Write to reach you ~希望の暁~ 作:けんごち
夢か現かまだらなまどろみを繰り返しながら、サムは気がつけば朝を迎えていた。
窓から差し込む陽を眺めつつ、昨日のDの言葉を思い返す。落ち着いて眠れなかったのはその言葉のせいだ。
本当に昨日の夜、ロンドンの街で何かきな臭いことが起こったのだろうか? 自分が代筆した魔導書がマフィア同士の抗争に使われたのか、と考えてもみたが、サムの知りうる限りではイーストエンドロンドンにDに対抗しうる勢力はない。だとすれば、Dの方から他所のシマに粉を掛けにいったのか、とも思ったが、Dという男の組織は強固に自分たちの縄張りは守るものの、外へと勢力を拡大しようとする動きは嫌うことを思い出した。
一応、昨日の夜はリオの元を尋ね、夜には出歩かないように釘は刺しておいた。(もっとも夜に出歩いているサムの方がリオに怒られてしまったが)
――何が起こっているのだろうか。
サムはベッドから降り、湯を沸かす。イギリス人は紅茶を愛するが、サムは中国人の貿易商から買った緑茶の方を好む。自らが日本人であるということを意識しているがゆえだ。なぜ何も覚えていないくせに、自分が日本人であるということだけには確信を持てるのか。それはサム自身にも全くわからない。
気は進まないが、仕事には行こう。そう考えて、サムは貿易商に融通してもらった日本の急須に湯を注いだ。
*
「なんとあのふぐまで食べてしまうのですか! 聞けば聞くほど、素晴らしいですね!」
「そうかなぁ。ちゃんと料理すれば大丈夫らしいけど、それでもふぐ毒にあたってしまうことがあるらしいですよ」
光正は前のめりに日本の食文化を賞賛するマルティンの様子に苦笑いを浮かべた。
朝。マルティン家の食卓で光正とマルティンは向かい合って座っている。日本人旅行者である光正に気を遣ってくれたのか、マルティンの母は伝統的なイギリスのフル・ブレックファストで光正をもてなしてくれている。
「イギリスのこの朝食もすごく豪華だと思うけど」
「ええ! その通りです! フル・ブレックファストはイギリスの食文化の誇りです。やはり朝はしっかりと食べなければ頭も体も動きません。とはいえさすがに毎日このような豪華なメニューではありませんが」
「だよね。毎日これだけ豪華だと破産しちゃうよね」
光正は笑う。寝る場所を提供してくれただけではなく、こうして食事でもてなしてもらえるなんていうのは、ロンドンに到着するまでは想像もしていなかったことだった。何のかんの言っても、マルティンと引き合わせてくれたレインには感謝すべきなのだろうか。ただ、それだけに自分の日本文化(とりわけ海が関連するもの)の知識のなさを申し訳なく思う。そんな乏しい光正の知識に対しても、マルティンが大げさに感動してくれるのが救いだろうか。
「ところでこれはもっと早くに訊くべきことだったのですが」
「何?」
「光正は、何のためにロンドンまで来たのですか?」
「確かに今さらだね」
急に真面目な顔をして何を言い出すのかと思えば、と光正は笑った。
「会ってみたい人がロンドンにいるって噂を聞いてね」
「噂だけではるばるロンドンまで! 光正にとってそこまでの人なのですか!」
マルティンが驚いて立ち上がった。まぁ、無理もないだろう。光正自身にとってもロンドンまでの旅は人生を賭ける覚悟での決死行だった。
「私でお役に立てることはありますか?」
神妙な表情でマルティンは助力を申し出た。その表情に、本当にこの人は人がいいんだな、と光正は思う。
「大丈夫ですよ。当てはありますし」
「そうですか。しかし、私の力が必要になったらいつでも言ってください」
「こうして寝るところを貸してもらって、ご飯を食べさせてもらっているだけで十分ですよ」
一期一会。もし代筆屋を見つけることが出来なかったとしても――この旅はいいものだったと、そう言えるな、と光正は思った。
「今日はもう一度、その心当たりに当たって来ます」
昨日は会えなかったが、今日こそはなんとしてもサムに会おう。光正は、そう決意を固めた。
*
昨晩の深い霧は朝靄に変わった。イーストエンドロンドン、その一角で警察の現場検証が既に早朝から始まっている。
「昨日の今日で悪いな、ロウ検閲官。寝不足じゃあないかい?」
「問題ありません。そちらこそ怪物に襲われたてでろくに休めていないのでは?」
涼しい顔をするチャックに言われてレインは鼻で笑った。
「踏ん張り時にしっかり踏ん張れなきゃあ、警察官なんてやってられないさ」
そしてレインは壁を指さす。
「ちょうどこの建物の壁に怪物がぶつかったようだ。レンガの一部が割れて、壁が凹んでいる。俺が投げ捨てたランタンの跡もあったから、現場はここで間違いない」
レインの指さす方向をチャックは目線で追う。
「後、この近くでちょっと興味深いものを見つけた」
「興味深いもの?」
「まぁ、少しばかりご足労願おうか。なァに、歩いて五分もかからないさ」
レインに言われるまま、チャックはその後に付いていく。
昨日レインが遭遇し襲われたという怪物。その正体は依然謎に包まれているものの、魔法が関わっている可能性は高い。よって、朝日が昇ると同時に現場検証へと向かうレインに、チャックは自ら同行を申し出た。
「して、その興味深いものというのは?」
チャックが尋ねると、レインは道の先にある建物を指さした。
「あそこだ。もう少し近づけばよくわかるんだが、壁に不思議な跡がある」
「不思議な跡?」
レインは頷き足を速める。チャックも半ば駆け足でそれに追随する。
「見ろ。屋上から地上まで、何かでひっかいたような二本の跡がある」
レインが指さす壁。そこには削られたレンガがその新しい肌を晒している地上まで真っ直ぐに降りる跡があった。
「こっちに連れてきた俺の部下が見つけたんだが……怪物の仕業、だと思うかい?」
「わかりません」
チャックは首を横に振った。チャックは壁の傷跡に近づき、その細長い指をそっと沿わせる。
「何かを突き立てて強引に引き下ろしたような跡ですが……怪物はそのような事が出来る姿だったのですか?」
「いや」
至極あっさりとレインは否定した。
「道すがらお前さんにも説明したが、怪物の見た目はトカゲの体にサメの頭がくっついたような感じだった。二本跡があることから、怪物がやったとなると、二本の腕で引っ掻いたということになるんだろうが、あいにくそんな事の出来そうな腕じゃあなかったな」
「となるとこれは一体?」
「さァな。誰かが、この壁を引っ掻きながら直滑降したかな? ナイフを壁に突き立てて降りる技術があるという噂は聞いたことがあるがね」
レインは半ば冗談めかした調子で言ったが、その目は笑っていなかった。
「昨日の夜に出来た傷かどうかまではわからねえが、下に削られたレンガの粉が落ちているあたり、明らかに新しい。怪物以外にも、何かがいたのかもしれねえな」
レインはそう言いながら壁の傷を上から下へと見渡す。
「昨晩私が遭遇した、あの魔導士くずれの仲間だと?」
「さァて、どうだろうな。魔法なら魔法で、どういった魔法をどう使えばこんな傷が付くんだい、ロウ検閲官?」
「そこまではわかりません。ただ、魔法というよりも何かが壁を引っ掻きながら降りてきたような、そんな印象を受けます。魔法なら、もっとスマートな形で降りるでしょう。物理的すぎます」
「もしかしたら化け物がもう一体いるのかもしれないな」
レインは縁起でもないことを冗談めかして言った。
「警部補ー!」
周辺を調べていたレインの部下が、レインとチャックの元へと走ってくる。振り返ってその姿を見たチャックは驚きに目を見開いた。
「まさか、昨日のマフィア!」
三白眼気味の目にぎざぎざとした歯。明らかにその男の人相が悪い。
「そんなわけがあるかい、お前さん。立派な俺の部下さ」
レインはカラカラと笑う。駆け寄ってきたレインの部下も、驚かれる事には慣れているのか、若干落ち込んだ様子は見せたものすぐに気を取り直す。
「まぁ、悪人面と言われるのは慣れてるけどな……」
「……すみません」
いつもは他人に対して不遜な態度をとるチャックもおとなしくレインの部下に謝る。
「と、与太話はこの辺りにしておいて。どうした? 何か見つかったか?」
「はい。さっきレイン警部補が気にしておられた地面の焦げ跡の近くに、こんな本が」
レインの部下はそう言いつつ、一冊の本をレインとチャックに見せる。
「失礼。私は魔導協会の検閲官です。これを確認させていただいても?」
言うが早いかチャックはその本を手に取る。そして、パラパラとページをめくり、中身を確認していく。
「これは……まさか、禁書?」
チャックの眉間に深い皺が刻まれる。そのこめかみからは冷たい汗が一滴流れ落ちる。その可能性を考えなかったわけではないが――実際に目の当たりにした衝撃はチャックの想像を超えていた。
「ロウ検閲官、どうしたんだ?」
レインの問いかけに、数秒かけてチャックは呼吸を整えてから答える。
「この怪物騒動、魔法が、いや魔導士が関わっていると見て間違いなさそうです」
チャックは魔導書を閉じる。薄く血管の浮き出たその両手には、ただ閉じるだけ以上の力がかかっていた。
「……その禁書っていうのは一体何なんだ?」
「守秘義務があるので、お答えできません。ただ、この世には存在してはいけないもの、とだけは言っておきましょう」
チャックのこめかみを冷や汗が流れる。この可能性を考えていなかったわけではなかったが、それでも実際に目の当たりにすると衝撃が大きい。
「もしもこれが本当に魔導書として機能するというのなら――そんな芸当が出来る人物は私の心当たりにはありません。代筆屋自身の手によるもの、なのでしょうか」
チャックは手の震えを抑えられない。今自分の手の中にあるもの。その恐るべき力。こんなものを本当に産みだしている人間がいるなんてことは想像も出来なかった。
その姿を見てレインは唇を尖らせて細く息を吐いた。
「なんにせよ、Dのヤサに行ってみる必要があるっていうわけだな。いいだろう。案内するぜ、ロウ検閲官」
*
サムはアパートから職場までの道を歩いている。二本の脚を前に動かしながらも、街の様子を注視している。昨日のDが言っていたかちこみとやらが本当に昨日の夜に起こっていたのなら、どこかにその痕跡が残っているかもしれない。しかし、街は夜に閉じ込められた鬱憤を晴らすように人々の活気に溢れていて、とてもではないがそんな物騒なことがあったようには思えない。
街の活気の中でサムの不安がかき消されるような気はした。しかし、このまま全ては気のせいだと思いたかったが、二十冊も魔導書の代筆が依頼されるような事態が、何事もなく過ぎ去るとは思えない。
「よう、侍のサム、だな。いや、今は司書のサムと呼んだ方がいいかい?」
不意に隣から声を掛けられた。サムは驚きと共に視線を右に向ける。自分よりも拳一つ分ほど上に視線がある。
「……あんたは確か、レイン巡査――いや今は警部補だったか」
「覚えていてもらって何よりだ。それに昇進したことも知っていてもらえたとは、光栄だな」
サムの答えにレインは満足そうに表情を崩してみせた。
相手が見知った人物だと知って、サムは足を止める。別に職場まで急いでいたわけではない。会話をする時間くらいはあるだろう。それに警察官であるレインと話をすれば、何かこの街で起きている事態についての情報が得られるかもしれない。
「あんたには十年前、記憶喪失の俺について調べてもらって、何かと世話になったからな」
「何の釣果も得られなかったのは申し訳ない話だったがな」
「別に構わないさ。あれから十年経つが、何も出てこないんだ。仕方のない話だ。しかし――こんなところで俺に声を掛けた理由はなんだ?」
サムは単刀直入にレインに用件を尋ねる。
「話が早くて助かるぜ。こっちも中々に時間がないカツカツのスケジュールでな」
言いつつ、レインは懐から黒い手帳を取り出す。
サムはレインの来ているえんじ色のコートが、ところどころほつれていることに気がついた。地面を転げ回るような目にでも遭ったのだろうか。
「本来ならお前さんの職場まで行って話を聞きたいところだったが、ちょっとばかしいろいろ立て込んでしまってな。お前さんの通勤路で待ち伏せさせてもらっていたというわけだが」
「俺の職場?」
サムに問い返されてレインは頷く。
「お前さん、大英博物館図書室にある魔導協会の目録管理を担当しているらしいな」
「あぁ」
「今、俺が抱えている捜査の一環として尋ねるんだが、その目録がここ数年で改竄されたような雰囲気や可能性はあるかい?」
「藪から棒だな」
サムは鼻で笑ってみせる。
「その可能性はない。少なくとも、俺が管理をしているここ六年の間ではな」
「ほう。断言できるのか?」
「あんたなら知っているかもしれないが、俺は一度読んだ本の内容を記憶することが出来る。その記憶の限りにおいて、六年前から記述の改竄はない。しかも、つい先日目録の改訂を行ったばかりだ。ここ数日の間に、誰かが図書館に忍び込んで目録の改竄でもしていない限りは、その可能性はないと断言しよう」
「……なるほど。お前さん、その特殊な能力を見込まれて司書に抜擢されたんだったか。なら、信頼の置ける話、か」
「目録改竄の可能性がある事態なのか?」
「機密情報なので答えられないが、一応その可能性を潰しておく必要があったというだけさ」
レインの答えにサムは納得する。このレインという警察官のやり方は、ほんの少しでも可能性があれば、それを漏らさず検討することで、確実に対象を追い詰めていく方法だ。一つ一つ床に落ちた小さな埃を掃除していくようなやり方ゆえに、常人の想像を絶する根気と時間を要求されるものの、レインという男はそれをやり遂げるだけの力を持っている。
「あと、ついでに、こいつァ与太話として軽く聞き流して忘れてもらったらいいんだが――その目録に、怪物を召喚できる魔導士っていうのはいたかい?」
怪物、という言葉にサムは目を眇めた、この街で、ここ一年ほど続いている深夜の殺人事件、そして時を同じくして始まった怪物の目撃談。
「想像上の生物を顕現させることが出来る魔導士なら、そう少なくはない。その意味で怪物を召喚できる魔導士がいるのか、という質問の答えはイエスだ。しかし――あんたが暗示している相手がこのロンドンの一連の殺人事件に関係しているものだとしたら、どうだろうな」
サムの返答に、レインはわざとらしくしてやられた表情を浮かべた。
「なるほど。お見通しってことかい」
「警察官がわざわざそんな質問を俺にする理由なんて、それしかないだろう」
「まぁ、確かにな」
「魔法による顕現には、その間魔導士が魔力を供給し続ける必要がある。そもそも人を殺せるだけの怪物を顕現させる魔力を出せる魔導士は非常に限られる上に、それをある程度の時間維持するとなれば――そんな芸当の出来る魔導士は、少なくともあの目録には見当たらなかった」
「なるほど。お前さんにそこまで言われちゃあ、納得するしかないな」
上っ面だけで笑いながら、レインは手帳を懐にしまう。
「やはり、この街で何かが起こっているんだな?」
疑念は確信に変わった。サムはレインに確認するように尋ねた。
「……お前さん、夜は家から一歩も出ずにこの街をうろつくな。俺から言えるのはそれだけさ」
「夜、この街で何が起こっている? 本当に怪物が街を徘徊しているというのか?」
「興味は持たない方がいいぜ。お前さん、あくまで図書館の司書だろう?」
これ以上食い下がっても無駄だとサムは諦めた。このレインという男はうっかり情報を漏らすような迂闊な真似をするような男ではない。
「なんにせよ、ご協力感謝する」
「あぁ。警察への協力は市民の義務だからな」
サムが冗談めかして言うと、レインは満足そうに唇の端を引き延ばしてみせた。
「せっかく久々に顔を合わせたんだから、ゆっくりと茶でも飲みながら近況報告でも聞きたいところだったが、生憎時間がないんでな。さっさと失礼させてもらうが、しかし、お前さん、本当に十年前から変わっていないな。すぐにわかったのはありがたかったが、少し驚いたぜ」
「……変わっていない、というのはよく言われる。あんたもあまり変わりないように見受けられるが」
「おいおい。変わってないとはひどいな、お前さん。これでも、一応、新米からそれなりにキャリアは積んできたんだがな」
「なら新米時代から十分態度がでかかったということだろう」
「言ってくれるな、お前さん。まぁ、いい。あと、何かおかしな事に気づいたらいつでも俺に教えてくれ」
そう言ってレインはサムの肩を叩き、足早に歩き出す。時間がないというのは、本当らしい。
その背中を見送りながら、サムは思案する。マフィアから頼まれた代筆の件を伝えるべきだろうか――しかし、すぐにその考えは否定した。自分が代筆屋であるということを、警察に知られるわけにはいかない。今の生活を、このロンドンでの日々は、誰にも壊されたくないからだ。
「――歯痒いな、俺は」
誰にともなく、サムは一人言葉を落とした。