早苗さんと神父くん   作:トマトルテ

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十六話:■■■■

 

「……さい。起きてください、信一さん」

「……む?」

 

 春風のように優しい声に誘われて目を覚ます。

 少し寝ぼけた頭を覚醒させるように瞬きをすると、愛しい顔が目に映る。

 

「寝ていたのか、我は」

「はい。グッスリ気持ちよさそうでしたよ」

 

 そう言ってクスクス笑う早苗の顔に癒されるが、やはりまだ頭がボンヤリとする。

 我は余程疲れていたのだろうか?

 しかし、一体何に疲れていたというのだろうか。

 未だに頭がシャキッとしないので答えが出ない。

 と、考えていると、何やら自分の隣で小さな物体がモゾりと動く。

 

「この子はまだ、お眠みたいですね」

 

 何者だと思い、目を向けるがそれは小さな少女だった。

 早苗によく似た顔立ちに、自分と同じ黒髪を伸ばした子。

 その子を見ると同時に記憶が頭に浮かび上がってくる。

 ああ、なぜこんな簡単なことを忘れていたのだろうか。

 

「よっぽど()()()()と遊ぶのが楽しかったんでしょうね」

「しばらく忙しくて構ってやれなかったからな。その影響もあるのだろう」

 

 自分は()と遊んで、共に昼寝をしていただけではないか。

 どこにでもある家庭の、どこにでもいる父親と同じことをしていただけだ。

 

「ふふふ、いつもご苦労様です、()()()

「汝の方こそ、いつも家庭を守ってくれて感謝しているぞ」

「奥さんなんだから当然ですよ」

「当たり前のことであっても、我が感謝していることに変わりはない。受け取れ」

「もう……あなたは変わらないんだから」

 

 そして目の前で困ったように笑っているのは、自分の最愛の妻。

 数年前にプロポーズをして、ようやく手に入れた世界で唯一の人間。

 彼女とこうして過ごせている自分は、紛れもなく世界一幸福だと言い切れる存在。

 

「それで、我を起こそうとしていたが何かあったのか?」

「もうすぐ夕飯が出来るので起こしに来たんですよ」

「そうか、それはすまないな」

「じゃあ、私はお皿を並べていますので、あなたはその子を起こしてから来てくださいね」

「了解した」

 

 そう微笑んで背を向ける彼女の後姿にしばらく見惚れていたが、首を振って気を取り直す。

 今は隣にいる眠り姫を起こさなけばならない。

 慎重にやらねばすぐにグズッてしまうので、子育てとは実に難しいものだ。

 

「起きなさい。お母さんが美味しいご飯を作って待っているぞ?」

「……んー」

 

 お母さんという言葉に反応し、一瞬起きかけるがすぐにまた目を閉じてしまう。

 仕方がない。今度は少し強く揺すって起こしてみるとしよう。

 

「むー……ねむいー」

「そう怒るな。このまま寝ていてはご飯がなくなってしまうぞ」

「それはいやー……でもうごきたくないー」

「まったく……誰に似たのか」

 

 どうやら母親に似て、随分とワガママな性格になってしまったようだ。

 これは早急に教育方針を見つめなおす必要があるだろう。

 とは言っても、幼いのなら仕方がないことでもある。

 むしろ、ワガママの1つも言えないような子として育つ方が心配だ。

 故に、我がこの子のワガママに付き合うのも、この子の将来を思ってのことだ。

 決して、決っして。我が親バカというわけではない。

 よし、脳内会議でも採決が下された。もう、恐れるものはない。

 

「今回だけだぞ。次からは自分の足で行くのだぞ」

「わーい! だっこー!」

「……その台詞毎日のように聞いてる気がするんですけど?」

「気のせいだ」

 

 自分の胸の中でキャッキャッと笑う娘に構うのが忙しくて、嫁の様子が分からない。

 ジト目で『私が同じことを言ったらアイアンクローなのに』等と呟いている気がするが、気のせいだろう。

 

「ふーんだ。そんな嘘つきなパパさんにはお仕置きです!」

 

 そうして無視をしていると、痺れを切らした早苗が何故か背後に回り込む。

 何をするつもりだと声をかけようとするが、それは彼女の次の行動で遮られる。

 

「えい!」

「いきなり飛びついてくるな、早苗。というか、セミのように張り付くな」

「世界で一番可愛いお嫁さんに抱き着かれた反応がそれですか!?」

「世界で一番ナルシストな嫁の間違いではないか?」

 

 抱っこされている娘に対抗するように、自分はおんぶされにくる早苗。

 その嫉妬は実に可愛いものだが、がっしりと首に回された腕は全く可愛くない。

 しがみつくにはそうするしかないとは言え、普通に首がしまる。

 もしや、それが狙いだろうか。

 

「さあ、パイロットが乗り込みましたことですし、お父さんロボット発進ーッ!」

「はっしーん!」

 

 こっちが軽く命の危機に瀕しているというのに、2人は呑気なものだ。

 やはり一度教育方針を、じっくりと話し合う必要があるだろう。

 今度は嫁の教育方針も含めてだが。

 

「まったく……」

 

 ああ…だが、しかし。

 今の自分はなんと。

 

「……幸せだな」

 

 幸せなのだろうか。

 

 

 

 ―――イトシイヒトヲカエセ…ッ。

 

 

 

 瞬間、聞きなれたようで全く聞き覚えのない声が脳裏に響く。

 

「今のは…? 早苗、何か言ったか」

「ほぇ? 何も言ってませんけど? きっと()()()()ですよ」

「そうか……気のせいか。すまない」

 

 一瞬背中の妻が言ったのかと思ったが、どうやら違うらしい。

 そうだ。今のはきっと気のせいなのだろう。

 この世界に声が届くはずが……この世界? 我は何を言って…。

 

「おとーさんおなかすいたー!」

「そうですよ、せっかく愛情をこめて作ったんだから、温かいうちに食べてもらわないと」

「と、すまないな。では、行くとしよう」

「しゅっぱつしんこー!」

 

 頭を振り、気分を切り替える。

 今はこのワガママなお姫様達の相手が先だろう。

 きっと、先程の声は単なる聞き違いだ。

 しかし……先程の声は不思議な声だった。

 

 この世の全てに嫉妬した怨嗟の声のようでいて。

 その実――

 

 ―――迷子の子供が親を求める泣き声だったのだから。

 

 

 

 

 

 どんな軌道の、どんな威力の、どんな効果の弾幕も。

 それが何かを知っていれば恐れることはない。

 それを全て対処できる能力があれば慌てることはない。

 故に。

 

「さあ、あなたの負けです。とっとと諦めてください」

「バカな…堕ちた身とはいえ…天使たる私が何もできないだと…?」

 

 完全なる神となった早苗がサリエルに勝つのは、決まり切ったことだった。

 天使の力も、魔眼の力も、全ては無意味。

 それもそうだろう。例え世界を壊す力だとしても。

 

「当然でしょう。天使如きが―――神に勝てるわけがない」

 

 相手はその全てを防ぐ術を持っているのだから。

 

「相手が最強の矛を持つのなら、私はそれを防ぐ最強の盾を使えばいい。

 相手が最強の盾を持つのなら、私はそれを貫く最強の矛を使えばいい。

 ただそれだけの話です」

 

 相手がどのようにして攻撃をしてくるか分かるなら、それをする前に潰してしまえばいい。

 相手が特殊な能力を使うのなら、自分はそれにメタを張った能力を使えばいい。

 酷く単純な作業だ。欠伸が出るほどに退屈だ。

 

 出来ないことなどないのだから、自分が望む結果になるようにしてやればいい。

 いや、本来はそれすらも不必要だろう。

 その気になれば、全てをやり直すことすら可能なのだから。

 ダメだったらリセットしてやり直してしまえばいい。

 

 まるでゲームのように。

 

「ああ……やはり疑いようがない。私は主の考えを思い違いしていた。いや、そもそも私如きが、主の考えを理解できると思うこと自体が思い上がりか」

「何1人で訳の分からないことを……狂信者ってみんなこんな感じなんですか?」

「すぐに分かることだが…ある程度は伝えておくべきか」

「いや、別に聞いてないんですけど」

 

 怪訝そうに眉をひそめる早苗に、サリエルは逆に軽く笑みを作る。

 まるで目の前の存在は敬うべき相手だとでも言うように。

 

「まあ、そう言うな。神話の再現。それは即ち祀り(まつり)であり、新たな神話の創造。……この度、男に与えられた試練は神の子の最期を模したもの。自らの命を差し出すことで、神の愛を知らなかった者達の罪を償うこと。そして、男をこの地の信仰の礎とし、真なる救済の道を広めること……だと思っていた」

「結局語りだした……」

 

 思っていた。そう口にし、サリエルは自らの不明を恥じるように唇を噛む。

 ああ、だってそうだろう。彼女は自らの信奉するものの考えを測り間違えていたのだ。

 

「だが違う。それですら神の与える試練のほんの一部に過ぎなかった」

 

 サリエルが気づいた狙いも嘘ではない。

 イエスの真似をすることで、具体的な復活(救い)を民衆に知らしめる。

 そして、そこを基盤に神の愛を知らぬ者達にキリスト教の布教を行う。

 これは使徒達が殉教の果てに、その命を散らしたことに似ている。

 ある意味で信一の願いが叶った形であるが、真なる狙いはそこではない。

 

「神道を知るお前ならばよく知っているだろう? 祭り(まつり)の際に人間は神との一体化を図り、神話の再現を、神の真似をする。それは即ち―――神降ろしの儀」

 

 怪訝そうな表情を浮かべる早苗のことなど見ていないように、サリエルは語っていく。

 神の奇跡を。主の軌跡を。

 

「かつてモリヤの地にて、イサクがその身を祭壇の上の贄とした時のように。

 かつてゴルゴタの丘で、イエスがその身を十字架にかけられた時のように。

 ()()必ずその献身に報い、男を救うだろう。そう、天の国に御座す神が復活させる」

 

 重要なのは誰が救われるかではなく、()()救うかである。

 逆説的に言えば―――穢れ無き子羊を救ったものが神となるのだ。

 

「しかし、我らが神は絶対。人の身で神の依り代になることは出来ぬし、また許されぬ。我らが主が人の器に収まるわけがない。だが、しかし。その器が――」

「ああもう! ゴチャゴチャ言ってないでそこを退いてください! ぶっ飛ばしますよ!!」

 

 何やら意味深なことをサリエルが言っているが、早苗にとっては無用なものだ。

 何故なら、今の彼女にとって重要なことは信一を助けること。

 強いて言えば、信一を生き返らせることだけなのだから。

 それ以外のことを考える余裕など、()()()()()()()

 

「ああ、そうだな。それがあなたの命令だというのなら」

 

 敵対していた事実を忘れるかのような美しい笑み。

 それだけを残してサリエルは、六枚の翼のはためきと共に、光となって消え去ってしまう。

 その先程までのうろたえぶりを感じさせぬ姿に、早苗は狐に化かされたような気持になる。

 が、そこはポジティブな早苗。

 

「何だったんでしょう…? まあ、これで邪魔者は消えましたね。早速迎えに行きましょう!」

 

 すぐに切り替えて、首をろくろ首のようにして待っているだろう信一を迎えに行くことにする。

 どこら辺に居るかは分かるので、とりあえず全速力で飛んで行くのだが。

 

「……何でしょうこれ? 近づいているはずなのに近づいてる気がしない」

 

 飛べども飛べども、距離が近づいている気がしない。

 まるで釈迦の掌の上で弄ばれる孫悟空のようだ。

 根本的な何かを思い違いをしているような、それに気づかなければたどり着けぬような感覚である。

 

「ひょっとして、あのビッチ天使が何か細工をしたんでしょうか……こんなことならボコって吐かせとけばよかった」

 

 何やらブツブツと物騒なことを呟きながらも、探索の足は止めない早苗。

 そこからは焦燥の色がはっきりと見て取れた。

 地獄にも居ない。冥界にも居ない。現世にも勿論居ない。

 だとしたら天国に居るはずだ。

 

「ここに居るはずなんです。だって残された場所は()()()()()()()()

 

 消去法的に考えれば早苗の考えは正しい。

 だが、しかし。彼女の考えは仏教や神道の知識を基にしたものだ。

 故に彼女は理解していない。いや、これはキリスト者でなければ考えつかないだろう。

 

「なんで…? どうして? 私は神様なのに……」

 

 それは天の岩戸のようなものだ。

 多くの神が集まり、外から何をしようとも開くことはない。

 内側から自分で開けてもらうしかないのだ。

 

 もちろん、そんなことは今の早苗には分からない。

 力にもっと馴染めば、真の意味で完全なる神となれば分かるだろう。

 今の早苗では正解に思い至ることが出来ない。

 

「そんな…こんなはずじゃ……このまま何もできないなんて嫌だ」

 

 その事実に気づいてしまい、全能感に溢れていた神はただの少女に成り下がる。

 怖い。冷たく重いものが彼女の心をゆっくりと塗りつぶしていく。

 神の力など所詮はまやかしだったのかもしれない。

 死者は蘇らない。神の力でもってしても不可能はあるではと思わせる。

 

 だが、しかし。

 

「信一さん……寂しいですよ」

 

 滴り落ちる一粒の涙は。

 

「わたしを…1人にしないでください…ッ」

 

 神々の宴よりもなお激しく、男の心を騒がせるものだった。

 

 

 

 

 

 辺獄(へんごく)、そこは陰府(よみ)、リンボとも呼ばれる死後の世界

 現世から最も遠く、天国と地獄の中間にあると言われる。

 

 なぜ、リンボは天国と地獄の中間にあるのか。

 単純に考えれば、悪事は働かないが善人でもない。そんな者達の行く場所と思うだろう。

 しかしながら実態は大きく違う。そこには聖人(・・)と呼ばれる人間が複数いる。

 アリストテレス、プラトン、ソクラテスなどの賢人も居る。

 

 では、リンボとは偉大な人間が集う所なのか?

 

 否。そこに集うのはあくまでも罪人である。

 ただの1人も義人はいない。1人もだ。

 そこに住まう者達は皆同じ罪を背負い、それが償われることなく死んだ者達だ。

 

 罪とは何か? そう―――原罪である。

 

 リンボとは原罪が償われることなく死に、かつ、それ以外の罪がなかった者達の行く末。

 すなわち、イエス・キリストが生まれるよりも以前の善人が行く場所である。

 

 彼らはイエスが生まれるよりも、先に死んでいった者だ。

 原罪はイエスが十字架にかけられたことで、初めて償われた罪。

 洗礼を受けようがなかった彼らを、地獄の責め苦に合わせるのはおかしい。

 しかし、原罪があるが故に天国に行けぬ。

 ならば、その中間に住まわせ、最後の審判のその時まで待ってもらおう。

 

 こうした考えのもとに生まれたのがリンボである。

 

 考え方としては至って普通であり、他の宗教でも納得がいくものだろう。

 だが、このリンボに思い至るには、絶対的な前提条件が居る。

 

 キリストが生まれる前(Before Christ)生まれた後(Anno Domini)の絶対的な区別。

 人類は皆、原罪という罪を背負った咎人であるという認識。

 天国はキリストが昇天した際に()()()開かれたという事実。

 十字架で死んだ後に行ったのは実は天国ではなく、このリンボなのである。

 

 これらの前提を知らなければ、早苗のように天国と地獄での簡単な二分をしてしまう。

 よく聞くキリスト教の批判に、宗教勧誘で洗礼を受けないと地獄行きになると言われるなどとあるが、そんなことを言う人間はモグリも良いとこである。

 

 洗礼を受ける前に死んだ赤子も地獄に行くのか?

 キリスト教が伝来する前に死んだ祖先も地獄に落ちるのか?

 例え異教徒であっても徳の高い人間を地獄に落としていいのか?

 

 普通に考えて、これだけの問題を2000年もの間、放置できるわけがない。

 仮に放置できたとしても、そんな穴だらけの理論で世界最高宗教にはなれない。

 

 彼らは一度リンボへと赴き、そこで最後の審判を待つのだ。

 最後の審判は、今まで生まれた全ての人間を裁くことである。

 そこでは当然、原罪は償われた状態であるので善人は天国、悪人は地獄と綺麗に分けられる。

 要するにリンボとは控室のようなものだ。

 

 天国(自室)ほどくつろげるわけではないが、地獄(牢獄)のような扱いを受けるわけではない。

 ただ、静かに来るべき出番を待っておく場所なのである。

 

 さて、この一種の救済措置であるリンボだが、ここの支配者が誰だか分かるだろうか?

 初めに言った通り、リンボは天国と地獄の中間。即ち、ゴッドとサタンの勢力圏の狭間。

 勢力図で見ればどちらでもおかしくはないが、支配者が明確に語られることはない。

 

 しかし、かの有名なダンテの『神曲』では、リンボは地獄の第一層にあると書かれている。

 物語であるが故に信憑性は薄いが、これが事実であるならば支配者が誰かは明白。

 

 魔を統べる王、サタンである。

 

 

 

「どうしたんですか、()()()?」

「おとーさん?」

 

 食事を口にしようとした所で、ピタリと手を止めた我を見て妻と娘が不思議そうな顔をする。

 先程までならば、何でもないとごまかしていただろう。

 しかしながら、彼女の声が聞こえた以上はそれは出来ない。

 

「……思い出した。ここは我が居るべき場所ではない」

「な、なにを急に変なことを……中二病じゃあるまいし」

「おとーさん、病気なの?」

 

 何とかごまかそうとする妻と、何も分かっていない娘。

 その姿にすら愛情が湧き上がってくるのは、ここに居た自分が本当に幸せだったからだろう。

 だが、夢は夢でしかない。

 

「ここにあるのはまやかしの幸福だ。悪魔(サタン)よ、ままごとは終わりにしろ」

「なんで…なんで…私はただ―――あなたを救いたかっただけなのに」

 

 景色が一変する。

 ありふれた家庭は消え去り、代わりに明るく美しい城が浮かび上がる。

 とても地獄の悪魔が治める場所とは思えない。

 しかし、神の治める国のような温かみはなく、そこには拭い切れぬ憂いが立ち込めている。

 そうだ。ここは天国でも地獄でもない、イエス様以前の善人が集まる場所。

 

「なるほど……ここがリンボかサタン。いや」

 

 降り注ぐ光は神の栄光によるものではなく、人間の英知の結晶。

 本来ならば天国以外に光が差す場所などないにも関わらずに、この地を照らす光。

 そして、その光を届けているのは当然、ここの支配者。

 

光をもたらす者(ルシファー)と呼んだ方がよいか?」

「……好きに呼んでください」

 

 魔王ルシファーである。

 

「では、ルシファーよ。早くここから我を出してはもらえまいか? 待ち人が居る」

「その前に……私の質問に答えてくれませんか」

「いいだろう。我に答えられる内容であればな」

 

 変わらず、早苗の姿を取り続けるルシファーの考えは分からないが、軽く頷いておく。

 自らが捧げられるものを相手が欲するのならば、必ず与えねばならない。

 ましてや、それが真に相手のためとなるのならば尚更だ。

 

「ここでの日々は幸せではなかったのですか?」

「つまり、我が出て行こうとしているのは、幸せではなかったからと思っているのか?」

 

 確認の意味を込めて問いかけ返すと、ルシファーはコクリと頷き、熱にうなされるように語りだす。

 

「はい。私は神が救おうとしない者達を救うためにここを作った。父祖の罪を、善人たる子孫にまで押し付けるなど、余りにも馬鹿げていると思ったから。ただ生まれたのが早かったという理由だけで、死ぬのが早かったというだけで、永遠の地獄を味わうなど……余りにも理不尽じゃないですか…! 神は知っていた! イエスが地に下りるまでに生まれる人間は、誰一人として救われることがないとッ! 例え最後の審判で救われるのだとしても、何の罪もないままに救いが遠ざかることをッ! 神は知っているッ!! 全てを知った上で世界を創り、人間を創り、原罪を施した!! こんな理不尽を、どうして神の最も近くに侍る私が見逃せようか!? 故に私は神へと叛逆した! 救われぬ者達を! 神に見放された者達を! この世の全てを救うためにッ! わたしは創造主へと叛逆したのだッ!!」

 

 血を吐くような叫びとは、まさにこういうことを言うのだろう。

 ルシファーの重く苦しい慟哭の叫びは、鼓膜ではなく魂そのものを震わせる。

 この言葉を聞けば、半数の天使がルシファーについていったというのも分かる。

 それ程に真に迫る言葉だったのだ。

 

「……なるほど、それで幸福かどうかを。自分の与える救いが不完全でないか聞きたいのか?」

「そうだ。ここから立ち去ると決めた者を止めることは出来ない。ならば、理由だけでも聞かねばならないだろう」

 

 そう言って、早苗の姿のまま威厳たっぷりに腕を組むルシファー。

 ここまで乖離してくれると、一周回って違和感がなくなるのだから面白いものだ。

 そんなことを考えながらも、慎重に口を開く。

 ルシファーの誠意は伝わった。生半可な返答は許されぬ。

 

「そうだな……まず、我は確かに幸福を感じていた」

「では…」

「だが、それは不完全な形であった」

 

 ルシファーの反論を挟ませぬように早口で言い切る。

 

「我は確かに幸福だった。愛する者に囲まれての穏やかな生活。幸せでないはずがない。何もなければ、永遠の満月の中で微睡んでいたことだろう。しかし、その月は欠けていた」

「欠けていた…? 一体何がだ? わたしはお前の幸福全てを叶えたはずだぞ」

「ああ、そうだろう。夢の中で我の望みは全て叶っていた。あのままなら、永遠のまどろみの中で居ることを望んだやも知れぬ……だが」

 

 人の幸福は様々だ。

 酒池肉林を求む者も居れば、質素倹約な生活を求む者も居る。

 ルシファーはそれら全てを夢の世界で叶えることが出来る。

 しかし、ルシファーは失念していた。

 夢の世界で幸せになるのは、あくまでも夢を見る本人だけ。

 つまり。

 

「愛した女の泣き声を聞けば、まどろみなど一瞬で吹き飛ぶ」

 

 現実で自分の理想が叶ったわけではない。

 

「例え、夢の世界で理想が叶ったとしても、それは現実ではない。現実では愛した女が泣いている。そのような状況で、幸福だとのたまう男がこの世のどこに居る! 自分だけでなく、愛する者も幸せになってこその真の幸福!! 悪魔よ、そこを退け。人の幸福に貴様は必要ないッ!!」

 

 ―――わたしを…1人にしないでください…ッ。

 早苗が泣いている。独りぼっちで、孤独に震えている。

 ならば行かねばならない。如何なる試練があろうとも、我は彼女の隣に行かねばならない。

 何故なら、泣いている彼女を笑顔にするのが我の使命なのだから。

 

 我は呆然と立ち尽くすルシファーの横を通り、歩いていく。

 

「………最後に1つだけ」

 

 背中にポツリと声をかけられる。

 

「体も心も完璧に再現した東風谷早苗に、なぜお前は靡かなかったのだ? 何も聞こえなかったことにすれば、愛する者と永遠を分かち合えたというのに」

 

 夢の中の早苗を、なぜこうも簡単に切り捨てられるのかという非難。

 それを聞いて、思わず鼻を鳴らしてしまう。

 なぜ、ルシファーはこうも簡単なことすら分からないのかと。

 

「愚か者めが。愛する女は唯一、それが我らが宗教の本質だろう?」

 

 それだけ吐き捨てて、後は何も語らずに歩を進める。

 もう二度とここに来ることはないという意思を込め、決して振り返ることなく。

 

「ああ……なるほど。道理で夢の中ですら―――お前は笑わなかったわけだ」

 

 どこか温かく笑うような声が届いてくる。

 

「わたしの負けだ。わたしではお前を笑顔にすることが出来なかった。ああ……故に祈らせてもらおう。お前が心の底からの幸福の笑みを浮かべられる日を。その()()()が偽りでないと示してくれることを」

 

 しかし、それらに応えを返す気はない。

 次に声をかける相手は既に決めてある。

 世界に唯1人。自分にとっての絶対の存在に。

 

「去らばだ。神に笑みを約束された子よ。お前の行く末に幸があらんことを」

 

 世界に罅が入る。

 その日々は少しずつ大きくなり、やがて。

 ―――砕け散る。

 

 

 

「待たせたな、早苗」

「あ……」

「さあ、帰るぞ。ここは我らが来るには早すぎる場所だ」

 

 まず目に映ったのは新緑の髪。

 続いて、サファイアのような瞳から零れ落ちる涙。

 驚いて固まる早苗を無視し、涙を指で軽く拭ってやる。

 まったく、相も変わらず世話のかかるものだ。

 まあ、そういう所も愛おしく感じてしまうのが、困りどころなのだが。

 

「ほら、どうした? 我を迎えに来てくれたのだろう?」

「…そうですね。まったく…私を置いて1人でどこかに行っちゃうんだから、心配したんですよ」

「それはすまなかったな」

 

 恥ずかしそうに目をこすりながら伸ばしてくる手を握り締める。

 温かい。叶うことなら永遠に触れ合っていたいとすら願う体温。

 

「では、帰るとしようか」

「はい、帰りましょう」

 

 お互いの指を絡めるように結び合わせ、瞼を閉じる。

 あれからどれだけの時間が経ったかは分からないが、とにもかくにもこれで終わりだろう。

 そう、これで――

 

 

『神話の再現は果たされた』

 

 

 

 

 

 再び目を開けると、守矢神社の天井が映った。

 続いて隣を見ると、自分と同じように横たわっている早苗と目が合う。

 何となく気恥ずかしい気がして、思わず目を逸らしてしまう。

 

 さて、まずは何を言ってこの空気を変えたものか。

 そう考えながら、無意識のうちに首にかけた十字架を握ろうとし。

 

「それ―――必要ないですよね?」

 

 寒気がするような笑みを浮かべた早苗に、それを紙のように引きちぎられる。

 突然のことに、呆然と固まる我に対して早苗は今度は声を出して笑う。

 

「フフフ、大丈夫ですよ、信一さん。こんなものに頼らなくても私が居るんですから」

「さ…なえ?」

『だから、どちらも取るなんて、優柔不断な選択はやめてくださいね?』

 

 声の雰囲気が変わる。それと共に十字架が塵になって崩れ落ちていく。

 そして、零れ落ちた塵が―――蛇へと姿を変える。

 

「なんだ…それは…?」

「何って、()()()奇跡ですよ」

 

 あり得ない。早苗の奇跡は、偶然起こりえる事象を引き寄せる程度のもののはずだ。

 金属が塵に変わることはあり得るかもしれない。

 だが、それが()()に変わるなど、まるで――

 

『言ったじゃないですか。(わたし)が居るから、そんなもの必要ないって』

 

 創造主だ。

 

「信一! ()()から離れな!!」

「あり得ない……なんだ、それは?」

「あら、諏訪子様に神奈子様? それなんて随分と酷い言い方ですね」

 

 早苗の余りの豹変ぶりに呆然としていると、諏訪子と神奈子殿が切羽詰まった表情で駆け込んでくる。

 2人は明らかに早苗に敵意を向け、普段は抑えている神威を剥き出しにしている。

 剥き出しにしているのだが、早苗は全く動じた様子を見せない。

 そう、殺意を向けてくる()()()()()を無害な存在と認識しているのだ。

 

「当たり前よ。その中身は本来、()()()()()

「普通は器が壊れるだけ。だというのに、そのあり得ないことを、()()神降ろしの器にするなんて馬鹿げた方法で成し遂げた」

『フフフ、お見通しですか……』

 

 そう笑って、早苗は軽くと言った様子で神力を放出する。

 恐らくは全力の半分に満たない力。

 だというのに、それはあっさりと諏訪の二柱の力を軽々しく凌駕する。

 その時点で何となく察し始めた。

 隣に居るのは早苗であり、早苗ではないもの。

 

「聞きなさい、坊や。そいつは生贄を生き返らせるという奇跡を起こさせることで、神話の再現を行い……神である早苗と一体化、神降ろしをした――」

 

 神奈子殿の説明が右から左へと流れていく。

 しかし、それでも自分は大切なことだけは分かっていた。

 そう、今の早苗は。

 

「―――ヤハウェよ」

 

 我が神だ。

 

『さあ、信一さん。信仰と愛、あなたはどちらを取りますか?」

 




最後に立ちふさがるのは最強の敵であるべき(YHVH感)
ということで早苗さんがヤハウェ化しました。
この状態ならお嬢と信一のタッグも組めるかも(小並感)

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