Write to reach you ~希望の暁~   作:けんごち

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第23話

――ユルサレタカッタ? ナニニ?

 壊されていく自我の中でジョナサンは問いかけた。自分の名前も過去も何もかも忘れた。ただ、この疑問だけが、ずっと渦を巻くようにして意識に残り続けている。

――ナニニ? ナニニ? ナニニ?

 神を必要とした理由。神が必要な理由。

――カミヨカミヨカミヨ

 意識が押しつぶされていく。何を残すこともなくジョナサン・ワイルダーという存在が消えていく。

 

  *

 

 未知なる存在を目の前にしたとき、人に何が出来るというのか。

 目の前の異様な光景を前に三人は攻めあぐねている。神と呼ばれた禍々しい存在。この世界にあってはいけなかったもの。

 風が吹く。目の前の怪物から何かおぞましいものが運ばれたような気がして、光正はぎゅっと口を閉ざし呼吸を止める。光正のこめかみを冷たい汗が一筋流れる。誰がこんな展開を予想しただろうか――

「どうしてジョナサンはあんなおぞましい化物に」

 そう呟いて光正は顔をしかめる。アカシックレコードを触媒として未だかつて誰も目にしたことのない存在。しかし、その姿が異常なものであることははっきりとわかる。

「ジョナサンはアカシックレコードの力を一切の抑制なく自らに流し込んでいました。まるで花瓶に湖の水を全て注ぎ込むように、器が壊れてしまったのでしょう」

 努めて冷静さを装いながら、チャックは分析する。この世界、いや宇宙の全ての事象が記録されていると言われるアカシックレコードは最強の魔力増幅器。かつて、ジョナサンのようにアカシックレコードを利用しようとした例はあった。しかし、その全てにおいて魔導士の力量を大きく超えた力は制御されることはなく、常に破滅をもたらしてきた。ジョナサンの姿を目の当たりにした今、チャックはその理由を感覚で理解していた。

「万字郎。君はあの怪物を目の前にして『宇宙にお帰り願おう』と言ったね? あの怪物の正体に心当たりがあるのかい?」

 チャックの言葉に耳を貸しながら、光正が万字郎に尋ねた。

「……確信があるわけではない。だが、アカシックレコードとはこの宇宙の全ての記憶――あれが地球にない存在だというのなら、宇宙からもたらされたものだと解釈すべきだろう」

 慎重に言葉を選びながら万字郎は答える。

「ジョナサンは神を生み出すために宇宙の記憶全てを自身の中に取り込もうとした。だとしたら、今、俺たちが目の前にしているものは宇宙に属する存在、そう推測している」

「……なるほどね。一応は理に敵っている、かな?」

 光正は唇の端だけを伸ばして笑ってみせる。強がりでも笑ってみせなければ、一気に恐怖に意識を持って行かれそうだ。

 かつてジョナサンだった異形の怪物は、ゆっくりと上半身を回す。まるで周囲の様子を確かめるかのように。

「奴め……一体何をしている?」

 チャックが魔術書を構える。しかし、この化物に通じる魔法など皆目見当もつかない。

 チャックの視線など全く意に介さず、怪物は大きく上半身を反らすと、両腕を地面に深々と突き立てる。

「アァーギィー!」

 怪物が吠えた。同時に地面に巨大なうねりが走る。

「くっ、これは一体!」

「何か、力を地面に流し込んでいるのか?」

「光正、チャック、不用意に魔法は使うな! 状況を見極めて身の安全を最優先しろ!」

 万字郎の指示に従いチャックと光正は身を低くし、うねる大地にしがみつく。

「何かを呟いている……魔法か? いや、これは」

 万字郎が足元を見つめた。先ほど万字郎が魔法で灰にした木々の怪物達――その灰が地面に飲み込まれるようにして再び集まっていく。そして、それらは地面に飲み込まれたかと思うと――再び木として地面から生えてくる。

「何だ? 灰になった木々が再生されているのか!」

 次々と地面から木々が生えてくる異様な光景に光正が叫んだ。

「……いや、何かがおかしいです!」

 チャックが現れた木々達を指さした。元の木々に戻ったかのように見えたそれらは、徐々にその高さをなくし、小さくなっていく。そして時間を巻き戻しするかのように、地面の中へと潜っていく。

 それはまさしく想像を絶する光景であった。木々が地面から生え、そしてゆっくりと消えていく。

「まさか、こいつは、時間を逆戻ししているのか!」

 万字郎は目の前の怪物が何をしたのか、その意味を理解した。

「なんだって!」

「待ってください! この木々達は、元の苗木へ……いや、そもそもの存在を消滅させられるところまで時間を巻き戻されたと?」

 光正とチャックに対して万字郎はゆっくりと頷いた。今目の前で起きている現象を素直に解釈するのなら、その答えにたどり着くしかない。

「ジョナサン……お前は『なかったこと』にするつもりなのか? この世界を、全てを。それがお前の求める救いだというのか!」

 万字郎は怪物に問いかける。しかし、答えはない。

「何にせよ、俺たちには考えている時間は残されていない。この怪物を破壊する以外にもはや道はない!」

 万字郎は魔術書を構える。持てうる限りの力を込めて最大火力で葬り去る――今の万字郎が選べる最良の選択肢はこれしかない。

 

 ――原始の世界は火に包まれていた。火は大地を割り、海を干上がらせ、この世界の全てを奪った。三日三晩かけて、火は地上を覆い全てを焼き尽くした。火は文明も生命も全てを破壊した。神の犯した罪を取り繕うために。全ての証拠をなくし、また再び原始から始めるために。

 

「燃え尽きろ!」

 万字郎が魔導書を怪物に向ける。刹那、怪物の体を炎が包む。それはまるで宇宙まで届く火柱のごとく、夜の闇へと突き刺さる。

「くっ、なんという火力だ!」

「万字郎! 僕たちの事は気にするな! 全力を出せ!」

 チャックと光正は地面に身を伏せる。そうしなければ紅蓮の炎の巻き起こす気流に宇宙まで舞い上げられてしまいそうだ。

「無論だ……」

 万字郎は魔導書にさらに力を込める。火柱がバベルの塔のように空へ向かって手を伸ばす。周囲一帯が熱風により嵐のように荒れ狂うが、万字郎は手を緩めない。

「熱は全ての物質を破壊する……宇宙生命体のお前とて例外ではないはずだ」

 魔法力で炎がひたすらに上へと登るように制御しているが、限界がある。万字郎の額を止めどなく汗が流れる。熱気に肺が焼かれているようにすら錯覚する。しかし、ここで怯むわけにはいかない。目の前にいる存在、その全てを焼き尽くすまでは。

「……この俺の全魔力を込める。この世界から、お前の存在を……消す」

 炎がもたらす激しい光の中、怪物の姿は見えない。しかし、奴はまだ存在しているとわかる。

「全ての炎を収束させる! 焼き尽くせ!」

 万字郎が叫ぶと同時に炎の柱が収束していく。同時に炎が放つ光もまた強く白いものへと変化していく。

 その瞬間、ロンドンの街全体が昼のように光に包まれた。

 

 ――世界が炎で焼き尽くされたとき、優しい神様の妻は心を痛めました。彼らが生み出した数多くの命、それが失敗作だったという理由だけで焼き尽くされることに罪の意識を感じていたのです。神様の妻は、夫に黙って一つの大きなシェルターを作りました。そして、そこに入れるだけの生きものを匿ったのです。

 

「チャック童話、命の小屋」

 チャックが魔法で三人を包み込むようにシェルターを生み出す。体を焼き尽くすような熱風。しかし、それらはチャックの生み出した土の壁によって防がれる。

「万字郎、無事か!」

 チャックの生み出したシェルターの中にいても、激しい光に目がくらんで、視界が効かない。身をかがめたまま光正が叫ぶように尋ねた。

「……あぁ。何とかな。あと一歩で俺まで焼き尽くされるところだったが、シェルターが間に合ったよ」

 疲れ切った、しかし同時に満足感を感じさせる声で万字郎が応えた。

「お二人とも、無事で何よりです」

 大きく安堵の息をつきながらチャックが立ち上がる。かなりきわどい状況であったが、なんとか魔法の発動が間に合った。

「……お前には助けられてばかりだな」

「何を言うのです。これくらいはやらなければ、検閲官としての沽券に関わりますよ」

 軽口をたたき合いながら、ここでやっとチャックの表情に笑みがこぼれた。

「よかった……万字郎も、みんな無事で」

 光正が地面にへたり込む。

「……奴は仕留められただろうか?」

「あれだけの炎です。直撃すれば、塵一つ残りはしませんよ」

 言いながらチャックが魔法を解く。土壁のシェルターは糸が切れたように崩れ落ちる。そして三人の目の前には――まるで巨大な隕石が落ちたかのようなクレーターが広がっていた。

「万字郎……君が魔導士としてすごいのはわかっていたけど、ここまでとは」

 光正が周囲を見回す。無事なのはチャックのシェルターが囲っていた部分だけで、ざっと見渡す限りは全て灼けた土だった。先ほどまでとは違い、ずいぶん遠くに森が見える。

「グリーンパークの中での戦いだったのが不幸中の幸いでした。灼けた範囲は全て公園の中に収まっている。これなら人的被害はないはず」

「そうか、それならばよかった。なにせ、力加減をする余裕はなかったからな」

 万字郎が安堵の息を吐く。

 これで全て終わった、三人が安心した刹那――

「グオオオオオッ!」

 夜の闇にうなり声が響く。三人は反射的に空を見上げた。

「……そんな、馬鹿な。万字郎の炎で燃え尽きていないなんて」

 空を見上げたまま、光正は両膝を地面に落とした。

「こんな地面に大穴をあけるほどの炎……その真ん中にいて無事だったと? そんな馬鹿な。あり得ない……」

 チャックもまた呆然と空を見上げる。その表情には先ほどまで見せていた笑顔の余韻すらない。

「俺の全力ですら、通じなかったというのか……」

 万字郎は努めて冷静に振る舞おうとしているが、右手の震えは隠しきれない。

 吸い込まれそうな漆黒の空、その真ん中に浮いている異形の怪物。それが激しくうなり声を上げている。

「これが宇宙生命体……我々の理からまるで外れている……ここまでか……」

 衝撃にチャックは魔術書を地面に落とす。魔導士は、いついかなる時も自らの魔術書を手放すことはない。それは魔導学校に入った瞬間から徹底的に教え込まれる基本中の基本だ。その教えを誰よりも徹底しているチャックが魔導書を手放すということは、つまり彼が全てを諦めたということに他ならない。

 万字郎は目の前に広がる巨大な穴に目を向ける。確かに自分の放った魔法は物体を消滅させる程の高温を発生させた。今目の当たりにしている光景がその証明だ。しかし、それほどの炎を浴びせてもなおあの怪物は存在し続けるのであれば、まさしくチャックの言う通り我々の理から外れているということになる。

 ならば考えるべきは――

「……奴の理とは、一体何か」

「え?」

 万字郎の一人言に光正が反応した。

「光正。確かにあの怪物には俺たちの理が通用しないのかもしれない。しかし、奴にだってあるはずなんだ。奴自身の理が」

「あの怪物自身の理、だって?」

「そうだ」

 万字郎は確信を持って頷く。

「しかし、そんな理と言われても……この危急の際に悠長に考えている余裕はありませんよ」

 不安を隠さずにチャックは言った。しかし、万字郎は首を横に振る。

「いや。思い出せ。奴はどのようにしてここに現れたのかを」

「奴がどのようにして現れたかって? そりゃ、ジョナサンがアカシックレコードを使ってその力を自分に注ぎ込んだからで……え?」

 光正が、ぽん、と手を打つ。

「そうか! その逆、つまりあの怪物の力を宇宙へと戻すことが出来れば奴の存在は消えるのか!」

「……理屈は通りますが、赤星さん、どうやってそれを実行するのですか?」

 チャックは顔をしかめて首を振る。

「情けのない話ですが、私には到底そのような魔法は思いつきません。思いついたとしても、それを実行できるだけの力があるのかどうか。要は、アカシックレコードと真っ向勝負ということですからね」

「う……けど、万字郎なら、万字郎ならきっと!」

 光正は期待に満ちた視線を万字郎へと向ける。しかし、万字郎はゆっくりと頭を振った。

「光正。悪いがさっきの魔法で、俺はほとんどの力を使い果たしている」

「そんな……じゃあ、ここまで来て、もう僕たちには出来る事はないってことかい」

 光正の表情が絶望に染まる。希望を見いだしたつもりであったが、実行不可能であればそれは机上の空論でしかない。

 光正は空を見上げる。怪物が宙に浮いている。どういう理屈で浮いているのかはわからないが、それこそがまさしく地球の理から外れている証明なのだろう。それにもしもジョナサンの意志があの怪物の中に息づいているというのなら――このロンドンの街に生きる全ての人々の命を犠牲に何かをするのかもしれない。

「くそう……僕にもっとちゃんとした力があれば」

 今まで生きてきた時間の中で、光正は何度そう思ったことだろうか。しかし、今光正の胸の中に渦巻く想いは、これまでのものとは一線を画す強いものだった。かつてこれほどまでに自分の無力さを呪ったことはない。

「希望なら、ある」

 万字郎は静かに、そして力強く言い切った。

「希望だって? けど、どう考えても、もう僕たちには手はないじゃないか」

 光正は無力感に塗りつぶされた瞳を万字郎に向ける。しかし、万字郎はそれを意に介さず柔らかく笑う。

「いや……光正、お前が本当の力を取り戻せば、あるいは奴に……」

「急に何を……本来の力って……」

 突然の万字郎の提案を光正は理解出来なかった。本当の力? 取り戻す?

「まさか……貴方の魔力を赤星さんに? しかし、そんなことをすれば――」

 チャックは万字郎の言葉の意味をすぐに理解した。正直、チャックだって考えなかったわけではない。しかし、それは無謀な賭けであるし、何よりもその代償は――

「俺はこの世から消えるだろう。だが、それは必然だ」

 チャックの後を継ぎ、万字郎は落ち着いた様子で当然のように言い切った。

「元々存在するはずもなかったんだ。それが、十年……楽しかったよ」

 万字郎は穏やかに笑ってみせる。その表情には確かな満足感がある。しかし、万次郎の提案は到底光正にとって受け入れられるものではなかった。

「待てよ……万字郎。そんなの、ダメだよ。万字郎が僕に力を返したところで、僕があの怪物を倒せる保証もない。いいや、まともに魔法を使えるようになる保証すらないんだぞ!」

 光正は叫び万字郎の胸ぐらを掴む。しかし、万字郎は涼しそうに笑うと冗談めかして口を開く。

「……ふっ。お前はわざわざ俺に魔術書を代筆してもらうために遠路はるばるロンドンまで来たのだろう? 俺がお前に力を返せば、その望みは叶うかもしれない」

「そんなの、ダメだ! 魔術書なんかいらない! ずっとここにいろよ!」

 光正は首をちぎれんばかりに大きく振った。

 確かに光正がロンドンまで来た理由は代筆屋に魔術書の代筆を依頼するためだった。しかし、今となってはそんなことはどうでもいい。ただ、自分には本当に魔法の才能はないのか――その疑問について納得のいく答えが欲しかっただけだ。そして、万次郎と出会った今、長年光正を煩わせ続けた疑問の答えを得ることができた。ならばもう、魔術書にこだわる意味などない。

「すまない。少し意地が悪かったな」

 言葉とは裏腹に万字郎はことさら優しく微笑む。

「だが、光正。あれを見ろ」

 万字郎は空を指さす。煌々と照る月――その光を覆い隠すようにあの怪物が空に浮かんでいる。いつの間にか、怪物の腹から出ている触手はまるでアンテナのように広がっている。

「奴が何をするつもりかはわからないが……ジョナサンの意志を継いでいるというのなら、奴もまたロンドン市民を犠牲に何かをするつもりかもしれない」

 万字郎の指さす先、怪物はまるでロンドン全体を覆う傘のようにも見える。そして万字郎は再び光正と向き合う。

「光正、これは運命なんだ」

 万字郎は静かに力強く言い切った。

「確かに自分が魔法で生み出された存在だと知ったときはショックを受けたが……今は心から感謝している。お前が俺という存在を生み出してくれたこと、そして俺に与えてくれた運命に」

「……運命、だって? 万字郎、君はそんな言葉で自分がこの世界から消え去るのを受け入れるのかい?」

 光正の言葉。そこには哀願する響きがあった。しかし、万字郎は一切動じることなく、瞳を閉じゆっくりと頭を振る。

「日本からやって来た侍のサム。魔力に直接干渉できる魔導士殺し。そして、このロンドンの街を未曾有の危機から救う最強の魔導士――それが俺だろう?」

「そんなの……九歳だった僕が生み出した、幼稚な物語、じゃないか」

「十年間、俺は見た目もなにも変わることはなかった。しかし、お前は違うだろう、光正。この十年間で、お前は大きく成長したはずだ。きっと俺の想像を超えて。だから、俺に見せてくれ。あれから十年、十九歳になったお前が紡ぐ新しい物語を」

 万字郎の言葉に迷いはない。

「俺は、自分の存在を誇りに思う。この世に生まれ落ち、そしてお前と再び出会えた運命に……いや、俺を生み出してくれた全てに感謝している。このロンドンで出会った人々も、過ごした時間の全てに対しても」

 万字郎は一歩光正に歩み寄る。そして光正の瞳を真っ直ぐに見据える。

「……頼む。俺の好きなロンドンを……お前の生きるこの世界を、救ってくれ」

 光正はもう目をそらさなかった。思い出す。今日の日中、万字郎の後を追いかけていたときのことを。あのとき万字郎が語ってくれたロンドンの話を。そして、ロンドンについて語る万次郎の表情を。

「……万字郎……わかった。やってみる」

 光正は両拳を強く握りしめる。覚悟は決めた。作家が自分の生み出した物語を信じないでどうする。この物語の結末を大団円に出来るのは、自分しかいないのだから。

 万字郎はろうそくを吹き消すように笑ってみせた。

「……光正。俺はお前の最高傑作だ。誇りに思っていい。さぁ、手を……」

 万字郎は光正に手を差し伸べる。光正もゆっくりとした仕草でその手をとる。

 確かな体温を感じる。作られた存在などではない。はっきりとした生命の存在を。

「……万字郎の命と魔力が流れ込んでくる。あたたかい……」

 万字郎の体が光に包まれていく。彼が生まれ落ちたときと同じように。そしてその光がゆっくりと光正へと移っていく。

「なんと美しい光か……」

 危機的状況にあるにもかかわらず、恍惚とした表情でチャックはその光を見つめる。暖かい命の光を。

 ――光正。お前に俺の好きなロンドンの街を紹介できてよかったよ。

 消え去りそうな万字郎の最後の声。光正は歯を食いしばる。今はまだ泣くべきところではない。結末を紡ぐまで泣くわけにはいかない。

「僕は忘れないよ。そして君のぶんまで紡いでみせる、僕の物語を!」

 光正は目を見開く。そして、真っ直ぐに空を見上げる。月明かり、それを遮る怪物の姿を。

「これが正真正銘最後の魔法だ! 僕と万字郎の物語……その結末を!」

 光正は巻物型の魔術書を開く。

「赤星さん、魔術書がすさまじい光を!」

 夜の闇を切り裂くがごとく、光正の手にある魔導書は輝いている。それはまさしく命の輝きだった。

「まだだ……まだ足りない! 僕の全てはこんなもんじゃない! 僕の十年は……こんなもんじゃないぞ!」

 光正はさらに魔術書に力を込める。まるで天国に迷い込んだかのごとくグリーンパーク全体が真っ白な光で覆われる。

「魔法の本質は言葉による世界への干渉……万字郎、君は僕にそう教えてくれたね? だから、僕はこの世界に干渉してみせる。書き換えてみせる」

 光の中、光正は魔術書を開き筆をとる。

「万字郎、ほんの短い間だったけれど、僕だってこのロンドンでいろんな人と出会ったよ。チャック、レイン警部補、マルティン博士、リオくん……僕も、この街が好きさ。けどね……万字郎、君がこのロンドンの街を愛した――それだけで僕が命を賭ける理由には十分だ!」

 

  ――家族が寝静まるのを待って、少年は夜に飛び出した。十年に一度、この銀河を渡る星が見えるという。ある人はそれを夜空を走る鉄道と言う。また、ある人はそれを太陽へと向かって飛び続けた鳥だと言う。少年は鬱蒼とした森を駆け抜ける。その先に大きく開けた原っぱがある。少年は足元も見ずにただ駆けた。不思議と躓くこともない。息が切れることもない。数十分走り続けて、少年は原っぱの真ん中に立つ。夜の闇が広がっている。しかし、少年は恐怖は感じなかった。空はまるでどこまでも際限なく広がっているように見えて、見上げていればまるで星へ向かって自分が落ちていくようにすら少年は錯覚する。この世界は広い。無限に広がっている。そして自分はそこに繋がっている。この地球の、大きくもない国の、小さな街の、名も無い原っぱから。少年は赤い星を待つ。星がこの地に降ることを、彼が確かに宇宙と繋がることを。空に星が溢れる。まるで溢れんばかりに。少年の目には、ある意味それは昼よりも明るく見えた。少年は目をこらす。赤い星が燃えている。見間違いようもなく、確かに燃えている。星が降る。刹那、少年は言葉で表現できなくてもはっきりと理解した。全ては確かに繋がっている。この世界はとても大きな一つであることを。いつしか少年の目に涙が溢れていた。星降る夜に少年が見た赤い星は、いつまでもいつまでも、煌々と輝いていたという……

 

「これが僕の本当の力だ! ロンドンは……必ず守ってみせる!」

 光正は魔術書に全ての力を込めた。自らの生命すら賭けるほどに、全てを注ぎ込む。

「アカシックレコード……そこに全ての事象が記録されているとしても、これから創造される世界のことなんて書いてないだろう? 僕の魔力――その本質は『創造』だ!」

 万字郎の言葉。アカシックレコードから生み出された怪物を打ち倒すには、怪物自身の理をほぐし始まりへと還すしかない。

 星を降らせる。この世界を宇宙と繋ぐ。理を解きほぐし、全てをあるべき場所へと還す。

「ロンドンの街に星が降り注いでいる……おお、この光は、なんと美しい……!」

 我を忘れてチャックは星々の降る光景に魅了されていた。

 

「なんとこれは――星が降るとは、さすがの俺にもこれは星見できそうもないな」

「美しい。まるで、この世界が、生命が海から誕生する瞬間を再び目の当たりにしているようです」

 セント・トーマス病院の玄関でレイン警部補とマルティン博士は夜空を見上げる。

 

「にゃんと……星が降るとはまた奇妙奇天烈な……」

「……ボーヤ、ちょいとばかし窓を開けてくれないかい? 綺麗なもんを見りゃ痛みも紛れるからさ」

 セント・トーマス病院の病室の窓からウィローハウスとテューダーは星が降る光景を見つめている。

 

「ほう……本物の魔導士っちゅうもんはぶちすごいもんじゃのう。星が降っとるわ」

 イーストエンドロンドンの路地裏、家から外に出たDは空を見上げて満足そうに笑う。

 

「すごい……星が降るなんて。まるで昔サムさんが僕に話してくれた物語みたいだ」

 リオはいつしかサムが語って聞かせてくれた話を思い出しながら、二階の窓から身を乗り出す。

 

 空いっぱいの星は降り続いた。夜明けを迎えるまでずっと。

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