Write to reach you ~希望の暁~ 作:けんごち
ロンドンの夜は深い霧に包まれている。霧が濃くなったのはおよそ一年前からだ。それは切り裂きジャックの殺人が始まった時期に符合するが、そこに人為的な要素が存在するかどうかはわからない。
霧が晴れれば無惨な死体が発見される――この一年の間に頻発した猟奇殺人事件は、夜の街から人々を消し去った。日が沈むと同時に人々はねぐらにこもり、朝日が昇るのを待ち続ける。今宵のロンドンを徘徊するのは、娼婦や犯罪者など夜に生きる者、浮浪者など行く場所のない者、警邏をする警察官、代筆屋を探す検閲官、そして化け物だけだ。
一人の男が魔導書を懐に携え、腰をかがめながら歩いている。その魔導書は男の手によるものではない。代筆屋によって代筆されたものだ。
男には魔法の才能はあるにはあったが、しかしついぞそれが彼の人生を有利に彩ることはなかった。魔法学校でも成績は下から数えた方が早い落ちこぼれ。卒業してからも、エリート達は魔導協会の要職に就き、平均的な魔道士達もまたそれぞれの特技を活かした職を見つけたのに対し、男のささやかな才能は男になんら特別なものをもたらさなかった。火をつけるなら、マッチで事足りる。男の能力には、マッチ一箱程度の価値しかなかった。そして気がつけばマフィアにまで身をやつした。
夜の街を霧が包み、完全に男の視界を半径一メートルにまで制限する。ランタンの灯りは消した。まるで怪物に自分の居場所を教えているような気がしたから。
今朝、ロンドンの街中で見つかった死体は、首がなかったらしい。そのため警察はジョン・ドゥ(身元不明の男性死体)として取り扱っているそうだが、服装などから男と同じマフィアの人間だったことは明白だ。同じように昨日の夜怪物を探して、そして――
男は顔をしかめて、冷えている両手をすり合わせた。なんだってこんなことに、と逃げ出したい気持ちだが、マフィアの人間にそんなことが許されるはずもない。せめて泣き出さないことだけで精一杯だ。
怪物を仕留めること、それが男たちに課せられた命令だった。
男にとって、頼りは代筆屋によって代筆された魔導書だけだ。試し打ちも出来ていないが、その威力が化け物を倒すのに十分なものであることを切に祈っている。
*
ジョナサンとフィリップの二人はビルの上に立ち、夜のイーストエンドロンドンを見下ろす。霧が深く、街の様子は見て取れない。しかし、フィリップは双眼鏡をのぞき込みながら、ジョナサンに正確に状況を告げる。
「検閲官に警察官、これはいつものメンツだが、見慣れない男たちが街にいる」
「見慣れない男たちって?」
「正体まではわからない。しかし、どうやら魔術書を携えているようだ。ゆえに魔導士だと思われる。それらが集団で街に散らばっている。これまでに発見したのは十一人だ。他にまだ何人かいるかもしれない」
「ふむ、なるほどね。警察が動くのは当然として、協会の方は?」
「確認出来る限りでは、ロウ検閲官一人だ」
「そうか。じゃあ怪物騒動とは関係なく、別の目的――代筆屋探しかな?」
「その可能性が高い」
「で、そこに現れた第三勢力……フィリップ、君はどう見る?」
「現時点では情報が限られすぎている。ただ、奴らの動きを見るかぎりでは、集団で何かを追っているようだ」
「なるほどね。どこの誰かは知らないけど、怪物探しに乗ってきたのかな?」
ジョナサンは心底愉快そうに笑う。フィリップは表情を変えずに、眼下の状況を見守る。
「どうする? 行くか?」
「まぁ、ちょっと待ってよ。せっかくの千客万来だ。僕たちはもうしばし高みの見物と洒落込もう」
ジョナサンは屋上の縁に腰掛ける。霧の向こうは彼には見えないが、そこで起こっているであろう光景を想像するだけで十分に刺激的だ。
「観察を続ける」
一方、フィリップはそれだけを無機質に告げた。
*
怪物が潜んでいるかもしれない――
そう考えて、チャックはすぐに首を振り、頭の周りにまとわりつくその考えを振り払おうとした。
本来の自分の目的は、連続殺人事件とも怪物騒動とも関係ない。いや、もしかしたら関係はあるのかもしれないが、少なくともそれを対象とはしていない。
代筆屋。きっかけは、ある男が魔法で起こした犯罪だった。ミリタリー小説に根ざした魔法を扱う男であったが、その能力はお世辞にも高いとは言えず、せいぜいが悪戯程度にしかならない爆弾を生み出せる程度であった。そんな男が、協会に資格試験を依頼してきた。
魔導士は、魔道士達を管理する魔導協会によってその能力に応じて細かくランク分けされている。そして、協会は魔道士達から依頼されれば資格試験を執り行い、成績に応じてそのランクを改める制度となっている。
その資格試験において、男は見事にチャックの両腕に余るほどの大岩を爆発で砕いて見せた。ここまで破壊力の高い魔法を扱える魔導士はそう多くはない。ランクにおいても、最低でも上位二割程度には入る位の実力に相当する。
男は、自分の昇格を信じて疑わず、紅潮した顔で審査員達を見た。しかし、審査員達の目も節穴ではない。この異常な魔法の進化に対して、徹底的な取り調べが行われた。そして、チャックら検閲官による鑑定によって、第三者によって魔導書が書かれていたことが発覚したのだ。
魔導書の代筆などとは協会にとっては予想だにしなかった異例の事態ではあったが、無論、協会の立場としてそんなものを認めるわけにはいかない。その男には資格試験において不正を行ったという罪が認定され、魔導士としての資格が剥奪された。その上でさらには懲役まで課せられることとなった。
代筆屋の存在は、魔導士の秩序を破壊する。協会はその男を尋問したが、魔導書のやりとりはイーストエンドロンドンにある廃墟に魔導書を置いておくという形で行われており、男自身は直接代筆屋と接触したわけではなく、結局有力な手がかりは得られなかった。代筆屋自身がある程度協会の検閲官達の能力を知って、対策していたものと思われる。
それ以降、チャックは夜な夜な街を警邏し、怪しい魔導士がいないかを探るのが日課となった。時を同じくして連続殺人事件と怪物騒動が起こり――そして現在に至っている。もしかしたら、事態はチャックが当初予想していたものよりも複雑なのかもしれない。
ランタンの灯りを掲げ、チャックは耳を澄ます。視界はほぼ閉ざされている。音だけが頼りだ。
代筆屋も殺人鬼も怪物も、許すわけにはいかない存在という点では同じだ。何が出てこようとも、このロンドンの街の秩序は守る。その決意を胸に、チャックは一歩一歩慎重に歩みを進める。
*
街を包む濃い霧の中を進みながら、レインは、この状況では警察が人員を出さないのは致し方ないことだな、と思った。
深夜のロンドンで殺人事件が頻発している時点で、本来なら警察官が夜中に警邏をし犯人を捕まえるべきなのだが、残念ながら警察上層部は未だその指示を出すに至っていない。いろいろと要素はあるが、最も大きいのはこの霧の影響だろう。まるで水中を進んでいるかのように錯覚するほどだ。この視界の悪さでは、警邏をしたところで見られる範囲など非常に限られてしまう。また、追っているホシは、人をまるでサメに食いちぎられたかのようにバラバラにするような奴だ。今朝見つかった死体は、ちょうど首がなかった。その傷口は、まるで巨大な獣に頭からかじり取られたようだった。よって、こんな視界の悪い中、そんな怪物の捜査に駆り出されるとなれば、その無謀な判断に警察官達の士気は大いに下がり不満が膨らむことだろう。
だからレインは自分自身の判断と責任のみにおいて、ただ一人でこの夜の街にいる。最新式のウェブリーリボルバーMK Iピストルを懐に忍ばせているが、本当にこの一連の事件の犯人が『陸を歩くサメ』のような奴であった場合、それがどれくらい通用するのかはわからない。下手を打てば、レイン自身の名前が明日の夕刊に載ってしまうこともありうるだろう。それでも彼がこの場所にいるのは、この街の『掃除屋』としての彼自身の使命感と矜持のために他ならない。
レインは頭の中で、これまでに殺人事件が起こった場所の地図を広げる。こんな場所でのんびりと資料を広げている余裕はない。全ては頭の中にたたき込んできた。
死体は全て街の路地裏で発見されている。そして、これまでに殺されたのは娼婦とマフィアの人間。これだけなら、犯人はマフィアに関係する人間を選択的に狙っていると言えなくもないが、その割には一連の殺人で得をする組織の存在が見えない。逆に、ただ夜の街で目についた人間を襲っただけと考える方が筋が通るように思う。そういう意味では、気配を感じて走って逃げたという光正はいい勘をしていたということになるだろう。
「赤星に詳しく状況を聞いておくべきだったな」
レインは独りごちた。現状、犯人に最も近づきかつ生き延びているのは光正だけである。
そして再び歩き出そうとした瞬間、レインは違和感を感じた。霧が深く視界は閉ざされている。しかし、このときレインの感覚は霧の向こうにいる何者かの存在を捉えた。背中を冷たいものが這う感触がする。これまで、警察官として犯罪者達と相対してきたレインの勘が警報を鳴らし続けている。
レインが身構えると同時に、霧の向こうで何かが走る足音。レインは迷わずに近くの建物の壁に背を預けた。その瞬間、霧を割いて巨大な顎がレインの鼻先をかすめていく。
間違いなく、『陸を歩くサメ』だ。
「……やれやれ。今日の当たりを引いたのは、俺か」
レインがランタンで照らす先。先ほどレインを『食べ損ねた』怪物がゆっくりと振り返った。
巨大な頭に二本の脚。トカゲのような姿をしたサメ、という表現が最も近いだろうか。この顎ならば人間を簡単にバラバラに出来るだろうし、頭を食いちぎられるだろう。体高は身長の高いレインよりも少し大きいくらいだ。二メートルはある。どう考えても、相手の体の大きさから察するに、455口径の銃などで仕留めるのは不可能だろう。
怪物はレインの姿を確認すると、大きな口を全開にし再び突進してきた。レインはランタンを投げ捨て、前に身を投げる形でそれを避ける。落としたランタンが割れ、地面にこぼれた油に火がつき、当たりを赤く染める。
「攻撃は直線的、か。しかし、足が速いな。よーいドンで走ってちゃあ、逃げ切れそうにないぜ」
怪物は壁にしたたかに頭を打ち付けたが、それを全く気にする様子もなく、再び首を振りレインの居場所を確認する。
昼間のマルティンの言葉がレインの頭に浮かぶ。なるほど、確かにこんな生物が自然に存在するとは思えない。だとすれば魔法の類いであると考えるのが妥当なところであるが、本当にこの怪物は魔法で実体化されているだけのものなのだろうか? レイン自身は魔導士ではないためその判断に自信はないが、それでも魔法で実体化しているだけの存在とみなすのは無理があるとしか思えない。
「なんにせよ、逃げ延びないとな」
レインは怪物と相対する。何度も怪物の突進を避けきる自信はない。ならば――
怪物が三度レインに向かって突進してきた瞬間、レインは右手で懐の拳銃を抜き、左手でパン屋の壁に立てかけてあったデッキブラシを取った。そして、デッキブラシを立て突っ込んでくる怪物の口の中につっかえ棒のように差し込む。当然、こんなもので怪物の顎から逃れられるとは思っていない。ただ少しの時間が出来ればいいのだ。そう、怪物の喉に向かって弾丸をたたき込む時間が出来れば。
レインは差し込んだデッキブラシを軸にマタドールのように怪物の突進を交わし、そして交錯する瞬間、拳銃の引き金を引いた。
勢いのまま、レインの体は地面を転がる。しかし、怪物もまたうなり声を上げのたうち回る。
狙い通りだ。いかに怪物とはいえ、口の中はほぼ無防備だ。
レインは迷わずに走り出す。足の速さなら怪物の方が上だが、この街の迷路のような路地裏ならばレインの方が熟知している。この状況から逃げ切るには、そこに賭けるしかなかった。