。
ジョナサン放とうとした魔法、しかしそれは万字郎の放ったたった一言の魔法により打ち破られた。
「お前の魔法の本質は見抜いた。ただお前は――赦されたかっただけなんだ」
万字郎の言葉。しかし、それは激しくジョナサンを興奮させた。
「ぐっ、三流作家どもがぁ!」
これまでの余裕に満ちた紳士然とした様子はすでになく、ジョナサンは口を大きく開き唾をまき散らしながら叫ぶ。
「赦されたい? 何を言っている! 貴様らに、私の何がわかるというのだ!」
ジョナサンは狂ったように大きく頭を振り、叫び続ける。
「いいぞ、僕たちが押してる! これなら……!」
光正は呟いた。魔導士にとって精神の安定は何よりも重要だ。冷静さを欠いてしまえば魔法を詠むことはできない。もはやジョナサンに魔導士として出来ることは何もないだろう。そう光正が確信した時だった。
「く……くっく」
先ほどまで狂ったように暴れていたジョナサンがおとなしくなり、笑い声すら上げ始めた。
「ジョナサン。……ついに心が壊れたか」
「待て、あれは……! アカシックレコード! 何をするつもりです!」
チャックがジョナサンを指さす。ジョナサンの手にある小さな一冊の本。それをジョナサンは高々と掲げる。
「このくだらない物語を終わらせるのさ! デウス・エクス・マキナってなあ!」
泣いているのか笑っているのか怒っているのか――もはやその表情が何であるのかわからない顔でジョナサンは叫んだ。
「さぁ、全知全能の書よ! 大いなる叡智を私に授けろ……アーッハッハ……」
ジョナサンはアカシックレコードに魔力を込める。そこに自制はない。ただひたすらにアカシックレコードの力を己自身に流し込む。
「……ぐっ!」
ジョナサンが大きく目を見開いた。その目は真っ赤に充血している。口からは唾液とも血ともつかない液体が溢れている。全身の筋肉は痙攣し、その顔はもはや人間と呼べるような代物ではなくなっている。
「まさか、アカシックレコードの力を全て自分に注ぎ込んでいるのか!」
「……馬鹿な真似を! 今すぐ止めろ! お前という器が壊れるぞ!」
「ジョナサン、今すぐその本から手を離せ! それを投げ捨てろ! そうしないと、アンタは、アンタは――」
三人はジョナサンに向かって叫ぶ。しかし、その声がジョナサンに届いてるのかすらわからない。
「ぐがぁあ!」
血を吐き、目が壊れたように涙を流しながらジョナサンが悲鳴ともうなり声ともつかない声を上げた。そして、血まみれを口を大きく開け、笑ってみせる。
「ヒヒ……宇宙の果て……アギ、グトゥ……神、カミヨォー!」
ジョナサンは体をのけぞらせ、空を見上げながら叫んだ。その声には正気の欠片もない。
「狂ったか……やはりアレは、ただの人間が扱える代物ではないのです……」
半ば呆然としながらもチャックは冷静に状況を見た。先ほどまでの狂ったような魔力の暴走は収まっている。ジョナサンの意識がなくなってしまった証拠である。これ以上、事態が悪化しないことにチャックは安堵のため息をついたが――
「……まだ終わりじゃない。奴は、最悪の置き土産を遺していったようだ」
万字郎が目を眇める。その視線は真っ直ぐに天を仰いだまま立ち尽くすジョナサンの体に向けられている。
「ジョナサンの体から何かが……なに、あのおぞましい化物……アレが神?」
光正のこめかみを一筋の汗が流れた。かつて感じたほどのない冷たい感触。光正は目の前で起きている光景をただ見つめている。他に何も出来る事はなかった。
怪物――まさにそうだった。自らに魔法を掛けたジョナサン。その体は少しずつ原型を失っていっている。肩は落ち、腰の辺りまで下がっている。足の関節はあり得ない角度に曲がっている。まるで粘土細工のようだ。そしてジョナサンの腹、そこから触手のようなものが飛び出してきている。大きく開けられた口と目は小さくすぼまり、ほぼ埋まっている。
かつて見たこともない、いや想像すら出来ないほどの異形の存在。これがアカシックレコードの力なのだろうか。その知識の全てを飲み込んだ人間は、本当に神になったとでもいうのか。
「……アカシックレコードは、宇宙からもたらされたと言われています。ならば、あれこそがこの宇宙を生み出した神の姿だというのか……」
目の前の怪物をぼんやりと見つめながら熱に浮かされたようにチャックが呟く。チャックもまた、光正と同じく自分がどうするべきか全くわからない。ただ呆然と立ち尽くし事しかできない。あれがもしも全知全能の神が顕現した姿であるとするのなら――人間に出来る事など何もないのかもしれない。
しかし、光正とチャックの混乱は一つの足音にかき消された。
万字郎は一歩を踏み出していた。神――いや、怪物に向かって。
「あんなものが神であってたまるか。早々に地球からお帰り願おう」
神が世界を人を生み出した――だから人は神を畏れるのだろうか。ならば、万字郎にとってそれは恐れるべきものではない。万字郎を生み出したのは、紛れもなく赤星光正という人間なのだから。
人々は己の存在理由を求め、神を敬い、神を畏れる。しかし、万字郎にはその必要はない。
このロンドンの街を守り抜くこと――万字郎の存在理由ははっきりと決まっている。
「……そうだね、万字郎。神様ってやつは、きっと何かを生み出さなくちゃいけない。でも目の前の怪物には、到底そんな力があるようには思えないよ」
「……私としたことが取り乱してしまった。所詮はただ力を取り込んでしまっただけの人間、神などとは程遠い存在なのです」
万字郎の言葉に光正とチャックも落ち着きを取り戻す。
「これが正真正銘最後の戦いだ。ロンドンの平和を、守りきるぞ」