麦わらと夜兎 作:人参腎
プロローグ
東の海に浮かぶ名もなき無人島の海岸で水飛沫が空に届かんばかりに吹き上がる。水飛沫の正体は、この無人島周囲の海の生態系で頂点に君臨する巨大な海獣。軍艦すら容易く沈める力を持つ海の主は今、怒りに我を忘れ海上で暴れに暴れていた。その視線が見据えるのは海の主とは比較にすらならない小さな影。
「そう怒らないでよ。つい頭を踏み潰しちゃっただけじゃないか」
その影は朱色の髪を揺らす身の丈ほどの番傘を手に持つ人間だった。
悪びれもなく飄々と海獣の攻撃を避けていく青年は、その姿が尚更海獣を苛立たせていることに気づいているのかいないのか、恐らく前者であろう青年は海獣の攻撃を軽々とかわしその鼻っ柱に飛び蹴りを叩き込む。人間如きの攻撃ではビクともしなさそうな海獣はしかし、苦しそうに呻き声を上げながら水飛沫を巻き上げ海中に沈んでいく。
「よっと」
近場の突き出た岩に着地した青年は、どうしたものかと思考する。昼食を取りに漁に出たはいいが出鼻を海の主に挫かれた現状ではとても漁に出れるような状態ではなかった。暫くの間考え込む仕草を見せた青年は、やがて妙案が思い浮かんだようにハッとして顔を上げる。
「よし、今日の昼はアイツにしよう」
食べられるのか定かではないが、取り敢えず焼けば食えるだろうと考え方針を海獣退治に切り替える。目を付けられてしまった以上は漁に出る度に邪魔をしてくるのは明白なので、この場で処理しておくことが今出来る最善の策だと断定する。常人ならばあの海獣を相手に戦うという選択など皆無に等しいが、青年にはあの海獣と渡り合う力がある。故にこその選択だった。
「お、出てきた出てきた。そう簡単に倒れないでよ? 海の主さん」
顔を出したその姿は未だ健在。久し振りの大物に青年は笑みを深め、海の主は更に怒りを露わにし、海上での戦闘は激化していくのだった。
▽
ずるずると、自身の数十倍はあろう巨体を引き摺りながら歩く。
服の先から絶え間なく水滴が垂れ砂浜を濡らすが、それは陽の光によって何事もなかったかのように蒸発する。
「今日も暑いなー」
間延びした言葉とは裏腹に忌々しいと言わんばかりの視線が太陽へ向けられる。チリチリと焼けていく肌と僅かな痛みに嘆息すると、腰に挿していた番傘を取り出し陽の光を遮るように頭上に翳す。影が青年をスッポリと覆い隠し陽の光を遮断すると、焼けていた肌が一瞬の内に回復し元に戻る。
「化物染みてるな、相変わらず」
嘆息する青年は今更そんなことを考えても仕方ないと首を振る。
「ん?」
そうして視線を上げた先、青年は訝しげに目を細める。波に流されて来て砂浜に転がる漂流物の山の中に、見慣れない異物が紛れ込んでいた。それは赤いベストに膝丈のジーンズを身につけたマネキン──ではなく、れっきとした人間だった。
「こりゃ驚いた」
引き摺る海獣を森の中へ放り投げ、小走りでその少年の下へ駆け寄っていく。この無人島で自分以外の人間との邂逅に心臓が鼓動を増していく。うるさいほどに音を鳴らすこの感情は歓喜かそれとも別の物か、無意識の内に口端が上がり笑みが零れる。
「おーい君、生きてる?」
少年の傍で屈みこみその頬をつつく。むにむにとゴムのような柔らかい弾力だった。
「おー、柔らか……」
むにーと頬を引っ張ると予想以上に長く伸びて思わず目を見開き沈黙する。暫し呆然とした後、青年は自身の頬を引っ張り少年のものと見比べる。その差は歴然だった。
「……」
無言のまま、青年は少年の頬を引っ張るのを再開する。限界などないと言わんばかりにその頬は伸びていき、今の少年の姿はとても人間とは思えないものだった。ここまで来ると驚きを通り越して何処まで伸びるのか気になった青年は、番傘片手に立ち上がり少年の傍を離れていく。その手は少年の頬を掴んだまま離さない。
「おーおー伸びる伸びる」
まだまだ伸びそうだと小走りに切り替えようと駆け出した、その時だ。
「ぅえ?」
気の抜けた声と共に体が引っ張られる。今まで伸ばしてきた反動だと言わんばかりに砂浜から足が離れ、勢いのままに体が宙を舞った。
「ハハ、こりゃ凄い」
「ぶふぅ!」
青年が歓喜の言葉を発したのと少年が自身の頬に顔を叩かれ目を覚ましたのは同時だった。
「なんだなんだ……ってあり、ここどこだ?」
「あ、起きたんだ」
周囲を見回す少年を砂浜に着地した青年は笑みを浮かべながら言葉をかける。少年は青年を見据えると首を傾げる。
「お前、誰だ?」
「俺はイカゼ。この島で暮らしてるんだ」
「そうか。おれはルフィ、海賊やってる」
海賊? と疑問符を浮かべる